Chase.3 追う者、追われる者
「ガーティン支部の、ヒューン警部補だ」
掲げた警察手帳と共にそう名乗ったザームエル=ライナルト=ヒューン警部補は、どこと言って特徴のない、凡庸な容姿の男だった。
数十分前、近年これといった事件事故のないトラレス・タウンには珍しく、遺体発見の報が入った。
それを受けたのは、トラレス・タウン駐在のアルテュール=ピエル=クレーンプット巡査だ。
通報したのは、他でもない目の前の男・ヒューン警部補だった。と言っても、クレーンプットは、彼と会うのはこれが初めてである。通報の電話で初めて会話を交わし、その後直接会ったのがたった今だ。
「遺体の彼女とは面識があってな。同じガーティン支部に勤務していた、リタ=アン=クラーク警部補だ」
「そうだったんですか」
何にせよ、身元が早々に分かったのは、手間が省けて有り難い。
「彼女を殺した犯人にも目星は付いてる。至急、調べて手配を頼みたい」
「勿論です。で、その犯人というのは」
「子供だ。恐らく、十代半ばくらいだろう」
「え、子供……ですか?」
手帳を取り出してメモを取っていたクレーンプットは、面食らったように言った。
いくら何でも、子供が刑事を殺して逃げるなんて、余程でなければ有り得ない。だが、そう思っているのは、ヒューンにも伝わったのだろう。
「残念ながら本当だ。動機はまだ不明だがな」
如何にも遺憾だ、という表情でため息を吐いて、ヒューンは続けた。
「追い掛けたが、部下が二人、その内の一人に銃で撃たれてな。今し方病院に運んで貰ったところだ。疑うなら、後で二人に会ってみるといい。二人共、銀灰色の髪の子供に撃たれたと証言するだろう」
自身で現場を見ていない所為か、今一つ信じられなかったが、クレーンプットは取り敢えず「分かりました」と頷いた。
「髪の色の他に、特徴は?」
「その、銀灰色の方は、かなりの美形だ。翡翠色の瞳に、髪はそうだな、肩胛骨の間くらいまで長さがある。娘にしか見えなかったが、どうか分からん。もう一人は、ウェーブの掛かった栗色の髪の、あれは確かに娘だな。白いワンピースを着た若草色の瞳の娘で、『エレン』と呼ばれていた」
「分かりました。至急調べて、人物が判明次第、ご連絡致します」
***
地元の駐在に、子供達の捜査を任せたヒューンは、その足で負傷した部下を連れてクルキネン・シティへと足を延ばした。そこに、CUIOのギールグット州支部がある為だ。
応対に出たギールグット支部長のグッツ=アントン=オーベルライトナーは、既にヒューンの上司であるケイブリエル=クライド=ホイル警部から協力の要請連絡を貰っていると答え、ギールグット全体の通信網を監視する為の監視ルームと何名かの部下を貸し与えてくれた。
「では、何かありましたら私の方へお知らせ下さい」
「ありがとうございます」
監視ルームから立ち去るオーベルライトナーを見送ったところで、携帯端末が震えた。
画面をタップしながら通路へ出る。
「ヒューンだ」
『あ、お疲れ様です。クレーンプットです』
「ご苦労。どうだ、様子は」
『はい。今、テア・ヴィレヂまで来てます』
「テア・ヴィレヂだと?」
テア・ヴィレヂは、トラレス・タウンから、自転車で十五分程の場所にある、小さな村だという。
『「エレン」という少女の身元は、すぐに分かりましたよ。フルネームは、エレン=ヴィルヘルミーナ=クラルヴァイン、十六歳。八歳で両親を亡くして、今は村のマルタン教会付属孤児院に引き取られているそうです』
お喋り好きとしか言えない中年女性が証言したところに拠ると、エレンは白いワンピースに血のような斑模様を付けていたと言う。それを、トラレス・タウンで聞き込んだ後、テア・ヴィレヂまで足を運んだクレーンプットは、銀灰色の髪を持つ人物について調べたらしい。
