Intermezzo.6 それぞれの『世界』と暗転の兆し
何でこうなるんだろう。
ティオゲネスは、ムッツリと押し黙ったまま、後部座席で車に揺られていた。隣には、ビクトリアが無言で腰掛けている。ハンドルを握っている男性は、IOCA本部に勤務する職員の一人だ。
「おい、ティオ。そろそろ着くぞ」
助手席に座っていたラッセルが振り向いて言うのへ、返事の代わりに思い切り睨め付けてしまう。それに対して、彼は怯える様子も見せずに、半眼で真っ直ぐにこちらを見返した。
「そう睨むなって。最終的に決断したのはお前だろ。おれは何も強制してないぜ」
「……分かってるよ」
肩を竦めて返しながら、ティオゲネスはラッセルから視線を外して窓の外を眺める。前方のやや離れた場所には港があり、客船が待機しているのが小さく見えた。
結論から言うなら、養子トライアルにまんまと押し切られた格好になったのだ。
フェルトン一家と出会ったのが二週間程前で、それから『ややまともな(注:ティオゲネス評)』神経を持つラッセルの元に、あのリンジーが泣き付いて来たのが、先週のことらしい。どこでどうやってリンジーにラッセルのことを知る機会があったのかは分からないが、とにかくラッセルがどうにか説得してみると言ってしまった――というより言わされたのが、それから二日後のことのようだ。
たった二日で落ちるなんて、それでもプロの刑事かよと質せば、ただただラッセルは頭を下げて「面目ない」と言うばかりだった。
頑として聞くつもりはなかったのだが、通常半年のトライアルの期間を二週間にまで短縮されたことと、フェルトン家が在住する南島国<サトヴァン>までラッセルが付き添ってくれること、更にフェルトン家で過ごすのはあくまで日中だけで夜はラッセルと共にホテルへ戻っていい(この三条件は、後にラッセルがフェルトン家に談判してくれた)というところまで譲歩されるに至って、ティオゲネスも首を縦に振らざるを得なかったのだ。
(……緩くなったモンだよなー、俺も)
たった一年で、『相手の言うことに耳を傾けられる』ようになるとは、正直思ってもみなかった。
今回、フェルトン家に行くことにしたのは、別にフェルトン家の面々にほだされたからではない。ラッセルの顔を立てる為だ。
フェルトン家の要望通りにする必要性は、正直今も全く微塵も感じていないのだが、自分が断ればラッセルが気の毒なような気がしたのだ。
それにしても、自分の利でなく、ヒトのそれを多少重んじるようになった自分に、ティオゲネス自身が一番驚いている。
(アホくさ過ぎる)
脳裏で呟いて突っ伏すティオゲネスの嘆きとは無関係に、車は粛々と、船着き場の専用駐車場に向かって進んでいった。
***
「あっ、ティオ! こっちこっち!」
船着き場の待合室にいたルイスは、満面の笑みでティオゲネスを迎えた。
もう憎たらしさしか感じない相手でも、容貌は相変わらず美しいとしか表現しようがない。うまく仮面を被れるかが非常に不安だったが、要らぬ心配だったようだ。
彼の顔を見ると、本心は相手をどう思っていようと、自然に笑顔になるから不思議である。
「おはようございます、ギブソン刑事。この度はティオゲネス君の説得にお力添え頂きまして、ありがとうございます」
「いえ、おれは別に何も……」
ティオゲネスの後ろから歩いて来た、ラッセル=ギブソン刑事――この名と、彼の社会的身分は後から知った――に、父が如才なく挨拶をしているのが聞こえる。
「早く行こうよ! 君の為に取って置きの部屋を予約したんだ」
「てめぇで金払った訳でもないクセに、よく言うぜ」
吐き捨てるような言葉が胸に刺さるが、両親の手前、下手なことは言えない。
後で何百倍にもして返してやる。
そう思うことで、ルイスは反射で彼の頬を平手打ちしたい衝動を、どうにか堪えた。しかし、涙ぐましい努力など知らないと言いたげな、容赦のない追い討ちが掛かる。
「それに、俺はあっちと同室だ。あんたらの家族ごっこに船の中から付き合わされるかと思うと泣きたくなるね」
あっち、と言ったティオゲネスは、立てた親指でラッセルを示している。
