Epilogue
『別れて、欲しいの』
あの日も、愛しい顔は変わらなかった。
何も、変わることのない日常だった筈なのに。
その言葉だけが、理解出来なかった。
『どういう、コト』
陽の当たるリビングの、白い丸テーブルを挟んで向かい合って、いつも通りお茶の時間を楽しむ筈だった。そのリビングに、呆然とした呟きが落ちる。
そう、言葉が出たのが不思議な程だった。本当に、何を言われているのか理解出来なかったのだから。
『言葉の通りよ。もう、終わりにして欲しいの』
『終わりにって……どうして!』
どうして。どうして。
何を、終わりにするというのか。分からない。分からない。
縋るように見つめているという自覚があったかなかったか、イェルドにはそれすら分からない。自分が、どんな表情をしていたかなんて、分かる訳もなかった。
自分を見つめる若草色の瞳が、ひどく冷めていたのだけは覚えている。
あんなに、愛を囁き合って、見つめ合って来た筈なのに、そんな温度の瞳は見たことがなかった。
『一体何があったの? 落ち着いて話そうよ』
宥めるように顔を覗き込んでも、彼女の表情は変わらなかった。
『もう僕を愛していないなんて……そんなワケないよね』
イェルドにとって結婚生活の破綻とは、愛の枯渇を意味していた。愛し合って結婚する筈なのに、それがなくなるなんて有り得ないと、子供の頃から思っていた。けれど。
『愛していないわ』
彼女の口から返って来たのは、イェルドが最も有り得ないと思っていた、その言葉だった。
『そんなワケない! 君は愛してる筈だ、僕がこんなに――』
『それが耐えられないのよ!!』
愛しているのに、と続く筈だったセリフを、彼女が叩き斬るように遮った。
『……ずっと、重かったのよ』
泣き出しそうに顔を歪ませた彼女の口から出る言葉全てが理解出来ない。彼女は、一体何を言っているのだろう。
『結婚するまでは知らなかった。ずっと一緒にいられるってコトが嬉しかったから』
『それでいいじゃないか、これからだって――』
『貴方は私の言うコトなんて、そうやっていつも最後まで聞いてくれない!!』
彼女が、俯けていた顔を上げて叫ぶ。叫ばれても、どんなに大声で言われても、やっぱり理解出来ない言葉だ。
『最初はそれでもいいって思ってた。私を愛してくれてるから、それは全て愛情の裏返しだって。仕方ないって』
でも、と彼女は尚も言葉を接ぐ。
『貴方、知ってる? 私にはもう友達がいないの。貴方が全部断ち切ってしまったから』
『友達?』
『そうよ。結婚前から付き合ってた友達よ。でも、彼女達と出掛けたって、夕方には貴方が迎えに来て、最近全然話も出来ない。電話も取り次いで貰えないってどうなってるのって、この間道でたまたま会った時にそう言われたわ』
『誰だか知らないけど、彼女がそう言っているだけだろう』
下らない、という感情を隠しもせずに言うと、彼女は涙に濡れた瞳でイェルドを睨み付けた。初めて見る、怒りに満ちた瞳だった。
『彼女だけじゃないわよ。私は端末を持ってない……いいえ、貴方に持たせて貰えなかったから、彼女達とのやり取りはみんな手紙だった。でも、「最近貴女から返事が来ない」って、「付き合いが悪くなったわよねって言われてるの知ってる?」って。そう言われた時、私がどれだけ混乱したか、貴方分かる? そんなコトない、手紙は来てないし、私も寂しく思ってたって言ったけど、信じられないって言われたわ』
遂にエレオノーレの瞳から、ポロリと涙が零れ落ちた。けれど、イェルドは動じなかった。
『それでいいんだよ』
『何ですって?』
『君には誰も要らない。僕と母さんさえいれば、それで満ち足りてる筈さ。いつも言ってるだろう?』
エレオノーレの言う通りだ。イェルドは、彼女宛てに来る電話は本人には繋がなかったし、手紙も焼き捨てるようプレストンに命じていた。
彼女には自分以外に必要な人間がいなかったからだ。
『それがもう耐えられないの!! 私には重過ぎるのよ!! 結婚してからお父様とお母様にだって会えてないわ。たまの里帰りも許してくれたコトないじゃない!!』
『許してないコトないじゃないか』
時間を区切って、実家に行くことは許可していた。時間を一秒でもオーバーしたら迎えに行くのは、夫として当然の義務だ。
『だって、おじい様の死に目にも会えなかった! 危篤だって連絡が来たのに、実家は車で五分の場所なのに……! 貴方がしたコト忘れた訳じゃないでしょう!?』
