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ティオとエレンの事件簿  作者: 神蔵(旧・和倉)眞吹
Case-book.2―Sad insanity―
16/72

Insanity.6 奪還

「ねぇ、イェルド。話があるんだけど」

 そう切り出されたのは、寝支度も済んで、もう家中の各々が寝室へ引き上げた後のことだ。

 エレオノーレがこの家へ来た翌日は別に休んだが、二日目からは彼女もイェルドとベッドを共にしている。ただ、夫婦の営みは未だにない。エレオノーレの精神状態を(おもんぱか)ってのことだったが、そろそろいいだろう。そう思って、顎に優しく指を掛けて仰向かせようとした、正にその時、彼女の口からその言葉が飛び出したのだ。

「……こんな時に言い出すなんて、ムードがないと思わないかい?」

 若干気持ちが脱力するのを覚えて言うと、彼女はその若草色の瞳を大きく瞠り、首を傾げた。

「……? こんな時って?」

 心底キョトンとした声音で問い返されて、イェルドは思わずベッドに突っ伏しそうになる。その顔には、『本当に何のことを言われているのか分からない』と顔にデカデカと書いてあった。

 本人もかなり天然だったが、それでも男女の情事については知識があった。『エレン』は、どうやらその上を行く天然なのか、単に知識を得る機会がなかったのか、夫婦は本当にただ一緒のベッドで寝る『だけ』のものと思い込んでいるようだった。

「……うん、いや、いいよ。で、何」

 すっかり気持ちが削がれたイェルドは、頭の上にクエスチョン・マークを飛び回らせて首を傾げているエレオノーレに、先を促した。

「いいの?」

「って何が」

「イェルドも何か言いたいコトがあるんじゃないかと思って」

 この少女は、鋭いのか鈍いのか、真剣に悩んだイェルドだったが、それは取り敢えず脇へ置くことにして「君からどうぞ」と身振りで示す。

「じゃあ、言うけど……あのね、私昨日の昼間倒れたって言ってたでしょ?」

「ああ」

「その時に……メモを持ってたと思うんだけど」

「メモ?」

 イェルドは内心ギクリとしたが、動揺はどうにか呑み込む。

「うん、そう。どこかへの連絡先が書いてあったと思ったんだけど……私の部屋を探してもなかったの。イェルドは、何か知らない?」

「どこかって、どこ?」

 心臓がバクバク言っている気がする。早く会話を打ち切りたいが、彼女がどこまで何を覚えているかを確認するにはいい機会だ。巧く(とぼ)けていられていることを祈りながら、イェルドは優しく尋ねる。

「それがどこか思い出せないの。よく知っている場所への連絡先だと思うんだけど……」

「分かった。母さんか、プレストンが何か知っているかも知れないから、明日にでも訊いてみよう」

 そう言うと、話は終わったとばかりに、エレオノーレの後頭部に手を添えて引き寄せる。異変が起きたのは、唇が重なった次の瞬間だった。

「ッ、や……!」

 唇が重なった瞬間、エレオノーレはその両腕を突っ張って、イェルドから身体を離そうとする。

「エレオノーレ?」

「や、……ご、めんなさいっ……私……」

 エレオノーレは形の良い眉根を寄せて、唇を押さえて俯いた。

「どこか、具合でも悪いのか?」

「……そ、そう……そうなの。まだ具合が悪くて……部屋に戻るわ」

 腕から抜け出そうとする彼女を、イェルドはしかし放さなかった。

「イ、ェルド?」

「ここで眠ればいいよ。具合が悪いのに一人にするのは心配だし」

「で、でも」

「ここで眠りたくない理由でも?」

 エレオノーレは答えなかった。だが、代わりにどこか困った顔をして視線を逸らし、今にも泣き出しそうに目を潤ませている。

「エレオノーレ?」

 抱き締めて頬に口吻けた途端、彼女の身体が、今度ははっきりと震えた。

「エレオ」

「嫌ッ……!」

 明確な拒絶を示すと、エレオノーレは必死の形相でイェルドの腕を抜け出しベッドから転がり落ちるように床へ降りた。尻餅を突く形で座り込んだ彼女の身体はガクガクと震え、大きな瞳からは遂に涙が溢れ出す。

