Prologue
『アイツには、あんたから言っといてくれないか』
一足先に退院することになったティオゲネスが、アレクシスの病室を訪ねて来たのは、彼の退院の前日のことだ。
『アイツって?』
とぼけた振りをして訊ねると、美貌の少年は若干不快そうな顔をした。
不快というより、照れだろうか。
『エレンに決まってんだろ』
『自分で言いなさいよ』
あたしは伝書鳩じゃないのよ、と言うと、ティオゲネスは苦笑して肩を竦めた。
『そんなこと、思ってねぇよ。ただ……ダメなんだ』
アイツの顔見たら、決心鈍りそうで。
そう言った少年の顔は、何とも言えない陰を湛えている。元々の美貌も手伝って、どこかひどく艶めいたその表情に、年齢差も省みずドキリとしたアレクシスは、すぐにピンときた。
『……やっと気付いたみたいね。いつまですっトボケてんのかと思ってたけど』
『うるせぇよ』
何を言っているのか、少年にも分かったのだろう。その頬に、若干赤みが差した気がしたが、アレクシスは知らん振りをしてやった。
『アイツのこと……諸々、任してもいいか』
『さあねー。ファーストキスの件だったら、あんたが消毒でもしてあげれば、一番解決が早いと思うんだけど?』
直球に、けれど冗談めかして揶揄うと、ティオゲネスはまた苦笑した。
『余計無理。そーゆーコトすると、多分絶対放せなくなるから』
つい先刻、年相応に頬を赤らめていた時とは一転して、その顔は静かだった。伏せた翡翠の瞳には、凪いだ海のような静謐さと、どんな女も惹き付けずに置かない妖艶さが混在して、十代半ばの少年と思えない色気がある。
アレクシスが彼と同じ年の頃は、もっと恋の為に恋をしたような、甘く幼い、それはそれで幸せな時間があったものだが、この少年は違う。
たった十五年生きただけの彼の人生は、余りにも過酷だった。だからこそ、色恋に関して素直になれないところもあるのだろう。
けれど、それは全て推測だ。
刑事になって以後のことはともかく、一般家庭で育ったアレクシスには、ティオゲネスの心の闇までは、本当には理解できないのかも知れない。
『……分かった。もう行きなさい。あたしとは、また会う機会もあるだろうけど』
『ああ。IOCAの方に来たら、声掛けてくれよ』
じゃあな、と言うと、ティオゲネスは踵を返した。
『ティオ』
彼が病室を出るところで、アレクシスはもう一度声を掛けた。
『何』
『あんたが、不幸になる義務なんてないのよ』
振り向いた顔に、脈絡なく投げ付けた言葉が、彼にどう響いたのかは分からない。
ただ、一杯に見開いた翡翠の目を捕らえて、アレクシスは続けた。
『あんたの過去はあんたの所為じゃない。もう終わったのよ。ヴェア=ガングって組織の片鱗は残ってるかも知れないけど、彼らがしでかすコトは、今後もあんたに一切の責任はない。あんただって、幸せになっていいのよ』
びっくりしたように瞠った翡翠の瞳は、やがてゆるゆると苦笑の色を湛えてアレクシスを見た。
『……ありがとな。でも……』
逡巡するように口を閉ざして俯いたティオゲネスは、消え入りそうな声で言った。
『もう、戻れないんだ』
血に染まった手じゃ、抱き締められない。
アイツが、不幸になるだけだから。
それだけ言い残して、ティオゲネスは病室を後にした。
***
「ティオはね。マルタン教会を出たの」
そう答えたアレクシスの声が、何故か遠いところから聞こえた気がした。
「え……ちょっと、待って下さい。今……今、何て……?」
「ティオは、もうマルタン教会には戻らないと思うわ」
「どうして!?」
聞き返した声は、既に悲鳴じみていた。
「何で……何で、ティオが教会を出なきゃならないんですか!? 一体、何が……」
「彼の意思よ。特に、誰かが何か言ったという訳じゃないと思うわ」
