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ティオとエレンの事件簿  作者: 神蔵(旧・和倉)眞吹
Case-book.3―School―
20/72

School.2 セシリア=レアード

「きゃっ……!」

 後ろから不意に突き飛ばされて、エレンはたたらを踏んだ。足下が不安定になったタイミングで、足を引っ掛けられて結局転ぶ。

「あら、引っ掛かったかしら。足が長いものだから、ごめんなさいね」

 穏やか口調の嫌味が降る中、エレンは殆ど四つん這いになって、転んだ表紙に散らばってしまった教科書とノートを、無言で拾い集める。

「痛っ……」

 床へすっ飛んだ最後の一冊を拾おうと伸ばした手の甲を、上靴に踏み付けられて、エレンは顔を歪めた。

「あ、やだ、踏んづけちゃった? ごめんねぇ。でも、貴女がまだそこで本なんて拾ってるのなんて、知らなかったから」

 クスクスと小さく笑いながら、数人の少女の一団が去って行った。

 はあ、と溜息を吐いて、エレンは最後の一冊を拾う。

 移動教室の為、生徒がいなくなった教室には、今やエレン一人だけだ。けれども、移動する気をすっかり殺がれたエレンは、元通り自分の席へ座り込んだ。

 ルームメイトのルシンダ=ランフランクが亡くなってから約半月、周囲の少女達はずっとこの調子で、エレンはすっかり参っていた。

 マルタン教会から外へ出てからも、ルシンダが亡くなるまでは、エレンは比較的他人に受け入れられ易い少女だった。だからこんな風に、他人の悪意を一身に受けるような状況に陥るなど、思ってもみなかった。

 表向き、ルシンダは急病で学院を去ったことになっている。

 しかし、まだ新しい環境に慣れていなかったらしいシスター・ジーナが大袈裟に騒いだ所為で、ルシンダが血塗れになって亡くなっていたことも、その状況が所謂『密室』状態だったことも、一日も待たずに寮内に広まってしまった。

 この学院の寮には、建物そのものに鍵を掛けるが、その上で、少女達は自分達の部屋にも鍵を掛けるよう教わる。

 西の大陸<ギゼレ・エレ・マグリブ>は、世界で一番平和な大陸と言われてはいるが、一歩外へ出たら物騒なこともある。室内は、少女達のプライベートな空間であり、自宅であるから、自宅に帰った時と同じに考えなさいという指導だ。

 額面通りにモノを受け取るしか能のない(と、これは考えてからティオゲネス辺りが言いそうだ、とエレンは思った)少女達は、密室、イコール『同室だったエレンがルシンダを殺したに違いない』と思い込んでいるのだ。

 教師代わりの、シスター達はシスター達で、そもそもルシンダを『亡くなった』とは言わず、あくまでも『体調不良の為、退学した』と言い、それを生徒にも徹底した。

 つまり、存在しない筈の『ルシンダの死』が原因の、『いじめ』も起きる道理がない、という訳で、あからさまないじめにも見て見ぬ振りである。シスター・ジーナでさえ、気にはしてくれているようだが、盾になろうともしてくれない。

 こんなことで、本当に聖職者だろうか。エレンは、落胆も勿論あったが、それよりは呆れの方が強かった。もし、ラティマー神父がこの場にいたら、教師としては言うに及ばず、聖職者としての在り方を問うただろう。

 この機会に、マルタン教会へ戻ることも考えた。

 先日、アレクシスが訪ねて来た時に、そう申し出ることも出来た。彼女が来た時には、既にルシンダの死から十日ほど経っており、いじめは日常化していたのだから。

 けれど、エレンは喉まで出掛かっていたその言葉を呑み込んだ。

 まだ少し、イェルドとのことが胸の奥に蟠っている、ということもあったが、何より、濡れ衣を着せられたまま逃げ帰るというのが我慢ならなかった。

 表情を険しくさせて、エレンは膝においた手を握り締める。拳を中心に、スカートが不規則な皺を刻んだ。

(……あたしは、何もしてない)

 だが、それを事実だと裏付ける証拠が何もなかった。寮内は、一歩室内へ入ってしまうと、プライベートな空間な為、防犯カメラは付いていない。

 そして、ルシンダの死亡推定時刻は――エレンは検死官ではないから、正確なことは分からないが、恐らく寮内が全て眠りに就いている頃合いだろう。シスターによる見回りもあるが、二時間に一度だし、正確な時間さえ知っていれば、鉢合わせないようにすることは出来る。