彼女の祖父が亡くなったのは、この日のひと月ほど前のことだ。急に倒れたと報せが来て、急いで身支度を整えて出掛けようとするエレオノーレを止めたのは、やはりイェルドとしては当然のことだった。
『君が今すぐ行くなんて無理を言うから、止む無く部屋へ閉じ込めただけじゃないか。君に不要な人間がいなくなるのに、君が行く必要も悲しむ義務もない。葬式には特別に出席を許したのに、何が不満なんだい?』
『……もう理解出来ないわ』
青ざめた顔をしてゆるゆると首を振るエレオノーレの言うことこそ、イェルドには理解出来なかった。
『そんなコトないさ。さあ、座って。お茶でも飲もう。君の好きな、とっておきのを取り寄せておいたよ』
そう、彼女のことは何でも理解している。母はどうしたって先に亡くなるが、彼女には、最終的には自分だけがいれば充分なのだ。今は無理でも、時間を掛ければきっと理解して貰える。
『僕を愛していれば幸せになれる。僕だけを見て、僕だけに見つめられていれば良かったと思える日がきっとくるよ。今は理解できなくても、これは君の為なんだから。僕以外の人間は君には必要ない。分かってくれるよね』
乾いた音が室内に響いた。数秒遅れて、頬が熱くなる。何が起きたのか、一瞬分からなかった。
『私にはその愛は重過ぎるの。束縛された愛は沢山よ。貴方の愛が欲しい女性を探して。私にはもう無理だわ』
ヒリヒリと痛覚を刺激される感覚に、漸く頬を叩かれたのだと思い至る。
頬を、叩いた? 誰が――彼女が? まさか。
混乱してぼんやりしてるイェルドの目の前に、エレオノーレの指先が最後通牒を突き付ける。
『これに、サインして。最後の、心からのお願いよ』
視界に映ったものが、何なのかが分からない。
婚姻届のように見えなくもないが、どこか違う。
『サイン、したら、どうなるんだい』
『私と貴方の関係を終わりに出来る、私には救いの契約書よ』
終わりに、する? 彼女との関係を?
どの、関係を?
『サイン、してくれないならいいわ。私が貴方の分も名前を書いて出すから』
『ちょっと、待ってくれよ。何を……何を、言ってるんだ』
こんなに愛しているのが、何故解って貰えないのか。
暴力を振るった訳じゃない。ただただ、愛していただけだ。全てを自分のものにしたいと思った。自分だけを見て欲しいと思った。ただそれだけだ。愛していれば当たり前のことなのに、何が不満なのか。何が悪いのか。
理解が追い付く前に、彼女が静かに立ち上がった。
『貴方を、愛していたわ。――結婚前の、貴方を』
さようなら。
その言葉がどれだけ残酷なものか、イェルドは今まで分かっていなかった気がする。この世の終わりだ。彼女が去るのなら。――去るなんて。
『許さない……』
***
「――彼女が、悪かったんだ……」
僕は、悪くない。皆彼女が悪いんだ。
そう繰り返しながら、ぼんやりと床へ座り込んだままのイェルドを前にして、ラッセルは遣る瀬無い気持ちになった。
愛していれば、全てが赦されると思ったのが、この男の過ちだったのだろう。その愛から、愛という名の枷から逃れようとしたエレオノーレには何の罪もない。
一方的な愛の元に、理不尽に命を絶たれ、遺体には防腐処理を施された彼女は、ガラスケースの中で静かに眠っているように見える。けれど、死してまで尚束縛されている彼女は、壁に吊るされた少女達と変わらない。ただ、横たわることを赦されたか、壁に吊るされているかの違いだけだ。
たった一人の男のエゴで殺された少女達に、ラッセルが出来ることはない。
ただ、哀悼を表することはできる。漸く床へ下ろされた彼女達に、ラッセルは軽く頭を下げて目を伏せた。
***
「理不尽、だよなぁ、ホンット……」
プロプスト・シティ近郊の総合病院。三階の一室に入院中のティオゲネスは、自分が病院へ運ばれた後の一部始終を聞いて、ボソリと呟いた。
「一応訊くけど、どの点が」
「決まってんだろ」
訝しげな顔をして訊ねるラッセルに、ティオゲネスは真顔で言い放った。
「今回も何で俺がこんな怪我しなきゃいけなかったかってところが!」
「やっぱりか」
ベッド脇へ腰掛けたラッセルは、ガックリと肩を落としている。
確かに、一方的に命を絶たれた少女達は、気の毒という一言では片付けられない程の害を被っている。だが。
「俺、今回全然無関係だったのに、結局首突っ込むコトになったんだぜ? 誰の所為だと思ってんだよ」
「おれの所為かよ」
