Intermezzo.7 逆流
出航を知らせる汽笛が太く長く尾を引く。
やがて、カーテンの隙間から見える外の景色がゆっくりと動き始めるのを眺めながら、男はうっすらと笑った。
窓の外は、そろそろ薄闇に沈もうかという時間帯だった。
男の前にあるノート型パソコンの発する光が、明かりを点けていない室内を淡く照らし出す。
ピアニストがピアノを弾くような滑らかさで、男の指がキーボードを叩き、室内に小気味よい音が満ちていく。
画面に開いたウィンドウは、背景が黒く、見る者に不安感を与える。その黒地の背景には、白い英数字の羅列が踊り、パソコンに詳しくない人間には何がなんだかさっぱり分からないだろう。
男がキーボードを叩く度に、ウィンドウが開き、時に縮小されて下部のバーに消える。やがて、エンターキーを指先で弾いた男は、満足げな笑みを浮かべ、共に画面に指を這わせた。
***
「念の為に訊くけどさ。組織の連中は全部始末したんだよな?」
自分達が宿泊する、526号室に入って扉を閉めると、開口一番ティオゲネスは訊ねた。
しかし、ラッセルは背を向けたまま答えようとしない。
「おい、ラス」
「……始末したって言い方は適切じゃねぇな。捕まえた奴が大半だけど……」
焦れたように名を呼ぶと、ややあってから、ラッセルは渋々といった口調で歯切れ悪く答えた。
室内に歩を進めた彼は、脱いだ上着を無造作にベッドに放ると、その横に腰を下ろす。
「一応、ヴェア=ガング事件捜査班の方針としては、お前らにその後の捜査状況は知らせないコトになってるんだがな」
ティオゲネスは、反射でムッとした。
「何だよ、その蚊帳の外な方針」
「おれも、個人的にはそう思う」
ラッセルも頷いて、ティオゲネスの目を見つめ返す。
「お前らだって、元々組織にいたって点では立派に当事者だし、現在の捜査状況とかを知らないと何かあった時に動けねぇ。……って散々進言したんだけどな」
クス、と自嘲の笑いを零し、ラッセルは言葉を継いだ。
「中途半端に上にいる奴は、役職だけ高くっても全然修羅場潜ってねぇ奴も結構いるからさ。『もう表の世界で生きられるんだから、危ない世界のコトを知る必要はないだろう』っていうのが、そういう奴らの言い分だけど、お前はどう思う?」
「危機意識ゼロ」
スパン! と音がしそうな程きっぱりと断じたティオゲネスは、背負っていたデイパックを、もう一つのベッドへ放って乱暴に腰を下ろす。
「それで? 北の大陸<ユスティディア>北部で元ストリート・チルドレンをやってたお兄さんは、当然何か教えてくれるんだろうな?」
靴も脱ぎ捨てて立てた片膝に頬杖を突くと、ティオゲネスはラッセルの琥珀を見つめて唇の端を吊り上げる。
瞬時、言い淀んだラッセルは、やがて苦笑と共に肩を竦めた。
「おれから聞いたコトは内緒にできるよな」
「勿論」
真顔で頷くと、ラッセルはまた一つ肩を竦めて言った。
「結論から言うと、残党はいる」
「やっぱりな」
半眼で睨め付ければ、そう睨むなよ、とラッセルは眉尻を下げる。
「ただ、それがどれくらいいるのかは、正直なとこ不明としか言いようがねぇ。かなり大きな組織だったからな。本部は西の大陸<ギゼレ・エレ・マグリブ>にあったのは分かってるし、そこはほぼ叩けたって断言してもいい。だから、手入れの時に本部にいた奴は全部豚箱にいるのも間違いない。けど、支部がない訳じゃない。他の大陸も調査中で、お前みたいに訓練を受けてる子供も全部救出したとは言い切れない状況だ」
「纏めると全然解決してねぇってこったな」
「うわ、きっつ」
「事実だろ」
ふん、と鼻を鳴らして、ティオゲネスは足を下ろすとゴロリとベッドへ転がった。
「……じゃあやっぱり、さっきのって組織の奴だったのかな」
ボソッと呟くと、当然ながらラッセルが「何が?」と問うた。
