表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ティオとエレンの事件簿  作者: 神蔵(旧・和倉)眞吹
Intermezzo―Four years before―
37/72

Intermezzo.8 抵抗の時

 泣いても泣いても、涙が止まらない。

 謂われなく疑われたことが、ただただ悔しくて。どのくらいの間泣いていたのか分からない。

 程なく、父は部屋を出て行ったようだったが、母はずっと付いていてくれた。

 まるで幼い日に戻ったように、寝かし付けられるままにベッドに入り、ポンポンと優しく肩を叩かれる心地よさに、いつしか少しずつ涙は収まっていった。

 静かになったことで、ルイスが眠ったと思ったのだろう。

 頬にそっと唇が落とされ、扉が閉まる音がした。

 だが、先刻まで泣いていた所為で頭がガンガンと割れるように痛み、眠るどころではない。目を閉じてはいたが、幾度も寝返りを打って溜息を吐いた。

 泣いたことでどこか頭が空になった錯覚があり、ぼんやりしていると、扉が再び開閉する音がした。

 どのくらい時間が経ったのかは分からないが、両親が戻ったのだろう。

 起き上がって迎えようとしたルイスは、いきなり勢いよくベッドに俯せに押し倒された。

「!?」

 何が起きたのか、把握し兼ねている内に、何かが身体の中を駆け抜け、ルイスは意識を失った。


***


 ゆっくりと意識が浮上する。

 ほぼ思考せずに上げた瞼の向こうは、明かりが付いていて、一瞬の眩しさに目を眇めた。

(……何で寝てるんだっけ、俺……)

 前後の記憶がすぐには見付からず、ティオゲネスはしばらくぼんやりしていた。

 リンジーが部屋に訪ねて来て、ラッセルが彼と出て行った。その後、狸寝入りだった筈が本当に眠ってしまったのだ。

(それにしちゃ、何かベッドが固いような……)

 加えて何故か非常に窮屈な姿勢で寝ている気がする。

 寝返りを打とうとしたが、身体が自由に動かせない。身じろぎすると、後ろ手になった両手はわずかに動くものの、手錠のようなもので拘束されているらしい。鎖が擦れるような金属音が、耳に飛び込んで来た。

「え」

 両足も同様で、殆ど身動きが取れない。

 何故こんな風に拘束されているのかを必死で考える。ここへ来て、ようやくまともに思考が回り始めた。確か、ヴェルナー=ディンガーと一戦交えて、敢えなく撃沈させられたところまで思い出す。

 その後の記憶がぶっつり途切れているところを見ると、こんな有様になっているのは恐らくディンガーの仕業だろう。

(マジかよ……)

 はあ、と溜息が出て思わず眉根に皺が寄る。

 とにかく、多少なり楽な体勢になろうと、もそもそと足を動かす。途端、後頭部に硬質なものを押し当てられ、ティオゲネスは動きを止めざるを得なかった。

「動くな、小僧」

 明らかに、ディンガーの声ではない。

「……あんた、誰?」

「誰でもいいさ。お前は特に自由にさせるなって、ディンガーさんに言われてるんでな」

「へぇ……」

 目を細めて視線だけを動かす。しかし、声の主は真後ろにいる為、その姿を確認することはできない。

「あんたも、元ヴェア=ガングの人間か?」

「何だ、そりゃ。ヴェ……?」

 知ってるか、と男が、他にもその辺にいるらしい仲間に訊ねているのが聞こえた。だが、他の男も「さあ」「知らねぇよ、何それ」と言うばかりで、ティオゲネスの背後にいる男の疑問に答えられる人間はいない。

(ふーん、なるほどね)

 新しい商売、とディンガーは言った。内容は知らないが、裏の碌でもない商売には違いなさそうだ。けれど、その商売の為の集団は、ヴェア=ガングの残党で再構成された訳ではないらしい。

 となると、今分かっているだけで、元組織の人間は、ディンガー一人。

(こりゃ、どうにかなるかも知れねぇな)

 「大人しくしてろよ」と吐き捨てるように言って離れていく男の気配を後目(しりめ)に、脳内で呟く。ふと正面に視線を戻すと、すぐ前に体育座りで膝を抱えている少年と目が合った。