 けれども、仮に夜中にこっそり自分の部屋を抜け出したとしても、鍵の掛かっている部屋の住人と、マスターキーを持つシスター達以外に、三〇五号室へ出入り出来る人間はいない。つまり、そこに皆が『密室』であり、エレンが犯人だと決め付ける根拠があるのだ。

 しかし、寮内の廊下になら、監視カメラが付いている。だから、もし万が一、シスターの中の誰かが犯人ならすぐに――

(……分からないわよね)

 そこまで考えて、エレンは首を振った。

 録画映像に、室内に入るところが残っていたとしても、『見回りの一環だった』と言われればアウトだ。入った後に何をしていたか、その映像は残っていないからだ。

 それに、録画を確かめようにも、それがどこに保管してあるか、エレンは知らない。

(ティオなら、さっさと調べて確認するんだろうけど……)

 必要とあらば、どんなことでも器用にやって退()けてしまう美貌の少年が脳裏に浮かんで、エレンはまた一つ溜息を吐いた。

(どうしたらいいのよ)

 自問しても、答えは出ない。何も思い付かない。

 思い付くのは、もしもあの夜に時間を戻せたら、という実現不可能な妄想だけだ。

(ティオ……)

 こんな時に、彼がいてくれたら、と思う。そうしたら、きっと何かエレンの想像を超えることをして、犯人を見つけ出してくれるのだろうに。

 だが、そこまで考えて、エレンはすぐに彼を頼ろうとする自分を恥じた。

(バカね、あたし)

 そもそも、自分から距離を置きたいと思って、今ここにいるというのに。それなのに、彼が傍にいてくれたらと願うなど、自分本位にも程がある。

「エレンさん?」

 その時、ふと考えに耽っていたエレンを、現実に引き戻した声があった。

 顔を上げると、見たことのある顔が、教室のドアから覗いている。

 プラチナブロンドの髪が波打ち、アイスブルーの瞳がエレンの若草色とかち合う。

「あ……隣のクラスの、」

 名前は確か――と、記憶を探り当てるより早く、本人が名乗った。

「セシリア=レアードよ。それよりどうしたの、エレンさん。次移動教室でしょう」

 次の授業は、音楽だ。

 主要五科目以外の授業――音楽は勿論、美術、家庭科、体育などがそうだが、大体それらは二クラス合同で行う。音楽の相方は、隣の、三年A組である。

「うん……そうだけど」

 マルタン教会でもここでも、品行方正な優等生だったエレンは、授業をさぼるなどという文章は、脳内の辞書にはなかった。ただ、今日はもう、出る気になれない。

 保健室の先生に相談して逃げ込むという手もあるが、教員は全員宛にならなかった。

 言葉を濁して俯いていると、セシリアは、何を思ったのか、教室へ入って来た。

「あ……の、セシリアさん」

「呼び捨てでいいわ。あたしも、エレンと呼んでもいい?」

「え……ええ」

 ニコリと笑って言うセシリアに、エレンは混乱しながらも頷く。

 半月前のあの一件以来、殆どの生徒がエレンへの対応を、避けるか(同様の反応として傍観含む)、でなければ積極的にいじめるか、もっと進むと「早く正直にルシンダを殺したって言って、彼女のお父様に殺されればいいのに」などという生徒の三タイプに分かれていた。

 だから、こんな風に普通に話しかけてくれる生徒は、久し振りだった。

「行きましょ」

「え、でも、」

 エレンは、次の授業に出る気になれなかった。

 何の解決策もなく、教師も助けてくれず、耐え続けるのは限界に来ている。

 すると、セシリアは、そんなエレンの内心を読んだかのようなセリフを投げ寄越した。

「だって、ここじゃサボタージュするには目立ち過ぎるじゃない?」

 唖然とするエレンの手を引いて、セシリアは廊下に顔を覗かせた。誰もいないのを確認すると、静かにするようにエレンに身振りで示して教室を出る。

 何が何だか分からないまま、手を引かれていくと、彼女はどんどん廊下を進み、基本学術棟と呼ばれている校舎を出た。

 始業の鐘が鳴る。

 誰もいない中庭は、遊歩道を挟んで、両脇に丹精された植物が植えられている。ここだけは、外部から庭師が来て、手入れをしているらしい。

 名前の分からない、淡い色の小さな花が、まるで蝶が飛ぶようにあちこちに咲き乱れる中を、セシリアに手を引かれて通り過ぎる。

 エレンの手を引いたセシリアは、図書館棟へ歩を進め、扉をそっと開けて中を伺うと、姿勢を低くしてカウンター前を通過した。エレンも、慌てて彼女に倣う。

 この学院の図書館は広く、本当の市立図書館のようだ。

 蔵書数と種類は、共にユージェニー・シティ最多と言われており、休日には市民にも開放されている程である。週に一度、ここだけは外部の人間も入れることから、家族と会う場にしている生徒もいるらしい。

