Phantom.2 新たな日常
「ティオが行方不明!?」
エレンがボニファーツ少年院を訪れた翌々日、アレクシスはラッセルにアクセルソン州支部の署内で呼び止められた。
休憩する為に設けられた、飲み物の自動販売機の前で缶コーヒーを手渡されながら聞かされたのが、まさかの『ティオゲネス行方不明』の報である。
「あ……、ご、ごめん」
思わず頓狂な叫びを上げてしまい、アレクシスは慌てて声を抑えるように口元に手を添え、ラッセルを見上げた。
「……どういうコトなの?」
「おれも驚いてんだよ。エレンちゃんを例の少年院に連れてった時の、セシリアの話でちょっと気になったコトがあったから、IOCA本部に電話してみたんだけど」
アレクシスが簡単に聞いたところによると、先日の聖マグダ・ルーナ女学院の一件で逮捕されたセシリア=レアードは、養子先との折り合いが悪くなった際に、IOCAに連れ戻してくれるよう頼んだらしい。が、IOCAが再受け入れを拒否した挙げ句、色々あってヴェア=ガング再結成に引きずり込まれる羽目になったというのだ。
「彼女の言い分だと、IOCAは一度養子に出したら、二度と再受け入れをしない、みたいな感じでさ。勿論、セシリアの思い込みってコトも否定できなかったけど、連絡入れたら、ティオはマルタン教会へ戻った筈だって言うんだ」
「……それはないわよね」
「ねぇな」
ラッセルとアレクシスは、顔を見合わせて、同時に溜息を吐いた。
ティオゲネスは、今回のエレンが重傷を負った件で、かなり思い詰めているようだった。IOCAから拒否されたからと言って、間違ってもマルタン教会へは戻らないだろう。
「まあ、アイツなら即命までどうこうってトコまではならないとは思うけど……」
「やっぱり、あの子を捜しましょう。で、身の振りがちゃんと決まるまで、どっちかの家で面倒見るの。いいわよね?」
「ああ。最悪、アイツ一人くらい、成人するまで面倒見たっていいしな」
だが、それは当面の問題であって、誰かの保護を必要としている未成年孤児はティオゲネスだけではない。世界の孤児、全ての問題だ。
IOCAの孤児受け入れ方針も、もう一度見直してくれるよう要請する必要があるだろう。
二人は、コーヒーを飲み終えるのを待つ間も惜しいとばかりに、缶を握り締めたまま動き出した。
***
「ぶはっ……つ、疲れたっ……」
エレンは、松葉杖を突いてベッドへ辿り着くと同時にそこへ倒れ込んだ。
あのボニファーツ少年院から戻った翌日から、エレンは主治医に相談して歩く訓練を始めていた。
幸い、脊髄に損傷はなく、体力等が回復して歩行訓練をすれば、普通に歩くことができるようになるとの診断だったので、訓練を開始することそのものには問題はなかった。
問題は、どのくらいで以前と同様に歩けるようになるのかと、歩けるようになったところでティオゲネスの元へ行けるかどうかだ。
それと、思ったより体力が落ちているのにも愕然とした。
一ヶ月は意識不明で、それから更にひと月は殆ど動けず、合計二ヶ月強の間寝たきりだったのだから無理もない。
少しでも早く歩けるようになりたい一心で頑張るものの、約一週間経った今も、一日に一時間が限界だった。
「今日は、ここまでにしておきましょ、エレンちゃん」
補助トレーナーの医師は女性で、今は毎日エレンの個室までやって来て、練習に付き合ってくれていた。
はい、と返事をして、彼女の助けを借りながらベッドへ戻る。
ふと、部屋の時計を見上げると、時刻は午後六時を回っていた。
「あの、先生」
「何?」
「面会って何時まででしたっけ」
「七時までね。誰か来る予定なの?」
