Phantom.7 迷走
「ッ、痛……」
水中へ飛び込んでから、どのくらいが経っただろうか。ティオゲネスは、ようやく水路から直接上がれそうな階段を見つけた。陸に上がった時、初めて体のあちこちにピリピリした痛みを感じて顔を顰める。
どうやらこの地は、道路の代わりに水路が発達した水上都市らしい。ティオゲネスが上がった場所は、普通の道路で言う路地裏に当たる為か、人気がなかった。時折行き交う小舟を避けている内に、必然的に人のいない場所へ追い込まれた格好だ。
こういう状況になったら、いっそ思い切り目立って助けを呼ぶのも手かも知れない。だが、ここはまだ敵地と言っていい。今は誰を信用していいか、見当も付かなかった。
荒くなった呼吸を整えながら、階段の一番上に腰掛ける。改めて体を調べると、あちこちに掠り傷が走っているのが分かった。
(下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるってやつか)
胸の内で呟いて、小さく舌打ちを漏らした。急所や足にまともにヒットしなかったのが、不幸中の幸いだ。
水を吸った髪と服を絞り、奪ってきたサブマシンガンのマガジンをチェックする。残弾は半分以下になっていたが、最近の銃器は耐水性なのか、どうにか撃てそうだ。
(しっかし、ここからどうすっかな)
階段の手摺りに凭れて、ティオゲネスは視線を泳がせた。
(水上都市って言うと……多分、あそこか)
先日、図らずもマグダ・ルーナ女学院へ編入させられた。授業を受けたのはほんの数日であったが、その間に地理の授業があった。その授業中に、水の都について教師が話していたのを覚えている。
確か、水の都と呼称されるのは、グウェイ諸島だ。オッティールド諸島と隣接した島群で、北の大陸<ユスティディア>と、西の大陸<ギゼレ・エレ・マグリブ>の間に位置しているが、区分は一応ギゼレ・エレ・マグリブとなっている。
そして、ギゼレ・エレ・マグリブと半島を繋ぐ宿場街、ルースト・パセヂも近い。とは言え、間に何キロも海がある為、泳いで渡るのは流石に無理だ。けれど、場所を特定してしまうには、まだ情報量が足りない。街中に出て何か、情報源を捜さなければ、助けを呼ぶこともできない。
(……ホントーに緩くなったよな、俺も)
そこまで考えて、クッと自嘲の笑みが漏れる。結局、ここに至って真っ先に頭に浮かんだのは、ラッセルの顔だった。自分一人でどうにもならなくなった時、思えばいつも彼に頼って来た。組織が崩壊した後は、という但し書きが付くが。
「……ダメだ」
敢えて口に出して、自分に言い聞かせる。
助けを期待してはダメだ。ラッセルや、アレクシスに頼ってはいけない。
相手は、あのヴェア=ガングだ。もう崩壊してなどいない、寧ろ再生しつつある組織だ。どんな場所だったかは、そこで育ったティオゲネスが一番分かっている。
五年前、組織が崩壊したのはたまたまだったのだと、今になって身に染みた。運が良かっただけだ。CUIOの勝利は、時の運だった。今対決したら、どちらが勝つか分からない。
(……いや)
十中八九、組織が勝つ。一度滅ぼされた組織にもう油断はないだろうし、世界一治安の良い大陸、などと謳われ、すっかり平和ボケしたCUIOの本部に、勝ち目などない。そうなったら、ギゼレ・エレ・マグリブも徐々に侵食されていくだろう。第二のユスティディアのような治安情勢になっても、何の不思議もない。
きつく目を閉じて俯く。
(どうする)
自分一人が逃げるだけなら、ここの地理を確かめてとっとと逃げ出せばいい。
だが、もしも、今現在進行形で組織の再興がなりつつあるのだとしたら、彼らをこのまま放っておく訳にはいかない。