 ミルクティーの色合いの髪に、同じ色の瞳、凡庸だが愛嬌のある顔立ち――

「……って、あんたかよ」

「あんたかよじゃないよ。こっちの台詞だろ。何で君もここにいるのさ」

 目の前に体育座りしていたのは、ルイス=フェルトンその人だった。

 だが、彼はティオゲネスと違って、特に拘束されている様子はない。彼の背後に目を向けると、自分やルイスと同年代くらいの少年少女が十数人いた。その中に、手足を拘束されている者とされていない者がいることに気付く。自分を含めても、拘束されている者は数人といったところだ。

「あんたは何か知らないのか」

 声を潜めて訊ねると、ルイスは不機嫌も露わに、同じ程度のヒソヒソ声で叫ぶように言った。

「その前にちゃんと僕の質問に答えてよ」

「悪いが、呑気にだべってる場合じゃねーんだよ、お坊ちゃん」

 空気を読むという芸当を、彼に期待した自分がバカだった。

 ティオゲネスは、大いにズレたポイントを反省しながら、再びルイスの背後に視線を投げる。

 手足を拘束されている者と、されていない者。この相違は一体何だろうか。

 ディンガーがいない今なら、せめて足の拘束がなくなればどうにかなりそうだ。ここに閉じ込められている理由は後で調べればいい。

 問題は他の子供達だ。万一、後ろにいるだろう見張りを倒す間に、拘束されて動けない者を盾にでもされたら、手が出せなくなる。

「……おい、坊ちゃん」

 ボソリと話し掛けると、ルイスは目だけでティオゲネスを見た。

「あんた、正確な見張りの数が分かるか」

「……聞いてどうするのさ」

 第一、僕の名前は坊ちゃんじゃないよ。

 そう付け加えて、彼はプイと視線を反らせてしまう。目が腫れているのを考え合わせると、先刻の言い争いの結果、泣いていたのかも知れない。完全にフテてしまっているのだ。

 けれども、今は公平に考えても命が掛かっている局面である。些細なイザコザのわだかまりを引きずっている場合ではない。助かりたければ協力するしかないということは、少し考えれば分かりそうなものだが、やはり空気は読めないらしい。

 はあ、と彼にだけ聞こえる程度の溜息を吐いて、ティオゲネスは彼の背後へ視線を投げた。

「なあ、そっちにいる……誰でもいいけど」

 ルイスに話し掛けるより、気持ち声を張り上げる。すると、ティオゲネスと同じく後ろ手に拘束されている少女が、声を出さずに唇を動かした。

『黙って。あたしもヴェア=ガングにいたの。見張りの数は、五人よ』

 微かに瞠目した後、目で頷いて見せる。

『……じゃあ、もしかして、拘束されてる連中って』

『多分、全員ヴェア=ガング出身だと思うわ。あなたもでしょ』

 再度、目だけで是の意を示し、ティオゲネスは口を開いた。

『ここってまだ船の中か』

『ええ。南島国<サトヴァン>に着く前に、コンテナに移動しなきゃいけない筈だから』

『あ、そ』

 そりゃまた、待遇のよろしいコトで。

 ティオゲネスは、半眼で口に出さずに吐き捨てると、どうすればいいか考える。

 いっそ、最初からコンテナに放り込まれた方が、やりようがあったかも知れない。向こうとしても、ヴェア=ガング出身者だけを厳重に拘束しておけば、見張りは要らない筈だ。

 だが、言うなれば、拘束されている方としても脱出の機会が見付け易い。

(つまり、あっちもそれを見越してるってワケだよな)

 改めて室内を視線だけで見回すと、ここは普通の、ティオゲネス達が宿泊していた部屋と変わりないように思えた。

 移動宿泊施設は、船でも寝台車でも、泊まる部屋の値段によって内装や、プライバシー保護の質が違う。

 ティオゲネス達が泊まる予定だった部屋は、個室だったからかなりランクが上だ。余談ながら、値段も相当張る筈だが、ティオゲネスは自分の懐が痛む訳でもないので、気にしていない。