 大きなアーチ型の窓から射す陽の光が室内を照らし、無数の書棚の上で、埃がキラキラと踊っているのが見える。

 今は、平日の授業中とあって、セシリアとエレン以外の人間はいない。

 セシリアは、カウンターから見えない位置へ来るとスッと背を伸ばし、ズンズン進んで奥を目指した。

 少し奥まった場所へ来ると、螺旋階段があるのはエレンも知っている。その階段を登ると、ロフト状になった二階部分にも本棚と、隠れるような読書スペースがある。まるで隠れ家のようでエレンも気に入っていたが、最近は全校生徒の視線が痛いので、授業が終わると逃げるように自室へ引きこもっていた。

(そう言えば、最近本も読んでないなぁ……)

 生徒だけでなく、教師陣も明らかにエレンを疑っている。だから、本を借りにも来辛くなって、いつしか足が遠退いていた。

 けれど、教師陣は何故か、エレンを追い出すようなことだけは言わない。

 考えていることを口に出すだけ、生徒の方が分かり易かった。

「エレン。こっち」

 潜めた声が呼ぶのへ、視線を上げると、中二階から更に上へと伸びた階段の隙間から、セシリアが手招きしている。

 そこから上は、言わば生徒の立ち入り禁止区域で、エレンも足を踏み入れたことはない。

 だが、この時のエレンは、セシリアに手招きされるまま、初めてその階段に足を掛けた。

 階段を登り切ると、そこはまるで温室だった。

 ガラス張りの壁で仕切られた空間は、春先の今はポカポカと暖かく、その場にいると勢い眠り込んでしまいそうだ。

「外の方がいいかしら」

 言うやセシリアは、やはりガラス張りになっている扉を開けた。

「鍵が開いてたの?」

「元々ここは掛かってないのよ。わざわざこんな所から入り込むような生徒はいないから」

 屋上に出てそっと下を覗き込んで見れば、地上までは三メートルはあるだろうか。確かにここまでよじ登るような真似は出来そうにない。エレンの脳裏では、普通の人間なら、という注釈が付いたが。

(きっと、ティオなら登れるわね)

 この場にいない、美貌の少年を思い浮かべて苦笑する。

 そうしてふと、彼は一体何者なんだろうと思った。

 今まで気にも止めなかったが、彼は三メートルくらいあるフェンスを、楽々と飛び越していた。それだけではない。ならず者との駆け引きや銃撃戦を、顔色一つ変えずに掻い潜る。年齢にそぐわない修羅慣れしたその強さは、落ち着いて考えれば確かに普通ではない。

 けれども、その尋常ではない強さに、エレンが救われていたこともまた事実なのだ。

「座らない?」

 回想に沈み掛けたエレンの思考に、セシリアの声が滑り込んでくる。

 振り返ると、彼女は、ガラス張りの温室前に設えられたベンチに腰を下ろしていた。

「誰も来ないのに、ベンチがあるなんて、変なの」

 セシリアの隣に腰を下ろしながら言うと、セシリアは苦笑して肩を竦めた。

「シスター達がたまに日向ぼっこするみたい。昔はここに使わない本を置いてたらしいけど、こんなに日当たりがいいとすぐ劣化するから」

「ふぅん……」

 吐息のように言うと、エレンは正面へ視線を移した。

 遠い場所に、赤や茶色の屋根が重なって見える。その中から、まるで生えるように時計塔がスラリと立ち上がっていた。辛うじて見える距離にある文字盤は、午前十一時半を指している。