「半分はな」
そう、半分はとっとと事件を解決に動かなかった警察の責任だ。第一の事件が起きた時点でさっさと捜査を開始していれば、ここまで被害が拡大することもなかった筈なのだ。
怠慢の結果が、死者七名、重軽傷者多数。ちなみに、『多数』についてはティオゲネスにも責任の一端がないわけではないが、それは少年の中で数に入っていない。ティオゲネスに言わせれば、不可抗力というやつだ。
「それにしたっておれだけの怠慢みたいに言われるのは心外だな。おれが警察組織全部の面倒見なきゃいけないワケ?」
「そうは言ってねぇけどよ」
ティオゲネスはムッと口をへの字に曲げて、片膝を立てると頬杖を突いた。
「もういいのか。足の方は」
「んー、やっと固定が取れたとこ」
あの時プレストンにぶら下がられた足首は、ひどい捻挫になっていた。レントゲン検査の結果、脱臼の一歩手前だったと言われた。そんな訳で、先日までベッドの上で天井から足を下げて固定していたのだ。左足首と左肩に負った銃創以外はまあまあ元気だったので、ティオゲネスはひどく退屈していた。
「で、あのおやじとおばはんの方の処遇は?」
「ん、ああ。二人とも誘拐幇助に監禁、殺人隠蔽罪ってとこだな」
「傷害罪も付け加えとけよ。あのオヤジ、容赦なくやってくれやがって」
鼻息荒く言うと、ラッセルが何とも言えない表情で苦笑した。
「半分私情だな」
「うるせぇ、黙れ」
私情だろうと何だろうと、ティオゲネスの今回の怪我の内訳は全てプレストンに因るものなのだから仕方がない。
「まあ、洗脳罪っていう罪状ってか罰則がない以上、傷害罪の方向になるのは確かだな、あの未亡人は」
「被害者の顔についても、だろ」
小さく言うと、ラッセルも顔を曇らせて沈黙を返した。
あの半地下室で発見されたエレオノーレ以外の六人の少女の遺体の傷み具合は酷いものだった。
一番最近亡くなったとみられるアイリーンの顔は、整形に失敗したのが一目で判るような、筆舌に尽くしがたい傷を負っていた。年頃の少女なら、自分なら生きていたくないと思うような具合で、遺族や親しい人間が見ても本人と判別するのは難しいかも知れない。
ただ、恐らく顔面が損壊していたのはアイリーンだけではないだろう。彼女の遺体が一番新しく、生前の姿に近かった為にすぐにそうと分かっただけで、他の少女達も検死の結果を見れば、顔部分の損傷がひどかったらしい。
面ざしのよく似た少女を探し出し、娘を失った気の毒な女性を演じて近付くという手口は目撃された通りだった。だが、髪と目の色が同じで、本人と思い込ませる催眠に掛けたとしても、ある日本人の写真か肖像を見て術を掛けられた少女は疑問を持つ。
表で商売をする美容整形医院に連れ込めば誘拐その他が一発でバレるのでモグリの医者にでも整形手術をさせ、失敗したら死体にした少女共々その土地から姿を消すことを繰り返していたようだ。
「どおりで、遺体も見つからない筈だよな」
「それにしても……」
ラッセルが、ふと思い付いたとでも言いたげな口調で言ったので、ティオゲネスは窓の外に投げていた視線をラッセルに移した。
「この一件、狂ってたのは結局誰だったんだろうな」
歪んだ愛情から妻を殺害し、自分の愛に素直に応えてくれる、妻と同じ容姿を持つ女性を求めたイェルド。その息子に幸せになって欲しい一心で、息子の求める幸せの形を実現しようと暴走した母親。そして、主のどんな要求にも応えるのが使用人の旨と、彼らの犯罪を見ぬ振りどころか積極的に手助けしたプレストン。
「決まってるだろ。全員、だよ」
どこか遠い目で誰に問うともなく発せられたラッセルの問いを、ティオゲネスは秒速の素早さで断じる。ラッセルが再び苦笑するのが目に入ったが、ティオゲネスは訂正しようとは思わなかった。
狂った人間は、どこかで自分がしていることを罪だと知っているクセに、すぐに自分の作り上げた『常識』の中に閉じ籠る。だから、こちらの言っている言葉が通じないのだ。
きっかけは、世間一般の言語が通じるエレオノーレが、狂人であるイェルドに嫁いだ不運から始まっていたのかも知れないとも思う。
「そういや、アイツどうしてるんだ?」
「アイツ?」
出し抜けに話題を転じると、ラッセルがその琥珀色の瞳をキョトンと瞠って問い返す。
「エレンだよ。同じ病院に入院してるって聞いてるけど」
催眠に掛けられてかなり精神が混濁しているだろう、という判断で、エレンも同じ病院に担ぎ込まれたことは知っていた。