「ええ……まあ」
曖昧に頷いて、エレンは無意識にもう一度時計を見た。
アレクシスと約束した一週間後は今日だ。
先週会ったのは夕刻だったし、もっと早く来てくれるものかと思っていたが、アレクシスはまだ顔を見せていなかった。
掛け布団を丁寧に直すと、トレーナーの医師は、じゃあ明日ね、と言って病室を後にした。
気もそぞろに彼女を見送ると、エレンは見るともなしに手元に視線を落とす。
『一週間後に、もう一度来るわ。だから、それまでに真剣に考えて。何故、ティオを連れ戻したいのか』
先週、アレクシスに言われた言葉を反芻するが、エレンにはいくら考えても彼女が求める答えがよく分からなかった。
だからこそ、同年代のセシリアと話せば何か分かるかも知れないと思って、無理を言って彼女に会いに行ったのだ。しかし、ティオゲネスの行方の手懸かりについては多少聞けたものの、アレクシスの宿題の答えについては分からず終いだった。
せめて、ボニファーツ少年院でもう少しセシリアに突っ込んだところまで話を聞いておけば、と思うが、今更言っても始まらない。
たとえば、彼女が言っていた“組織”というのは一体何なのか。そこに彼らがいたという事実が、一体、何を意味するのか。
『あなたが知りたいと思ってるそのコトは、ティオの不可侵領域に触れるコトなの。そうね……あなたが、彼に知られたくないと思ってるコトを、勝手に話すようなものよ』
『アイツに断りなくアイツが言いたくないコトを暴露しようって言うなら』
エレンは無意識に、ラッセルとアレクシスの言ったことを脳裏で反芻した。
(……ティオが、言いたくないコト……?)
ティオゲネスが隠したいこととは、何だろう。
(そう言えば)
ふと、聖マグダ・ルーナ女学院で、珍しく彼がエレンに向かって激昂したことを思い出す。
確か、“ヴェア=ガング”という単語に、異常なまでに反応していた。
それが、セシリアの言う組織と関係があることなのだろうか。
(……あーっ、もうっ! 訳分かんないし!)
栗色の髪を手でグシャグシャと掻き乱して、ベッドの上に仰向けに倒れ込む。ぼふん、と音がしてベッドが揺れた。
揺れる天井を眺めながら、エレンはまた無意識に、アレクシスの言葉を脳裏に再生する。
『あの子が教会を離れると決めた理由を知りたければ、相手の心に土足で踏み込む覚悟はした方がいいわ。その覚悟がないなら……知りたいと望む動機が興味本位なら、このまま彼のことは忘れることを勧める』
『彼を弟程度にしか思ってないなら、忘れた方がいい。中途半端に関わるよりは、多分お互いの為よ』
(弟程度って何なの?)
弟じゃなかったら、何だって言うのよ。アレクさんの言うコトってば、難し過ぎる。
エレンは、そこにまるで憎たらしくて仕方ないものがいるかのように、天井を睨んで眉根を寄せた。
(……弟だっていいじゃない。だって、放っておけないもの)
キュッと拳を握り締める。
彼は、マルタン教会へ来た当時、何にかは分からないが、ひどく傷付いている様子だった。誰とも打ち解けようとせず、寄せ付けようともしなかった。
二年掛かって、ようやくその態度が軟化し始めたのだ。彼は、今ではきっとマルタン教会を自分の『家』として認識している。それは、決してエレンの思い込みではないと自信を持って言える。
だのに、今更出て行くだなんて、納得できない。しかも、エレンに何も言わずに。
(……待ってて、ティオ)
時間は掛かるかも知れないけど、必ず会いに行くから。IOCAに。
取り留めもなく考えながら、エレンはいつしか眠りに落ちていた。その日、アレクシスが訪ねて来ることは、なかった。