「……何で、あたしに構ってくれたの?」

「うん?」

 少し落ち着くと、先刻から感じていた疑問が口を突いた。

 隣で首を傾げた気配を感じたが、エレンは敢えてセシリアの方を向かずに、口だけを動かす。

「皆あたしを殺人犯だと思ってる……シスター達だってそうよ。貴女は違うの?」

「あたし、証拠もないのにそうやって人を疑うのって嫌いなの」

 凛とした声音に、エレンは思わずセシリアの方へ顔ごと視線を向けた。

 すると、そのタイミングで、彼女もエレンへ視線を向けて柔らかく微笑む。

「確かに密室で、貴女以外に容疑者はいないように見える……でも、貴女はやっていないんでしょ?」

「勿論よ! 神に賭けて誓えるわ!」

 憤然と言うと、セシリアはおかしそうに笑った。

「そんな小難しいコト言わなくたって信じるってば。実を言うとね、学院の半分は貴女が殺したなんて思ってないのよ」

 意外な言葉に、エレンは目を瞬いた。

「え……何それ。どういう意味?」

「知ってる? この学院って生徒の半数は政治家とか資産家の由緒正しいお嬢様だけど、もう半分は孤児なの」

 知らなかった。

 その言葉は、声にはならなかったが、顔にはしっかり出ていたのだろう。

「貴女を疑ってるのは、お嬢様連中だけよ。孤児はその環境だけで、大なり小なり色々修羅場潜ってるから、シスター達の言葉を鵜呑みにするようなおバカさんは少ないわ」

 綺麗な顔と裏腹の毒舌は、どこかティオゲネスを彷彿とさせる。

「ただ、皆言わないだけよ。矛先が自分に向いた時に、どうするべきか、そこまでは経験がないから」

「貴女は……貴女もそうなの? それとも……」

 言い淀むと、セシリアは肩を竦めた。

「ここの半数が孤児なのは、初代の院長先生の信条でね。『孤児でも教育を受ける権利はある。ここには金銭的に不自由のない少女も学んでいるから、その不自由のない家庭から少し融通して頂いて、恵まれない孤児にも教育の機会を』って。あたし達からすれば随分上から目線だけど、その傲慢のおかげでこうやって勉強できるんだから、感謝しないとね」

 今はサボってるけど、と付け加えて、セシリアは悪戯っぽく舌を出す。

「あたし『達』……って、じゃあ、貴女も?」

 問い質すと、セシリアはふと真顔になって、頷いた。

「あたしは三年前にここへ来たの。元々孤児で、四年前にある夫婦の元へ引き取られたんだけど、その養父母が事故で亡くなってね。養父母には実子がいなかったから、その遺産はあたしに相続される予定だったんだけど、その遺産が結構莫大で、義理の叔父夫婦……養父の弟夫婦には面白くなかったのね。その遺産をそっくり自分のモノにする為に、叔父がどうしたと思う? 財産管理するって名目であたしを養女にして、邪魔なあたしだけを学院に追っ払ったのよ」

「ひどい……」

 あまりにも理不尽だ。けれども、セシリアはあっけらかんと笑った。

「別にひどくないわ。叔父からすれば、養父の血を一滴も受け継がないあたしが、財産だけ手に入れるなんて、面白くなくて当然よ。命取られないだけでも儲けモノね」

「……達観、してるのね」

 エレンは、呆然と言った。普通、そんな風に割り切れるものだろうか。

 すると、セシリアはまたクスリと笑う。

「物心付いた頃から本当の親がいないと、世の中こんなモノって最初から諦めつくもの。だから、少しでもラッキーなコトがあると『儲けモノ』って思える」

「それも寂しい気がするけど」

「そう? エレンも孤児なんでしょ? 何で、ここへ来たの?」

「え、何で……」

 一言も言っていないのに、何故分かったのか。

 それも、顔に出ていたらしく、セシリアはサラリと言った。

「貴女、春休みにもずっとここにいたでしょ。実家のあるお嬢様は大抵里帰りするから」

 一方で、孤児となると、引き取って貰える家のない少女が孤児院代わりにここへ引き取られてくるパターンが多いらしい。春休みと言っても、寮が殆ど実家代わりとなる訳だ。

「あたしなんかは、名目上の養父母はいるけど、そこへ戻るのなんか御免だしねー」

 セシリアは、そう言ってあっけらかんと笑った。義理の叔父夫婦ととことんうまくいっていないのだろう。

「それで? エレンはどうしてここへ?」

「う……ん、あたしは……」

 エレンは口ごもった。

 孤児院では、うまくいっていた。

 家族としても何も問題はなかった。家庭内は円満で、逃げてくる必要など、本来ならなかったのだ。

 煎じ詰めれば一番悪いのはあの男――

(……ううん。あたしだ)