泣きたいのはこっちだ、と思いながらも、どうにかそれは口に出さずに、無邪気に喜ぶ演技を続けた。
「そんなこと言わないで、一緒に来てよ。昼間は僕達と過ごしてくれる筈だろう?」
「南島国に着いてからの話だ。神経すり減らす時間は短く願いたいな」
「すり減らすかどうかは来てみないと分からないってば。ホラ、早く!」
グイ、とティオゲネスの腕を引っ張ると、両親に向かって「先に行ってるよー!」と手を振り、タラップへ彼を引きずって行った。
自分達は既にチェックイン済みだった為、ティオゲネスがラッセルと共に手続きするのを、足踏みしながら待つ。
早く行こう! と元気よく言うと、彼の腕を有無を言わさず引っ張ってまた走った。
他の旅行客に混じってエレベーターに乗り込み、三階で降りる。ルイス達フェルトン一家の宿泊部屋は322号室で、エレベーターホールを左手に出てすぐの部屋だった。
「ティオ! こっちこっち、早く!」
手を離して先に部屋の前へ駆け付けると、先刻船に乗り込んだ際に渡されたカードキーを滑らせる。
「愛称で呼ばれる程親しくなった覚えもねぇんだけど」
気安く呼ぶな、と言いつつ、ティオゲネスはそれ以上近寄って来ようとせずに、持っていた携帯端末を操作して耳に当てた。
二言三言、誰かと話すと通話を切って、エレベーターのボタンを押す。
「ちょっ、ちょっとどこ行くのさ!」
ルイスは、慌ててエレベーターホールへ引き返して、ティオゲネスの肩を掴んだ。すると、ティオゲネスはその手をあっさり払い除け、険の宿った翡翠の瞳でルイスを見据えた。
「俺の部屋は322号じゃねぇ。引きずられて降りちまったけど、ラスが先に待ってる筈だから。んじゃあな」
「ねっ、ねぇ、部屋どこ? 後で遊びに行くから」
慌てて追い縋るが、ティオゲネスはもうルイスを見もせずに冷たく言い放つ。
「プライベートな空間にまで踏み込まれちゃ迷惑だから教えねぇ」
ポン、と音がして、エレベーターが止まる。扉が開くより早く、ルイスはティオゲネスの腕を掴んで引きずった。
「ちょ、おい!」
何するんだよ! と初めて聞く焦った声音に優越感を覚えながら、ルイスは鍵を解除してあった扉を素早く開け、そこにティオゲネスを突き飛ばす勢いで放り込んだ。
突き飛ばされた彼は、みっともなく背後に転ぶだろうと思ったが、ティオゲネスはたたらを踏んだだけで踏み留まった。
それが面白くなくて、扉を閉じると続けて相手の胸を思い切り平手で突こうとする。しかし、その攻撃は読まれていた。ティオゲネスは、僅かに上体を捻ることでそれを避けると、ルイスの足を軽く払った。
「あ!」
逆に自分の方が床に叩き付けられ、胸を強かに打ち付けて息が詰まる。
「ホンットに学習しねぇのな、あんた。自分と相手の力量の差も正確に計れねぇのか? 相手が俺だからいいけど、手加減なしのキチガイ殺人鬼だったらどうするんだよ。ガムシャラに向かってったって、死ぬのがオチだぜ?」
半ば呆れたような声音を背後に聞きながら、痛みに強張る手足をギクシャクと動かして、どうにか上体を起こす。
肩越しに見上げた美貌には、ルイスの知るどんな感情も読み取れなかった。
「あんたが何をしたいのかは知らない。けど、もし理由もなくこっちに危害を加えるなら、次は遠慮しないぜ」
「理由もなくだって!?」
瞬間、頭に血が上った所為か、身体の痛みが吹き飛んだ。動かし辛かった筈の身体が即時意思通りになり、ルイスは跳ね起きる。
「じゃあ、こないだ君がしたコトは何なんだよ!」
「こないだ?」
ティオゲネスは、その形のよい眉根に皺を寄せて、微かに首を傾げた。
何を言われているのか分からない、と言いたげな態度が、余計にルイスを苛立たせる。
「IOCA本部で、僕を突き飛ばして、首を絞めようとしたじゃないか! それも、理由もなく!!」
ルイスは、ドアの前にいたティオゲネスとの距離を詰めると、バン! と大きな音を立ててドアを塞ぐように手を突いた。
「君のやったコトは、立派な殺人未遂だぞ!? あのコトを、父さんと母さんが知ったらどうなるか、分かってるよな?」