「エレオノーレ?」

 ベッドから降りようとすると、エレオノーレはまた一つビクリと身体を震わせて、少しでもイェルドから遠ざかろうとするように臀部だけで後ずさった。

「ぃやぁっ!!」

 エレオノーレは素早く立ち上がると、扉を開けて寝室を飛び出して行った。

 イェルドは、それをどこか夢の中の出来事のように呆然と見つめていた。

 いつか、見た光景だった。強烈な既視感に、胃が捩れそうになる。

『別れて欲しいの』

 そう言った、彼女の声が脳裏に蘇る。

 違う。そんな訳はない。だって、君は戻って来てくれたじゃないか。

 こんなに僕が愛しているのに。君だって僕を愛しているだろう?

 自然に、携帯端末に手が伸びる。もう皆寝室へ引き取った時間帯だということも頭に浮かばない。

「プレストン? 悪いね、もう休んでいたのに」

 微塵も悪いと思っていないのに、いい主人を演じる言葉が勝手に出て来る。それを醜いと思わないし、そもそも認識することもイェルドには出来ていなかった。

「出入り口を封鎖してくれる? ……ああ、彼女がちょっとね。混乱してるみたいだから。見つけたら捕まえておいて。こんな夜中に外へ出たりしても危ないし。僕も着替えたら合流するから」

 通話を切ると、イェルドは悠然とベッドを降りて、私室へと足を向ける。

「大丈夫。もう放さないから」

 誰に言うともなく呟くと、イェルドは薄く笑った。

 別れるなんて有り得ないんだ、エレオノーレ。

 だって、神の前で僕達は永遠の愛を誓ったんだから。君だって、後悔したからこそ、戻ってくれたんだろう?

 大丈夫。僕は許しているから。二度と、君の手を放さないと決めたんだから。


***


 不意に、明かりが灯った。

 夫婦で使う寝室を出て、五分もしない内に、寝静まろうとしていた屋敷中が明るくなり、それが逃げなくてはと焦る気持ちに追い打ちを掛ける。

 何故だか、強烈に嫌悪感が沸いて来て、イェルドに抱き締められるのが嫌で堪らなくなって、でも、それを彼に言うのはどこか申し訳なくて。

 彼を傷付けない為には、離れているしかなかった。

(……ううん、違う)

 どこまでも詭弁を言う理性に、エレオノーレは頭を振った。

 違う。自分が離れたかったのだ。

 彼の腕の中は、落ち着かない。

 そう思うようになったのは、家に戻って、一度倒れてからだろうか。

 触れられると、怖くて、気持ち悪くて、逃げ出したい焦燥に追い立てられるようで。

 口吻けられて、心底気持ちが悪かった。貧血で倒れたという日まで、頬への口吻けは何とも思わなかったのに。神聖なファースト・キスを、まるで一方的に恋われて、無理矢理奪われたような、そんな気分だった。

(ファーストキス?)

 初めてだったろうか。彼と、マウストゥマウスのキスくらい、恋人時代に何度もしているのに。

 こんな筈はない、彼は愛して一緒になった夫なのだと懸命に言い聞かせても、それは最早紙に書かれた呪文を義務で唱えるが如き効果しか生まなかった。

(気持ち、悪い)

 イェルドに触れられた唇を、ゴシゴシと拭う。洗いたい。消毒したい。

 洗面所に駆け込みたい衝動を、今は理性で押さえ込む。彼から逃れるのが先だ。一刻も早く、彼の手の届かない場所へ。

 次々起き出してくる使用人達の目を避けてどうにかエントランスホールまで辿り着いたが、玄関の前には既に人がいる。逃げられない。

(後は……どこ。外へ出入りできる場所)