 あの時――ティオゲネスの言う通り、仮令(たとえ)男に誘われても、フラフラと出歩かなければ。口車に乗せられて、付いて行かなければ、あの男にファーストキスを奪われる結果にもならなかったのだ。その所為で、家族と顔を合わせるのが気まずくなりさえしなければ、今でもエレンはマルタン教会で何の憂いもなく、笑っていた筈だ。

(あたしが……悪かったんだ)

 ゴシッ、と手の甲で強く唇を擦る。

 普段は忘れていられても、時折ひどく唇が汚れているような錯覚に陥る。

(気持ち、悪い)

「……エレン?」

「あ……」

 そんなエレンを不思議そうに見ている、アイスブルーの瞳を見て、エレンは急いで唇を擦った手を膝に戻す。

「あの……ごめんね。話したくなければ、無理には聞かないから」

「あ……ううん、そういう訳じゃ……」

 悄然とした相手の様子に、慌てて首を振るが、エレンはその言葉尻を呑み込んだ。

「……うん。ごめんね。そういう訳なの。話せる時がくればいいんだけど」

 正直に言うと、セシリアもそれ以上追及して来なかった。

 けれども、きっと話せる日など来ないだろう。

 兄弟姉妹のように育った、マルタン教会内孤児院の仲間にも、育ての親も同然の神父や修道士、修道女にも話せないのだから。

 カウンセラーには話せたが、きっとそれは、この先の人生で彼女らと交わることはないと割り切れたからかも知れない。或いは、彼女らが、その道のプロだから、自然に話が出来たのだろうか。

 どちらにしろ、自分の中で抱えておくには、エレンには大き過ぎることだった。だが。

(ティオにも……きっと)

 話せない。話したくない。知られたく、ない。

(知ったらきっと、)

 ティオゲネスは自分を嫌いになるだろう。

 彼の言いつけを破ったが為に、自分は汚れてしまったのだ。これまで、何のかのと言いつつ、エレンを庇ってくれたが、知ればもう、その手を差し伸べてはくれまい。

 好きでもない男に唇を許したなどと知れたら、何て尻軽で淫らな女だと軽蔑するに違いない。

(――嫌だ)

 そんなのは、嫌だ。それだけは嫌だ。

 嫌われて、蔑まれて、その綺麗な翡翠の瞳でもう二度と自分を見てくれないくらいなら、死んだ方がマシだ。

「……エレン?」

「ごめっ……」

 ボロリと涙が零れる。謝罪は、間に合わなかった。

 膝に突っ伏して、自分を守ろうとするように頭を抱える。

 殺人犯と疑われているこの状況よりも、いじめられることよりも、あの美貌の少年に『望まないファーストキス』の一件がバレて軽蔑されるその時が訪れることが、何より恐ろしくて悲しかった。


***


「それじゃ、もう一度、復習するわね。あんたの名前は『リディア=クリスティーナ=ヴァーノン』。ヴァーノン家は今、ルナリア公国の北部に出張中だけど、リディアだけ一足先に戻るコトになって、その間一人で置いておくのが不安だからっていう両親の希望でこの学院に入るコトになったの。あたしは、これからあんたの使用人だから、うっかり名前で呼ばないでよ」

「解ってんよ、ミズ・レヴァイン」

 ティオゲネスは、わざとらしくゆっくりと彼女の偽名を呼ぶと、窓の外へ視線を移す。見慣れない街の景色が、飛ぶように目の前を通り過ぎていく。その様を、苦虫を噛み潰したような顔で見ながら、ティオゲネスは溜息を吐いた。

 南西半島<アデライーデ>北部に位置する、アクセルソン州。

 既にユージェニー・シティに入った車のハンドルを握っているのは、ラッセルだ。

 そして、ミズ・レヴァインことキャサリン=ポーリーン=レヴァインを名乗る女性は、アレクシス=グレンヴィル刑事その人である。

 普段は、ゆったりと束ねた黒髪を前へ垂らし、服装も動き安さ重視で特にこれと言った特徴のない彼女が、今日は長い髪をしっかり結い上げてお団子にし、顔付きが若干きつく見えるメイクで細長い眼鏡を掛けている。勿論、ダテ眼鏡だ。服装は、ピッタリしたタイトスカートのスーツで、どこからどう見ても『出来る秘書』風だ。

 普段とはまるで別人だが、こうでもしないことには、先にエレンの後見人という名目で学院を訪れているので、学院側に警戒される恐れがある為だろう。

 そんなアレクシスの横に座ったティオゲネスはと言えば、深緑のボレロにフレアースカートを身に着けている。ボレロの下の白いブラウスは、首元をリボン状に結ぶデザインになっており、結び目にブローチが付いている。