勿論、正義の味方ぶって、組織の侵食を阻もうというつもりなど毛頭ない。けれども、彼らを放っておけば、火の粉はやがて大事な人間にも降り懸かるだろう。一番守りたいと思うあの少女も、例外ではない。組織のメンバーが、彼女だけ避けて暴れてくれると思い込むなんて、甘い勘違いにも程がある。
(……そんなコト、させない)
させて堪るか。
ギリ、と爪が食い込む程に拳を握って目を開ける。次いで、硬質な感触を後頭部に感じて、瞠目した。
「――ここまで気付かないなんて、珍しいけど」
耳慣れた女の声と共に、硬いモノが後頭部へ食い込む――恐らくは、銃口だ。
「注意力散漫、ね」
「……は、全くだな」
自嘲するように吐き捨てて、次に来るであろう攻撃に身構える。相手が気絶で済ませようとしてくれたなら、寧ろそこに隙が生まれるからまだ切り抜けられる。が、即座に引き金が引かれれば、地獄へ直行コースだ。
けれど、相手のリアクションはどちらでもなかった。静かに銃口が後頭部から離れる。それでも攻撃を警戒して、素早く振り向きながら距離を取る。
視界に映ったのは、声から推測した通り、プラチナブロンドの髪とアイス・ブルーの瞳を持つ少女――セシリアだった。
彼女は、無感動にティオゲネスを見つめた後、フイと踵を返す。彼女の意図が分からず、呆然と背中を見送っていると、セシリアは足を止め、苛立ったような顔をティオゲネスに向けた。
「何ボッとしてんのよ」
「え」
「隠れる宛があるから、付いて来いって言ってんの」
そんなことは初耳だ。
「……どういう風の吹き回しだ?」
急に自分を助けようとするなど、裏があるとしか思えない。油断なく顎を引いて低い声で問うと、彼女は、こちらへ向けた目を呆れたように細めた。
「どういう風の吹き回しにしろ、あんた、行く宛があるの? ここの土地勘も所持金もゼロのクセに、粋がってんじゃないわよ」
「土地勘・所持金ゼロはお前だって同じだろ。そんなモン、歩き回ればどうとでもなるさ」
いざとなれば、盗みくらいは仕方ないと割り切れる。エレンじゃあるまいし、と思わず口から出そうになって、慌てて口を噤んだ。それを、セシリアがどう見たかは分からない。
だが、彼女はそれには特に反応を示さず、尚も言い募った。
「来れば分かるわよ。とにかく、その濡れた服とか髪とかだけでも何とかしたくない?」
それは、できれば何とかしたいのが正直なところだ。もう季節は夏に差し掛かっているとは言え、長いことこのままでいれば、風邪から肺炎になるのは時間の問題だろう。
口に乗せないそれを敏感に感じ取ったのか、彼女はそれ以上何も言わずに、顎をしゃくって今度こそ歩を進める。
彼女を信じた訳じゃない。ただ、乾いた服が手に入って、体を乾かせればその後は別行動だ。
そう脳内で断じると、ティオゲネスは警戒を解かないまま、彼女の後に続いた。
***
「……悪いな。まだ、この島にはいる筈なんだが」
ブラインドが下ろされ、その隙間から微かに陽が射す室内は薄暗い。
その隙間を、指先で広げるようにして外を眺めながら、ディンガーは、耳に当てた携帯端末に向かって言った。
「……ああ。グウェイ諸島にあるチャルディーニ島だ」
相手がそれに応じるように話す間を置いて、二言三言、言葉を交わすと、ディンガーは通話を切った。
「ディンガーさん」
その室内には、数人の部下が、自分の顔色を伺うように立っている。
「スティールの小娘はどうした」
「出発しました。多分、直にあのガキと合流する筈です」
「そうか」
「すぐに、後を追いますか」
言葉通り、すぐにも飛び出しそうにするチンピラの一人を目線で押さえると、ディンガーは再度、ブラインドの外へその視線を転じた。
午後になった所だが、もう周囲は薄暗い。北の大陸<ユスティディア>に近いこの場所は、夏場でも日暮れは早かった。
「焦るコトはない。この島にいる限り、アイツはまだ俺達の手の内だ」