上体を起こし、改めてラッセルと向き合いながら、ティオゲネスは先刻三階部分のエレベーターホールであったことを手短に説明する。
「だから、もしかしてこの船で何かするつもりなんじゃねぇかって思ったんだけど……」
するとラッセルは、「それはねぇな」と断じた。
「何でだよ。だってあんた今、残党は外にもいるって」
「言っただけだよな?」
「……どういう意味だよ」
「じゃあ、逆に訊くけどよ。仮にお前が組織上層部の残党だったとする。いきなりCUIOの手入れが入って組織は分解、いずれ金を生む兵器になる筈だった子供達も警察に押さえられた。頼りはてめぇの能力と手元にある武器だけ。ってなった時に、一年で何かコトを起こすだけの力を取り戻せるか?」
ティオゲネスは唇の両端を下げて、恨めしそうにラッセルを見上げながら、不承不承といった表情で口を開く。
「……それは、周りのツテとか人脈とかにも拠るだろ」
「そうだな。それだけ聞けば、何かやらかそうとする奴はやらかすかも知れないし、無理な奴は無理で隠れてるしかない。じゃあ、両方の状況の奴が、組織崩壊から一年経った後で、今この船に乗り込んだとする。その目的は?」
「目的……」
ティオゲネスは目を伏せ、ややあってから再びラッセルに視線を向けた。
「後者だとしたら、俺なら揉め事は起こさずにこっそり国外逃亡したいと思うね。けど、前者だとしたら、正直分からねぇ。やらかしたって得なんかねぇだろ。たとえ、CUIOへの意趣返しだとしても、仕返ししたい肝心の刑事達が乗ってるとは限らねぇし」
まあ、あんたは今たまたま乗ってるけどさ、と挟んで、ティオゲネスは言葉を継ぐ。
「上層部の考えなんて、道具と同じだった俺には見当もつかねぇから、何とも言えないけど……ヴェア=ガングは武装組織って言っても、性質は兵器レンタル組織に近いんだ。それも、自分の意思で動ける兵器を貸し出す。その代わり、てめぇの意思で何か……例えば武装蜂起とかテロとか、そういったコトを起こすような組織じゃないと思う」
「ん、まあ正解だな」
ラッセルは、まるで学校の教師がするように、ポンと一つ手を叩いた。
「じゃあ、そういう組織の残党がこの船に乗り込んだとしても、何かするとは限らない訳だ」
「う……」
ぐうの音も出ない。
こともあろうに、ティオゲネスは自分で理詰めにして『組織の残党による陰謀説』を潰してしまったのだから。
「だったら、あの感覚は一体何だったってんだよ」
あの、危険を知らせるように身体を走った、紛れもない寒気。あれが、全くただの気の所為だとはどうしても思えない。
「うん、それも無視できねぇな」
あっさり同意すると、ラッセルはおもむろに立ち上がり、携帯端末で時間を確認した。
出航したのが夕方の五時だったが、まだ十五分程しか経っていない筈だ。
「夕食はどうする?」
「ルームサービスにしようぜ。わざわざ外に出てあいつらと鉢合わせしたくねぇしー」
ぐでーん、という擬音が見えそうな勢いで、ティオゲネスは再びベッドへ横たわって、枕にしがみついた。
ラッセルは、それを特段咎める風もなく、分かったと頷いた。
「まあ、南島国<サトヴァン>まで一泊二日だし、籠もりっ切りでもヘーキだろ。バスもトイレも必要なものは揃ってるしな」
彼が言ったその時、ノックの音が飛び込んできた。
「へいへーい。誰っすか?」
誰何したラッセルは、ドアの方へ歩を進めた。
とは言っても、未だに危機状況管理意識がティオゲネスと同レベルの彼は、ノックの主も確認せずに扉を開けるような不用意なことはまずしない。ので、ティオゲネスは彼の行動を放置し、そのまま枕に顔を埋めていた。
が。
「すみません。フェルトンです」
という答えが聞こえ、ティオゲネスは閉じていた瞼を片目だけ押し上げ、視線を扉の方へ向けた。
ルイスには部屋番を教えていない筈だが、ラッセルとフェルトン夫妻の間ではある程度情報を共有しないといけないのだろう。流石にそこまで阻む権利は、ティオゲネスにもない。