 行儀悪く組んだ足下は、深緑のハイソックスと、学生がよく履く革靴だ。これらが、聖マグダ・ルーナ女学院の制服なのだ。

 いつもうなじの辺りで無造作に纏めている長い銀灰色の髪の毛は、サイドから編み込むアクセントを付けた形に結われていた。

 アレクシスのヘアメイクだが、これでどこからどう見ても少年には見えないのだから驚きだ。


 こともあろうに、女子校への潜入捜査の話が持ち込まれた時、ティオゲネスは当然、女装案には猛烈に抵抗した。勿論、『一般常識(つまり、組織で叩き込まれた技術を使って相手をブチのめさずに、という意味で)』の範囲内でだ。

『あんた正気か!? 俺はオトコだって知ってるよな!? 絶対無理だろ、気付くぞ、誰か!』

 しかし、得意の毒舌はともかく、論点に於いて、ティオゲネスは凄まじく認識が甘かったと言わざるを得ない。

『残念ながら、お前それ、全っ然説得力ねぇから』

『どういう意味だよ』

『んじゃ、賭けるか? 今からアレクに、女装コーディネイト一式用意して貰って、それ着てお前繁華街に突っ立ってて見ろ』

 潜入するかしないか、それが決定する前に女装する羽目になりそうな流れに、ティオゲネスは静かにブチ切れた。

『それ、何の意味があるんだよ』

 普段出さないような場所から出ていると自覚できる声が、低く地を這いずっている。

 その冷えた空気に気付いているのかいないのか、ラッセルはあっさりと言った。

『お前を全く知らない人間が、どんだけ違和感持たずにお前を女と判定するか、試すんだよ。問題があればこの話はなかったコトにして、別の方法考えようぜ』

 どうする? とやや面白そうな笑みを浮かべたラッセルの挑発に、内心歯軋りする思いだったが、最終的にティオゲネスはその賭けに乗った。乗らざるを得なかったという方が正しいが。

『但し、繁華街には立たねぇ。何度も言うけど、オトコの女装って時点で絶っっ対無理あるし、女装趣味認定されたら二度と外歩けなくなるからな』

 『全然、無理ねぇと思うけどなぁ……』というラッセルの呟きに、『何か言ったか?』という絶対零度の声音が返って、春先の筈の庭の温度がやや下がった。

 慌てて『いーや、別に』と言葉を濁したラッセルが、代替え案として提示したのは、ギールグット州支部の署内だった。

 それには、繁華街以上に抵抗があった。繁華街よりも知った顔が多いからだ。だが、とにかく試してみないことには始まらないし、下手をすると、繁華街で実行するより、効果の程が分かり易い。結局は、署内で試すことになった。

 連絡を受けたアレクシスが、何故か半ば嬉々としてティオゲネスをプロプスト・シティのデパートへ連れ出し、ざっくりサイズを確認すると、一人で買い物に走って行った。そうして彼女が購入して来た、丸襟の柔らかな布地で仕立てられた春向けのセーターと、色の濃いプリーツスカート、白いブーツという組み合わせに不本意ながら袖を通し、更に彼女の手によって念入りにヘアメイクされて署内を連れ回された結果は――それはもう、気持ちいいくらいの惨敗だった。

 会う人会う人、全員が全員、

『あら、綺麗な子ね。アレクの妹さん?(三十代も半ばのアレクシスの「妹」扱いされたティオゲネスは、「失礼な!」と言いそうになったがぐっと堪えた)』

『やだー、ギブソン刑事、遂に恋人でも出来たんですかぁ?(ここでも思わず足が出そうになったが、やはり堪えた)』

 と言った具合で、ティオゲネスを『少年の女装』と見抜く人間は一人としていなかったのである。

 果ては、CUIO上層部の人身売買横流し事件の時にチラリと会った、あの若い刑事が、『あれー。随分綺麗な子っすね。でもギブソン刑事。恋人にするにはまだ若過ぎっすよ、彼女』と親切にも忠告したのには、仕掛け人のラッセルでさえ仰け反りそうになっていた。

『……全員、刑事辞めた方がいいぜ、これ』

 そう嫌味を言うのが、ティオゲネスに出来た精一杯の意趣返しであり、負け惜しみだったが、ラッセルとアレクシスは、この『嫌味』を割と重く受け取ったようだった(何しろ、刑事職にいる者が、容疑者の変装を見抜けないかも知れない実態を暴露したのだから)。


