Chase.2 崩壊する日常
赤い、赤い足跡。
彼女の通った後に、点々と落ちていた、鉄錆びた臭いのする、足跡。
一瞬、夢なのか現実なのかが分からなくなった。
まるで、夢の続きのように――
***
「ティ、オ……待って…ちょっと……」
荒い呼吸の合間に呼び掛けられて、ティオゲネスはようやく走るスピードを緩めた。
どれくらい走っただろうか。今、誰かが追って来る気配はなかった。息を切らせているエレンを少し休ませる為、ティオゲネスは完全に足を止めて、彼女の腕を引いていた手を放した。
それでも警戒のアンテナは緩めずに、路地裏へ隠れたまま表通りを伺う。
このまま一度教会へ戻るべきか、ティオゲネスは迷った。
普通に考えたら戻るべきだろう。逃亡するにしても、今のエレンの服では人目を引きすぎる。
それよりも、うっかりUSBメモリを預かってしまったことが、ティオゲネスには悔やまれた。
あの血塗れの女性――リタ=アン=クラークとティオゲネスは顔見知りだった。顔見知りよりも親しい関係だと言ってもいい。
四年前、ティオゲネスが四歳から十歳の時まで所属していた暗殺者養成組織がCUIOの手入れで崩壊し、組織で暗殺者として育てられていたティオゲネスを含む子供達は組織から解放・保護された。
全体でどれくらいの子供が、捕まって暗殺者として生きることを強要されていたのかは知らない。
けれど、とにかく彼らは全て保護され、一定のカウンセリング期間を経た後に、一部が里親の元へ引き取られたと聞いている。
ティオゲネスも組織の崩壊から二年ほど後に、今の『家』であるマルタン教会付属孤児院へ引き取られた。だが、拾われてから組織崩壊までの六年間を殆ど実戦訓練の中で過ごしたティオゲネスは、一般人が言うところの『普通の生活』に馴染むのにひどく苦労した。
四歳まではそれでも普通の生活をしていた筈だが、その辺りは自身の記憶としては朧気だ。組織が崩壊する頃には、周囲を常に警戒する習慣がすっかり染み着いてしまっていた。それだけならまだしも、銃を抱いて寝ることだけは孤児院に移ってからも中々止められなかった。
それでなくとも、組織に騙されて拾われ、殺し屋になることを強要された経緯から、他人を信用するということも難しかった。気を許した途端、掌を返されるのではないかという恐怖が、胸奥深くに常に淀んでいて、周囲と普通の会話ができるようになるまで組織の崩壊から丸四年掛かった。
今でも、心底から信用しているとは言えない。ただ、本心を隠して言葉を交わすことにようやく慣れただけのことだ。――言葉を、虚構で飾ることを覚えた。そうやって心を守っていれば、傷つかずに済むからだ。
一度深く傷ついて、他人を傷つけ殺めながら育った少年が、そうやって自分を守ったとて、責められる謂われはないだろう。
けれども、そんな不信にまみれた精神状態の中でも、信用できると思いたい人間はいる。
その中の一人が、リタだ。
彼女は、組織崩壊の時に子供達を保護してくれた警官の一人だった。
信用するしないではなく、彼女の場合裏表が全くなかったので、疑うことが逆にバカバカしく思えただけなのだが。
あの頃、リタはCUIO本部勤務だったが、その彼女が、何の用があって、このギールグット州にいたのだろうか。教会付属孤児院に移ってからは頻繁なやり取りがなくなったので、その辺りはよく分からない。
(手掛かりはこのUSBか……)
ポケットに突っ込んであったそれを、取り出して見下ろす。掌サイズで、一見長方形の銀細工に思えるそれには、微かにリタのものと思える血液が付着していた。
中身が無事かは判らないが、開けて見れば、彼女がここにいた理由よりは、死ぬことになった理由が分かるかも知れない。けれど、データを見てしまったら、本当に後戻りできなくなる気もした。
相手がリタではなく、全く知らない人間だったら、そもそもエレンとぶつかった時点で無視しただろう。さっさとエレンを立ち上がらせ荷物を拾って、何事もなかったかのように教会へ帰ろうとしたに違いない。