 視線を彷徨わせるが、そもそもエレオノーレは屋敷に来て日が浅い。

 生活空間はリビングと二階にある私室、それに夫婦で使う寝室だけだ。そして、それらの部屋を移動する為に使う、廊下と。エレオノーレが知っている屋敷の内部はそれだけだ。

 使用人達が行く道にいないのを確認しながら、今来た廊下を戻り出す。しかし、私室へ戻ってもイェルドに見付かる危険の方が高い。

 この際だからと、お行儀に振舞うのをエレオノーレは放棄した。

 非常事態だ。窓から出たって構うことはない。

 けれど、意外にも階下の廊下には窓が見当たらない。奥まった場所で、漸く目当てのものを見つけたと思ったら、窓へ飛び付くより先に、使用人に見付かってしまった。

「いたぞ! エレオノーレ様!」

「若奥様!」

「嫌っ……」

 力が抜けて竦みそうになる足を叱咤して、踵を返す。

 先刻来た廊下を逆走するも、自分を見た使用人達が声を上げたことで、さっきまで誰もいなかった筈の道にどんどん人が増える。

(こんなに……人が?)

 普段はひっそりとして、静かな印象しかなかった屋敷内に、思う以上に使用人がいるのだと知って驚いた。

 必死で人がいない場所を探して彷徨うが、あっちにもこっちにも湧いて出るように人が増え、どんどん追い詰められる感覚に混乱しそうになる。

(助けて……誰か)

 こんな時、いつもは必ず誰かが手を引いてくれた。考えなくとも危機を脱することが出来た。けれど、今は誰も助けてくれない。一人で、どうにかしなければならない。

(いつも?)

 いつも、こんな生活をしていたろうか。誰かとは、誰だったろうか。

 不意に、あの銀髪の少年の姿が脳裏を()ぎる。

(貴方は誰?)

 ずっと前から彼を知っている筈だ。思い出さなければ。

 思い出せばここから逃げられるかはまた別の問題だが、でも思い出さなければ。

 奥の階段まで押し戻されるように逆戻りする。この階段を登れば、イェルドと鉢合わせるかも知れない。けれど、両側から迫って来る使用人の群れ――右手に五人、左手に五人――から取り敢えずこの場を逃れるには、目の前の階段を上がるしかない。

 残された逃げ道に、エレオノーレは足を掛ける。必死で駆け上がり、階段を登り切った先には、着替えたのか、普段着姿のイェルドがいた。

 微笑して両手を広げる彼には、もはや恐怖と嫌悪感しか覚えなかった。我知らず悲鳴が迸り、手前の三差路を右手に取る。とにかく走った。彼から逃れなければ。

 そこから先のエリアは、エレオノーレにとっては未知の領域だった。

 突き当たりは左にしか曲がれない。曲がれば、もしかしたらさっきの道と回りまわって通じているのではないかなどと、考える余裕もなく、エレオノーレは道なりに左へ曲がった。狭い廊下がまっすぐ伸びていて、進めば追い詰められるような気がした。でも、進まなければ、階段から人が上がってくるし、イェルドも来るかも知れない。

 早く――早く。

 夢の中のように、足元がふわふわしている。それは、敷き詰められた絨毯の所為かもしれないが、上手く力が入らないような気がする足を必死で動かす。

 しかし、五十メートルほどの長さのある廊下は、行き止まりだった。

(嘘っ……!)