 この後も、ティオゲネスは往生際悪く、今度はマルタン教会の責任者であり、現在の保護者であるラティマー神父を巻き込んだ。

 ティオゲネスを借りるなら、ラッセルにもどの道避けて通る気はなかったらしく、『ラティマー神父に許可を求めろ』という言い分はあっさり通った。

 そして、ラティマー神父もラティマー神父で、ラッセルから話を聞くと、ティオゲネスの方へ満面の笑みを浮かべて言ったのである。

『殺人事件が起きて、その上、疑いを掛けられているような所へ、エレンを長く置いてはおけませんね。ティオ、いい機会ですから様子見ついでに出来れば連れて帰って貰えますか? 皆待っていますよと、エレンに伝えるのを忘れないで下さいね』

 頼みの綱のラティマー神父に見放された(?)ティオゲネスは、一言も言い返せず、大人しく白旗を揚げるしかなかった。


 しかし、ティオゲネスが(不承不承ながら)『女装』ミッションを了承したところで、やることは山のようにあった。

 主に、話を持ち掛けて来た、刑事の二人にだ。

 北西半島<アルステーデ>と、今回事件の起きた街のある南西半島<アデライーデ>は、ルースト・パセヂと呼ばれる宿場町を挟んで、西の大陸<ギゼレ・エレ・マグリブ>と繋がっている。

 入国審査局であるルースト・パセヂは、審査が終了するのを待つ人達の宿場であり、審査が終了するには丸三日が掛かる。

 が、コトがコトだけに、そうそう時間を掛けてもいられない。

 CUIO本部と、アデライーデの中でヘリポートを持つ州支部に掛け合って、ヘリコプターの使用許可を取るのに、しかし結局は二日費やした。

 同時進行で、ティオゲネスの偽の履歴造りだ。

 エレンの移転先が共学の全寮制校か、教会内孤児院なら問題はなかったが、女装となると、ない戸籍を捏造しなければならない。捏造なのだから、勿論適当で構わないし、事件解決までバレなければいいが、万が一裏を取られた時に隙なく言い訳出来るようにする必要がある。

 残る問題が、ティオゲネス自身の学力だった。

 読み書きは、暗殺者兼スパイとして活動するのには必須なので、国語は年相応の学習で問題なかった。が、他三科目については、通信教育でエレメンタリー・スクールの三年生の分野に入ったところだ。

 編入先では、ティオゲネスの年齢だと、中等部三年になるが、基本四科目は必修で、プラス芸術科目(音楽、美術)と保健体育を学ぶことになる。編入試験は、国語・数学プラス他大陸語を一つ選択しなければならなかった。

 しかし、承知するまでは『不承不承』であろうと、一度『やる』と決めたティオゲネスの決断は早かった。

 試験に必要なのがその三科目だけなら、寧ろ好都合だ。他大陸語は国際公用語を選択し、後は数学だけをどうにかすれば、理屈上、試験はパスできる。

『って言ったって、簡単じゃねぇぞ』

 潜入捜査を持ち込んで来た張本人のくせに、肝心なところは考えていなかったらしいラッセルは、大いに慌てて言ったが、ティオゲネスは構わなかった。

『四の五の言っても、内部に協力者がいねぇんなら、試験受けるしか手はねぇだろ』

『現実的に考えて、そっちの方が無理だろ。他に何か、試験なしで編入できる手段を考えるから……』

 反駁するラッセルに、銃口を向けそうな空気を纏ったティオゲネスは、実際には何も持っていない掌を上にして差し出した。

『いーからさっさと教科書寄越しやがれ。二週間……は、掛かりすぎだな。じゃあ、十日でマスターしてやる』

 と、こともなげに言い放ち、エレメンタリー・スクールの残り三年分の算数と、中等部二年分の数学を宣言通りの日数で本当に修得してしまった(勿論、分からない箇所はブラザーやラティマー神父に訊きながらだったが)。

 驚きと呆れが半々の表情で、ラッセルが言ったのは、『お前、ある意味アホだろ』だった。

 余談ながら、うっかり投げてしまったそれを、彼は一秒で後悔する羽目になった。

『あんたこそ、暗殺組織ナメてんだろ。暗殺者養成組織ってーのは、何も人を殺す技術習得するばっかりが能じゃねーんだよ』

 将来、主に北の大陸<ユスティディア>のマフィアや武力組織、軍事大国へ『暗殺者』または『戦闘要員』『スパイ』として『貸し出される』べく教育を受けていた組織の子供達は、戦闘訓練は勿論、IT関連技術(ハッキング、コンピューターウィルス作成方法など)、ピッキング、文書偽造、車両訓練などを、嫌になるほど叩き込まれる。