組織に引き取られて、実戦訓練に放り込まれた頃から、ティオゲネスにはいつしか自分と関わりない面倒事に首を突っ込まないようにする癖がついていた。
ところが、このエレン=クラルヴァインという少女は、そんなティオゲネスとはとことん正反対だった。
倒れている人を見てはどうしたんだと駆け寄り、転んだ子供を見ては大丈夫かと助け起こす。
それくらいならまだしも、そうやって助けたらしい男(当時二十歳前後だったか)に見事に勘違いされてストーカー被害に遭ったことまであるのだ。
丁度、ティオゲネスが教会へ来たばかりの頃の話だ。それは、警戒心剥き出しの捨て猫のようだった自分(注・エレン談)に、彼女が何やかやと世話を焼いていた時期と重なる。
その所為で、ティオゲネスを恋敵と思い込んだ勘違い男の取り巻きに銃撃され、その時迂闊にも丸腰だったティオゲネスはシャレにならない傷を負ったりした。
勿論、チンピラに毛が生えた程度の連中が銃火器を持ったところで、格闘のプロも顔負けの修羅場を潜って来たティオゲネスの敵ではなく、やられた分はきっちり倍にしてお返ししてやった。その後、肝心のストーカー被害者の筈のエレンに、何故かこっぴどく叱られたのは、かなり割に合わない結末だったが。
こんなことがあっても尚、懲りずに『困っている人がいると放っておけない症候群(注・ティオゲネス命名)』を毎日いかんなく発揮してくれるのだから、ある意味恐れ入る。
今回も、例え自分が無視してもエレンが放っておかなかっただろうことを思えば、どの道巻き込まれる運命だったのかも知れない。
この二年の間に、彼女が面倒事を背負い込む度に、尻拭いをするのは自分という図式がすっかり出来上がってしまっているのを、ティオゲネスはもう認識しない訳にはいかなかった。自分が来るまで誰がこの役をやっていたのだろうかと思うが、思っても詮無いことだ。
巻き込まれた以上、どうやって切り抜けるかを考えた方がよほど建設的であることも、この二年の内に否応なく学んでいる。
「ティオ……どうするの、これから」
ようやく呼吸が整ったらしいエレンが、腰を曲げて膝に手を突いた姿勢のまま問うて来る。
元々はお前が原因なんだからお前もちったあ考えろ、とよほど言おうかと思ったが、言うだけ徒労なのも分かっている。喉まで出掛かったその台詞は、苦労して呑み込んだ。
「まずは、お前のその服をどうにかしてからだな」
「あー……」
自分の朱に塗れたワンピースを見下ろしたエレンは、どこか情けない声を出して押し黙った。
形の良い眉尻がヘニョリと下がっているところを見ると、少々、いや、かなりお気に入りの服だったのだろう。
服の基準はティオゲネスには分からないが、彼女の気分くらいは分かる。エレンもリタと同じで裏表がなく、考えていることがすぐ顔に出るからだ。
「ちょっとちゃんと立ってみ」
ティオゲネスが右手の人差し指をクイクイと上に向けると、エレンは訝しげな顔をしながらその指の動きに導かれるように上半身を上げた。
リタの出血具合と、ぶつかった時の状況を考えれば、まあこんなものかという状態だ。胸部から下が血でべっとり――というほどでもないが、模様と言い切るには不自然な赤い斑が裾まで踊っている。
追手の一人を無傷で捕らえて服を拝借すればよかったと思ったものの、既に後の祭りだ。
ティオゲネスはスカート部分の端を摘むと、おもむろにめくり上げた。
「なっ、何すんのよっっ!!」
「バカ、騒ぐな! お前こそ何勘違いしてんだよ!」
反射的に悲鳴を上げたエレンに釣られて、真っ赤になりながら小声で制すると、裏地にどれだけ血が染みているか確認する。
引っ繰り返して着れば目立たないかと微かに期待したのだが、リタと密着していた時間が長かったのか、残念ながら血は裏地にもばっちり染み込んでいた。
「……何なの?」
落胆して思わず溜息を漏らしたティオゲネスに、エレンがまだ頬を薄赤く染めながら問う。
「いや。裏っ返して着れば服屋に移動する時だけでも誤魔化せるかと思ったんだけどよ」
裏も表も対して変わらない。
けれども、いつ相手が追い付いて来るか判らない以上、ここで唸っている時間もなさそうだ。