 壁を背にして、今まで背後だった方を振り返る。

 すると、ちょうど角を曲がったばかりだったのか、イェルドを先頭に、大勢の使用人達もゾロゾロとこちらへ向かって来ていた。

「エレオノーレ……」

「嫌っ! 来ないで!!」

 必死の思いで叫びながら、角の方に背を押し付ける。それ以上退がれる筈がないのを百も承知で、懸命に足を突っ張ると、意外にも壁がガクンと向こう側へ落ち込んだ。

「きゃっ……!」

 いきなり背を支えるものがなくなって、エレオノーレは背中からひっくり返る。反転した壁がクルリと回って、視界は闇に包まれた。


***


 翌朝、午前九時。

 ティオゲネスは、エーデルシュタイン邸の正面玄関前に立って、屋敷を見上げた。

 マルタン教会の午前中のミサは午前十時から始まる。そして、この屋敷から教会までは車で一時間程の道のりだ。従って、ミサに参加するなら今出掛けないと間に合わない。

 尤も、あの男がミサに参加する気があるかは微妙なところだ。あの男の目的は、自分を養子にするという名目の下に、合法的に自分を目の届く場所に連れ去ることだからだ。

(ま、連れ去るだけならまだいいけど)

 最悪、一緒の車に乗った途端、銃声と共に自分の命が終わる可能性もある。いや、その確率は限りなく高い。

 書類手続きは後回しにして、取り敢えず一刻も早く家族として暮らしたいとか何とか言って、あの男は今日中にも自分を連れ帰ろうとするだろう。その為に、一度教会へ戻って彼を待とうかとも思ったが、逃げられない密室に彼と二人きりにされるのは御免蒙りたい。

 容赦なく反撃して彼を殺してもいいなら話は別だが、自分は既に一般人の世界へ戻っている。他人を手に掛けるのは、最善の手を尽くしても尚追い詰められてどうしようもなくなった時だけだ。自分が間抜けなヘマをして追い詰められた状況はその範疇ではない。

 そういう理由から、ティオゲネスはあの男がエーデルシュタイン邸を出て来るのを逆に待ち伏せる為にここに立っていた。

 けれども、二十分程待っても、エーデルシュタイン邸の扉は一向に開く様子がなかった。

 正面玄関から出入りしなくとも、ここは高い塀に囲まれている訳ではないから、車庫に向かう人間がいれば嫌でも目につく。

(ミサが終わるのは十一時……)

 腕時計をチラと見て、それからまた玄関に視線を投げる。

 ミサが終わる頃に出るつもりだろうか。そう自問して、ティオゲネスはすぐにそれを否定した。

 もし自分があの男なら。

 一秒でも早く動きを封じたい相手がいるとすれば、その策を講じる為にはやはりこの時間に家を出て目的地へ向かうだろう。その動きがないということは、そう出来ない理由が出来たということに他ならない。

(となると、こっちの予定変更……か)

 ティオゲネスは、ラッセルから借り受けた端末を取り出してダイヤルを押すと、何事かを電話口で告げながら踵を返し、一旦その場を後にした。


***


 心臓がまだドキドキしている。気分は落ち着かぬまま、時が経った。誰も来ない。周りは静かな気がするが、扉が厚いのか、外からの音は聞こえない。

 偶然反転した壁の内へ転がり込んでから、エレオノーレはその場にずっと腰を下ろしていた。

 イェルド達も、目の前でエレオノーレが壁に消えるのを見ていたのだから、きっとまだその辺にいるだろう。

 籠城もいつまで続けていられるかは分からないし、そもそも安住の地でもないことは分かっていた。それでも、イェルドが触れることのできない場所へ隠れていることしか、エレオノーレには思い付けなかった。

(暗い……)

 まだ夜中なのか、それとも朝になったのか、時間の感覚がまるで飛んでしまっている。

 明かりがないので、その部屋の中がどうなっているのかさえ、エレオノーレには分からない。

 エレオノーレは、そろりと立ち上がった。こうしていても、解決にはならない。どうにかして逃げ出さなければ。

 逃げ出す為にはここを出なければならない。出て、確認するのも恐ろしいが、内側から外の様子が伺えない以上、まずは壁を動かさないと話にならない。薄く開いて、確認するくらいはできるだろう。

