Prologue
『い……やだっ……』
身体が、うまく動かない。
それもその筈で、エレンは誰かに後ろから抱き竦められていた。
相手が誰かは判らない。ただ、抱き締められているその感触は、ひどく不快で、気持ちが悪かった。
『嫌っ……! 放して!』
『大丈夫。もう放さない。愛しているよ』
焦げ茶の瞳をした男の顔が、視界一杯に広がる。
嫌だ。
しかし、拒絶の言葉を口に乗せる前に、唇が男のそれで塞がれる。
『嫌……ぁッ!』
ビク、と身体が大きく震えた。
詰めていた息を吐き出すと、途端にそれは荒い呼吸に変わる。ハアハアと喘ぐ動きに合わせるように、身体が、やがて今度は小刻みに震え出す。
目を薄く開けると、見えたのは壁だった。ベッドが、壁際に設えられている為、右を向いて寝ると、壁と向き合うようになる。
ここへ移って来て暫くは、目覚める度に「ここはどこだろう」と軽くパニックになり、中々この視界に慣れることが出来なかった。
いつもと違うリズムで鼓動を刻む胸元を押さえて、エレンは大きく息を吐く。
(夢……)
もう一度瞼を下ろして、柔らかな枕にしがみつくようにして頬をすり寄せる。
(違う。夢じゃないわ)
今のは夢だったが、その内容は夢ではない。現実の追体験だ。
(最悪……)
身を縮めるように丸めても、もう眠りは訪れそうにない。
時刻を確かめようと、エレンはそっと身体を起こした。
全寮制の中高一貫校、聖マグダ・ルーナ女学院へ移って来てから同室になった、ルシンダ=ランフランクの方へチラリと目を向ける。向かいのベッドで眠る彼女は、目を開ける気配も見せない。どうやら、起こした気遣いはなさそうだと判断すると、枕元の目覚ましに視線を移した。
デジタル式の時計は、午前五時を示している。
ベッドをそっと降りて、絨毯の上へ足を踏み出すと、白いネグリジェの薄い裾がエレンの動きの後を追うようにフワリと舞った。
室内に設置された手洗いへ行って用を足すと、ベッドへは戻らずに、部屋の奥にある勉強机に座る。起きるには早い時間帯なので、明かりは灯さず、アーチ型の大きな窓から、見るともなしに外を見た。と言っても、薄手のカーテンが引かれていて、はっきりと見ることは叶わない。
聖マグダ・ルーナ女学院は、西の大陸<ギゼレ・エレ・マグリブ>の更に西に位置する、南西半島<アデライーデ>に在所を構えている為か、やはり夜明けは遅く、外はまだ闇の配分の方が濃かった。
悪夢のようなファーストキスから――エーデルシュタイン家が絡んだあの一件から、既に半年が過ぎようとしていた。
それはつまり、エレンがこの学院に移ってから半年経ったということに他ならない。
エーデルシュタイン邸に連れて行かれたのが秋口――正確に言えば十月の初め頃だったが、今はもう春の便りが聞こえている。学院の庭にも色とりどりの花が咲き乱れ、高等部二年生として編入したエレンは、つい先日三年生に進級していた。
マルタン教会では、子供達は学校へは通わないが、学校で習う筈の、主に教科学習は、通信教育で補っている。
その成果か、エレンも何とか編入試験に合格し、今に至っていた。
学院内は、総面積百キロ平方メートル以上と広大で、授業に出る為の校舎の配置や、初めての学校体験に慣れるのに一ヶ月は費やした。
他にも覚えることは多く、忙しさに取り紛れて、無理矢理奪われたファースト・キスのことは、考えずに済む日々が続いていた。
ただ、時折こんな風に、忘れた頃を狙ったように襲い来る悪夢に魘されて目を覚ます夜がある。
足音を殺すようにそっと立ち上がって、エレンはカーテン越しに窓に手を押し当てた。外を見ていながら、その風景はエレンの脳内に映像として意識されることはない。
(……教会の皆、どうしてるかな)
窓に押し当てた手が、ズルズルとガラス面を伝って縁に縋り付く。コツン、と小さく音を立てて、額をガラスに押し付けた。