宥めるように肩に触れるアレクシスの手が、何故か煩わしい。
「そんな……何で……まだ、ティオは孤児院にいていい筈です。まだ十五だもの、後四年は……」
「そうね」
どこまでも静かに答える彼女は悪くないと分かっていても、エレンは苛立ちを覚えた。
「分かるように説明して下さい!」
キンと声が尖るのが自覚できたが、どうしようもない。
「何で……何で、ティオは教会を出たんですか」
同じ問いを繰り返しても、アレクシスは黙ったままだった。鈍色の視線と、若草色のそれが、一種火花を散らすような鋭さで交錯する。
「アレクさん」
焦れたようにもう一度その名を呼ぶ。
教えて下さい、と言い募ろうとしたのと、肩に置かれた彼女の手に力が込められるのとは、ほぼ同時だった。
「どうしても、知りたい?」
「え?」
エレンは、目を瞬いた。
アレクシスの瞳は、どこか怖いような真剣さで、エレンを見つめる。
「これは、恐らくあの子が個人的に言いたくないと思ってるコトよ。分かるように説明するとなると、そこまで触れないといけないわ。でないと、あなたは多分納得しないでしょうから」
どういう意味だろう。よく分からない。
それが顔に出たのか、アレクシスは困ったように苦笑し、肩を竦めた。
「あなたが知りたいと思ってるそのコトは、ティオの不可侵領域に触れるコトなの。そうね……あなたが、彼に知られたくないと思ってるコトを、勝手に話すようなものよ」
あなたは、彼に知られたくないと思ってるコトはない? と訊かれて、エレンはハッとした。
今、エレンがティオゲネスに知られたくないことと言えば、たった一つだ。
不本意な、ファーストキス。あれを彼に知られるくらいなら――知られて軽蔑されるくらいなら、死んだ方がマシだ。
「ティオも……そうなの?」
「ん?」
「ティオも……それをあたしに知られるくらいなら、死んだ方がマシだって思ってるんですか?」
「さあ、そこまでは分からないわ。あたしはティオじゃないもの」
もう一度肩を竦めたアレクシスの掌が、エレンの腕を滑るようにして離れる。
「でも、あの子が教会を離れると決めた理由を知りたければ、相手の心に土足で踏み込む覚悟はした方がいいわ。その覚悟がないなら……知りたいと望む動機が興味本位なら、このまま彼のことは忘れることを勧める」
「どういう、意味ですか」
ティオゲネスのことを、忘れる?
有り得ない、とエレンは首を振った。
どうして、彼のことを忘れる必要があるのか。何故、そんなことを、たとえアレクシスにでも強要されないといけないのか。
「アレクさん」
「よく考えて」
アレクシスを縋るように見上げたが、彼女はそれを振り切るようにして立ち上がった。
「待って、アレクさん!」
「エレンちゃん」
その場へ彼女を引き留めようと伸ばした手を、彼女は強い力で握り返した。
「まだ身体の傷が癒えないあなたにこんなことは……こんな、心の負担になるようなことは言いたくなかった。でも、訊かれたから答えたの。はぐらかしても、きっといずれあなたの耳にも入る筈だから」
手をそっと押し戻しながら、エレンの目を見つめて、アレクシスは続ける。
「一週間後に、もう一度あなたに会いに来るわ。約束する。だから、それまでに真剣に考えて欲しいの。あなたが、ティオの教会を出た訳を知りたいと望む理由と、彼に執着する理由を」
「理由……?」
執着している、という言葉の意味が、よく分からない。
執着――ティオに? あたしが?
「あなたの答え次第では、あたしも彼の心の鍵を無断で渡す覚悟をするわ。でも、彼を弟程度にしか思ってないなら、忘れた方がいい。中途半端に関わるよりは、多分お互いの為よ」
じゃあね、と言ってそっとエレンの頭を撫でると、今度こそアレクシスは踵を返す。
混乱で白くなった思考のまま、エレンは遠ざかる背を呆然と見送った。