 そしてこの部屋も、大体間取りは同じに見える。

 違うのは、ベッドが設えられていないことだ。撤去したか、そのように手配したかのどちらかだろう。

 ティオゲネスは、部屋のちょうど中央辺りに転がされているようだ。

『ディンガーの奴がいつ戻るか、分かるか』

 先刻の少女に視線を向けて問うと、少女は少し考える素振りをして口を開いた。

『出入りは定期的じゃないの。いつ戻るかは分からない』

『ちなみに、出てったのはいつだ』

『正確には、時計もないから分からない。でも、随分前よ』

 そうか、と唇の動きだけで言って、ティオゲネスは瞬時目を伏せた。

 よし、動くぞ。と言おうとして上げた視線が、何故かルイスと絡んだ。

 少女とティオゲネスの視線の間に、思い切り眉根を寄せて顔を割り込ませている。

「ねえ、さっきから口パクパクさせて、何してるのさ」

 流石に声量は相変わらず潜めているが、ティオゲネスは舌打ちしたい気分になった。ルイスと無駄な会話をしている暇は、はっきり言ってない。

「頼むからあんたは大人しくジッとしてろよ」

 ルイスと同じくらい眉根を寄せて言うと、そのヒソヒソ声を聞き付けたのか、「おい」と背後から声が飛んで来た。

「何をコソコソ話してる」

「あ……いや、その……」

 オロオロと受け応えたのは、ルイスの方だった。彼には、こういう場面で咄嗟に適当に誤魔化すという芸当は、空気を読むこと以上に期待できない。

「坊主。何を話してた」

「なっ……何にもないよ!」

 ティオゲネスを跨ぐような形で、頭上にサブマシンガンの銃身とそれを持つ男の手が渡り、銃口がルイスの額をつついている。

「正直に言え。まさか、逃げ出す相談じゃねぇだろうな」

「ほっ、本当に知らないってば! ただ、この子が……」

 ルイスの指先を辿った男が、ティオゲネスに視線を向ける頃には、ティオゲネスは後ろ手に縛られた両手でできた輪から足を抜いていた。

 前に回った両手を透かさず床に突き、倒立する要領で足を蹴り上げる。

「うわっ!?」

 サブマシンガンを持つ腕を狙った蹴りは、思惑通り標的にヒットした。一回転して床に着地したティオゲネスは、男の手を離れたサブマシンガンに夢中で飛び付き、引き金を引いた。

 不意を突かれた男達は、身構える暇もなくフルオートで吐き出された銃弾に倒れる。

 一方、足を拘束され、うまく踏ん張れなかったティオゲネスも、発砲の反動で引っ繰り返った。しかし、それは覚悟していたことだ。

 受け身を取って倒れ込んだ姿勢から素早く上半身だけを起こして、鎖の長さの限界まで開いた足の中央に照準を合わせる。サブマシンガンのモードをセミオートに切り替え、引き金を絞った。

 銃弾が、足の間に渡っていた鎖を引きちぎり、ティオゲネスの足を自由にする。

「拘束されてない奴は、とっとと逃げろ。行く宛がない奴は、526号室のラッセル=ギブソン刑事を頼れ」

 立ち上がったティオゲネスは、誰にともなく言うと、拘束された仲間の為に手錠の鍵を探すべく、男達の身体を探ろうとしゃがみ込んだ。だが。

「動くな」

 カチ、という音と共に、明らかに銃口と思える硬質なものを後頭部へ押し当てられ、ティオゲネスは目を見開いた。

「皆も、元通り座ってろ。部屋から出る奴は、遠慮なく撃ち殺す」

 その声には、聞き覚えがあった。

 扉が開閉する音は間違いなくしなかった。銃声に掻き消された可能性もあるが、それなら部屋へ踏み入った人物は、入室と同時に銃弾に倒れていた筈だ。もしくは、弾幕に一旦退室を余儀なくされた筈だから、改めて入ってきたのなら気付かない訳がない。