クス、と小さく笑うと、見るともなしに室内を見回す。
十五メートル四方程の室内には、広めの執務机と、その前には応接用の低いテーブル・ソファが設えられている。部下達は、そのソファに座ることなく、空いた場所に一列に揃って立っていた。
「先方は三日後、島に到着するそうだ。その時になったら、商品を迎えに行きがてら、こちらから出向こう」
居場所は分かっている。そう顔で示すと、ディンガーはうっすらと微笑する。
(それに、仮に逃げ出そうとしても無駄だ。切り札は手に入ったからな)
声に出さないそれが、ディンガーの微笑を深くした。
***
エレンは、その建物を見上げて、ゴクリと喉を鳴らす。
柄にもなく、緊張していた。こんなに緊張する――というより、気を張るような瞬間は、エレンの人生にはトンとなかった気がする。
否、細かく言えば、あの美貌の少年と一緒にいると、違う意味で寿命が縮む思いをしたことは幾度もあった。が、自分から行動を起こしたことが原因で、緊張した覚えはない。
そもそも、こんな風に、何か焦る想いに突き動かされたような経験が今までなかった。
(……だけど)
キュッと拳を握って、いつの間にか下げていた視線を上げる。
彼女が見上げているのは、まるで何百年か前の王侯貴族が使っていた城館のような建物だ。肩から下げたポシェットの釣り紐を、お守りのように握り締めて歩を踏み出した。
門を潜ってすぐに目の前に広がったのは、よく手入れされた中庭だ。幾何学模様を描いた植え込みに挟まれた回廊に沿って進み、エントランスホールへ向かう。
あの美貌の少年――ティオゲネス=ウェザリーが、消息を絶ったと知った時から、早二週間が経っていた。
焦燥に急かされるようにして、一度は一人で彼に会おうとプチ失踪を試みた後、結局、エレンはラッセルとアレクシスに付き添われ、一度教会へ戻った。
必ず、ティオゲネスを連れて戻るという、ラッセルの言葉を信じて。
けれども、半月も音沙汰無しだ。何度か、彼かアレクシスの携帯に連絡したが、いつ電話しても留守電だった。もう、待てなかった。
ラティマー神父に必死で頭を下げ、IOCAまでの順路を教わった。心配したラティマー神父は、修道士を一人、保護者代わりに連れて行くように条件を出し、メストル・シティ行きを許してくれた。往復分の交通費に若干余裕を見た路銀を持たせて貰い、エレンは今、修道士の一人であるブラザー・トリスタンとメストルシティまでやって来た。
ティオゲネスが消息不明だとは聞いているが、エレンにはここより他に当たる手懸かりを知らない。
「エレン?」
エントランスホール入り口の手前で、ふと足を止めたエレンを不審に思ったのか、ブラザー・トリスタンが声を掛ける。
「止めておきますか?」
「……いいえ。行きます」
スウ、と深呼吸を一つして、エレンは止めていた足を再び前へ踏み出した。
初めて来たIOCAの本部は、思っていたようなオフィスビルとは全く違った。外観に違わない、豪奢とも言えるようなエントランス・ホールは吹き抜けになっており、広い空間が取られている。そこでは、大勢の子供達が、そこをプレイ・ルーム代わりにはしゃぎ回っていた。
「こんにちはぁ!」
扉が開いたのに気付いたのだろう。子供達は、声を揃えて、エレンとブラザーに挨拶する。
エレンとブラザーは「こんにちは」と返すと、受付カウンターへ足を向けた。
「失礼」
保護者として来たブラザーの方が、受付嬢に声を掛けると、彼女は営業用には見えない柔らかな笑みと共に会釈した。
「いらっしゃいませ。養子縁組みの申請でしょうか?」
「いえ、その……以前、こちらから養子を授かった、マルタン教会の者です。こちらに、ティオゲネス=ウェザリーがお邪魔していないかと思いまして」