(えっと……)

 入る時は向かって右側を押して入った。

 その後、半回転してから壁が閉まったから、逆に外から入るには、左側を押すに違いない。そう思っていたから、今までそこを塞ぐように座り込んでいたのだ。

(というコトは、内側から開けるには、向かって左側を押せばいいのよね)

 そして、こちら側から閉じるには、右側を素早く押す。

 それだけ確認したエレオノーレは、他には何も考えず、その通りに行動し、瞬時にそれを後悔した。

 喉の奥から悲鳴なのか何なのか、よく分からない奇声が迸る。それが、自分の発した声だと認識する余裕もない。

 開いた壁の隙間から、微笑みを浮かべたイェルドの瞳が覗いたからだ。反射的に閉じようとするが遅い。その隙間を掴んだ指先が入り込んで来て、エレオノーレの指先に触れる。

「やっ……!」

 その指先から離れようと後ずさり、踵を返す。

 扉代わりの壁が開いたことで、外からの明かりが中へ射し込む。その明かりで、壁の内側にも奥へ続く通路があることが分かった。迷わずそこへ向かって駆け出す。

 けれども、外から届く明かりは限られており、すぐにまた視界が利かなくなった。それでも、一歩でも一秒でもイェルドから遠くへ、という気持ちが逸る。駆けるスピードを緩めるのは怖くて、少しでも緩めたら彼の腕の中へ捕えられそうで、エレオノーレは指先だけを前へ泳がせながら夢中で走る。

 その時、足元が急に浮いた。

「えっ……」

 何が起きたのか分からないまま、その身体は空中に投げ出された。


***


 先日と同じように屋根裏から侵入したティオゲネスは、もうそろそろ警報装置でも付けたらどうだ、というどうでもいいことを脳裏で一人ごちた。

 この日も、屋根裏の窓は、何の抵抗もなくティオゲネスを屋敷内へと迎え入れたのだ。

 けれど、先日と状況が異なったのはその後だ。

「え」

 急勾配の階段を降りて、ノブを回したところまではよかった。しかし、そっと押し開けようとした扉は、先日と違ってビクともしない。外から鍵を掛けたとしても、鍵というのはそもそも外側からの侵入を防ぐものだから、内側からなら開けられそうなものだが、この部屋に限ってそれは見当たらなかった。

 となると、考えられることは一つ。

 外から鍵ではないもので、ここを塞いでいるのだろう。

(くっそ……)

 警戒を厳重にしたらどうだ、などと思っていたクセに、いざそうされると面倒臭いと思ってしまう辺り、矛盾している。

 ティオゲネスは仕方なく、屋根裏の窓へ引き返し、一旦外へ飛び降りた。

 銃でドアをぶち抜くのも一つの手だが、サブマシンガンならともかく、拳銃程度の威力では開くかどうか保証もない。銃声で屋敷中の人間をその場に集めてしまう確率もあまりに高い。手持ちの弾丸は三十二発しかないし、弾が減るわ扉が開かないわ人が集まるわでは踏んだり蹴ったりだ。

 飛び降りた場所のすぐ傍にあった窓から、中の人間に見付からないように気を付けながら内部を窺う。そこは廊下のようで、今見る限りでは人影はない。ティオゲネスは、窓から身を隠すように腰を屈めると、右手に進路を取って移動を始めた。

 数メートル先の角を曲がれば、確か勝手口があった筈だ。人がいるようなら、もう正面突破しかない。

 できれば誰もいませんように、と珍しく神に祈りながら裏口へ回るが、普段の不信心が災いしたのか、願いも虚しくそこはがっちりと固められているようだった。

 勝手口の窓の上部にはめ込まれたガラスはすりガラスで、外から直接には中を見ることができない。せめて、あの男以上の使い手がいないことを祈りながら、ティオゲネスはノブをそっと回した。当然ながら鍵が掛かっているのを確認すると、ヘアピンで鍵を()じ開ける。扉を細く開いて中を覗くと、そこは台所のようだった。人数を確認し、普通にドアノブを引いて大きく扉を開く。