***
「ッ……とっと!」
貨物列車がカーブに差し掛かって、スローダウンしたタイミングに合わせて、ティオゲネスは貨車から飛び降りた。
ミドルティーンの無賃乗車犯が乗っていたのも知らぬげに、列車はティオゲネスをその場に置いて走り去って行く。
着地して草原をそのまま滑り降りると、寝ころんだ姿勢から首を捻って、列車を見送った。
東の空が白み始めている。
遠くに見える街が、いつも通りの日常を営み始めるのも、もうすぐだろう。
列車の固い床で寝ていたので、あちこちが痛い。ティオゲネスは、立ち上がって服に着いた草をパタパタと払うと、凝り固まった筋肉を伸ばすように腕を空へ向かって突き上げる。
(足手纏いがいないと、やっぱりラクだな)
ふと、エレンに聞かれたら文句が返って来そうなことを無意識に脳裏で呟いて、ティオゲネスは苦笑した。
(何考えてんだろな、俺も)
もう二度と会うことはないのに、いつも隣にいた日だまりがないと、どこか薄ら寒いような寂しさを覚える。しかし、そう思ってしまった気持ちに蓋をするように瞬時目を伏せると、ティオゲネスは列車の進行方向へ翡翠の目を向けた。
先刻まで無断でお邪魔していた貨物列車は、リヴァーモア州のエンゲルヴァルト・シティへ向かう便だった。
三日前、ネットカフェを出る直前に調べたところ、エンゲルヴァルト・シティ郊外のバルトロメウス地区で、ある裏の商売のスタッフを募集していると書き込まれている掲示板を見つけた。
金を稼ぐ為には、裏の商売に首を突っ込むのも仕方がないと腹を括った。が、それでもどうしてもやりたくないことは避けて通った結果、そこに行き着いた。当面は、何が何でもそこに世話になるしかない。
飛び降りた場所から線路沿いを歩いている内に、空はどんどん明るくなり、街へ着く頃にはすっかり夜が明けていた。
駅前広場にあった時計台に目を向けると、時刻は午前八時を指している。
財布の中身を漁ると、残高は二十二グロス。ちなみに、都市部で生活しようと思ったら、月収は最低でも千四百グロスはないと厳しい。
(一食七グロスで一日二食にしたとしても、後一日半か……)
ティオゲネスは大食らいな方ではないが、それでも十代半ばの少年の平均くらいは食べないと満腹には程遠い。育ち盛りの時期に、割と無茶をしたのが響いているのか、未だに同じ年代の少年と比べると小柄だ。
はあ、と息を吐いて辺りを見回し、立ち食いのオープンカフェに目を留めた。通勤中のビジネスマン向けの商売なのだろう。
ティオゲネスは彼らに混ざって、ボリュームと予算重視でハンバーガーセットを注文した。セットなら多少はバランスが取れているし、飲み物も付いてくる。
(そう言や、外食って久々だな)
『ちょっと、ティオ! 緑が全然ないじゃない! バランス悪いわよ!』
『うるせぇ、非常時にゼータク言うな。こういう時は腹が膨れればいーんだよっ』
ふと、リヴァーモア州のCUIO支部であった犯罪隠蔽事件の時に、逃げていた途中のことが思い出されて、苦笑する。
(……何でいちいちアイツに結び付けてんだよ)
バカじゃねぇの、と思いながら、ティオゲネスはハンバーガーにかじり付いた。
***
辿り着いた街はエンゲルヴァルト・シティで間違いなかったが、それでも都心に近い場所だということは、駅が近いことでも分かる。
駅前の本屋へ立ち寄り、バルトロメウス地区の場所を頭に叩き込んで歩くことほぼ半日。途中でどうにも我慢できなくなり、結局昼食も食べてしまった為に、目的地の酒場、『バー・ガリーニ』へ辿り着く頃には、手持ちの残高は七グロス少々になっていた。