「少々お待ち下さいませ。照会致します」
笑みを絶やすことなく受け答えした受付嬢は、端末に向かって作業を開始する。時間にしてほんの一、二分の後、顔を上げた彼女は、微かに眉尻を下げて口を開いた。
「お訊ねの方は、ティオゲネス=ジークムント=ウェザリーさんで、お間違いございませんか?」
「はい」
「大変申し訳ございません。ティオゲネスさんは、マルタン教会の方へお帰りになっている筈ですが……」
「そうですか」
やはり、無駄足だったか。という顔をして頭を下げ掛けたブラザーを、エレンは押し退けた。
「そんな筈ありません! もっとよく調べて下さい!!」
エントランスホールに、キンと尖った声が響き渡った。それまでそこで遊んでいた子供達が、何事かとそちらに顔を向ける。
エレンも、予想外に自分の声が反響したのに驚いたのか、瞬時肩を竦めた。が、すぐさま自身の正面へ向き直り、カウンターにかじり付くようにして身を乗り出した。
「もう一度調べて下さい。ってゆーか、本人を呼んで下さい。いるんでしょ? ティオゲネス=ウェザリーです」
先刻の失敗に懲りたのか、声量を落としてはいたが、一見おっとりとした少女には、珍しく鬼気迫るものがある。それを感じているのか、ブラザーでさえ口を挟めない。
普段の彼女を知る由もない受付嬢も、若干押されるように気持ち背を仰け反らせながら、困ったような、それでいて、聞き分けのない幼子を宥めるような表情を浮かべた。
「申し訳ございません。何度お訊ねになられても答えは同じです。ティオゲネス=ジークムント=ウェザリーさんは、養子縁組み先であるマルタン教会へ戻られました」
「戻ってないから訊いてるのにっっ!!」
囁き声で鋭く怒鳴りながら、エレンは、人生で感じたことのない苛立ちを持て余していた。こんなにも話の通じない人間がいるなんて、思ってもみたことがない。
(……まあ、会ったコトがなくはないけど)
唇を尖らせながら、脳内でそうごちる。
同時に思い浮かんだのは、エーデルシュタイン母子だった。
特に、あの息子――イェルド=エーデルシュタインには、拒絶の言葉は受け入れられなかった。彼は、自分が愛すれば、相手も無条件で愛を返してくれると思い込んでいた。その狂気の愛の果てに、彼の妻は犠牲になったのだ。後から聞いて知ったところに依ると、あの母子は、連続誘拐・殺人事件を起こしていたという。
ゾク、と一瞬、今まで忘れていた悪寒が蘇って、エレンはしがみついていたカウンターから離れ、自分を抱き締めるように腕を回す。目の前の受付嬢が、怪訝そうに首を傾げた。
ばつが悪くなって、視線を逸らす。数秒してから軽く深呼吸して、エレンは顔を上げる。
(……今はどうでもいいのよ、あの人のコトは)
脳内に掠った彼の残像に舌を出したい気分で、声に出さずに吐き捨てる。
「とにかく、ティオゲネスは教会へは戻っていないんです。こちらには本当にいないんですか?」
「申し訳ございません。当協会では、養子縁組み先とうまくいかなくなった孤児を、再受け入れはしておりませんので。何とか話し合い、和解してマルタン教会へ戻るように諭しました」
納得された様子だったので戻られたのでしょう、と繰り返す受付嬢の回答は、エレンの問いに対して明らかにズレている。
「戻ってないって私が言ってるのは聞こえてないみたいですね」
エレンには珍しいことばかりだが、皮肉が出た。だからと言って、受付嬢も動じる気配を見せない。
「誰がどう仰ろうと、ティオゲネス=ウェザリーさんは、当協会の保護下を離れました。後は彼がどうしようと、彼自身とマルタン教会の責任です」
「なっ……!」
エレンは絶句した。
これが、『あの』ティオゲネスだからいいようなものの(という言い方もどうかと思うが、これ以外の表現はエレンには浮かばなかった)、もし何の技能も持たない、普通の一般人だったら、どうするつもりだろうか。