銀灰色の髪の人物は少年で、ティオゲネス=ジークムント=ウェザリー、十四歳。二年前にどこかから新しくマルタン教会へ引き取られて来たらしいが、良くも悪くもトラブルメーカー(というより、エレンという少女と一緒にいると何故かトラブルが起きるというのが村人の証言だったという蛇足まで教えてくれた)で、詳しい素性は一切不明だった。
「……分かった。可能なら、彼らの個人情報をギールグット州支部まで転送してくれないか」
『承知しました』
短く礼を言って監視ルームへ戻ると、こちらでも動きがあったらしく、室内が騒然としていた。
「ヒューン刑事、これを」
「ん?」
室内には、ギールグット州全体から通信が入る為、一つの通信をオープンにすることはない。
ある特定の通信を聞く為のヘッドフォンを渡されて、ヒューンはそれを頭に装着した。
『何か……てな…か』
『何か……』
会話は、ノイズが入っていてひどく聞き取りにくい。
これが一体何だというのだろうか。しかし、何かしら意味がある筈だ。
ヒューンは、ノイズの向こうに乗り出すような気持ちで懸命に耳を傾ける。同時に、そこにいた刑事に録音と逆探知をするよう身振りで指示した。
『……が………したの……?』
『死ん……』
『…………多分って何……ヒトが……と報……には随……ウトだ……』
『最後……った訳じ……な。ただ……怪我じゃ、…………ても遅かれ早かれあの………っただけ……手ぇ……しいんだ……』
『……話が飛躍するな………れとがどう……るんだ?』
『…………する時間はね……五秒』
『……』
『逆……必要な時間………今から俺達はC………本部へ向かう………』
『はあぁ? …………』
『言え………たら………………るから』
『……』
『……トルには………あれば着ける…………護施設、まだ……るか?』
『……』
『じゃあそこで』
『………い!』
そこでプツンと通話は途切れた。
早い話、会話は殆ど聞き取れなかったと言っていい。
「随分ノイズが入っていたな。いつもこんな調子なのか」
「いえ。いつもはきちんと聞こえます。何か妨害電波のようなものがどこかで発生していたようで」
「録音したものからノイズは取り除けるか?」
「暫く時間を下さい」
「どれくらい要る?」
「半日もあれば」
「判った、できるだけ急いでくれ。それで、これを私にも聞かせたということは、それなりの理由があるんだろうな」
「ヒューン刑事が聞いていなかった最初の方に、『リタ』という名が出て来ましたので。ありふれた名だと言われればそれまでですが、殺されたクラーク刑事のファーストネームは『リタ』でしたよね」
些細なことでも見逃さない、聴きこぼさないのは捜査の基本だ。それが意外にも事件解決の糸口となることもあるのを、目の前の刑事は経験から知っているのだろう。
「そうだな。ありがとう。逆探知の方は?」
「……すみません。発信元は特定できませんでした。ですが、ギブソンと名乗った相手の携帯は、リヴァーモア州支部の建物の中にありました」
「警官か」
「いえ、確証はありません。たまたま何かで警察署を訪れていた者の携帯かも知れませんし……」
もしも、リヴァーモア支部に勤務する警官だとしたら、確実にターゲットを追い詰めることができる。
ヒューンは、引き続き通信網の監視と、ノイズの除去を急いでくれるよう言い置くと、自分はリヴァーモア支部に問い合わせる為、一度その部屋を辞した。
***
時間は少し遡る。
買い物(と万引き)をしたトラレス・タウンから、ギールグットとリヴァーモアの州境にあるプロプスト・シティまで、州内路線電車を使って約三時間。
そこまで出ると流石に都会で、駅周辺から既に色々な建物が林立し、その内容も充実している。
テア・ヴィレヂとトラレスタウンの周辺から滅多に外へ出ないエレンは、ティオゲネスの後に従いて歩きながらキョロキョロと物珍しげに辺りを見回していた。
