Chase.4 車上の駆け引き
「すっかり暗くなっちゃったわね」
お腹空いたなぁ、などと暢気に呟きながら、陽が落ちて碌々何も見えなくなった窓の外を眺めているエレンを横目に見て、ティオゲネスはそっと溜息を吐いた。
全く、こののほほん具合はどうにかならないものかと思う。
プロプスト・シティの駅からこの列車に乗る前だって、「神父様に連絡しないと心配するから先に電話しよう」などと言って散々ごねたのだ。
追われているこの状況で下手に電話などしたら、第一に逆探知される危険性が高い。第二に、こちらと繋がりがあると分かれば、ラティマー神父やマルタン教会にいる他の孤児にまで被害が及ぶ可能性がある。
そこを簡単に説明した上で、本当に状況は理解できているのかと再度確認したら、「だから誰かに追われてるんでしょ」という答えが返ってきたので、分かってはいるようだ。頭では。
しかし、最初に追跡された時から今に至るまでに、実際には追手の姿を見ないものだから、実感が薄れているのだろう。
勿論、ティオゲネスの全力警戒の賜物なのだが、それはよく分かっていないらしい。
(まあ、分かれとは言わねぇけど)
これが組織で育った仲間なら、こんなに危機感が薄いことはまずない。相方が、彼らの中の誰かなら、逃亡劇もどんなに楽なことかと思う。
組織にいた頃の友の姿を、無意識に思い浮かべてしまって、ティオゲネスはきつく瞼を閉じた。
(……あいつは、もういないんだ)
だから、考えても仕方がない。呼んでも、もう二度と答えが返ってくることはない。
虚しい幻影を必死で脳裏から追い出すと、ティオゲネスは目を上げた。
プロプスト駅から出発して、二時間ほど経っただろうか。
今夜は、この列車の中で夜明かしすることになる。
どれだけ時間が掛かっても、一般人は空路を使うことのない世界だから、大陸間の移動ならば海路、つまり移動手段は客船に絞られる。
陸路は、鉄道なら短い距離を移動する普通の列車か、宿泊施設を備えた長距離列車を利用するのが常道だった。自家用車かキャンピング・カーを使って移動する者もいるが、今回のティオゲネス達にとって、それは選択肢に入っていない。
プロプスト・シティから、CUIO本部のあるメストルまではかなり距離がある。途中宿を取らずに移動しようと思ったら、必然的に宿泊施設のある列車に乗るしかなかった。
客船と同じで、列車も宿泊する部屋にランク分けがされている。
一等・二等客室は個室で、二等でもまともに横になる寝台があるが、三等は普通の列車の席が並んだ車両と造りは変わらない。寝る時間になってもプライバシーは筒抜けで、消灯時刻を過ぎると一斉に、眠りを妨げない程度に明かりが落とされる。その代わり、乗車料金は一番安い。
しかし、ネットカフェから出た時のティオゲネス達の所持金は、百四・二グロス少々。三等客車に乗っても、二人ではとてもメストルまで辿り着ける額ではなかった。
だが、とにかくメストルに少しでも近いところまで行こうと、ティオゲネスは州境の駅までの料金を支払って列車に乗り込むことを選択した。それでようやくギリギリだった。しかも、それは列車に乗るだけの料金であって、食費は含まれない。
ティオゲネスは、組織にいた頃の経験上、空腹もある程度我慢できなくもないが(銃の訓練過程で、百発百中達成できるまで食事抜き、などということがよくあったからだ)、エレンは先ほどから口を開けば「お腹空いたー」とこぼしている。
自分一人なら、ヒッチハイクでもカージャックでも何でもするのだが、エレンが一緒となると、できるだけ騒動を起こすことなく進みたかった。だからこそ、わざわざ無理をしてまで正規の乗車賃を支払ったのだ。
(何事もなければ、明日の朝には州境……か)
けれど、それはかなり難しいであろうことも分かっている。
何事もなく着けば、それに越したことはない。
しかし、ティオゲネスには、そもそもリタが何者に追われていたのかさえ分かっていないのだ。それは即ち、自分達が誰に追われているか分かっていないことを意味している。
追手の情報もなく、ただ闇雲に逃げている今の状況は、ぼんやりと自分に従いて来ているエレンはともかく、ティオゲネスには相当な精神的負荷を伴うものだった。
もう少しリタに時間が残されていれば、と思うが、思っても始まらない。
(そう言えば……)
ティオゲネスは、ふと、リタが息を引き取る間際に口走っていたことを思い出す。
(『ガーティン支部は、もうダメ』……『その両隣の州の支部も』……?)