仮にも、たった十五歳の少年が、養子縁組み先とうまく行かず、助けを求めても何の援助もしない。これが、果たして『孤児保護』を謳う国際組織のすることだろうか。
勿論、彼が教会からも姿を消した理由は、『養子縁組み先とうまくいかなくなったから』ではないことは、エレンにもよく分かっているが。
「ご用がお済みでしたら、お引き取り下さい。そこにおられても、当協会では、ティオゲネスさんに関しては、提供できる情報はございません」
怒りに打ち震え、言葉も出なくなったエレンに、受付嬢が爆弾に等しい台詞を投げる。
エレンの怒りは、頂点に達した。
「ふざけないで下さいっっ!!」
再度、エレンの声がエントランスに響く。そして、またしても子供達の視線はエレンに集中したが、未だかつて感じたことのない憤りに、エレンの方ではそれを気にする余裕はなかった。
「あなたでは話になりません! ここの責任者を出して下さい!! その方と直接お話しします!」
生のままの怒りをぶつけられれば、同年代の相手なら充分動揺しただろう。けれども、受付嬢は表情一つ変えずに、平然と返した。
「アポはお取りでしょうか?」
「そんなっ――」
そんなことで言い逃れられると思っているのか、と口に乗せるより早く、後ろからそっと肩を引かれる。
「ブラザー?」
「エレン。ここは出直しましょう。ここでこれ以上粘ったところで、得るモノはありません」
囁き声ではあったものの、音量的には、受付嬢にも充分聞こえる。わざとそうしたのか、言いながらブラザーは受付嬢を軽く睨み付けた。彼も、神に仕える修道士の心得からしては珍しく、型通りのお役所仕事な受け答えにやや苛立っているようだ。
しかし、ここはこちらが本当に引き上げると見たのか、受付嬢はやはり動じずに、「お疲れ様です」と会釈し、仕事に戻る体勢で手元へ視線を落とした。
エレンは収まらない怒りを尚もぶつけたい衝動に駆られたが、それより早く、ブラザーがカウンターに進み出る。
「失礼致しました。仰る通り、アポイントを取らずに伺ったのは、こちらの落ち度でした。大変申し訳ございません。後日、正式に面会を申し入れたいのですが、本部長のご都合は如何でしょうか」
すると、仮面のように表情をなくした受付嬢は、再び顔を上げた。
「畏まりました。本部長に確認致しますので、少々お待ち下さいませ」
彼女は、内線電話らしき受話器を持ち上げてダイヤルする。
「こちら、受付です。只今、面会ご希望のお客様がいらっしゃっていて……はい。マルタン教会の方です。ええ、今いらっしゃって……はい。……いいえ、改めて後日にアポイントをお取りしたいと……え?」
瞬間、受付嬢は不可解だというように眉根を寄せた。
「ですが、それでは……はい。はい……分かりました」
こちらには、向こうの答えは聞こえない。しかし、内線を切った彼女は、不快感も露わに顔を上げると、同僚に席を外す旨を伝えて、立ち上がり、事務所の出入り口から姿を現した。
「……大変、失礼致しました。ちょうどお手透きですので、特別にすぐ会って頂けるそうです」
特別に、という部分をやたら強調した彼女は、「こちらへどうぞ」と言いながら、エレン達を先導した。
エントランスから右手へ曲がり、一番奥まった部屋へ二人を案内した受付嬢は、二人を本部長に引き合わせると、そそくさと引き上げていった。かなり感じの悪いやり取りをした後だけに、流石に気まずかったと見える。
エレンは、心の中で舌を出しながら受付嬢の後ろ姿を見送り、応接室の扉を閉じた。
「ようこそ、お越し下さいました。本部長のビクトリア=モンテスです」
執務机から立ち上がって二人を迎えてくれたのは、凛とした印象の、老婦人だった。細面で背が高く、品がある。