「金、後どんくらい余ってる?」
「あ……えっと」
言われて、エレンが肩から下げていたポシェットを探って財布を取り出す。今日の買い出しの為にとラティマー神父から渡されていたものだ。
ティオゲネスは、エレンの手元を覗き込んだ。財布の中身をざっと目算すると、意匠を選り好みしなければ服一着分くらいは余裕で払えそうだ。
人目と追手に神経を尖らせながら服屋が並ぶ界隈まで路地裏を移動し、ティオゲネスは自分が着ていたパーカーを脱いでエレンに手渡した。
「何?」
「それで前隠せ。それも相当不自然だけどないよりマシだろ。あそこまで走るから、絶っっ対転ぶなよ」
「う、うん」
ティオゲネスが指した服屋は、表通りの通路を挟んだ数メートル先にある。そこは、車は通行禁止になっている広めの露地で、服屋だけでなく食料や雑貨などを扱う様々な商店が軒を連ねている通りだ。
念を押したものの、この二年の経験則から言うと、ティオゲネスは激しく不安だった。エレンは、ティオゲネスの常識から照らすと考えられないくらい鈍くさいのだ。
先刻も逃げる途中、何もないところで転んでいるし、そもそもぶつかる前に何故避けられないのか理解に苦しむ。
今日だって、自分が前を歩いていれば、血塗れの人間とまともに正面衝突するなどという事態にはならなかっただろう。
ここへエレンを待たせておいて自分だけ行くこともチラリと考えたが、それはそれで面倒なことになる危険性が高い。いっそ負ぶって移動すれば一番確実だが、返って人目を引いてしまう。
ティオゲネスは一つ息を吐いて、気持ちを切り換えた。行動に出る前にあれこれ考えても詮無いことだ。
「行くぞ」
エレンが頷くのを確認して、先に駆け出す。手を引こうかとも思ったのだが、血を隠す為に前にパーカーを抱えている状態で両手が塞がると却って転ぶ確率が上がる。
エレンは、彼のパーカーを横長になるように抱えて、胸から裾まで付いた血の跡を覆い隠すと、小走りで彼について走った。そして、スカート以外の余計なものが足の前にあったことで、ティオゲネスの嫌な予感は程なく現実のものとなった。
「きゃっ……!」
嘘だろ、とティオゲネスが思ったのは言うまでもない。
人通りも少なく、地面の上に何か引っかかりがあるとすれば煉瓦の接続部にある僅かな角くらいのものだ。けれど、そのどちらでもなく、不自然に足の前にあったパーカーを、何とも器用に絡み付かせたエレンは、本日三度目の転倒を披露する羽目になった。
「おいおい、大丈夫か、お嬢ちゃん」
「どうしたの? あら、エレンちゃんじゃない」
人通りが少ないとは言え、全く人目がない訳ではない表通りだった為に、面倒なことに人が集まり始めた。更に厄介だったのは、エレンの顔見知りが混ざっていたらしいことだ。
「あ、お、小母さん。こんにちは」
その上、声を掛けられたエレンは、人目のある場所で転んだ恥ずかしさに顔を赤くしながらも、丁寧に挨拶を返している。
ティオゲネスは、内心舌打ちしながら天を仰いで頭を抱えたい気分だった。時と場合を弁えてくれ、と声を大にして言いたかったが、今更言っても仕方がない。
「行くぞ」
「あ、う、うん」
溜息混じりに小さく声を掛けると、返事をしたエレンは地面に打ち付けられた痛みに身体が強張っているらしく、ギクシャクとした動きで立ち上がった。そして、またしてもお約束なことをやらかしてくれた。
抱えていたパーカーを一緒に持って立ち上がるという同時動作が苦手なのか、単に忘れたのか、とにかく遮蔽物がなくなったエレンのワンピース前身頃はその場にいる全員の目に丸見えになった。勿論、『赤い模様ですよ』とはお世辞にも言えない、血の染みもだ。
「まあどうしたの、エレンちゃん! それ、血じゃないの!?」
エレンと顔見知りらしい中年の婦人が悲鳴を上げる。
「今、転んでどこか怪我したの?」
血の量からして、そんな訳はないのは一目瞭然だ。
「あ、えっと……」
これまた丁寧に受け答えをしようとするエレンだが、流石にあったことを正直に言うのはまずいというのは分かっているらしい。しかし、元来が素直で真っ直ぐなエレンは、咄嗟に適当に誤魔化すということが苦手なのもティオゲネスは知っていた。