CUIO本部へ行けと言っていたところをみると、ガーティン支部とは文字通りCUIOのガーティン支部のことだろう。
(もうダメってコトは、宛にならないってコトか?)
否、『宛にならない』というより、『宛にしてはならない』という意味であろうか。
ティオゲネスは、僅かな手掛かりから肝心なことを掴もうと、必死になって頭を巡らせる。
『その両隣の支部も』――宛にしてはならない、と続く筈だったのだとしたら――
(相手は……CUIOなのか?)
しくじった――かも知れない。ラッセルに連絡を取ったのは、もしかしたら。
ティオゲネスは、盛大に舌打ちしたい気持ちで、辛うじて実際に行動に起こすのは思い留まった。
ガーティンとその両隣の州の所轄である、リヴァーモア支部とギールグット支部がグルになって何かをしでかした。リタは、その犯罪に関する何かを知っていた。恐らく、例のUSBメモリの中身だ。
強姦の現行犯。あれが、もしもCUIO職員の中の誰かだとしたら、揉み消そうと必死になるのも頷ける。
テキストデータの中身だけは何なのかは分からないが、強姦犯がCUIO職員だと仮定すると、画像データだけでもCUIOの権威を失墜させるには充分すぎる。
そして、もし、リタを追っていた相手が標的を自分達に切り換えたとしたら、もう秘密裏に処理する必要はない。追っている相手がリタなら、彼女もCUIO職員だから公にできないかも知れないが、ティオゲネス達は外部の人間だ。
適当に要指名手配の犯罪者に仕立て上げて内部の人間を言いくるめ、捜査網を張れば万事完了である。
場合によっては、事情を知らない一般人さえ抱き込める。『凶悪犯逮捕にご協力を』などと言いながら、自分達の写真でも配る様が目に浮かんで、ティオゲネスは額を押さえた。頭痛を覚えたのだが、それこそ暢気に頭を抱えている場合でもない。
ネットカフェで画像を確認した時点で、どうして動画をネット上にばらまかなかったのかと、ややズレたポイントを猛烈に反省した。
(……何だかんだ言って、平和ボケしてたのかもな……)
何しろ、現役(?)を離れて四年である。ボケるには充分な長さだと、やはりズレた論理を脳裏でボヤきながら、見るともなしにエレンの方へ視線を泳がせると、大きな若草色と視線が合った。
「……何だよ」
「ううん。具合でも悪いのかと思って」
だとしたらお前の所為だよ、と言いたいのを苦労して呑み込む。
その矢先、列車がスローダウンして次の停車駅へ静かに滑り込んだ。車内放送はないので、外へ視線を巡らせると、ナバスクエス駅の名がチラリと見えてはホームの景色がはっきりとし始める。
時刻が時刻なだけに、客の姿は疎らかと思えば、そうでもない。三等車両の前には、思いの外、大勢の客がホームで列車を待っていた。それでも、列車全体は存外に長い。三等車両は四両ほどあったと記憶していたが、うまく他の車両にばらけたのか、ティオゲネス達のいる車両に乗ってきたのは、五人の男達だけだった。
ともあれ、夜行列車でも多くの乗客が乗って来るのは、特に珍しいことではない。全ての客が車内で夜を過ごすとは限らないからだ。宿泊するほど長く乗らない客が、三等で普通の列車と同じ運賃で、二駅三駅乗って降りて行くこともある。
そうは思ったが、何かが妙だった。
『何が』とは明確には言えない。何かが張り詰めて、ふとしたきっかけで破裂する寸前のような、一種の飽和状態が場を満たしているような気がした。
何が起こってもいいように気持ち身構えるのとほぼ時を同じくして、男の一人が、誰にともなく口を開いた。
「失礼致します。我々はCUIOギールグット支部の者です」
男が懐から、CUIOの紋章が付いた警察手帳を出して掲げる。