普通、世間一般に育った子供なら、ルイスの話の仕方によっては、両親から警察に話が行くかも知れない、と考える者もいただろう。
そうなれば、相手の生殺与奪はルイスが握ったも同じだ。必然、「誰にも言わないで」と震え上がって許しを乞う展開になるものと思ったが、ティオゲネスは、またしてもルイスの予想の斜め上を切り返してきた。
「さあ?」
心底不思議そうな顔でますます首を捻られて、一瞬身体から力が抜けそうになる。
「……分からないってのか?」
「さっぱり」
平然と、きっぱりと言われて、ルイスは目眩を覚えた。
この後、この美貌でしおらしく口止めを乞われれば、自分の言うことを聞くなら黙っておいてやる、と、大人な態度で彼を諭そうと思っていたのに。相手が、自分の予想と違うリアクションをしたらどうしたらいいのか、ルイスには経験値がなさすぎる。
「いいかい? 殺人は犯罪だ。それは分かるね」
結局、正面から懇切丁寧な説明をすることを選ばざるを得なかった。
「まあな」
「じゃあ、次だ。君がやったコトは、殺人未遂だ。言い換えれば、殺人し掛けたってコト。やっぱり犯罪行為だってコトは、理解してる?」
「まあ、本当に殺人未遂ならな」
ティオゲネスは、それが何だと言いたげに肩を竦める。
ここまで言えば、ルイスの言いたいことは理解できると思っていたが、ここまで察しが悪いとは予想外だ。
「ああ、もう、つまり! 僕が一言訴えれば、君は刑務所行きになるってコトだよ!」
「何で?」
「何でって……」
こっちの台詞だ。何でそんなに理解力がないんだ。
そう言いたい気持ちを、ルイスはどうにか抑え込んだ。
思っても、口に出してはいけない。それは、明らかに人を貶める言葉だからだ。
仮に自分の方が優れているとしても、自分より劣る者をあからさまに貶めてはいけないことくらい、ルイスにも分かっている。
深呼吸を一つすると、「だからね」と言葉を継いだ。
「君はこの間、IOCAの本部で、僕を殺そうとしただろう? それは、君も理解してるよね。それを、僕が人に言えば、君は殺人し掛けた危ない子ってコトになる。だけど、僕はそれを人にべらべら喋る気はないんだ。君が一言、僕に謝罪してくれさえすればね」
きっと、彼も意地になっているのだろう。もしくは、謝るタイミングを逃して、怖くなっているのだ。だから、分からない振りをするのかも知れない。
そういうことは、ルイスにも覚えがある。
昔、母の丹精していた鉢植えを盛大に割ってしまい、それを隠そうとした。一時は隠しおおせたと思ったのに、結局露見し、懇々と叱られたことがある。
彼も、あの時の自分と同じなのだ。そう思うと、腹を立てていた自分が、何だか大人げなく思えてきた。ついさっきまで、陰湿に仕返ししてやろうと思っていたドロドロした感情が、急にバカバカしく、同時に恥ずかしくなる。
一度は弟にと切望した相手だし、彼の方が年下なのだ。人生の先輩として、正しい道を教えてやらなければならない。
ルイスは、深呼吸して気持ちを落ち着かせると、相手を安心させるように、優しい笑みを浮かべて続けた。
「でも、大丈夫だよ? 僕だって鬼じゃない。君が非を認めて、暴力を振るって僕を殺そうとしたコトを悪かったときちんと反省して、心から謝ってくれさえすれば、水に流す寛大さはあるんだから。分かるよね?」
実際、そうしてくれさえすれば、ルイスもティオゲネスを改めて弟として迎える心積もりをするのは、やぶさかではないのだ。
しかし、ティオゲネスの整った顔に浮かんだのは、ルイスにもそれと分かる、最大級の侮蔑混じりの笑みだった。世の全てを嘲るような、そんな笑みだ。
「あんた、どんだけ上から見れば気が済むんだ?」
クス、と漏れた笑いにさえ、軽蔑が滲んでいる。
「暴力ってのがどういうモノか、実践してやろうか? 第一、IOCA本部でやったコトだって、今転ばしたのと大差ないぜ。それを殺そうとしただなんて大袈裟な……まあ、素人に対してちょっとやり過ぎたかとは思ったけどな。今のあんたの言葉で反省も吹っ飛んだよ」
素人って、何の話だ?