バルトロメウス地区は、踏み込む数百メートル前からでも、あまり治安が好くないことが容易に伺えた。
本屋で立ち読みした観光ガイドに拠ると、バルトロメウス地区を中心に、隣接している地区はほぼ治安不良区域に認定され、観光するなら絶対に近寄らないようにと書かれていた。
特に、女性と子供は、足を踏み入れたが最後、丸裸にされてしまうというどこまでが本気で冗談か、分からない脅し文句が添えてあった。
ティオゲネスは、十代半ばの少年にしては小柄な方だし、加えて女性寄りの容姿で、組織にいた頃から見てくれで舐めて掛かる人間が多かった。ここもご多分に漏れず、歩いているとまさに一足進むごとにちょっかいを掛けられたが、組織仕込みの技術で軽くあしらうだけで、大抵は道を譲ってくれた。
人間世界の弱肉強食は複雑なものではあるが、このバルトロメウス地区に限っては、単純に力には敬意を表してくれるようだ。
殆どは、ティオゲネスとあまり変わらない年齢層の子供(八割は男)がたむろしているように見えた。
バー・ガリーニは、そんな不良達の溜まり場のど真ん中で経営しているにしては、不釣り合いなくらい豪奢で、それでいて上品な建物だった。シックと言えばいいのだろうか。
バーはバーでも安酒場ではなく、明らかに上流階級で高級取りの人間が飲みに来そうな雰囲気だ。
『準備中』の札が掛かった扉の、細長いデザインの取っ手に手をかけて手前へ引くと、コロン、というカウベルのような音がした。
「あらぁ、ごめんなさぁい。まだ開店前なんですぅ」
微妙に語尾を引きずるような口調が出迎えたかと思うと、口調に合わない男が、ツカツカと歩み寄ってきた。
バーテンダーの定番――白いシャツにサスペンダー、襟元には黒いタイを付け、黒いボトムの出で立ちが異様に似合う、スラリとした体躯の男だ。顔はやや面長で、顎先は丸みを帯びており、そこに収まっているのは見事な引き目鉤鼻。その鼻の下には、クルンとカールしたちょび髭を生やしている。
オールバックで、一房だけ前に流された黒髪は緩やかにウェーブしていた。
ティオゲネスは、やや及び腰になった。
さっきの声の主がこの男だったらどうしよう。仕事の内容はともかく、飢え死にする羽目になっても逃げ出すのが利口だろうか。
しかし、それをティオゲネスは即座に打ち消した。
裏の商売でも、比較的マシだったからこそここまで来たのだ。それに、今の全財産を思い出せ、と自分を叱り飛ばす。
今さっき出迎えてくれた声の主とは、明らかに別人であろう。うん、きっとそうだ。
けれども、どうにか気を取り直した瞬間、男はティオゲネスの脳内訂正を無情にも覆した。
「あらららら、なんて可愛らしいお客様かしら。ボク、来るところ間違ってなぁい?」
間違ってない。いや、間違ってないんだけど、間違ったかも。
ティオゲネスは、軽く混乱しながらも、咳払いして声を絞り出した。
「いや、あの……バー・ガリーニって、ここで間違いないんだろ?」
すると、男は可愛らしい(と多分本人は思っているだろう)仕草で小首を傾げた。
「うん、確かにバー・ガリーニはここよ? どんなご用かしら、可愛い坊や」
一目でティオゲネスを少年と見抜く人間は珍しい。それとも、相手が所謂『オネエ』だから、そういったヒトを見る目はあるということだろうか。
とにかく、それら諸々を全て頭の端へ追いやる努力をしながら、ティオゲネスは本題を切り出した。
「“地下”の仕事がしたくて来たんだ。そう言えば分かるって書いてあった。もっとも、三日前の情報だけどな」
もう募集、打ち切っちゃった? と訊ねると、途端に男の顔からふざけた(とティオゲネスには思える)笑みがスッと消えた。スイッチでも切り替えたようだ。