「すいませーん。頼まれてた小麦の配達なんですけどー」

 間延びするような声でのんびりと言うと、その場にいた執事らしき黒い服を着た四人の男と、メイドらしき二人の女性が呆気に取られたようにティオゲネスに注目した。

「そんなものは注文していない。今邸内は取り込み中だ」

 威圧感たっぷりにその場のリーダーらしき男が告げる。

「ええー、そんなコト言わずに受け取ってよ。折角持ってきたのにさぁ。金も持たずに戻ったら、親方に殴られちゃうよ」

 それをモノともせずに食い下がるティオゲネスの額に、男があっさりと銃口を押し付けた。

「四の五の言わずにとっとと帰れ。頭の真ん中ぶち抜かれるのと、親方とやらに殴られるのとどちらかマシだ?」

「さぁね」

 ティオゲネスが、ニッと唇の端を吊り上げて見せると、男は虚を突かれたような表情で一瞬怯んだ。その一瞬の間に、ティオゲネスの手が男の腕を跳ね上げる。弾みでトリガーに掛かっていた指先が引き金を絞るが、弾は見当外れの方向へ飛んだ。その場にいる女性二人が悲鳴を上げて身を縮め、残る男三人がそれぞれに銃を取り出し構える。

 その間に、ティオゲネスは跳ね上げた男の手首を掴んで投げ飛ばし、同時に銃を奪って後ろ手に扉を閉じた。素早く作業机の陰に走り込んで男達の初弾を躱すと、屋内の出入り口方向へ走り抜け様、奪った銃の引き金を絞る。

 一発と錯覚する数の銃声の後、その場にいた五人全員が足を撃ち抜かれて呻きながら床へ蹲っていた。敵を行動不能にしたのを確認すると、ティオゲネスは台所を後にした。銃声がしたことで、程なくここへも人が集まって来るだろう。

 素早く左右へ視線を投げると、ここは奥まった通路の行き止まりだった。選択の余地もなく右手へ進路を取り、姿勢を低くして駆け出す。

 通路の途中で行き当たった階段に曲がるのと、銃声がするのとはほぼ同時だった。銃弾はティオゲネスには当たらず、階段の壁にめり込む。ティオゲネスはそれを一顧だにすることなく、素早く階段を駆け上がった。

「止まれ!」

 続けて威嚇の声が追い掛けて来る。

 そう言われて止まるのは愚の骨頂だが、この時ばかりは足を止めざるをえなかった。その声に、聞き覚えがあったからだ。

 足を止めて後ろを確認しなければ、恐らくティオゲネスは背中から撃たれて死んでいただろう。相手はそれが出来る男――プレストンだった。

「ここは私に任せて、配置へ戻れ」

「でもプレストンさん……」

「いいから早く」

 後から来た使用人達に言って彼らを下がらせる間も、プレストンはティオゲネスから銃口と視線を外さない。ティオゲネスも視線だけは彼から外さなかった。

 他の使用人達は、それぞれ不満げな、或いは心配そうな表情を浮かべながらも、言われた通りにその場を離れて行く。

「よく来たね。でも、こんなに急がなくても今日には迎えに行ったのに。神父様から話は聞いているんだろう?」

 やがて周囲に誰もいなくなったと見ると、プレストンが先に口を開いた。

「聞いたぜ。だから、足を運ぶ手間を省いてやろうと思ってよ。けど、返事をする前に、あんたが俺を息子にと望んだ本当の理由を聞かせて欲しいな」

「本当の理由、か。やはり君は普通の子供じゃないようだね」

 ティオゲネスはそれには答えずに沈黙を返す。

「漸く若奥様が戻られた。これから坊ちゃまが幸せになるのに、君は邪魔なようだ。だが、その腕は非常に惜しい」

 プレストンは、銃口を揺るがすことなくティオゲネスの心臓にポイントしながら、片足を階段に掛けた。

「私も、歳を取った。今後、私に代わって、私と同じレベルで坊ちゃま達を守る為の力が必要だ。この家の他の執事もボディガードとして教育を施してはいるが、私のレベルには遠く及ばない」