「いちいちキョロキョロすんな。ガキか、お前は」
こんな言い方をすれば、普通の少女ならまずむっとして反感を覚えるか、竦み上がってしまうかのどちらかだろう。
しかし、ティオゲネスにその辺りの配慮をしようという意思はない。そもそも『配慮』という単語すら知っているものか甚だ怪しいが、エレンもこんな物言いに二年も晒されればすっかり慣れたのか、「あ、ごめん」と一言詫びると小走りに寄って来る。
ともすれば足を止めて遅れがちになるエレンを急かして、ティオゲネスはまず電子機器を扱う店に立ち寄った。必要な道具を買い揃えると、資金はトラレス・タウンを出た時から三分の一ほどに減ってしまっていた。
しかし、ティオゲネスは意に介することなく、次にインターネットカフェに足を踏み入れた。
使用料は、入店した瞬間から最初の三十分が二・二グロス。その後は十五分ごとに一グロスずつ上乗せされる料金を帰りに払うシステムだ。
ちなみに、都市部で生活しようと思ったら、月給千四百グロスは欲しいところだろう。
手持ちの金銭は、残り少ない。
料金を支払いたくなければ、図書館のパソコンを使うという手もあったが、確認しなければならない内容が内容だけにそうもいかなかった。
その点、ネットカフェの場合、パソコンがある場所は個室になっており、視覚的なプライバシーは守られている。悪事を企む輩にも優しい環境は、今のティオゲネスの用向きにも有り難かった。
個室と言っても、今回入ったところは、薄い壁で囲まれたブースになっているような施設だが、遮るものがあるだけマシだ。
エレンは少女であり、ティオゲネスは十四歳の少年の標準から照らすとやや小柄ではあるが、二人が入ると流石にブース内は少々狭い。が、致し方ないだろう。
ティオゲネスはパソコンの正面に陣取ると、記録媒体を差し込む場所に、預かったUSBメモリに僅かに付着している血を拭って押し込んだ。
数秒すると、中のデータを見る為の画面が開く。
必要な操作を経て中身を確認すると、動画データが一つと、テキストデータが二つ入っていた。
ここまで来て、ティオゲネスはデータを開くことを尚も躊躇った。
一つには、本当に後戻りできなくなるかも知れないこと、もう一つは、後ろでやはり画面を見ているエレンの存在だ。
自分は大方の修羅場は抜けて来ているので、今世間で『未成年に見せるには問題のある映像』なんてものは、不快か否かは別として、大概生で見慣れている。しかし、エレンはそうはいかない。
孤児という点で、それなりの苦労はして来たと思うが、この天然具合から察するに、殆ど箱入りと言ってもいいだろう。
画像データは何が映っているか、開いてみないと判らない。持って逃げていたリタが殺されたほどだから、それ相応の過激な映像が保存されていると予想して然るべきだ。
しかし、時間は限られている。
追手がこちらを探しているのも気になるし、パソコンの制限時間に対する料金のこともある。なるべく最初の三十分でここを出たい。
ティオゲネスは、エレンに向かって小声で、後ろを向いているように言った。音声はイヤホンで聴くシステムなので、後ろを向いてさえいれば彼女が耳を塞ぐ必要はない。
「何で?」
だが、当然の疑問が投げられて、ティオゲネスは内心うんざりした。
天然だからと言って空気を読めない者ばかりでないのは分かっているつもりだが、日頃彼女と接していると、世の天然と呼ばれる人種は皆空気が読めないのではないかと錯覚しそうになる。
「いーから向いてろ。でないと、ここに捨ててくぞ」
勿論、本当にそんなことをすれば、後から追い付いて来るであろう追手に彼女が殺されたり、その前に拷問されてこちらの居場所を吐かされたり、考えるのもはばかられるような目に遭う確率が高いので実行するつもりはない。
しかし、その言葉だけで、世間知らずで箱入りの彼女を震え上がらせるには充分だったようだ。