「プロプスト駅から、指名手配中の被疑者が、この列車に乗り込んだという情報が入ったので、調べさせて頂きます。その間、暫くこの列車はこの駅に停車することになります。お急ぎのところ申し訳ありません」
ヒソヒソというざわめきが、小波のように車両内に広がる。
追手はCUIOかも知れないという推測にいき当たった正にその時、CUIOが目の前に現れたら、ティオゲネスでなくとも即逃げ出したい気持ちに駆られるだろう。しかし、ティオゲネスはその衝動を理性で捩じ伏せた。
降りる筈の駅の振りをして降車することも考えたが、すぐに打ち消す。降りる予定だったのなら、居眠りでもしていたのでない限り、扉の前に立って、彼らと入れ違いで降りていなければ不自然だ。それでなくとも、今いきなり立ち上がって降りようとすれば、却って目を引くし、降りる予定だったとしても、『プロプスト駅から乗った被疑者』を探しているとすれば、捜査という理由の下、引き留められただろう。
第一、彼らは自分達を探しているとは言わなかった。
『プロプスト駅』から乗り込んだ『指名手配中の被疑者』を探していると言っただけだ。
自分達も確かに『プロプスト駅』から乗車して、CUIOに追われているかも知れないが、『指名手配中の被疑者』がイコール自分達とは限らない。
早合点した挙げ句に、痛い腹を探られるなど、愚の骨頂だ。けれども、背中に張り付くような焦燥感がどうにも拭えない。
そして、往々にしてこういう『根拠のないイヤな予感』は、滅多に外れないものだ。残念なことに。
「身分証を拝見しても?」
向かいの席に座っていた男性に、CUIOを名乗る男の一人が手を差し伸べた。男性は、勿論疚しいことはないのだろう。素直に求めに応じている。
「彼らはお子さんですか?」
四人掛けのボックス席の向かいに座っていれば、そう思っても不思議はないが、男性は無情にも首を振った。
「いいえ。たまたま相席になっただけです」
「そうですか」
礼を述べて確認した身分証を男性に返しながら、ここにいるCUIO職員五人の中でリーダー格と思しき男が、こちらを向いた。
「君達、お父さんかお母さんは?」
「あ……」
最初に目が合ったのか、エレンが何か言わなければと口を開き掛ける。しかし、ティオゲネスは、彼女の手を素早く握ることでそれを遮った。
「言わないといけませんか?」
目深にかぶっていたキャップをそのままに、申し訳なさそうな声音で男に反問する。
「うん、一応。捜査の一環だと思って、協力してくれないかな」
「すごく個人的なことだし、こんなところでプライベートな話はしたくないです。捜査って言っても、こういう場合って任意なんですよね?」
「……うん、まあ」
「任意って、個人の『意』に『任』せるって意味でしょう?」
「……そうだねぇ」
キャップの鍔に遮られて、ティオゲネスには男の表情を見ることはできない。ただ、声が微かな苛立ちの色を含み始めているのが分かる。
ついでに、隣に座っているエレンが唖然として自分を見ているのも、イヤでも分かった。
「じゃあ、身分証を見せて貰えるかな?」
「持ってないと警察に連れて行かれるの?」
「そういう訳じゃあないけど」
「この列車に乗るのに、身分証は必須じゃない筈だよ」
「つまり持ってない訳だね」
「問題ありますか?」
「いや、特に問題はないよ。乗車券は?」
ティオゲネスは、普段とはまるで違う口調で話す自分を、目を丸くして見ているエレンに目配せすると、無言で男に乗車券を差し出す。
自分に倣って乗車券を差し出したエレンのそれも確認し、それぞれの乗車券を二人に返した男の視線は、キャップの鍔に半分隠れたティオゲネスの方は素通りし、エレンの顔をまじまじと見つめた。
「君……女の子の方」
「え? あたしですか?」
「そう。もしかして、エレン=クラルヴァインさん?」
「……そう、ですけど」
(どアホ!)