理解を超えた台詞を聞いて、頭が真っ白になったルイスを置き去りに、ティオゲネスは言葉を継ぐ。
「非を認めるのはあんたの方だよ、お坊ちゃん。何度言わせりゃ気が済むのか分からねぇが、全っ然聞いてねぇみたいだから、何度でも言うぞ。あんたの価値観が世界の価値観だと本気で思ってんなら笑えるな。世界で自分の考えが一番正しいとでも思ってるワケ?」
「なっ……!」
ルイスには残念ながら、ティオゲネスの言ったことが半分も理解できなかった。だが、自分が力一杯侮辱され、否定されていることだけは分かる。
「じゃっ……じゃあ訊くけど、君は自分が正しいと思ってるワケ!?」
「さあな。あんたが言うトコの『正しい』ってのがどの点を指すのかがワカランから答えようがねぇよ。けど、少なくともあんたみたいに、他人に自分の価値観押し付けた挙げ句に賛同して貰えなかったからって逆ギレするよーな、幼稚なコトはしてねぇつもりだけど?」
正しく逆ギレ気味に叫んだところだったので、ぐうの音も出ない。ただ、顔に熱が上っているのだけは、はっきりと自覚できた。
「用が済んだら、いい加減外に出して貰いてぇな。ラスに『今からそっちに行く』って言ってから五分以上経ってるし。流石に心配するだろうからさ」
しかし、肩を竦めてティオゲネスがそう言った途端、自分が幼稚かどうかはどうでもよくなった。
「……んでだよ」
「は?」
「何で、ギブソン刑事にはそんなに懐いてるクセに、僕達には冷たいの?」
「……別に懐いてるワケじゃねぇけど」
つーか、懐いてるように見えるのか? とティオゲネスは首を捻る。
けれども、ルイスにはティオゲネスの疑問に構う余裕はもうなかった。
「懐いてるだろ! こないだ、あの人とは笑って話してたクセに、僕にはちっとも笑ってくれない! ねぇ、僕何かした!?」
「こないだってのがいつか知らねぇけど……強いて言えば、こっちの言うコトはスルーした上に、価値観の押し付け?」
「話もしてない時から、僕達を頭から疑ったじゃないか!」
泣きそうな声が出るが、どうしようもない。
確かに先日、IOCAの本部で、突然転ばされ、首を締め上げられたこともショックだった。自分より年下の少年に、良いようにあしらわれ、腹立たしかったのも嘘ではない。
だから、同じ目に遭わせて、屈辱を味わわせてやりたいと思った。
けれど原点は、理由もなく自分達の疑われたという悔しさに尽きるのだと、ルイスは言葉にしてみて初めて気付いた。
「ねぇ、何で!? 何で、信じてくれないの!?」
謂われなく疑われる理不尽が、ルイスの頭を埋め尽くす。
納得のいく説明が欲しい。もうそれしか考えられなかった。
普通の人間なら、会話している相手がこんな風に取り乱せば、慌てて宥めに掛かるだろう。口先だけでも謝罪を述べる者もいるかも知れない。
だが、ティオゲネスの反応は、そのどちらでもなかった。
極上のエメラルドが静かにルイスを見据え、形のよい薄く引き締まった唇が、「当たり前だろ」と冷えた言葉を象る。
「誰であれ、初対面の人間なんて信じない。これも言ったと思うけどな。欲得なく人に手を差し伸べるなんて、もっと信じられないし、有り得ないって。あんたの親父にも言ったけど、優しい顔をしてる人間程、信じるとバカを見るのはこっちなんだ」
「そんなコト!」
「あんたの世界のコトは知らない。くどいようだけど、俺はそういう世界で生きてきた。だから、この生き方を変えるつもりはねぇし、それをあんたにとやかく言われる筋合いもねぇ」
それまでと明らかに口調が違う。とことん突き放すような、取り付く島もなく冷ややかな――絶対的な拒絶と言っても過言ではない。けれども、ルイスは懸命に食い下がった。