『その辺の親切なガッコみてぇに、決まったカリキュラムが組まれてる訳じゃねぇ。朝起きて、その日何をするかは教官の胸先三寸って奴で、いつ何をやらされるかは分からない。だから、一度受けた授業の内容は、自由時間に皆必死になって自習したね。ま、尤も、授業受けたその日、その時間内に全部呑み込んじまうってのが一番賢いやり方だったけど。下手すると、自由時間なんて一分も貰えずに訓練過程で意識が吹っ飛んで、翌日抜き打ちテスト、なんてのザラだったからな。ちなみに、その抜き打ちテスト、落第するとどうなるか知りたいか?』

 獰猛な微笑と共に訊ねると、ラッセルはどこか青い顔をして、黙って首を振っていた。


 ともかく、ティオゲネスが数学を猛スピードで履修する合間に、ラッセルとアレクシスも編入と移動の準備を整えていた。

 実際に編入試験を受ける為の段取りが完了するのにプラス二日、結果発表まで一日掛かり、結局、正味二週間後の今、ティオゲネスはラッセル達と車上の人となっている。

 結果発表を待つ一日休みの間に、ティオゲネスは、被害者生徒宅をラッセル達と共に訪れていた。

 遺体引き渡しの際、死因や、遺体発見の経緯は、学院側から一切説明はなかったという。

 ただ、院長は『不幸な事故でした』と言って、頭を下げるばかりだったらしい。

 ラッセル達と三人で対面した遺体は、死後、約一ヶ月経っているとは思えない保存状態だった。まるで、亡くなって数時間も経っていないかのように。

『事実が明かされるまでは、この状態を保って貰えるよう、主治医に頼んでいるんだ』

 被害者・ルシンダ=ランフランクの父親である、ランフランク卿は、いくらか憔悴してしまったような表情で、ラッセルに説明していた。

 地元警察にも、表立って協力はして貰えない為、検死は主治医に行って貰ったらしい。主治医の診断は、『失血性ショック死』。そうなった直接の原因は、鋭利な刃物で左手首を斬られたことに拠るものだという。

『それに……信じたくないが、娘の身体から、薬物反応が出たんだ』

 ティオゲネスも確認したが、彼女の腕には、確かに無数の注射痕が残されていた。

「――ったく、とんでもねぇ虎の巣穴だよな」

 ランフランク卿の言葉を思い出したのか、「どこが『由緒正しいお嬢学校』だよ」とラッセルが呟く。

「虎に失礼だろ。どっちかってと、ハイエナじゃねぇ?」

 ハイエナにも失礼なことを、サラリと返したティオゲネスは、

「で、家宅捜索は未だにされてねぇんだろ?」

 と続けた。

 正確に言えば、『家宅』ではなく、『寮内』になるのだろうが。

「ああ……事件発生から既に一ヶ月経ってるから、証拠なんかはとっくに隠滅されてるだろうな」

 ハンドルを握るラッセルが、どちらにともなく発した問いに答えて言った。

「……そうでもないんじゃねぇか」

 ボソリと呟くと、ラッセルが、

「どういう意味だ?」

 と言って、バックミラー越しにティオゲネスを見た。

「殺しの証拠は多分殆ど残ってねぇと思う。あの遺体に残された傷跡以外はな。でも、(ヤク)の販売の方は、未だに寮内で続いてると思うぜ」

 いくら平和ボケしている西の大陸<ギゼレ・エレ・マグリブ>勤務とは言え、ラッセルもアレクシスも、刑事の端くれだ。薬が今も横行していると予想したのが何故なのかを説明する必要はなかった。

「で、あの子の遺体に付いてた傷跡に、何かあるって言いたげな口振りだけど、何か気付いたの?」

 横合いから割り込んだ声音に目線だけを向けると、アレクシスの鈍色の瞳と視線が合う。

「……はっきりしないコトは言わねぇ」

 それきり口を噤むと、車内はシンと静まり返った。

 そのタイミングで、フロントガラスの向こう側に、虎か、ハイエナの巣穴の入り口にしてはあまりに壮麗な造りの門が見える。聖マグダ・ルーナ女学院の、正門だった。


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