ただ、ティオゲネスはティオゲネスでそれなりの重傷を負っていたし、つい昨日まで足を固定されてベッドへ縛り付けられていたので、エレンの病室を訊く暇も、そこを訪ねることも出来ずにいたのだ。
当然の疑問として、何気なく訊いただけだったのに、ラッセルは急に歯切れ悪くモゴモゴと口籠もった。
「……何だよ。何か、あったのか」
それに、奇妙に胸騒ぎを感じて、ティオゲネスは低く問いを落とす。
「いや……」
ラッセルは、更に逡巡していたが、やがて隠してもおけないと思ったのか、口を開いた。
「彼女なら四○五号室にいる。ただ、彼女はまだ面会が病院から許可されてない。おれも今さっき病室の前まで行って来たけど……まだ、面会謝絶の札が掛かったままだった」
「どういうコトだよ」
「はっきりしたコトはおれにも判らん。ただ言えるのは、今はあの病室に出入りできるのは女性だけってコトだ」
「女性だけ?」
それを聞いて、ティオゲネスは眉根を寄せる。
「そう、女性だけ。事情聴取も女性捜査官が担当してるし、病院のスタッフも女性医師だ」
言われても、ティオゲネスには今一つピンと来なかった。
それは、結局何を意味しているのだろうか。
「こいつは単なるおれの推測だけど、あの子……『何か』あったぞ。多分、イェルド=エーデルシュタインとの間に」
益々訳が分からないとばかりに首を傾げたティオゲネスを見兼ねたのか、ラッセルが遠回しにヒントとも思える一言を投げる。
「何かって……」
一瞬何を言われているのか理解できなかったが、この一件でエレンが置かれていた状況を考えているとある事実に思い当たる。
「まさかっ……!」
エレンは、イェルドの『妻』という暗示を掛けられていた。そして、夫婦として過ごしたのは約五日。その間に、肉体的に男女の関係になっていてもおかしくはない。
「こ・こ。皺寄ってんぞ」
眉間を人差し指で突かれて、ティオゲネスは乱暴にそれを跳ね除ける。
「うるせぇ、元々寄ってんだよ」
前にもこんなことがあったな、と今はどうでもいいことが頭を過ぎる。その時の相手は、エレンだったが。
「これで自覚がないかねぇ」
「何の話だよっ」
ラッセルがボソリと零した一言を聞き咎めて睨み上げると、ラッセルは「何でもねぇよ」と言って肩を竦めた。
「お前が考えてるコトは多分なかったと思う。万一のコト考えて、一応検査済みだしな」
脱線しかけた話題を戻したラッセルの一言に、ティオゲネスは沈黙を返した。
あの純真無垢としか言えない頭の、しかも未婚の少女が、恐らくは婦人科の検査を受けさせられたのかと思うと、どうにも複雑な気分だ。二人の間に何もなかったとはっきりしたことに安堵する一方で、彼女が検査を受けさせられる原因を作ってくれたイェルドに無性に腹が立つ。
「じゃあ、何かって何だよ」
その苛立ちのまま、若干怒ったような声音で問うと、ラッセルは肩を竦めた。
「さあねぇ、おれには何とも。ただ、聴取や病院の対処が、婦女暴行の被害者に対するモンと同じだと思ってよ。それは当然としても、面会謝絶期間がこんだけ延長されてるとなりゃ、本人の気持ちが落ち着かない『何か』が合ったんじゃねぇかと思っただけさ」
それが何なのかは、おれにも判らねぇけどな。
そう付け足したラッセルに、ティオゲネスは、何でもいいから喚いて当たり散らしたい衝動を覚えた。けれども、それをシーツを握り締めることでやり過ごす。
彼女に、会わなければ。何故か、無性にそう思えて仕方がなかった。
***
「あれ、ティオじゃない! 久し振りね」
エレンの病室の前まで来ると、その扉の前に、まるで見張りをするように立っている二人の警官らしき人物の内、若い女性が、ティオゲネスに気付いて手を振った。
無造作に束ねられた長い黒髪の毛先が、右肩から前へ流れている。顔立ちも端正なその女性は、勝ち気そうな榛色の瞳をティオゲネスに向けて、笑った。豪快、というのではなく、微笑という笑い方でもない。ヒマワリの咲くような、と表現すれば近いだろうか。
これまた無造作なボトムとティーシャツに包まれた身体はスラリと引き締まっており、無駄な肉が一切付いていないのが判る。
「ああ、えーっと……アレク、だっけか」
アレク、ことアレクシス=カレヴァ=グレンヴィルは、組織崩壊の時に子供達を保護してくれた中にいた警官の一人で、ティオゲネスも面識があった。
見た目、二十代半ばから後半くらいだが、実年齢はラッセルと然して変わらない筈だ。