本当に置いて行かれたら、追手のことはともかくとして、教会までどうやって帰ればいいか分からない、辺りが頭をよぎったらしい。何せ、人生で電車に乗るのは二度目だか三度目だか、とにかく乗り慣れていないような発言をして、ティオゲネスを改めて呆れさせたのだから。
その脅し文句にまんまと屈したエレンは、無言で回れ右をする。
それを確認すると、ティオゲネスは先に画像の確認をするべく、ファイルを開いた。
画面に映し出されたのは、薄暗い室内だ。
画面の角度から察するに隠し撮りだろう。程なく、二人の人影が映った。体型的に小柄な女性に見える人物を、もう一人が突き倒した。
女性は、画面に向けて背中から倒れ込む。
一方、こちらへ堂々と顔を向けている方は、男だった。光量が若干少ないが、人相ははっきり見える。
見た目は、四十半ば過ぎだろうか。そろそろ年齢を示す皺が口元に刻まれ始めている。だが、輪郭はすっきりと細く、その顎は鋭角だ。冷たい爬虫類を思わせる目つきと裏腹に、口元はいかにも性的に興奮しているのが分かる、微笑の形に歪んでいた。
悲鳴と化した拒絶と懇願を繰り返す若い女性の上に覆い被さった男が、自らのシャツの襟元を緩めたところで、ティオゲネスは画像のファイルを閉じた。
この先は、見なくともどういう展開になるか分かり切っているからだ。
男が誰かは知らないが、これだけはっきりと顔の映った画像があれば、強姦罪だけで充分叩ける。ネット上にバラ撒けば、社会的に抹殺するのは容易い。この男が追手だとしたら、確かに持って逃げた人間を殺してでも処分したい映像だろう。
テキストデータの方も開いてみた。けれど、こちらは名前の羅列があるだけで、ティオゲネスにはどういう事件に対してどういう証拠能力があるか、さっぱり分からなかった。
エレンに対して、もういいぞと囁きながら、ティオゲネスは先刻電機製品の店で購入してきたものを取り出して空いている差し込み口に突っ込む。
操作を終えると、忘れ物がないかどうかと時間を確認して席を立った。
入店してから二十五分。
ジャスト三十分の料金を支払ってから一旦外へ出る振りを装って、再び店内に入り、確認しておいた非常口から外へ出た。
何故こんな回りくどいことをしているのか、と顔全部で訴えるエレンを目線だけで黙らせると、不自然な視線がないか、神経を尖らせながら表通りへ出る。
なるべく人混みに紛れるようにして駅まで戻り、駅舎の外にある電話ボックスに入った。
「ちょ、ちょっと、ティオ。ここ、車椅子の人用のボックスよ」
普通のボックスだと、二人で入るとどうしても扉は開けておかざるを得ない。できれば人に聞かれたくないので扉は閉めて置きたいが、そうするとエレンだけ外に出すことになる。
その間に、どこに潜んでいるかも知れない追手に、彼女を始末される事態に発展することだけは避けたかった。
「ちょっと借りるだけだよ。今誰もいないしな」
居心地悪そうに一緒に入って来たエレンに、しかし細かな説明をする暇はない。
荷物から、電機店で購入した小型のノートパソコンを取り出した。相場は大体普通のノートパソコンの半分か三分の一ほどの値段で手に入る種のものだ。
それを、ケーブルで電話機に繋いで操作する。通話中に盗聴されても時間が稼げるように、スクランブルを掛ける技術は、暗殺者養成組織にいた頃学んだ。何でも習っておくものだと脳裏で呟きながら、うろ覚えのナンバーをプッシュする。
かなり長いコールの末に、馴染んだ声が電話口の向こうで答えた。
『はいはーい。こちら、ギブソンのケータイでーっす』
「……あんた、相変わらずだな」
思わず苦笑が漏れる。
二言三言交わす内に、ラッセル=ギブソン刑事は、電話の相手がティオゲネスだと分かってくれたようだった。盗聴された時のことを考えれば、名前はその場では告げられないから、内心冷や汗ものだった。