むっくりと起き上がって、ドアの方の会話に耳をそばだてる。
「どうしましたか」
「いえ、その……ティオゲネス君と少し話がしたいのですが」
(面倒臭っ)
即座に出た文句は、脳内で吐き捨てるに止める。代わりに、眉間に思う様皺が寄ったが、今この時、それを見ている者はいない。
ラッセルが曖昧に応対して、引き返してくる気配がする。
「……今の、聞いてたか?」
目が合うなり、彼は苦笑した。
どうやら表情は眉根が寄ったままになっていたらしい。
寝てるって言って、と唇の形だけで言うと、ティオゲネスは再度転がった。
ラッセルは肩を竦めると踵を返し、やがてリンジーと部屋を出て行ったようだった。
不意に部屋が静かになって、ティオゲネスはそのつもりもないのについウトウトと眠り込んでしまった。
意識が浮上したのは、遠くで扉が開く音が聞こえた気がしたからだ。
(……あー……やべ。ホントに寝てた……)
「……今何時?」
寝惚け声で訊ねると、「六時四十五分くらいじゃないか?」と返って来て、ティオゲネスはハッと目を見開いた。明らかにラッセルの声とは違う。一瞬で眠気の残滓は吹っ飛んだ。
跳ね起き様、脇下のホルスターに吊ったままになっていた銃を抜いて、相手に向かって構える。
「一般人の世界は実に不用心だな」
銃口の向こうで、クス、と嘲り混じりの笑いを浮かべたのは、見知らぬ顔立ちをした男だった。
「カードキー一つで自分の場所を守った気になっているとは」
スラリと高い長身の男は、そう言ってゆったりとした所作で進めていた歩を止めた。輪郭は面長で、凛々しい眉と、切れ長の目元。右目の縁に泣きボクロ。高い鼻筋。
しかし、よくよく見れば、鼻周りにどこか不自然な切れ目があるのが分かる。それに、泣きボクロは如何にも嘘臭い。だが何よりも、毒々しいブラッド・レッドと見紛う独特の紅い瞳には、嫌という程見覚えがあった。
「……ディンガー……!」
ティオゲネスは、呆然とその名を呟いた。
ヴェルナー=ベルノルト=ディンガー。確か、そういう名の筈だ。彼の場合は、それはいくつか持つ偽名の一つらしかった。が、組織の中ではそれが男の通り名だった。
「流石だな。さっき、エレベーターホールで一瞬会った時は気付かなかったようだったが、目で分かったか」
再度、唇の端を吊り上げると、男は胸元に下げていたサングラスを取り上げてティオゲネスに見せつけるように振って見せた。確かに、先刻エレベーターの中に一人、サングラスの男がいたような気がする。
「昔教えたな。どう変装しようと、仮に整形しようと、目だけは変えようがない、と」
「……“よって、変装を完璧にしたければカラーコンタクトを使用するのも手だ”……だっけか」
男に銃口を向けたまま、ティオゲネスはゆっくりと体勢を整える。
「ご名答。お前は実に優秀な生徒の一人だよ、アッシュ」
『アッシュ』と呼ばれて、ティオゲネスは微かに片眉を跳ね上げた。
それは、組織時代のコード・ネームだ。この珍しい銀灰色の髪に由来しているらしい。
「そいつはどうも。褒めても何も出ないけどな」
相手から目を離さずに、爪先で脱いだ靴を探って足を押し込む。
「何で、あんたがここにいるんだよ」
「訊きたいか?」
「さあね。止めとくよ。碌なコトじゃなさそうだ。それより、不法侵入で捕まる前に出てった方がいいんじゃねぇの?」
「冷たいな。折角一年振りに再会した育ての親に向かって」
男は、眉尻を下げると、わざとらしく嘆くようにして肩を竦める。その仕草に苛立ちを覚えるが、分かり易い挑発だ。乗ってしまえば負けである。
「育ての親が聞いて呆れるぜ。殆どブラックな孤児院版じゃねぇかよ、あんなトコ」
吐き捨てるように言いながら、ようやく床の上に立ち上がる。