 つまり、ティオゲネスに銃口を突き付けている人物は、最初からこの部屋の中にいたことになる。それも、恐らく子供達の中に。

 だけど、まさかという思いがあった。

 そんな筈がない。ここに、この場にいる筈がない。

「……お前……誰だ?」

 やかましくなる心臓の音を無視して、思わず相手に問い掛ける。

 違っていて欲しい。声のよく似た別人であって欲しい。勘違いであってくれ。

 祈るように、縋るように、胸元を掴んだ瞬間。

「分かってるんだろ? ティオ」

 ごく自然に呼ばれる愛称。クス、と笑う声音。

「まさ、か」

「悪いな」

 ふっと、銃口の感触が一瞬後頭部から離れ、空気を切る音がした。


***


「くそっ!」

 ラッセルは、携帯端末の通話をオフにして吐き捨てた。

 電話が繋がらない。

 ここが海の上であることを差し引いても、いくら電波状態が悪くても、アンテナが立たないなんてことは今時ある筈がない。だのに、CUIO本部に連絡しようとして端末を取り出した瞬間、ラッセルは愕然とした。

 端末画面の左片隅にいつもある筈のアンテナアイコンはなく、代わりに『圏外』の表示が、無情にも奇妙な存在感を持ってそこに居座っていたからだ。

 それでも掛ければ繋がるかも知れない、という一縷の望みは、通話状態にしてもウンともスンとも言わない端末に、無情にも絶たれる。

 ならばと、持ってきたカートを開けて、ノート型パソコンを引っ張り出す。

 当初予定として、ラッセルは二週間の休暇届を出すことを考えていた。が、ティオゲネスの養子トライアルに付き添う関係上、それは業務の一環と見なされることとなり、今この瞬間も給料は発生している。

 その為、業務報告をする必要もあり、パソコンを持参していた。

 しかし、それが幸いした、と思ったのも一瞬のことだった。

 画面を立ち上げた直後、ラッセルはまたも愕然とした。

 普段は画面の右下端にある、ネット接続アンテナアイコンにばつ印が付いている。ネットに繋がらないということだ。年の為、ネットに接続するも、『このパソコンはオンラインに接続しておりません』という表示が出ただけだった。

 最後の手段とばかりに、船の内線電話に飛び付くも、受話器はやはり電子音すら聞こえず沈黙している。

「マジかよ……」

 ティオゲネスの“警告”を、もっと真剣に受け止めるべきだった。

 いつからかは分からないが、突然こんな状態になったとは考え辛い。あの時、状況が分からないまでも即座にCUIO本部へ何らかの報告をすべきだったかも知れない、と思ったが、すぐに打ち消した。

 CUIOの本部と言えば、『世界で一番平和な』が冠に付く西の大陸<ギゼレ・エレ・マグリブ>にあるのだ。その上層部と言えば、“平和ボケ集団”と異名を与えてもいいと、ラッセルは個人的に思っている。

 『何か嫌な予感がするから』などという、底抜けに曖昧な理由で動いてくれる筈がない。

(……でもって、この船に乗ってる刑事はおれ一人、か)

 ひょっとしたら、休暇で乗っている刑事が一人くらいいるかも知れない。

 だが、他の刑事の予定など、ラッセルは知らないし、安易な希望は持たない方がいい。それは、甘い楽観的な予想に繋がり、楽観的な予想は油断を生む。

 十歳までに散々学んだことだ。

 とにかく、まずは船長に会わなければ。警察である身分証さえ見せれば、後ろめたいものがなければ大抵の人間は協力的になる。

 その時、ドアのノック音が、ラッセルの思考を遮った。

 そのノック音は、どこか切迫した何かを孕んでいた。

「ギブソンけ……ミスタ・ギブソン!」

 男性の声だった。『ギブソン刑事』と呼び掛けて、慌てて呼び直したところを見ると、来訪者はリンジー=フェルトンだろう。

 ラッセルは、どこか苛立ちを覚えながら、大股に扉に歩み寄る。あの平和ボケした家族と喋っている暇が、今は酷く惜しい。

 しかし、その苛立ちも、扉を開けた途端どこかへ飛んだ。

 リンジーは、理知的な瞳に焦燥と縋るような色を湛えて、ラッセルを見た。

「ミスタ・ギブソン! 大変なんです、息子が……息子が」

「息子さんが?」

「いないんです、どこにも!」

 隣から上がった声に視線を向ければ、彼の妻・エリザベスも一緒だった。

「落ち着いて下さい。いないって、どこかへ一人で出掛けているだけじゃないんですか?」

 一瞬忘れていた苛立ちが、息を吹き返す。

 平和な家庭で生きていた人間は、過保護に思えて仕方ない。普通の生活の中でも、姿が見えないとすぐに大騒ぎし警察へ届け、そのくせその日の内に行方不明だと言われていた本人が自分の足で帰宅するという案件を何度も見てきた。