彼も暗殺組織崩壊の時に知り合った刑事で、今の教会内孤児院に引き取られるギリギリまでよく相手をして貰った。
リタは本部へ行けと言ったけれど、本部と一口に言っても広い。面識のある刑事が多い筈だが、本部長までは知らない。まさか一面識もない自分がアポもなしに乗り込んだところで、CUIOの長が易々と会ってくれる筈がなかった。
また、本部だろうが支部だろうが、いきなりそこの電話に掛けても、ただの(と言い張れば恐らく知人の何人かが声を揃えて「どこがだ!」と突っ込みを入れるだろうけれど)十代の少年である自分が話をしたところで、取り次いで貰えないだろう。
信用できる刑事で、かつ個人的な端末のナンバーを知る相手を、ティオゲネスはラッセル以外に思い付けなかった。
だが、スクランブルを掛けたと言っても、録音した音声からノイズを除く方法があるのも知っている。結局、通話を切るまでに、肝心なところは何一つ話せないままだった。
これで、果たしてラッセルが動いてくれるかどうかは賭に近い。それでも、賭けるしかなかった。
「……行こう」
受話器を置いた自分を、不安とも心配とも付かない曇った表情で見つめるエレンに、呟くように告げる。
ここでやれることはやった。後は、前に進むしかない。
機材を手早く片付けると、エレンを促して、ティオゲネスは外へと歩を踏み出した。
***
窓の外を、景色が飛ぶように行き過ぎていく。
それを見るともなしに眺めながら、リヴァーモア支部から本部への出向許可を貰ったラッセルは、特急列車の席に腰を落ち着けて、ティオゲネスとの会話の内容を反芻していた。
断片的に彼が言ったことを纏めるとこうだ。
リタが亡くなったらしい。
誰かに追われている。
(…………)
それ以外に思い付くものがなくて、ラッセルはがっくりと首を落とした。
纏めるも何も、今はっきりしているのは、この二点くらいのものなのだ。ティオゲネスが置かれている状況の全体像は凄まじくはっきりしない。
調査を頼んだメリンダからの連絡もまだだ。
一体、何があったのか。
もう一度くらい連絡をくれないものかと思ったまさにその時、ボトムの定位置に納めた端末が着信を告げて震えた。
(ティオか!?)
急いで画面を確認すると、今度は見覚えのないナンバーの羅列が並んでいる。
あれだけ逆探知を警戒していたティオゲネスなら、固定端末でも掛けて来るまい。
メリンダかと思いながら席を立って、車両の外、連結部に出てから『出』ボタンを押した。
「はいはーい。こちらギブソンのケータイでっす」
『……ギブソン刑事か。君と話すのは初めてになるかな。ガーティン支部副支部長のヒューンだ』
げ、という悲鳴に近い呻きが口から出掛かるが、辛うじて呑み込んだ。
支部の副部長といえば、ラッセルから見れば皆上司でありお偉いさんだ。こともあろうにその上司にこんな軽い受け答えをしたとあっては、減給か降格か? 最悪クビってことはないと思いたいが――と目を白黒させる。
そんなラッセルの心中を知らない、ヒューンと名乗った刑事は、お構いなく先を続けた。
『今どこにいる』
「本部に向かう道すがらですが……あの、私に何のご用で?」
問う声が、思い切り訝しげになってしまうのも無理はない。
ガーティン支部とリヴァーモア支部は隣合った州に所在があるとは言え、その州境には山脈がどっかりと腰を据えており、そうそう気楽に行き来できる支部同士ではない。
それでなくとも、平刑事の自分に副支部長が電話して来る理由がさっぱり分からなかった。
『丁度いい。そのまま本部へ向かってくれ。うまく捕まえられたら、ティオゲネス=ウェザリーと、エレン=クラルヴァインという少年少女を捕らえて欲しい』
雲の上の上司の口から馴染んだ名前が出てきて、ラッセルは頭の奥がスッと冷めるような錯覚に襲われた。