けれど、それでもティオゲネスは戦闘能力的に相手と対等ではない。相手は、銃口を向けられていながら尚余裕が見える。対して、先に銃口を突き付けており、一見圧倒的有利に見えるティオゲネスだが、引き金を引く隙を見付けられずにいた。
先に引き金を引いたが最期、死ぬのは恐らく自分の方だ。
「どうした、アッシュ。攻撃しないのか」
内心を読んだかのように言ったディンガーは、今度は面白そうにクスリと笑った。
「うるせぇよ。用がないならとっとと出てけって言ってんだ」
「用ならあるさ」
すう、と糸に引かれるような動きで男が手を伸ばす。反射で身体が震えそうになるのを堪えようとするが、肩先が揺れるのはどうにもならなかった。
伸ばされた男の手には、特に武器らしいものは握られていない。
まるで、道端で出会った野良犬か野良猫にするように、掌は上に向けられている。
「おれと一緒に来い、アッシュ」
「……何の為に」
「実は、新しく始めた商売の途中なんだ」
「商売だ?」
ティオゲネスは眉根を寄せた。
「詳しい話は、場所を改めてしたい。とにかく一緒に来い」
「断る。――と言ったら」
探るように返すと、男は呆れたように肩を竦めて、手を下ろした。
「残念だが、力ずくだな」
言うなり、男の姿が視界から消えた。必死に神経を研ぎ澄ませる。
ヒュ、と空気が動いた気がして咄嗟に向かいのベッドへ身を投げ、反対側の床へ殆ど転げるようにして着地する。
素早く起き上がり体勢を立て直した時には、ディンガーはトランポリンの要領でベッドを蹴っていた。
空中から覆い被さるように襲い掛かってくる相手に向かって、舌打ちと共にトリガーを絞る。生憎、消音器など付けていなかった為に、誤魔化しようのない銃声が響いた。
しかし、それに合わせるようにディンガーは空中で半回転し銃弾を躱すと、ティオゲネスの銃を持った腕を捕らえて捻り上げた。
「いッ……!」
ダメージを少しでも軽減しようと、捻られる腕に合わせて身体を捩るが、そのまま仰向けに床へ押し倒される。
背中から思う様叩き付けられ、一瞬息が詰まった。両手首を纏めて頭上に縫い止めるように拘束され、首筋を締め上げられる。
「ッ……!」
(マズいッ……!)
血液の流れが遮断され、視界が一瞬で霞む。意識がなくなる前にどうにかしなければと思ったが、無理に動けばどこか骨が折れそうだった。
唯一、自由が残っていた足を闇雲に蹴り上げても、虚しく空を切る。
(くそ……ッ……)
息ができない。そう思った直後には、目の前が敢えなくブラック・アウトした。
***
静かなBGMの流れるラウンジは、照明が落とされていて、落ち着いた空気を醸し出していた。
そこにいるのは、皆成人した者ばかりだ。
もう少し夜も更ければ、酒も煙草も供されるのだろう。
リンジー=フェルトンは、最初ティオゲネスと話したいと訪ねて来た。が、当然の如くティオゲネスが猛然と拒否したので、話し相手を申し出たラッセルを伴ったリンジーが訪れたのが、船内の大食堂に隣接するこのラウンジだった。
カウンター席に着いて、ラッセルがアイスコーヒーを、リンジーが紅茶を注文し、それぞれの飲み物が運ばれて来た後、リンジーが先に口を切った。
「済みません。無理を言って」
「いえ、おれは別に……」
「今この時のことだけではありません。今回のトライアルのこともです」
楕円の眼鏡の奥にある、理知的なブラウンが曇った色を宿す。
「けど、ティオゲネス君の言い様が……あまりにも酷いというか」
「って言うと?」
キョトンとして訊ねると、リンジーはティーカップに視線を落としたまま続けた。
「先刻、息子とティオゲネス君が言い争う……というか、話しているのを、一部始終聞いてしまいましてね。ティオゲネス君は多分気付いていないでしょうが……」
それはないな、と思いながら、ラッセルはコーヒーにミルクを流し入れながら無言で先を促す。