しどろもどろしながら、「染めたんですよ」などと、案の定苦し過ぎる言い訳をしている。
彼女を連れて正攻法で切り抜けようという方が、どだい無理だったのだ。
微妙にズレたところを反省したティオゲネスは、今度こそ意識を切り換えた。群衆の視線がエレンに向けられているのをこれ幸いと、後数歩先にあった服屋の中へ滑り込む。見事な手際で女性ものの衣服一式を失敬すると、素早く群衆を掻き分けてエレンの元へ戻った。
この辺りは生活の為の便利な店が揃ってはいるが、まだまだ田舎で、防犯防止タグのようなものが付いた品物はない。それは、田舎故のお互いへの信頼がある証ではあったが、未だに『戦闘者』であり、『生き残る為に何でもする』という習慣が抜け切らないティオゲネスから見れば、盗みのし放題としか映らなかった。
「走れ!」
「えっ……ええっ?」
主にあの中年婦人に質問攻めに遭っている彼女の耳元で鋭く囁くと、彼女の腕を引く。
いきなり脈絡なく大きな声を上げたエレンに驚いたのか、周りにいた人間は、皆呆気にとられた顔をした。その隙を突いたティオゲネスは、混乱しているエレンを半ば引きずるようにして、建物のすぐ脇にあった路地へ飛び込んだ。
エレンの名を呼ぶ声が角を曲がった分小さく背後から聞こえたが、もう知ったことではない。今は非常時なのだ。
店も後になれば盗みにも気付くかも知れないが、今はこの場を逃れられればどうでもいい。生き延びれば事情を説明できる機会もあるだろう。
商店露地から充分に離れたと思えるところで、ティオゲネスは走る速度を緩め、完全に人気がない場所を探して視線を巡らせた。
「ティオ。一体何を……」
一方、またしても訳が分からない内に全力疾走させられたエレンは、やはり息が上がっている。特別太っているという訳ではないように思えるが、彼女は少し運動不足なのではないだろうか、とティオゲネスは思った。
エレンの名誉のために付け加えれば、そんなことは決してない。ティオゲネスの前歴と、それに伴って付いた体力が、常人のそれより少々あり過ぎるだけのことである。
「ほら」
ティオゲネスは、息を整えるのに忙しいエレンに頓着することなく、手にしていた服をエレンに突き出した。
「? 何これ。どうしたの?」
「お前がさっき質問攻めに遭ってる間に貰って来た」
「貰って来たって……誰から?」
「誰でもいいだろ。その辺で早く着替えろよ」
「誰でもって……いいわけないでしょ!? まさか服屋から盗んだんじゃ」
やはり、こんな時に限って勘が冴える。
「黙って借りただけだろ」
「そーいうのを世間じゃ万引きって言うのよ! これ着たらあたしも共犯になるのよ!? ああもうー……」
根が真っ直ぐなエレンは、「ああ」だの「うう」だのと最早意味のない呻きをこぼしながら頭を抱えている。放っておくとまた事態を考えない行動に出そうなので、その前にティオゲネスは口を開いた。
「断っとくけど、『返しに行く』とか『お金払って謝って来る』とか言うのはなしだぜ。一応訊くけど、今の状況、分かってるよな?」
「う……」
エレンはティオゲネスに渡された新しい服を胸に抱えて、目をウロウロと泳がせている。
「ほら、そんなとこに抱えちゃ、折角借りて来た服まで血塗れになるぞ」
あくまでも『盗んで来た』のではなく、『借りて来た』服を彼女の手からひょいと取り上げて、もう一度訊ねる。
「今の状況、説明してみ?」
「……誰かに追われてる」
「正解。時間が何より大事で、人目に付かないことも大事だって分かるよな?」
「……うー……」
それは分かっているけど、と反駁したげな目をして、エレンは尚も視線を彷徨わせた。しかし、ティオゲネスの言うことに理があるというのも分かっているのだろう。最終的には頷くことで同意を示した。
「じゃあ、とっとと着替えてここから離れようぜ。言い訳も謝罪もここを生きて切り抜けなきゃできねーんだからな。脱ぐのが恥ずかしいとか言うなよ。恥ずかしかったら素早く着替えりゃ済む話なんだからな。まさか下着着てないってコトはねーよな?」