「だけど、君は孤児だろう!? 引き取ってあげるって言ってるんだ。この手を取った方が利口なのはちょっと考えれば分かる筈だろ。僕の弟に、家族になってよ。絶対に幸せになれるよ! ねっ?」
「あんたもくどいな。言ったろ。それが価値観の押し付けだって言うんだ」
その美しい翡翠が、氷点下の冷たさでルイスを睨み据える。
底冷えを覚えるその瞳に、ルイスは思わず一歩下がった。自然、扉を押さえるように突いていた手が、重力に従って脇に落ちる。
その隙を逃さず、ティオゲネスは滑るような動きで廊下へ出て行った。
それから五分も経たない内に、そっと扉が開く。顔を覗かせたのは、両親だった。
「父さん……母さん……」
聞かれていただろうか、とルイスは一瞬、心臓が冷えるのを感じた。
だが、父も母も何も言わなかった。ただ、無言でルイスを抱き締める。
両親の腕の温もりに溶けるように、目から熱いものが溢れる。二人の背に、縋るように腕を回して、ルイスはひとしきり声を上げて泣いた。自分が何故泣いているのか、ルイス自身にも分からないまま。
***
『ねぇ、何で!? 何で、信じてくれないの!?』
フェルトン家の滞在部屋を後にしたティオゲネスは、エレベーターホールへ歩きながら、溜息を吐いた。
(何でって言われてもなぁ……)
理屈ではないのだ。
ああいう人種は、いくら付き合おうとこちらの信頼が生まれることは決してない。
ルイスは、自分の価値観が一番正しいと信じているから、あんなにも簡単に意見を押し付けられるのだろう。けれども、親切の押し売りにはほとほとうんざりする。
そもそも、フェルトン一家のように、自分が正しいと信じる人種は、正論でしか生きていない。だから、こちらの素性を知った途端、掌を返すようにできているのだ。それを、ティオゲネスは経験で知っている。
(……少し、羨ましい気もするけど)
翡翠の目を伏せ、またそっと息を吐く。
言い換えれば、今の今まで正論だけで生きて来られたのだ。それはそれで、幸運で幸せな人生だと言えよう。
けれども、ティオゲネスのたった十一年の人生は波瀾万丈過ぎ、且つ『正論』とは真逆の要素に満ちていた。
自分の過去を踏まえた上で、掌を返さなかったのは、ラッセルやアレクシスを含む、ごく少数のCUIO職員だけだ。
彼らは、何だかんだ言って、仕事であらゆる犯罪者と付き合っているから、時にキレイゴトだけで済まないところも見ざるを得ない。『罪を犯す』という一言にしても、それがケースバイケースだということもちゃんと心得ている。だから、ヴェア=ガングの子供達も、組織の一件に携わる刑事達にだけは心を開けるのだ。こちらの生きてきた道を否定せず、徐々に表の世界に慣らしてくれようとしているのが分かるから。
(まあ、CUIOの奴らも色々いるけどな)
ティオゲネスは、そう脳裏で独りごちながら、ホールにある四つのエレベーターを見回した。
向かって左手の二つの箱の呼び出しボタンの、『上』を押す。手にした乗船チケットによれば、自分達の部屋は五階にある。
両方の階数の表示が、点灯しながら移動を開始した。
やがて、ポン、という音と共に、右の扉が先に開く。ちょうど、上へ行く通過途中だ。乗り込もうとして、ふと中に視線を投げたティオゲネスは、ギクリと身体を強張らせた。
箱に乗っていたのは、ほんの数人。その中に、知った顔がいた気がしたのだ。
まるで氷のように冷え切った手で、体中を撫で上げられるような感覚に総毛立つ。こういう感覚は、組織にいた頃の訓練以外で感じたことはない。しかし、それは一瞬だった。
よく注意して見ても、箱の中にいるのは見知らぬ人間だけだ。
女性が二人に、男性が三人。そして、親子連れらしい三人家族が一組。
(……気の所為……か?)