「まだ募集中よ。ま、採用するか否かは別だけど」
お入りなさい、と言って、男は道を開けた。
ティオゲネスは、肩を竦めたとも、会釈したとも取れる仕草の後、店内へ足を踏み入れる。
男は扉を閉じると、鍵を掛けた。思わず振り返ると、男も肩を竦めて言った。
「悪く思わないでね、坊や。この“バー”に関してはあくまでも表社会の商売なの。“地下”の面接は地下でやるわ。ついていらっしゃい」
隙のない身のこなしでティオゲネスの脇をすり抜け、男は店の奥へと歩を進めた。
店内は、薄暗くなるよう照明が絞られている。向かって右手にカウンター席が設えられ、左手にはどちらかと言えばホストクラブのような店を思わせるボックス席が並んでいた。
その間に設けられた通路を通って、『スタッフ・オンリー』の札が貼られた扉を潜ると、三メートル程の床板の向こうに地下への階段があった。
狭くて急な階段を降り切ると、開けた空間が現れた。
やはり照明の絞られた五十メートル四方程のだだっ広い空間の中央に、金網で囲われたリングがポツンと置かれているだけの部屋だ。近付くと、リングは三メートル四方くらいに見えた。
加えて、よく見れば部屋の端に寄せるようにして中身の分からない段ボール箱が、そこここに放置されている。
「ねえ、ちょっと。皆いるんでしょ。出てらっしゃい」
男が呼ばわると、暗がりの中から、何人もの人間がぞろぞろ出てきた。ざっと見て、十人前後だろうか。体型にそれぞれ若干の違いはあるものの、大抵は誰も彼も筋肉隆々の大男だ。
女性も二人混ざっているが、どちらもティオゲネスよりも背が高く、一見男と見間違うような短髪をしていた。
「この坊やが、試験を受けたいんですって。ちょっと可愛がってあげてくれる?」
男が言った途端、最初から室内にいた男達は目を丸くした。
「坊やぁ?」
「ちょっとマスター。勘違いしてんじゃないの?」
「そうそう、どっからどう見ても女じゃん」
「本当に“地下”の試験受けに来たってのかぁ?」
口々に言いながら、男達は威圧するようにティオゲネスの周囲に集まってくる。オネエ男の方は、いつの間にかティオゲネスの傍から離れていた。
「坊や。お名前は?」
若干離れた位置から、オネエ男の声が飛んでくる。
「ジークムント」
訊かれたティオゲネスは、ミドルネームだけを答えた。
ここには、金稼ぎの腰掛けだけのつもりで来たのだ。バカ正直に本名を全部名乗る義務はない。
「そう。ジークちゃんね。あたしは、ここのオーナーで、ロドヴィーコ=マリオ=ガリーニって言うの。早速だけど、試験を始めさせて貰うわ。いいかしら」
真顔で言うオネエ男――もとい、ロドヴィーコに、ティオゲネスが無言で頷くと、周囲で揶揄い半分の威嚇をしていた男達も静かになった。
「ルールは簡単。ここにいる全員をノックアウトすれば合格よ。但し、絶対に相手を殺さないこと。これだけは守って頂戴ね。何か質問ある?」
「武器は?」
「使っても構わないわ」
「銃器でもか」
「ええ。ただ、しつこいようだけど、相手を殺しちゃダメよ」
助かった、と思いながらティオゲネスは懐から銃を抜いた。これだけ体格差がある相手ばかりだと、相手に何らかの決定打を与えられる武器がないと少々厳しい。
「殺さないでノックアウトすれば、全治二、三ヶ月は許容範囲か?」
「そうね。でも、その場合、そのヒトの抜けた穴はジークちゃんに埋めて貰うコトになるけど」
「その分、給料が出るなら構わないぜ。出るのか?」
「勿論」
「オッケー。始めようぜ」
肩幅に足を開いて、低く腰を落として身構えると、一瞬の間の後、笑い声がその場を包んだ。明らかな嘲笑だ。