「第一、船から下りられる筈がないでしょう。探す場所も多少広いですが、限られていますし……」

「じゃあ、携帯が繋がらないのはどう説明されるのです!」

 ラッセルは、息を呑んだ。

 確かに、ラッセル自身の携帯が繋がらない、パソコンもネットに接続できないということは、この船全体の通信が遮断されているということに他ならない。少し考えれば分かりそうなことだったのに、それに思い至れないなど、近しい人間が普通と違う状況で消えたことに、自分も思うより動揺していたらしい。

「船長かスタッフに、このことは?」

「船内の内線も繋がりません」

「ですよね」

 はあ、と溜息を吐いて、ラッセルは続けた。

「分かりました。おれも、これから船長に会おうとしていたところです。お二人は部屋でお待ち下さい……と言いたいところですが」

「同行させて頂く訳にはいきませんか」

「……ですよね」

 再度溜息を吐くが、致し方ないと思い直す。

 どうせ、通信機器が根こそぎイカレてるのだ。状況の連絡をするのも、自分の足で歩かないといけないことを考えると、一緒に来て貰う方が手間が省ける。

 加えて、この二人は這ってでもついて来そうな顔をしている。本音としては一人の方が動き易いのだが、所在を特定できない方が、面倒なことになりそうだ。

「……分かりました。じゃあ、絶対におれから離れないで下さい。特に危険だと思う時は、必ず傍にいて、前に出ないこと。約束できますか」

「はい」

 言って頷いたリンジーと、夫に倣って無言で首肯するエリザベスを確認して、ラッセルは部屋を出た。

 廊下は、まだ静かだった。

 だが、通信機器が沈黙していることが知れれば、それだけで不安になった客が騒ぎ出すのは、最早時間の問題だろう。

 一体、何が起きているのか、ラッセルにも詳細は分からない。

 ティオゲネスの言った通り、組織の残党が関わっているのか、それとも別の犯罪集団がこの船に乗ることで何かしようとしているのか。

 フェルトン夫妻を従えて、ラッセルはまず一階のエントランスホールへ向かった。

 先刻、リンジーと話をしたラウンジや、大食堂もそこにある。そちらの方が、何か情報が拾えるのではないかと思ったが、生憎そちらはまだ平穏そのものだった。

「あの、済みません」

 その時、一人の女性の声が耳に飛び込んで来た。

 振り返ると、視線の先には、船員と思しきスタッフを捕まえた女性の姿がある。見た目、二十代半ばから三十代前半といったところだろうか。

「娘が戻って来ないのですが」

「はあ……どういった状況で?」

「食事が済んで、お手洗いに行くと言ってそのまま……」

 すると、船員は苦笑いした。

「ミズ。もう暫く待ってみられたら如何です? 化粧室はすぐそこですし、迷子になりようがありません。体調が悪いようでしたら、医務室へご連絡頂ければ」

「もう、一時間にもなるのに!?」

 やんわりと退けようとする船員に、女性は感情が爆発したように食って掛かった。

「さっきもフロントマンにそう言われて我慢しましたわよ、三十分は! けど、一向に出て来ないので、中に入って呼びましたわ! 返事はありませんでしたけど! 加えて、個室から出てくる方一人一人確認しましたけど、その中に娘の姿は合りませんでした! 個室も全部調べましたけど、娘の姿はありません! これが、異常事態でないとでも!?」

「お……お客様。分かりました、お話を伺いますから、場所を移して……」

「話に続きがあるとでも!? これで全部ですわよ! 艦内放送をして下さるよう、船長に掛け合って下さいますよね!?」

「ミズ。少し、いいですか」

 苦り切った表情をしていた船員を助けるつもりは、ラッセルには微塵もなかった。が、割って入ったことで、結果的に窮地を救われた船員は、ホッと胸を撫で下ろしたと言わんばかりに、足早にその場を後にした。