反論を許さず服を渡すと、エレンは無言でティオゲネスの視線から逃れるように背を向けた。背中に付いたワンピースのチャックを器用に下ろして、ティオゲネスに渡された上下の分かれた衣服に、彼女なりの素早さで着替える。
ティオゲネスは微妙に視線を外したが、それでも彼女を視界から全く外してしまうことはしなかった。覗き精神ではなく、こういう時に足手纏いから目を離すということがどういう事故に繋がるか、ティオゲネスは経験上知っている。
ブラウンの柔らかな生地を使った丸襟のTシャツと、黒い膝丈のプリーツスカートという、普段のエレンならまず選ばない色使いの上下に彼女が着替えを終えると、ティオゲネスはそのままトラレスタウンを出て、ギールグット州とリヴァーモア州の州境にあるプロプストシティへ足を向けた。
***
「ふあーあぁ……」
リヴァーモア州首都・イージドールシティ在所のCUIOリヴァーモア支部の一室に、何とも身の締まらない欠伸の声が響く。
「ちょっと、ギブソン刑事! 頼むからそういう空気の抜けるような欠伸するの止めて貰えます?」
キンと尖った声が鋭く飛ぶ。最近リヴァーモア支部に異動して来た、うるさ型の若い女性警官だ。名は確か、メリンダ=ウルフスタンとか言っただろうか。
「仕方ねーだろ、セーリゲンショーなんだからよー」
ギブソン刑事こと、ラッセル=ロイ=ギブソン警部補は、欠伸に負けないノッタリとした口調で返しながら、語尾にもう一度欠伸を付けた。
(暇だなぁ……)
西の大陸<ギゼレ・エレ・マグリブ>は、全体的に平穏そのもので、滅多に大きな事件はない。
四年ほど前に、大胆にもこのギゼレ・エレ・マグリブで活動していた暗殺者養成兼派遣組織の手入れがあった時くらいのものだ。
もっとも、かなりの巨大組織だったそれは、公にはされていないが、未だに逃亡中の残党がいる。また、そこから救い出した孤児達に、然るべき里親を捜したりする仕事もあったりして、そういう点ではまだまだ忙しい。が、今ラッセルが取り組んでいるのは、逮捕済みの者と捜索中の者のリストのチェックという、如何にも眠くなりそうな事務作業だ。
(ま、警察なんて給料ドロボーって言われるくらいが丁度いいんだよな、ホントは)
とは言え、元々が北の大陸<ユスティディア>の更に北部出身のラッセルにしてみれば、こう思えるようになるのにも随分掛かった。
その昔、ユスティディア北部の町でストリートチルドレンをやっていたラッセルを助けてくれたのが、CUIOに所属する刑事だった。彼に憧れて、ラッセルはこの道を選んだのだ。
自分のような恵まれない孤児を、刑事として助けたい、と。当然、ユスティディア勤務を希望したが、残念ながらユスティディアの支部はレムエ一ヶ所のみ。
今のところ、さして人は出していないという話で、運がいいのか悪いのか、ラッセルは世界で最も平和だと言われるギゼレ・エレ・マグリブ勤務になったのだ。
おかげで四年前のように、図らずも『自分と同じ境遇の恵まれない孤児』を救う任務に関われたのだから、結果オーライというところか。
安易に暇だなどと考えてしまった自分を反省すると、ラッセルは目の前のデータ書類の続きをしようとパソコン画面に向き直る。と同時に、ボトムのポケットに突っ込んであった携帯端末が震えた。
一応勤務中なので暫く無視してみたが、バイブレーションは中々止まらない。メールではなく通話のようだ。
「悪ーい。ちょっと抜けるー」
「ギブソン刑事っっ!!」
メリンダの声が追い掛けてくるが、元より彼女の許可を得るつもりはないし、その必要もない。彼女はラッセルの上司ではないのだから(どちらかと言えば彼女の方が階級は下なので自分の方が上司だろう)。室内で共に書類とにらめっこしているのは何も彼女だけではないから、別に誰にと限定することなく席を外すことを知らせただけだ。部屋のドアへ向かって歩きながら、ラッセルは携帯画面を確認する。
登録してある知人が相手なら、その番号が表示されるべきところへは『TELEPHONE BOX』の文字が出ていた。
(公衆電話~?)