「元気そうね――っていうのはちょっと無理があるか」
肩を竦めて近付いて来た彼女は、固定が取れたとは言え、やや足を引きずり、左腕を吊ったティオゲネスの至近距離に歩を進め、銀色の頭をクシャクシャと撫で回す。
「うるせぇ。ガキ扱いすんな」
「あらー、ガキでしょ」
悪態を吐きながらも、ティオゲネスもその手を払い除けることはしない。こんな光景を見たら、普段の少年を知る者は、皆腰を抜かして驚くだろう。
「ところであんた、こんなトコで何やってんだ?」
頭部に置かれたままのアレクシスの腕の下から、半ば睨め上げるようにして彼女を見ると、彼女はふと真顔に戻ってティオゲネスの頭から自分の掌を外した。
「何って、シゴトよ。あんたみたいな違反な面会人が、こっそりドアすり抜けてエレンちゃんに会ったりしないようにね」
「違反なって……」
扉の前に誰もいなかったら、確かに鍵を抉じ開けて中へ入っていただろう。
図星を指され、何も言えなくなったティオゲネスは、唇を突き出すようにして押し黙るしかない。
「ラスに聞いてないの? 彼女はまだ面会謝絶よ」
「それは聞いたけど」
彼女――エレンに何があったのか。動けるようになった今、それを確認しないことには、どうにも落ち着かなかった。
暫し、二人の間に沈黙が落ちる。
ティオゲネスが梃子でも動きそうにないのを見て取ったのか、アレクシスはエレンの病室の扉の前に立つ同僚――やはり、女性の警官に向かって、「少し、席外すわ」と口早に言うと、ティオゲネスを誘ってその場を離れた。
エレベーターで屋上まで上がると、よく晴れた秋の高く青い空が、二人を迎えてくれる。
ティオゲネスにも、久し振りの『外出』だ。
優しく頬を撫でるように通り過ぎてゆく風が、素直に気持ちいいと思う。
「あんた、何か食べちゃダメーとか、飲んじゃダメーとか、ある?」
不意に声を掛けられて、ティオゲネスは振り向いた。
屋上に出る手前に設置されている自動販売機の前で、アレクシスがこちらを見ている。
「いんや、特にない」
食べ物や飲み物の好き嫌いは、昔からなかった。
これが好きだの、嫌いだから食べられないだの言っていたら、忽ち飢え死にするような環境で育ったものだから、自然そうならざるを得なかったのだ。が、アレクシスの言わんとしているところは、別のことだったらしい。
「じゃなくて、ドクター・ストップ掛かってない? て訊いたのに」
「なら、最初からそう言えよ」
それも別にない、と答えると、アレクシスは缶コーヒーを二本購入して、一本をティオゲネスに投げ寄越した。
「奢りよ。特別にね」
「高々一グロスくらいで、でかい顔すんな」
危なげなくキャッチすると、吊った方の手で缶を持ってプルタブを起こす。プシ、と小気味よく空気の抜ける音がして、コーヒーの水面が顔を覗かせる。
ちなみに、千三百グロス前後で、都市部在住だと大体ひと月分の生活費だ(但し、千三百グロスだと本当に余裕がないが)。
「相変わらず口が減らないわね、あんたってコは」
ティオゲネスの憎まれ口をモノともせず、アレクシスは自分も屋上へ足を踏み出すと、庇でできた陰に設えられたベンチに腰を下ろした。
「それで?」
「え?」
ティオゲネスは、コーヒーを一口含んで飲み下すと、直球で問いを言葉にする。
「アイツに何があったんだよ。アイツの聴取の担当捜査官ってあんただよな。何か知ってんだろ?」
アレクシスは、コーヒーの入った缶を、口に付けて傾けたまま、無言でティオゲネスを見上げた。
立って向かい合えば、まだ彼女の方が背が高いが、今は彼女がベンチに腰を下ろしている為、立ったままのティオゲネスの目線の方が上にある。
「言いたくない」
「なっ」
こんな所まで連れて来るから、てっきり話を聞かせてくれるものだとばかり思っていた人間の口から、あっさり『否』が出てくれば、ティオゲネスでなくとも反射で腹が立つだろう。
それを素早く察したのか、アレクシスはティオゲネスが文句を言うより早くまた口を開いた。
「断っとくケド、あたしじゃなくて、エレンちゃんが、よ。それでもあんた、聞きたい?」
「……どういう、意味だよ」
「じゃあ、逆に訊くけど。あんた、もしエレンちゃんにあんたが昔『どこ』にいたのか知りたい、聞かせて、って言われたら、素直に答える?」
ティオゲネスは、空気を呑んだように押し黙った。
再度、沈黙が落ちて、抜ける風の音だけが、奇妙に耳に突く。
「……イヤな喩え持ち出すな、あんたも」