「ティオゲネス君が、何らかの心の傷を負っているコトは知っています。彼本人に聞いた訳では勿論ありませんが、長年、心療内科医をしている所為でしょうかね。彼の言葉の端々にその傷が垣間見えると言いますか……」
ラッセルは、やはり黙ったままグラスにストローを突っ込んで口を付けた。
ティオゲネスと似たような環境で幼少期を過ごした所為か、ラッセルも未だにこういった同情文句には冷めた見方をするところがある。三十を過ぎたというのに大人げないとは思うが、取り繕う気にはならなかった。
一方、こちらの沈黙をどう取ったのか、最早独白のようにリンジーが言葉を継ぐ。
「ただ……それをそのまま、罪もない息子にぶつけるのはどうかと思うんですよ。全く言葉をオブラートに包む努力もできないなんて……心療内科の医師としての私にその傷を向けられればまた対処は違って来るんですが、罪もない息子が傷付けられたかと思うと……」
自分が来て正解だった、とラッセルは思った。
これをこのままティオゲネス本人に言うつもりだったのだろうか、この男は。もし、ティオゲネスがこれを聞いたら、いい加減銃が出て来てもおかしくない。
もっとも、ラッセルとしても苛立ちがない訳ではなかった。
勝手にも程がある。
だが、他人には医師として人格者のように振る舞っていても、一人の親という立場になれば変わるということなのだろう。
「――そうですね。正直なところを言いましょうか」
ストローから口を離し、ラッセルはクスリと小さく笑った。
「本当に個人的な意見で、フェルトンさんから言わせたら生意気かも知れませんけどね。率直に言うと、あいつの説得を頼まれた時、何であいつをほっといてやらないんだって思わなかったこともないんですよ」
「……と言うと?」
「フェルトンさんは、所謂“裏社会”ってヤツをご存知ですか」
その問いが、ひどく唐突に感じられたのだろう。リンジーは、いえ、とだけ言って首を振った。
「架空の世界のそれのコトですか?」
反問されて、また小さく笑いが零れる。無意識に、どこか嘲りが含まれてしまったことは否めないが、それにリンジーが気付いたかどうかは分からない。
「こんな仕事してると、現実のそれを結構目にするんですよ。フェルトンさんみたいに表の世界でしか生活してないと、ちょっと遠いか、仰ったように架空の話の中にしか存在しない世界でしょうね」
「……まさかティオゲネス君も、そういう世界で生きていた、と?」
「さあ、どうでしょう。おれの口からは何とも」
コーヒーのグラスに突っ込んだストローに再び口を付けながら、ラッセルは明確な答えを避けた。
「ただ、あいつが心を開く開かないは、理屈じゃないんです。まだ早いとあなたも感じたんでしょう? なら、あなたが本当に説得すべきはあいつじゃなく、息子さんの方なんじゃないですか」
リンジーは、ブラウンの目を見開き、何か言いたげに口を開き掛けるが、結局空気を呑み込むようにして視線を落とす。
「……そう……ですね。確かに、そうなのかも知れません」
自嘲の口調でそう言うと、リンジーは短く息を吐いた。
「私も、最初はそれが最善だと思いました。しかし……あまりにも息子が強くティオゲネス君を弟にと望むので、親としてはどうにかして叶えてやりたいと、思ってしまったのです。私自身、二週間あって、且つ共に暮らせば、彼をどうにか説得する自信もありました。……さっき、彼と息子の会話を聞くまでは」
カウンターに腕を突いたリンジーは、やはり独白のように訥々と続ける。
「彼は、心の傷を傷と認識できていないんでしょうね。全てを疑って、自分を守るコトがベストだと思い込んでしまってる。今は、彼にはどんな言葉も響かないでしょう。これはもう、我々が諦めるより他になさそうだ。折角ここまで……ティオゲネス君にもギブソン刑事にも、船にまで乗って頂いたのに本当に申し訳ないが……」