誰からだろうねぇ、と脳裏で呟きながら、廊下へ出たところで『出』ボタンを押す。
「はい、もっしもーし。こちらギブソンのケータイでーっす」
『……あんた、相変わらずだな』
こちらの応答に一瞬呑まれたような沈黙の後、溜息混じりに受話器から漏れたのは、張りのある若い声だった。声変わりの来ていない少年の声とも、ハスキーな少女の声とも取れるそれに、思い当たるものはない。
「どちらのお子ちゃまのイタ電でちゅか? 悪いけどお兄さん、いっそがしいんだけどなー」
『誰が「お兄さん」だよ、図々しい。あんたもう三十代も半ばじゃなかったっけか?』
何、と眉を顰めた。
警官だからと言って、芸能人並に人に名前が知られているとは考えにくい。名前だけならともかく、年齢まで知っている人間は限られて来る。
『第一、俺もイタズラで電話掛けるほど暇じゃねーし、盗聴の危険があるのにそれ冒してまで電話するほど酔狂じゃないね』
「おまっ……! もしかして」
こういう人を喰ったというか、ある意味マセた喋り方をする一人の少年に思い当たって、ラッセルは思わず叫んだ。
引き出された記憶の中で、銀灰色の髪と翡翠の瞳、整った容姿を持った少年がこちらを振り向く。
「ティ」
『はい、ストップ。俺が何者か判ってくれて嬉しいケド、さっきも言った通り盗聴の危険があるんでな。名前呼ぶのは遠慮してくれ』
名前を呼び掛けた途端、少年にストップを掛けられて、ラッセルは押し黙った。
だが、多分間違いない。
ティオゲネス=ウェザリー。電話の向こうにいるのは、そういう名前の少年の筈だ。
四年前、暗殺者養成組織で殺人者として教育されていた子供達の中の一人で、ラッセルもかなり近しく接触を持っていた。すぐに判らなかったのは、まず電話機を通している声だということが一つと、彼が二年前にある教会付属孤児院へ引き取られた後付き合いがなかったことが原因だ。
『早速だけど本題に入らせて貰う。あんた、リタを知ってるだろ』
「え、あ、ああ」
あまりにも唐突に話を振られて、また記憶を出し入れするのに少し手間取るが、すぐに思い当たる。
リタ=アン=クラーク。
四年前の組織瓦解の一件の時知り合った、CUIO本部勤務の女性刑事だ。
『何か聞いてないか』
「何かって?」
質問の意図を掴み兼ねて、相手には見えないと知りつつも、ラッセルは首を傾げた。
すると、やっぱり聞いてないか、と一人納得したような、それでいて落胆したような声音が漏れ聞こえた。
「彼女がどうかしたのか?」
『死んだ。多分』
「は?」
あまりにも端的で、思わず間抜けな声が出た。
今、電話機の向こうの少年は何と言ったのか。彼女が、死んだ?
「……って、多分って何だ、多分って」
ヒトが亡くなったと報告するには随分アバウトだな。そう付け加えると、恐らくティオゲネスと思われる相手は、最期まで看取った訳じゃねーから、とあっさり言った。
『ただあの怪我じゃ、止め刺されなくても遅かれ早かれあの世逝きだなって思っただけさ。ちょっと手ぇ貸して欲しいんだけど』
「また随分話が飛躍するな。それとこれとがどう繋がるんだ?」
『詳しく説明する時間はねぇ。後十五秒』
「何?」
『逆探知に必要な時間。取り敢えず、今から俺達はCUIOの本部へ向かうつもりだ』
「はあぁ?」
益々訳が解らない、とばかりにラッセルは、溜息とも疑問の声とも付かない吐息を漏らした。
あのな、今の世の中デジタルだぞ。逆探知なんて一秒も要らない筈――とそこまで考えて、相手は公衆電話だったと思い直す。
公衆電話も逆探知は可能だが、携帯や家庭の固定電話より多少時間が必要だ。
「今どこにいるんだ」
『言えない。言ったら多分すぐ見つかるから』
「おい」
『メストルには最悪一日あれば着けると思う。保護施設の別館て、まだあるか?』
「え」
例の事件で保護された子供が『保護施設の別館』と呼ぶ場所は、即ちCUIO本部付近で、一時的にCUIOが借りている建物のことに間違いない。
『じゃあそこで』
「え。お、おい!」
待て、という間もなく通信は切られた。
耳元にはツーツーという電子音が空しく響くばかりだ。
(あの別館……まだあるんだっけか?)
確かにまだ里親の決まらない子供がいる以上、別館はあるだろうとは思う。しかし、建物が変わっていないとは言い切れない。未だあの事件と関わっているとは言え、本部勤務ではないラッセルの持つ情報は確かではないからだ。
それでなくとも、情報量が少なすぎる。けれど、ティオゲネスが、何か切羽詰まった状況にいることだけは理解できた。
(リタが……どうとか言ってたな)
唯一有力な手掛かりと言えば、彼女のことしかない。
しかし、悠長に調べてからと言ってもいられない。
ラッセルは執務室内へ取って返す。
こちらの顔を見るなりキャンキャンと喚きたそうなメリンダに、リタの調査を頼んだ。それが終了次第自分の携帯に連絡をくれるように言うと、彼女の返事も聞かずにリヴァーモア支部の支部長の元へ出張の許可を貰う為、再び執務室を後にした。