吐き捨てるように言うのが、やっとだった。喉の奥から絞り出した声が、自分でも聞いたことがない程に低い。整った容貌が、苦虫を噛み潰したように歪む。
(言えるかよ)
エレンにだけではない。
多分、孤児院の仲間全員にだって――親代わりの神父や、修道士達にだって、言えやしないだろう。
ティオゲネスに、両親の記憶はない。微かに残る記憶の中に、父親らしい男はおらず、早くに亡くした母親のことも朧気にしか覚えていない。
引き取られた親戚中を盥回しにされた挙げ句、ある日、ゴミ集積場に捨てられた。そこは、西の大陸<ギゼレ・エレ・マグリブ>にあるスラムの中の、広大な敷地面積を持つ無分別のゴミ捨て場だった。具体的には、五百メートル四方程の敷地に、生ゴミや家庭の可燃ゴミは勿論、使用済みの乾電池、剥き出しの電気コード、果てはティオゲネスのように幼い子供や赤ん坊までもが当たり前のように捨てられており、ゴミの山が幾つも出来ているような所だった。
後から聞いたところによると、組織はそういったゴミ集積場から、訓練する為の子供を集めていたらしい。
ゴミ集積場に群がるスラムの住人達――ゴミの中から、それでも食べられるモノや、金になるモノがないかと探し回る人々に混じって、捨てられた孤児をさり気なく探していた組織のスカウトマンの一人に、ティオゲネスは拾われた。
『お腹は、空いていないかい?』
男は、ティオゲネスと目が合うと、優しい顔をしてそう訊いた。
もう何日も食べ物を口にしていなかった幼い自分には、その優しい顔が仮面だと見抜く力はなかった。毎日のようにここへ来るスラムの住人達も、今思えば彼ら自身のことで手一杯だったのは判る。しかし彼らは、誰もティオゲネスと目を合わせようとせず、うっかり目が合うと、ある者は気の毒そうに、またある者は露骨に迷惑そうな顔で視線を反らせてしまった。
そんな中で、優しく声を掛けられた効果は、悔しいが絶大だった。
『おいで』と、やはり柔らかな声音と共に差し出された手を、あっさり握ってしまった当時の自分を、殴り倒したいと思わなかった日はない。
それが、口にするのもおぞましい毎日の始まりだったのだから。
「何故、答えられないの?」
不意に、回想の隙間に滑り込んできた声に、我に返る。
視線を向けると、アレクシスは、缶コーヒーを片手にベンチの背凭れに背を預け、足を組んでティオゲネスを睨み上げるように見ていた。
「何をだよ」
「自分の過去よ。あんたもそうだけど、他のコだって、組織で生きるコトを自分で選択した訳じゃない。ただ、どこかから拾い上げられて、或いは組織に売られて、毎日必死に生きてただけよ。何がいけないの?」
それは、と言おうとしてティオゲネスは口を開く。しかし、その口から、やはり言葉が出ることはなかった。
何と言えばいいか、判らない。
(……ただ、俺は)
左腕を吊った三角巾の中で、左手を握り締める。爪が食い込むのが分かったが、気にならなかった。
(ただ、知られたくないだけだ)
自分の過去を知ったら、きっと皆背を向けるだろう。事情なんて、考慮されはしない。理由はどうあれ、表の世界しか知らない人間にとって、人殺しは人殺しだ。それ以上でも以下でもない。だから――。
「……結局、信用し切れないってコトよね」
アレクシスが、まるで酒を呷るような所作で、コーヒーの入った缶を傾ける。
「仲間って言ったって、エレンちゃんや、あの孤児院の人間は、二年かそこいら、一緒に生活しただけの間柄だもの。過去を知ったら掌返すに決まってるってトコ?」
「そんなコトっ……!」
ムキになって言い返しそうになって、ティオゲネスはやはり口を閉じる。
「……いや……多分、そうだ。あんたの言う通りだよ」
自嘲気味に、苦笑した。
否定出来ない。する資格もない。
唇を噛み締めて、目を伏せる。
確かに、あの孤児院は居心地が良かった。凍る冬の日の、小春日和に日溜まりで微睡むような心地よさに、いつしかいつまでも浸っていたいと思い始めている自分がいる。
一方で、そのぬるま湯に慣れてしまうのが恐ろしい気もした。
万が一、突き放されたら、身も凍る戸外に逆戻りするのは辛い。
(だから)
いつ戸外に放り出されてもいいように、『ヌクヌクとした厚着』という名の、心のガードを手放せずにいるのだ。
それは、孤児院の仲間を信用していないのとは違うと言いたかったが、結局はそういうことなのだろう。
(……なら、アイツも?)