「……どうして私に?」
慎重に口を開く。
自分はついさっき、彼と話したばかりだ。誰にどうして追われているのかはっきり判らない今、不用意な自分の発言が、ティオゲネスを危険に晒すかも知れない。
『隠さなくてもいい。君にウェザリー少年から連絡があったのは分かっている。彼が何をどう言ったかもね』
内心で舌を打った。
ティオゲネスの警戒も、まんざら気の回しすぎではなかったらしい。
『確かにクラーク刑事は亡くなったが、彼女を殺したのはウェザリー少年なんだよ』
「……まさか」
できるだけ驚いたような振りを装った声を出したつもりだったが、演技には些か自信がない。
勿論、ラッセルはヒューンの言うことなど微塵も信じていなかった。ただ、情報は持っていそうなので、何気なくここでもう少し何かを引き出せれば――という思惑はうまく胸にしまって無言で先を促す。
『君にも彼を確保するのに力を貸して欲しい。ウェザリー少年とクラルヴァイン嬢は、今夕午後五時にプロプスト・シティから出たメストル・シティ行きに乗車したのを目撃されている。州境の検問で何としても捕らえたい』
ちなみに、西の大陸<ギゼレ・エレ・マグリブ>内の州を跨ぐ鉄道では、州境で車内を改めるのはごく当たり前のことで、別段珍しいことでも、理不尽なことでもない。であればこそ、ギゼレ・エレ・マグリブは、世界で一番治安の良い大陸と呼ばれていられるのだ。
だが、この時ばかりは、ラッセルはこのシステムに痛烈な舌打ちを漏らしたい気分になった。
『CUIO本部にも既に要請を出している。君は州境の駅まで後どのくらい掛かりそうかな?』
「……そうですね。三十分ばかり前にリヴァーモア支部最寄りの駅を出たところなので、明日の未明には……」
耳に当てた端末を床へ叩き付けたい衝動を苦労して堪え、罵倒を呑み込む。
『そうか。では、次の駅で降り給え。私がリヴァーモア支部からヘリを出してくれるよう指示を出しておく。どこで君を拾うかはまた連絡するから、それまで待つように』
「分かりました」
通話を切ると、途端にまた端末を叩き付けたい誘惑に駆られるが、これがなくなったら、ティオゲネスが自分に連絡を取る手段がなくなる、と思い留まる。
(どうする)
言う通りにすれば、ティオゲネスとその連れの少女が州境に辿り着くよりも先に州境へ着けるだろう。だが、問題はその後だ。
ヘリコプターには恐らく応援が乗っている。ヒューンという刑事に言いくるめられたリヴァーモア支部の者が。
もしこれが普通の極悪な指名手配犯を捕獲するミッションなら、自分のような平刑事が支部の代表となる道理がない。
ヒューンとやらの言い分は、ラッセル個人としては全く信じていない。先にティオゲネス本人と話したから、というより、彼の人柄を信用しているのだ。
自分と同じように不遇の幼少期を過ごした少年。自分もかなり『やんちゃ』な方だったが、あの少年は大人の犯罪者も顔負けの経験をしている。あの年でだ。それも自らが選んだことではなく、無理矢理そういう道を歩かざるを得ないように仕向けられて。
彼だけではなく、あの組織にいた全員がそうだ。置かれた環境の中で、必死に生きようともがいていただけ。それが、良いか悪いかなんて、考える余裕も知識もなかったのだ。
ようやく『普通』と言われる生活にも慣れて来た頃だというのに、きっと彼には何が何だか分からない内に事件に巻き込まれたに相違ない。
(早く……早く、もう一度連絡をくれ)
祈るように端末を見つめても、着信を知らせる震えは起きなかった。
次の駅に着くまでに、何か――どうにか妙案を考えねばならない。
焦る気持ちに追い打ちを掛けるように、その数分後にメリンダから届いた情報は、ヒューン刑事の話と寸分違わぬ内容だった。それは即ち、既にティオゲネスが、リタ殺害の犯人としてCUIO内に認知されたことを意味していた。