「先程は、スタッフが大変失礼を致しました。どうぞ、お掛けになって」
ビクトリアは、応接テーブルとセットになったソファへ二人を誘うと、エレン達が腰を下ろすのを待って、自らも席に着いた。
「いえ、こちらこそ、突然押し掛けまして、申し訳ございません」
ビクトリアが着座するのを見ながら、ブラザーが軽く頭を下げる。
「それで、あの……」
「分かっております。マルタン教会の方ですとか……ティオゲネス=ウェザリーのことで?」
「そうです。ティオは……ティオゲネスは、こちらには顔を出しませんでしたか?」
逸る気持ちに後押しされるように、今度はエレンが口を開く。ブラザーとの会話に割り込むなど不躾だと分かっていたが、言わずにはおれなかった。
ビクトリアは、エレンの不作法を咎めることなく、柔らかく微笑して頷く。
「確かに、ティオは……あ、こう呼ぶことを許して下さいね。彼は、確かに半年程前に、ここを訪ねて来ました。事情は分からないけれど、マルタン教会を出たいと言って……」
「受付のお話では、一度ここを出た子供の再受け入れはしないという方針だと伺いましたが」
彼女の言葉を、ブラザーが引き取って訊ねる。
「そうです。協会の方針でそのように決まりましたので……例外をいちいち認めていたら、意味がなくなってしまいますから」
彼女が眉尻を下げて言ったその時、会話が途切れるのを見計らったように、秘書らしき女性がトレイを持って、奥の部屋から入って来た。
「失礼致します」
短くそう言うと、女性はトレイの上に乗っていたティーカップを三人の前に配る。砂糖とミルクの壷を置いて、トレイだけを抱えて一礼すると、退出して行った。
それを見届けると、ビクトリアは、「どうぞ」と言いながら、自身はノンシュガーでミルクも注がないまま、カップに口を付ける。
「それで、ティオは何か……どこへ行くか、言っていませんでしたか」
「残念ながら、何も」
ビクトリアが、申し訳なさそうに首を振る。ブラザーが、砂糖壷から二匙分、砂糖を掬って紅茶に投じ、ソーサーに添えられていた匙で中身を軽く掻き混ぜた。それを視界に入れながら、エレンはビクトリアに向き直る。
「じゃあ、本当にティオの行方には心当たりがないのですか?」
「申し訳ございません」
「そんな……」
「どうぞ、お飲みになって」
再度、紅茶を勧められ、それに視線を落とす。今は、暢気に紅茶など飲んでいる気分ではない。けれども、折角の好意を無碍にするのも気が引けて、エレンは、ブラザーと同じように、砂糖壷から砂糖を掬って紅茶に投じる。ソーサーに添えられていた匙で砂糖を溶かすと、ミルクを入れた。
形ばかり紅茶を啜ると、ソーサーにカップを戻す。ティオゲネスの手懸かりが本当にないのなら、これ以上ここに留まる意味はない。
「お忙しいところ、失礼しました。では……」
私達はこれで、と立ち上がろうとしたその時、横合いから派手に何かが割れる音がした。
「何っ……」
反射的にそちらへ振り向けた視線の先で、ブラザーがカップを取り落としている。
「ブラザー? 一体、どうし、」
「い、え……急に、何か……」
何事か言い掛けた彼の瞼が閉じられ、その身体がゆっくりと傾いでいく。
「ブラザー!?」
どうしたの、と言ったつもりだったのに、それは音にならない。伸ばしたつもりの腕が、やけに重い。いや、重いのは、腕だけではない。
「な、に……」
眠い、と認識する暇もない。急速に視界が暗くなり、意識がどこかへ落ち込んで行く。
「安心なさい、お嬢さん」
どこからともなく、声が聞こえる。
「ティオには、きっとすぐに逢えるわ」
すぐにね。
クスリ、と誰かが小さく笑うのが、耳に入った気がしたのは、夢か現か。それを判断するよりも速く、エレンの意識は途切れた。