不意に、『他人を疑う』という文章自体が脳内にインプットされていない、春の花のような微笑を持つ少女が、脳裏を過ぎる。
エレンも、そうなのだろうか。
彼女も、自分とイェルドとの間に起きた何事かの内容を知ったら、ティオゲネスが自分から離れていくと、そう思っているのだろうか。
「……けど、それとこれとは別だろ」
「どういう意味?」
飲み終わって空になった缶を手持ち無沙汰に指先で弄びながら、アレクシスが目を上げる。
「アイツに何があったかなんて……あの野郎との間に何があったのかなんて分からない。けど、あの勘違い野郎に何をされたにしろ、それはエレンの意思とは関係ないだろ。そんなの、アイツに背を向ける理由にもならねぇよ」
「じゃあ、エレンちゃん達も案外そう思ってくれるかもよ? あんたの過去のコトは、あんたの意思じゃない。あんたは、悪くないんだって」
「そんなコト、分からないだろ!」
一見、のんびりしたような目をして言うアレクシスに苛立って、ティオゲネスは叩き付けるように叫んだ。
エレンに、今回何があったかは想像もできない。けれども、少なくとも、他人を手に掛けたことはない筈だ。
それに引き替え、ティオゲネスの手は既に血塗れだ。
組織に引き取られて、六年。何人殺したかなんて、既に覚えてもいない。それを、『仕方なかった』で済ませてくれる程、世間が甘くないのもティオゲネスは知っている。
だが、アレクシスは、その剣幕にビクともせずに、平板な口調で言う。
「エレンちゃんも、そう思ってるのよ」
ティオゲネスは、今日何度目かで空気を呑んだ。
「言ってみないと、相手がどう思うかなんて、勿論分からない。でも、言ったが最後、あんたも、教会の他の仲間も、きっと自分を軽蔑するってね」
「それこそ、聞いてみないと分かんねぇよ」
暗にアレクシスに答えを促すが、彼女は静かな目でティオゲネスを見つめ返すだけだった。
「……は、見くびられたモンだな、俺も」
暫しの沈黙の後、吐き捨てるように言ったことが、果たしてエレンに向けたものか、それとも目の前のアレクシスに向けたものなのか、ティオゲネスにも判らない。その判断が付かないまま、屋上から屋内への出入り口へ歩を進める。
「どこに行くのよ」
「自分の病室に戻んだよ。文句ねぇだろ」
自分の過去を訊かれるのと同じだ。
そんな指摘を受けた上で、まだエレンとイェルドの間にあったことをほじくり返そうとする程、ティオゲネスも無神経ではないつもりだ。
しかし、同時にそれが面白くなかった。
自分は、エレンや他の孤児達を信用していないのに、自分のことは信用して欲しいだなんて、身勝手にも程がある。そう分かってはいたが、それでも面白くないと思ってしまうのはどうしようもなかった。
代わりに、大半中身が残ったままの缶を、苛立ちのままに屑籠に投げ入れる。中身が茶色い放物線を描いて、吸い込まれるように屑籠に収まった。地面には、その後を追って、茶色い液体がてんでに散らばった。
「ティオ」
「分かってるよ!」
分かってる。脳裏で、そう繰り返す。
本当に知られたくないことなら、無闇に踏み込むべきではない。心の中の、不可侵の領域は誰にでもあるのだ。仮令、『あの』エレンにであっても。
だが、アレクシスが言わんとしたところは、またしても違っていた。
「あんた、エレンちゃんとはどういう関係なの?」
「は?」
出し抜けに話題が方向転換して、ティオゲネスは思い切り眉根を寄せる。本気で訳が分からなかった。
「関係って……同じ孤児院で住んでる仲間……なんじゃねぇかと思うけど……」
考え考え話すと、らしくもなく歯切れが悪くなる。
彼女との関係に名前を付けるとしたら、『友人』はしっくり来ない気がする。『仲間』も、微妙に適切ではない。
強いて言えば、『姉』に近いだろうか。『目の離せない妹』のような気もすることも度々だが、現実には一応彼女の方が二歳年上だ。
「そう」
眉一つ動かさずに言うと、アレクシスは立ち上がり、自分も屑籠へ空になった缶を投じる。
「もう一つ、訊くけど。あんた、口は固い方?」
「……モノに依るけど、多分結構固いと思う」
彼女の質問の意図が掴めなかったが、ティオゲネスは慎重に答えを口に乗せる。
過去のこともある為、ティオゲネスは普段からあまり饒舌な方ではない。それを差し引いても、余程耐え切れない拷問でも加えられない限り、『話すな』と言われれば、その内容をあの世まで持って行く自信はあった。
「あたしから聞いたって、絶対言わないでね。エレンちゃんだけじゃなく、他の誰にも」
どこかで聞いた口止めのセリフだ。そう思いながらリアクションできずにいると、アレクシスは爆弾にも等しい一言をサラリと口に乗せる。
「彼女、イェルド=エーデルシュタインからキスを強制されたそうよ」
ティオゲネスは微かに目を見開いた。
(……あ、ンの野郎……!)