会いたくない、マルタン教会が恋しくない、と言えば嘘になる。
けれど、あの夢を見た後では、会いたい気持ちと同じ程に、顔を合わせるのが気まずく、気持ちが重くなる。
いつになったら、あちらへ戻る決心が付くのだろう。早く帰りたいのは山々だが、これでは帰るに帰れない。
実質、ティオゲネス以外の者とは、エーデルシュタイン邸に行った日から顔を合わせていなかった。
彼は勿論、あれから誰とも、連絡を取ってもいない。
(……逢いたい)
伏せた瞼の下で、潤んだ若草色が揺れる。
脳裏に浮かんだのは、マルタン教会の面々ではなく、銀灰色の髪と、極上の翡翠の瞳を持つ美貌の少年だった。
***
「……レン……エレンさん!」
「……え……?」
揺り起こされて、若干重くなった瞼を押し上げると、急に眩しい光が目に飛び込んで来た。
目を眇めながら見上げると、心配げにこちらを見つめるシスター・ジーナと目が合う。聖マグダ・ルーナ女学院では、修道女が親代わりであり、教員も務めているのだ。
シスター・ジーナは、まだ若い女性で、ごく最近正式な修道女となったばかりだった。真ん丸い薄茶色の瞳を、これまた真ん丸い眼鏡で覆っているその容姿には、妙な愛嬌があり、生徒達には人気の教師の一人だ。
「シスター……?」
「『シスター?』じゃありません! 大丈夫なのですか!?」
「え……?」
まだ、頭が寝ぼけているのか、エレンの反応は鈍い。
辺りを見回すと、シスター・ジーナの背後に机が見える。どうやら、窓の下へ座り込んだまま、ウトウトしてしまったらしい。
(……て、コトは)
途端、眠気が吹っ飛ぶ。
「すっ、すみません、シスター! 今何時ですか!? あたしっ……!」
寝坊した。
だけならいざ知らず、シスターに部屋まで起こしに来て貰う羽目になるとは、マルタン教会にいる頃は勿論、ここへ編入して来てからもやらかしたことのない失態だ。
(それにしたって、起こしてくれたっていいのに、ルシンダの薄情者ぉ~……)
室内でも見つかりにくい場所に蹲っていたことは棚に上げて、半泣きになりながら、同室者に脳裏で文句を言う。
しかし、シスターからは、ベッド以外の場所で寝ていたことや、遅刻したことへの叱責は一切なかった。
「ああ、よかった! 貴女は無事なのですね、エレンさん」
「は?」
吐息と共にその場でへたり込むようにして思わず腰を下ろしたシスター・ジーナに、エレンは思わず間抜けな声を出して首を傾げた。
「無事って何の話……」
言い掛けてノロノロと立ち上がろうとしたエレンに、シスターもまた追い縋るように素早く立ち上がる。
「見てはダメです!」
しかし、残念ながら、シスターは一瞬遅かった。
「え?」
赤いモノが、見えた気がした。
この部屋は、今エレンがいる位置からだと、勉強机のすぐ向こう側に、ベッドが平行に二つ、壁際に設えてある配置になる。
向かって右側は、エレンが使っているものだが、五時頃目覚めてから戻っていない為、当然誰も寝ていない。
そして、その向かいのベッドには、同室者のルシンダが横たわっていた。
二人揃って寝坊だったのか、とのんびりとした呟きが頭の中を通り過ぎる。けれど、何かが妙だ。
(赤い……)
彼女の身体を覆っている筈の布団が、よく見れば掛けられていないことに気付く。
(何……?)
目覚めたばかりでうまく力の入らない足を、フラリと一歩踏み出す。また一歩踏み出すのへ、シスターが制止の声を上げたのが解ったが、それはどこか遠い場所から聞こえたかのようで、自分への呼び掛けと認識することは出来なかった。
ルシンダの元へ歩み寄る間に、彼女の全身はエレンの視界に収まっていた。
ベッドの端まで来れば、ルシンダの着ているネグリジェの、ほぼ左半分が赤黒く染まっているのが嫌でも解る。
(どういう、コト……?)
声が、出ない。
彼女の半身を染めているのが血液で、彼女はとうに息をしていないと理解するのに、たっぷり数秒掛かった。