「あ、ちょっと! まだ話は終わってませんよ!」

「ミズ。少し、お時間頂きたいのですが」

 毅然とした声で、船員を追い掛けようとする女性の前に立ちはだかると、ラッセルは警察の身分証を掲げる。

 細長い葉で編まれた冠の輪の中に、天使の翼と、その上に王冠を模した意匠――CUIOの紋章が入った身分証だ。それを見て、女性がハッとしたようにラッセルを見上げ、次に縋るような表情で目に涙を滲ませた。

「お願いします、娘を……娘を捜して下さい。どうか……」

「落ち着いて、ミズ。娘さんの年とお名前は?」

 通路に設えられた椅子に女性を座らせて、ラッセルはその前に膝を突く。

「クロー……クローデット=マガリ=ベネディクト=ボナール。八歳ですわ」

「なるほど。お嬢さんがいなくなった時の状況は、手洗いに行くと言っていなくなったのに間違いありませんね?」

「はい……間違いありません。レストランの会計をしている間に済ませるからと……いつものことだったので、気にも止めずに」

 ああ、と嘆息して、女性は両手に顔を埋めた。

「分かりました。捜してみます。あなたは、ミズ・ボナール?」

「はい。マルタ=マデリエネ=テルエス=ボナールです」

「では、ミズ・マルタ。部屋番は?」

「654号室です。娘を……娘を、どうか……」

「大丈夫、きっとすぐに見つかります。あなたは、娘さんが部屋に戻った時の為に、部屋で待機していて下さい」

 女性――マルタ=ボナールは、何度も頷き、やがて覚束ない足取りでその場を後にする。

 それを見送ったラッセルは、自身の中で、よくない予兆が確信に変わるのを自覚していた。

 いなくなったルイス。そして、ティオゲネス。今また、クローデットという名の少女まで。

 皆、十歳前後の幼子だ。

 ヴェア=ガングという暗殺者養成組織で育ったティオゲネスを、普通の十代の範疇に加えていいかは(それはもう激しく)判断に迷うところだが、こういうやり方は、ラッセルも幾度か耳にした覚えがある。

 人身売買。

 と一口に言っても、組織ごとにやり方が違うが、何パターンかある内の一つの手口だ。それしか考えつかなかった。

 特に、出航する場所がギゼレ・エレ・マグリブなら、怪しい者のチェックなども他大陸より甘くなるのは否めない。

 ふう、とまた一つ息を吐いて、とにかく船長室へ向かおうとした、その時。

「おい、さっきから連絡してるのに、内線が通じないじゃないか!」

 今度は男性の野太い声がして、そちらへ視線を向けると、声と違わぬ肥満体の男性が、フロントマンに掴み掛からんばかりの剣幕でまくし立てていた。

「それは申し訳ございません。すぐに修理に向かわせます」

「修理どころじゃない! 早く、早く私の部屋へ来てくれ!」

「と仰いますと?」

「銃声だよ! 銃声がしたんだ!」

 銃声、という単語に、歩を踏み出そうとしていたラッセルの足は、またしても止まった。

 先刻、部屋へ帰ろうとして銃声を聞き付けたのは、もう三十分以上前の話だ。ということは、彼は、自分達の近くの部屋の宿泊客だろうか。同じ階の、隣室辺りにいたら、流石に素人でも銃声と何かが破裂した音とを識別できるかも知れない。

「どちらででございましょう」

 フロントマンは、あくまでも穏やかに、そして果敢にも詳細を聞こうとした。

「今さっきだよ、つい今さっき! こう、何発も連続して……」

 瞬間、ラッセルはそちらへ駆け出した。

「それは、どこでですか」

 挨拶も抜きに、ラッセルは男の肩を掴んで振り向かせながら、警察の身分証を掲げる。

「こっちです、早く……!」

 身分証を見るなり、驚いたとも明るくなったとも取れる表情で、もうフロントマンには目も暮れずに踵を返す男の後を、ラッセルと、フェルトン夫妻が追った。


 その後、フロントマンがイヤーフック型インカムに向かって何事か呟いたのを、ラッセルは知る由もなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