次いで、缶コーヒーを捨ててしまったことで自由になっていた右掌に、爪が食い込むほど拳を握り締める。
地下室で二度目にイェルドと会った時も問答無用で頭を吹っ飛ばしたらどれだけスッキリするだろうかと思ったものだが、今この時ほど彼を殺してやりたいとは思わなかった気がする。可能なら今すぐにでも留置所に乗り込んで、死刑を前倒ししてやりたい。
「だから、もしエレンちゃんと恋仲だったら、彼女の症状もちょっと前進するのになぁって思ったんだけど」
「……どういう、意味だよ。恋仲って……エレンと、俺がか?」
半ば睨み付けるようにアレクシスを見上げて問うと、彼女はあっさりと首肯した。
「ジョーダンだろ。アイツを『女』として見たコトなんてねぇよ」
「今までは、でしょ?」
これからもだよ、とは何故か言えずに、ティオゲネスは無言でエレベーター前に足を運んで上下ボタンを押す。
「でも、あれだけ渋ってたクセに、何で急に話してくれる気になった?」
箱が来るのを待つ間、首だけ捻ってアレクシスを見上げる。すると彼女は、やはりあっさりと言った。
「あんたなら、多分本当に彼女を軽蔑するようなコトはしないだろうなって見極められたから、かしら。但し、本当に彼女には言わないでよ。彼女が自分から言い出すまではね」
当分は言い出せないだろうけど、とアレクシスが付け加えたところで、エレベーターの扉が開く。
「そこが分かんねぇんだよな……何で、そんなに気に病む必要あるんだ? そんなの、あのセクハラ野郎が一方的に悪いだけで、アイツには百パー責任ねぇだろ」
エレベーターに乗り込みながら言うと、各階パネルの前に立って三階――ティオゲネスの入院部屋のある階のボタンを押したアレクシスは、憐れみ半分、蔑み半分の目でティオゲネスを見下ろした。
「女にとってはね。ファースト・キスって結構意味のあるモノなのよ。それを全然想いのない男に、一方的に強奪された純情乙女の気持ちを解れ、とまでは言わないけど、その無神経発言だけは彼女の前ではしないコトね」
分かってる、と言い掛けたが、上辺だけのそのセリフは、何故か寿命を縮めそうな危機感を覚えて、ティオゲネスはただコクコクと首を上下に動かした。
それを確認すると、半眼でこちらを見下ろしていたアレクシスは、フイとティオゲネスから視線を外して、どことも付かない宙を見ながら独白のように続ける。
「……理屈では解るし、周囲の第三者は皆そう言うわ。あたしだって、担当医師だってエレンちゃんに言ってるもの。貴女は悪くない、ってね。けど、いくら周りに言われても、自分の気持ちを割り切るのはやっぱり難しいし、折り合いを付けるのは時間掛かると思う。彼女の場合、唇だけだし、今はまだ辛うじて生きてるけど、例えばレイプされて命を絶つ女性だっている。レイプだって男が女を一方的に力で犯す卑劣な犯罪なのに、被害者は『自分が悪かった』とか『汚された』って思いで一杯になって、立ち直るのは容易じゃない。男には理解できないでしょうけどね」
「いや……」
ティオゲネスは、反駁しようとしたが、何も言わずに口を閉じた。
いくら普段、女と間違われることが多いとは言え、結局のところ自分も男だ。勿論、アレクシスの言う卑劣な犯行にだけは走らないと自信を持って言えるし、同じ男としてそんなクズのような行為は断じて許せないとも思っている。が、生物学的に男である以上、性の違う女の気持ちは本当には理解できないのだろう。
「エレンちゃんだけど」
三階に箱が止まり、『オープン』のボタンを押しながら、アレクシスが口を開く。
「当分マルタン教会の方へは戻らないコトになると思うわ」
「え?」
思わず彼女の顔を見上げると、彼女は外へ出ろと言うように顎をしゃくった。
箱の奥に立っていたティオゲネスは、慌てて歩を進めようとするが、やはり治り切らない片足は、普段通りについては来ない。
「今、彼女、教会の家族と顔を合わせるのがスゴく気まずいみたいなの。神父様とも相談してからになるけど、暫く余所に移って様子を見るか……でなければ、本格的に違う孤児院に移るコトも視野に入れて検討するコトになると思うわ。理由はさっき言った通りのコトだから、承知しておいて」
移動の間に追いかけるように続いた彼女の言葉に、微かに翡翠の瞳を見開く。
しかし、エレベーターの外へ完全に出て、振り返る頃には、アレクシスを乗せたまま、その扉は閉まるところだった。