「おいおい、お嬢ちゃん。本気で俺達とやり合おうってのか?」
「無理すんなって。お嬢ちゃんなら他に雇ってくれる場所がありそうだぜ?」
下卑た薄笑いは、性的なものを帯びている。『他に雇ってくれる場所』というのがどこを指しているかは具体的に言われるまでもなく分かったが、ティオゲネスは冷ややかに見つめ返しただけだった。
「なあ、マスター。いっそ“上”での商売に使ったらどうだ」
男達の一人に言われたロドヴィーコは、積み上げられた段ボール箱の上に腰を落とすと、今時珍しい煙管タバコにマッチで火を着けた。その流れるような仕草は、得も言われぬ程優雅だ。
「そう考えないでもなかったけどね。坊やは“地下”の仕事に来たって自分で言ったのよ。取り敢えず、撫でるくらいの手合わせはさせてあげないと、そのくらいの年の子って納得しないでしょう?」
一応、ルールとやらを懇切丁寧に説明してはくれたが、彼(彼女?)もどうやら、ティオゲネスを冷やかし程度の腕と思っているのは否めない。
(ま、この見てくれじゃあな)
この点については、ティオゲネス自身もとうに諦めている。
「なー、おっさん達。やるの? やらねぇの?」
空いた左手で首を鳴らしながら出し抜けに問うと、男達は再度目を丸くして、やはり小馬鹿にしたように言った。
「へいへい。んじゃ、俺からいかせて貰おうかな」
上半身が逆三角形に見える程、肩の筋肉が盛り上がった男が、最初に進み出ながらボキボキと指を鳴らした。
身長は、二メートル前後だろう。体格差があり過ぎて、誰の目にも勝負は明らかなように見える。
「加減はするが、骨の一、二本は許容範囲だよな?」
わざわざ、先刻のティオゲネスの物言いを真似ている。
「加減しねぇ方がいいと思うぜ? 後で死ぬ程後悔するから」
クス、と不敵な笑みを浮かべて見上げると、男の太い眉尻がピクリと動いた。
「生意気言うんじゃねぇよ、クソガキがぁあ!!」
体型の割に早い動きで男は拳を振りかぶり、思い切りティオゲネスに向かって振り下ろした。コンクリートに拳がめり込み、そこを中心に蜘蛛の巣のようなひび割れが走る。
「あーあー、お嬢ちゃんペシャンコだな」
「おいおい、フィリップー。手加減するんじゃなかったのかぁ?」
「あっはっは、いやつい大人げなく本気出しちまったぜ」
フィリップと呼ばれた男が、床に開けた穴から拳を引き抜いた刹那、一発に聞こえる銃声と共に、その腕に三箇所から同時に血飛沫が噴き上がった。
「うわぁああ!?」
「なっ、何だ!?」
フィリップとギャラリーから悲鳴が上がる。
彼の拳が振り下ろされた瞬間、天井付近まで飛び上がって攻撃を避けていたティオゲネスは、落下が始まるのと相前後して引き金を絞っていた。彼の腕に着弾するのを確かめる間もなくその腕に足を着ける。その腕を駆け上がって彼の背後へ回り込み、銃床を思い切りその後頭部へ叩き付けた。
フィリップが、短い喘鳴と共に地響きを立てて倒れ込んだ後ろへ着地する。不敵な笑みと共に残った九人を振り返ると、肩を竦めて嫣然と微笑んで見せた。
「メンドくせーな。いっそ全員で来たら?」
呆気に取られていた残りの九人が、怒号と共に一斉に襲いかかる。
その全員が、ティオゲネスの足下に倒れ伏すのに、十分も掛からなかった。
「なあ。これで合格なんだろ? ロドヴィーコさんよ」
全員を下しても、ティオゲネスは息も切らせていない。
まるで殴り込みに来たチンピラのようなセリフで確認を取る美貌の少年に、ロドヴィーコも、煙管を取り落としそうになりながら、首を縦に振らざるを得なかった。