「ユーターンする分には一向に構いませんよ。多分、あいつも同じように言うでしょう。今は、あなた方が折れて下さる方が、コトが丸く収まりそうだ」
もっとも、こんなコトを言うのは不謹慎かも知れませんがね。
苦笑混じりに付け加えると、リンジーも影のある微笑を返す。
その時、「あなた」という声がした。振り返ると、リンジーの妻・エリザベスの姿がある。
「ああ、リズ。どうしたんだい、わざわざ」
「ええ……ルイスが眠ったので、出て来たのよ。少し早いけど、夕食にしない?」
「そうだな。ギブソン刑事も、ご一緒にいかがです?」
「いえ、おれは……」
後で、ルームサービスを頼もうと言っていた、連れの少年をチラと思い浮かべる。
それを察したのか、エリザベスが口を添えた。
「私達も、今は息子が眠っているので先に済ませます。お互い、彼らにはテイクアウトでお土産を買って帰るということでどうでしょうか」
「ギブソン刑事。今回のご足労のお詫びも兼ねて、是非」
リンジーのブラウンの瞳と、エリザベスのセピアの瞳が、縋るようにラッセルを見つめる。
心から申し訳なく思い、詫びがしたいと思っている気持ちが、嫌でも伝わってきて、ラッセルは根負けの意を表さざるを得なかった。
会食は、それから約一時間前後でお開きとなった。
互いの連れへの土産を手に雑談しながら共にエレベーターへ乗り込む。
フェルトン一家が宿泊している三階で、夫妻がエレベーターを降りるのを見送った時、何かが弾けるような音が響いて、エレベーター内も一時ざわついた。
「何でしょう、今の音……」
「さあ……」
そんなざわめきの中、五階まで乗るつもりだったラッセルは、その場でエレベーターを降りた。
「ギブソン刑事?」
「しっ」
訝しげに問うリンジーを、ラッセルは鋭く制する。
「申し訳ありませんが、しばらく『刑事』と呼ぶのは控えて頂けますか」
それは、頼みではなく半ば強制的な命令に近かった。
理由はよく飲み込めないながらも、切迫した何かを感じ取ったのだろう。夫妻は、小さく頷いた。
「お二人はすぐに部屋へ戻って下さい。おれが連絡するまで、絶対に部屋から出ないように。いいですね」
「分かった。事情はよく分からないが、気を付けて」
事情が分からないという割に、こちらが何か物騒なことをするつもりなのはお見通しらしい。
(まあ、それが仕事なんだけど)
脳裏で呟いて、肩を竦めることで返事とすると、ラッセルはフェルトン夫妻に背を向けた。
船内案内板を探し、階段の場所を確認すると、そこから五階へ駆け上がる。二階分なので程なく辿り着くと、526号室へ走った。
先刻の、何かが破裂するような音は、十中八九銃声だ。だとすると、発生源が自分達の宿泊部屋である可能性は限りなく高い。
勿論、取り越し苦労ならそれでいいのだが――。
脇下に吊ってあるホルスターから銃を抜き、カードキーを滑らせる。細く扉を開いて、室内を視線だけで探る。
深呼吸を一つして、一気に扉を開け放ち、中へ銃口を向けた。しかし、攻撃される気配はない。それどころか、人の気配さえ感じられない。
バスルームを同じ要領で調べるが、こちらにも人はいない。
「……ティオ?」
声に出して呼ぶ。けれど、ティオゲネスが答える様子もない。
ベッドは散々に乱れていた。明らかに、誰かが上で飛び跳ねたような乱れ方だ。ベッドにはくっきりと足跡が残っているが、サイズからすると足跡の主はティオゲネスではない。
彼のベッドには、デイパックがそのまま放置されている。自分が使おうとしていたベッドのすぐ傍に薬莢が転がっているのを発見するに至り、自分の予想は外れていなかったことを確認した。
念の為、備え付けのクローゼットも調べたが、そこにもティオゲネスの姿はない。
考えるまでもなく、何かがあった。
あの時、何があっても船を下りるべきだったかも知れない。拳を握り締め、ラッセルはしばしその場に佇んでいた。