ティオゲネスは、鍔の下に隠れた顔を顰めた。
これが彼女の性分だと分かってはいるが、何でここでバカ正直に答えるのか、と即座に問い質したい気分だ。
CUIOの職員が、何故無名の村の片隅にある孤児院在住の孤児の名前を知っているか、など、心当たりが今はあり過ぎるというのに。
「マルタン教会付属孤児院の?」
「違うよ。僕達、これから家に帰るところだもん。ね、お姉ちゃん」
「え、」
エレンが答える前に、ティオゲネスが口を挟んだ。
またしても普段と全く違う口調で喋る自分に、再度唖然とするエレンに、目線だけでとにかく話を合わせろと訴える。
最悪に鈍い彼女にも流石に伝わったのか、それとも、鍔の下から睨む視線に怯えただけなのか、とにかくエレンは上下に首を振ることで同意を示した。
「でも、エレン=クラルヴァインさんなんだろう?」
「同姓同名の人間が世界に何人いると思ってるの、おじさん」
「じゃあ、フルネームは? ミドルネームは何ていうんだい?」
「え、えーと」
「アマーリア。エレン=アマーリア=クラルヴァインだよ」
咄嗟に出したのは、友の名だった。
「お姉さんは喋れないのかな?」
「そんなことないけど」
コイツに喋らせると、全部正直に話すから口を開かせられねーんだよ。と続いた言葉は勿論口の外へ出ることはない。
「じゃあ、君は? 君の名は何ていうんだい? それと、顔を見せてくれるかな」
「名前は言ってもいいけど、顔を見る必要があるの?」
「そうではないが……人と話をする時は、目を見て話しなさいと教わらなかったかな?」
「ごめんなさい。僕、顔にひどい痣があるの。人に見られたくないんだ」
しおらしく言うと、隣にいたエレンが、ついに顔を背けた。肩を微かに震わせているところを見ると、笑っているのだろう。
(一体、誰の所為でこんな猿芝居する羽目になってると思ってんだよ!)
と、これも口には出さずに思い切り毒づく。
厳密に言えばエレンの所為ではないのだが、彼女がもう少しこういう状況で気働きができ、もう少し運動神経のいい相棒だったら、こんな苦労はしなくていいのにと思わずにはいられない。
ここであからさまに吹き出さなかったところは、及第点をやってもいいが。
「ああ、それは済まなかったね。じゃあ、名前だけ聞かせて貰ったら終わりにするから、名前を教えて貰えるかい?」
「フルネーム?」
「ああ、できれば」
「ジークムント=フィリッパ=クラルヴァイン」
『ジークムント』は、本名の中のミドルネームだが、『フィリッパ』は、アマーリアのミドルネームだ。
別に、彼女の名を借りる必要はなかったが、適当な名を考えていたら、その間を怪しまれる危険があった。
スルスルと淀みなく答えたのが、相手を信用させないまでも、納得させざるを得ない要素にはなったのだろう。男は、「分かった、ありがとう」と言いながら、目線を合わせようとするように屈めていた腰を起こした。
「でも、顔までそっくりさんの同姓同名というのは珍しいね」
声を殺して笑いに打ち震えていたエレンが、ギクリと固まるのが気配で解る。
ティオゲネスも、内心で舌を打った。
これで誤魔化し切れるとは思わなかったが、それでもこのまま切り抜けられればいいと願っていたというのに。
「それが何なの?」
「言ったろう? 指名手配された被疑者がこの列車に乗ってるって。二人組なんだけど、一人がお姉さんと同姓同名で、顔もそっくりでね。だから、君の顔も確認したかったんだ。でも、名前が違うからね」
ふうん、と気のない風を装いながらも、ティオゲネスの緊張は最高潮に達していた。言葉のやり取りというのは、一歩間違えばボロが出兼ねない。ある意味、単純な殴り合いよりも神経を使うのだ。
しかし、自分一人でない以上、どうにかここだけでも力を使わずに切り抜けたかった。