けれども、まだ寒気の残滓が漂っているような気がして、ティオゲネスはその箱を見送った。こういう感覚は無視しない方がいいのは、組織時代に嫌という程経験済みだ。
その箱が上へ向かった直後、左の箱の扉が開いた。その箱は、上から降りてきて、すぐに上へ向かう表示になる。
ポン、と音がして、開いた箱の中には、ラッセルが乗っていた。
「よお、ティオ。どうした?」
「……え、何が……」
扉が開いたにも関わらず、箱に足を運ぶ様子の見えないティオゲネスに、ラッセルはゆったりとした足取りで歩み寄る。折角呼んだエレベーターは、再びポン、という音を立てて扉を閉じた。
それが、どこかティオゲネスにはのんびりとした音に聞こえた。これから何か、面倒なことが起きるかも知れないのに、という焦燥感が胸の奥に燻っている。
「顔、真っ青だぞ。まだ出航してもねぇのに、もう船酔いか?」
だらしねぇなぁ、と笑うラッセルを、何でもいいから一喝したい気持ちを堪え、ティオゲネスは視線を下に向けた。
「ティオ?」
彼は訝しげに呼んだものの、そこは現役の捜査官だ。ティオゲネスの様子がいつもと違うことに気付いたらしい。
視線を合わせるようにしゃがみ込んだ彼の琥珀色の瞳が、穏やかにティオゲネスの翡翠を見つめる。
その穏やかな琥珀に、動揺して波立っていた感情が、徐々に落ち着きを取り戻し始めた。
はあ、と息を吐いて、ティオゲネスはラッセルを見つめ返す。
「……ラス」
「ん?」
「この旅……キャンセルとか、できねぇよな」
「は?」
瞬時、間の抜けた声を出して目を見開いたラッセルは、思い直したように表情を真剣なものに戻した。
これが他の捜査官か、IOCAの職員だったら、こうはいかない。大方は、トライアルに対してやはり嫌気が差したのだと判断するだろう。人によっては、「ここまで来てそんなコト言わずに。行くだけ行ってみたら?」とでも言って宥めるに違いにない。
けれど。
「何かあったのか」
と切り返してくる辺りは、流石に北の大陸<ユスティディア>北部の元ストリートチルドレンだけのことはある。危機意識が、一般家庭から刑事になった者とは段違いで、ある意味組織の仲間を相手にしているようなやり易さと安心感があった。
ティオゲネスは、チラと周囲に視線を走らせ、気配を探る。
今のところ、特に敵意のようなものは感じられない。だが、さっきの凍る感覚が、まだ体奥に残っているような気がして気持ちが悪い。
逃げ出したい衝動を、自分を抱き締めることで抑えようとする。
「ティオ?」
「……分からねぇ」
そう、詳しいところは、ティオゲネスにも本当に分からなかった。
組織で感じた感覚だから組織の人間が乗っている、と判断するのはあまりにも早計だ。けれど、気の所為である筈がない。となると、何かが起きようとしているとしか言いようがなかった。
勿論、根拠など一切ないが。
その時、可愛らしい音楽が流れ、船内アナウンスの始まりを告げた。
『皆様。本日はこのアウフステュス号に乗船下さり、ありがとうございます。本船は、間もなく出航致します。南島国<サトヴァン>までは、わたくし、船長のタルヴォ=カルミがご案内致します……』
声の出所を探るように、二人は同時に上を見た。
おもむろに顔を戻すと、元通り視線が重なる。
船長と名乗った男の声が、発着時刻と航行予定を続けて告げているのは、もう耳に入らなかった。
「……さて、どーする? 降りるなら今の内だぜ」
トライアルのキャンセルに関しては、おれが全部責任持つ。
そう付け加えて、ラッセルはヒタとティオゲネスの翡翠を見据えた。
「……いや」
尚も逡巡した挙げ句に、ティオゲネスは首を振った。
もし組織の人間が乗っているのなら、今逃げたとしても、いずれ火の粉が降りかかるかも知れない。ならば、災いの種は早めに潰すに限る。
夏の裏風物詩である、あの黒い害虫と同じだ。遭遇した時に片付けなければ、どこへ逃げ込んで、いつどこでまた出会すか分からない。それまで、戦々恐々とするのは御免だ。
仮に、全く関わりのない犯罪者だとしたら、たとえ一人でも片付ける自信はあるから、それはそれで構わない。何事もなければないでいいし、取り越し苦労ならそれに越したことはない。
(だけど)
あの一瞬の悪寒だけが、ティオゲネスの中で警鐘を鳴らし続けている。
まだ心臓が落ち着かない中、出航を告げる汽笛の音が、どこかのほほんとした響きを伴ってティオゲネスの耳を通過した。