「君達の家は、州境にあるのかい?」
「そうだけど」
「住所は?」
「そこまで言う義務があるの?」
「いや、任意だよ。でも、疚しいところがないのなら、話した方がいい。我々はCUIOだから、個人情報は守るよ」
「他のお客さんもいるのに? そんなの守秘義務守ってるコトにならないと思うけど」
息を呑むように、一瞬相手の反応が途切れる。正直、ここまでくると、相手のリアクションを視認できないのは厳しい。こんなことならキャップに小さな穴でも開けておくのだったと、ティオゲネスはやはりズレた反省をした。
「それにしても、君が言うコトは矛盾しているね。初めは個人的な事情でこの列車に乗っていると言った。でも、さっきは家に帰るところだと言ったね」
エレンが益々緊張したように身体を強張らせたのが、直視しなくても空気から伝わってくる。
何でこんなに分かり易いのか。顔を背けてくれているのが、不幸中の幸いだ。
「家に帰るのが、公衆の面前で言うのもはばかられるような『個人的な事情』にはならないと思うが、どうかな」
「普通に家に帰るだけならそうだと思うよ」
しかしティオゲネスは、あくまでも表面上は動じずにサラリと言った。
「普通に……とは?」
「個人的で特別な事情なんて、この世界いくらでもあるじゃない。おじさんは、きっとごく普通の家庭でごく普通に育ったんだね。だから、特別な事情って言われても想像もできないし、配慮もできないんでしょ」
今度こそ、相手が空気を呑んだように押し黙った。
今や、この車両内は一通り調べが終わって、刑事と話をしている乗客はティオゲネスだけだった。だから、この車両内にいる乗客の全員が、ティオゲネスと刑事の会話に耳を傾けている格好になっている。
「刑事のクセに、そんなコトも分からないの? おじさんみたいなのが多いから、警察はロクデモナイって言われるんだよ」
ティオゲネスが、幼い無邪気な口調とは裏腹に、きつい一言を投げた瞬間、車両内はシンと静まり返った。
たっぷり数秒は沈黙が続いただろうか。
刑事が威厳を取り戻そうとするかのような咳払いをして、「では、皆様。ご協力ありがとうございました」と、何事もなかったかのように捜査の終了を告げた。
けれども、刑事達が全員列車から降りて、列車が再び動き出すまで、ティオゲネスの緊張は解けなかった。
列車が動き出してたっぷり五分は経った頃、まるで申し合わせたように、ティオゲネスとエレンは、同時に詰めていた息を吐き出した。
「どうなるかと、思った」とエレンが小声で独りごちるのが聞こえる。流石に彼女も、まずい状況だというのは分かっていたようだ。
(……こっちの台詞だっつーの)
名前を訊かれてからこっち、彼女の出したボロを取り繕うのに、実戦訓練より神経を使うなんて、思ってもみなかった。
とにかく、ここは切り抜けたが、もう列車に乗り続けるのは得策とは言えない。
エレンの服の袖をクッと引くと、耳元で小さく囁く。
「次の駅に着いたら、窓から降りるぞ」
普段の彼女なら、『窓からなんてどうやって!?』と叫んだり、『降りるなら普通に降りたんでいいじゃない』などの反論が出そうだったが、言葉の攻防を切り抜けた今(もっとも、本当に攻防したのはティオゲネスなのだが、傍で聞いているだけでハラハラしたのだろう)、そんなことを言ってはいられないと思ったらしい。もしくは、その気力がなかっただけかも知れないが、取り敢えず、この時の彼女は、黙って頷いた。
***
「どういうことだ。誰も発見できなかったのか?」
狙いを三等車両に絞って捜索したものの、皆手ぶらで出てきたのを見た陣頭指揮の、ホルガー=ベルリヒンゲン警部が、この場にいる計二十名を見回す。
通報があってから二時間。
ようやく被疑者が乗ったと思しき列車の先に回り、車内の捜索をする許可を鉄道会社側に取り付けた(それも、相当なごり押しの末に、だ)というのに、収穫なしでは、ベルリヒンゲンでなくとも苛立つだろう。
被疑者と言っても、相手は年端もゆかないほんの子供。乗るにしても所持金は少ないのだから、絶対に三等車両に乗っていると見たのが間違いだったろうか。
「……警部」
思案に暮れそうになったベルリヒンゲンの耳に、遠慮がちな声が飛び込んできたのはその時だった。
「すみません。多分、自分はその二人に会ったと思います」
本当にすまなそうな顔つきをして手を挙げているのは、三等車両二両目の捜査班指揮を任せた、リューベック刑事だ。
「多分とは、どういうことだ。報告は明確にしろ」
「確実ではないのですが……手配書にあった少女とそっくりな娘を見たのです。名前も同姓同名でした」
「では何故連行しなかった」
「フルネームを訊ねたところ、ミドルネームが違っていました。連れ立っていた少年は彼女の弟だと言い、手配書にあった少年の名とはまるで違う名を名乗ったので……」
「少年の方の顔は確認したのか」
「いえ、それが……キャップを目深に被っていて……脱ぐように言ったのですが、ひどい痣があるから見られたくないと……」
ベルリヒンゲンは、やや呆れてリューベックを見た。
「何の為の強制捜査だったと思っている。それを無理矢理にでも脱がせて確認するのが仕事だろう」
「申し訳ありません。今にしてみれば自分ももう少し強引に行っていればと思うのですが、何しろ人目もありましたし、確たる証拠がある訳でもない未成年者を強制連行するのも……」
「第一、名前なんぞいくらでも偽名を名乗れる。身分証は確認したのか」
「所持していないようでした」
「では、本当に確証がない訳だな。それでもここで君が申請した理由は?」
「娘の方の名前と顔とが一致したのがどうにも気になる……としか。後は、少年の方の髪色が、やはり手配書と一致していましたので」
ふむ、とベルリヒンゲンは顎に手を当てて考え込んだ。
どの道、列車は行ってしまったのだから、ここでリューベックの失敗をあれこれ並べても仕方がない。
「次の駅までの所要時間は?」
「今の列車のスピードだと三十分です。車で追い掛けるとなると、先回りは難しいでしょう」
ちなみにここまではヘリコプターを使った。
が、適当な着陸地が見当たらなかった為、鉄道会社にはやはりかなり無理を言って、駅付近の上空を使わせて貰い全員がリベリング降下した。乗ってきたヘリコプター二台は、その場でギールグット支部へ帰してしまったから、追い掛けようと思えば車しか足はない。
ベルリヒンゲンは、軽い舌打ちを漏らした。できることなら早めに被疑者を押さえたいという副支部長の意向で、このナバスクエス駅へわざわざヘリコプターを使ってまで先回りしたが、こうなった今は仕方がなかった。
ベルリヒンゲンは、携帯端末を取り出して、今はギールグット支部にいるガーティン支部副支部長のヒューンに連絡を取った。
すると、在来線ですぐ手前の駅に当たる、イゴル駅に向かうよう指示があった。何でも、リヴァーモア支部の刑事にそのイゴル駅で降りるように指示してあるという。彼を迎えにヘリコプターも程なく到着する筈だから、それに何人か乗せて貰えるようなら同乗し、再び列車を追うようにと。
『とにかく、まずはギブソン刑事と合流しろ。先回りできそうになければ、その時点で、もう一度連絡をくれ』
「分かりました。それでは」
ナバスクエス駅からイゴル駅までは、車でおよそ三十分の道のりだ。だが、一行はすぐに使える車も持っていなかった。
ベルリヒンゲンは、五名の部下を連れて、イゴル駅へ引き返す列車に乗り、残りは、ギールグットとリエタグの州境・ヴァレンクヴィスト駅へ向かう列車に乗るよう指示を出した。