 プレストンが、また一歩階段を登る。ティオゲネスとの距離は、一・五メートル程に縮まった。

「君が、初めてだ。私の目に(かな)ったのは」

 プレストンの黒い目が、どこか縋るようにティオゲネスを見上げる。ティオゲネスは、そんなプレストンを無表情に見つめ返した。

「あんたも、元は裏社会の人間なんだな」

 前置き抜きにズバリ言うと、プレストンは苦笑と共に肩を竦めた。

「……隠しても無駄か。ああ、その通りだ。とある組織の戦闘要員だったが、その組織の崩壊で、一度は生きる場所を失った。その時、行き場のない私を拾って下さったのが、先代の旦那様だった」

「成程ね」

 何がきっかけでエーデルシュタイン家前当主がプレストンを拾うことになったのかは分からない。が、とにかくその時に、プレストンはエーデルシュタイン家の為に生き、ここを終の棲家とすることを決めたのだろう。

「あんたがこの家に忠節を誓ってるのは分かった。誰に恩義を感じて誰の為に生きようとあんたの勝手だ。けど、俺には関係ない。巻き込むのは止めて欲しいね」

「それが答えか」

 ティオゲネスは、静かにプレストンの目を見据える。

「そうか……残念だよ、本当に」

 一瞬、寂しげに伏せられたプレストンの瞳は、次にティオゲネスを見上げた時には凍りつくような色を宿していた。忠義を尽くす相手の為なら、長いこと探し求めた後継者と認めた相手でも容赦はしない。その決意がありありと窺える瞳だった。

 相手が、引き金に掛けた指に力を込めた瞬間、ティオゲネスも右手に握ったままだった銃を素早くプレストンに向けた。銃声が階段から廊下へ木霊する。刹那、プレストンの持っていた銃が僅かに膨れ上がり、破裂した。同時に、ティオゲネスの左肩から血が迸る。

 弾道を完璧に外したつもりが、避け切れていなかったらしい。被弾の衝撃に押されて階段へ叩き付けられ、ティオゲネスは声にならない声で呻く。それでも転げ落ちることだけは避けようと、左手で階段の縁に縋りついた。

「うぁッ……!」

 連動して激痛が走るが、まさか右手に持った銃を手放す愚を犯す訳にもいかない。

 銃口を撃ち抜かれたプレストンの方は、暴発に巻き込まれた手を押さえて蹲っている。今なら止めを刺すのは簡単だったが、ティオゲネスは瞬時躊躇った。

 遠いと思えるような距離感で、微かに悲鳴が聞こえたのはその時だった。


***


「いっ……たぁ……」

 悲鳴を上げて宙を飛んだエレオノーレは、あちこちに身体をぶつけながら転がり落ちた。

 明かりのある場所で落ち着いて見れば、急勾配の階段があったのに気付かずそこを踏み外して落ちたのが分かっただろう。しかし、未だ視界は薄暗くて何がどこにあるのか、そもそもどういう状況で身体が宙に浮いて落ちたのかが、さっぱり呑み込めない。

 けれども、どうにか身体は動くようだった。起き上がろうとすると、ぶつけた節々が痛んだが、床に手を突いて何とか上半身を起こす。

「ここ……どこ……?」

 そうするともなしに辺りを見回すと、先程自分が落ちて来た場所から明かりが近付くのが分かる。ギクリと身体を竦ませて、早く逃げなければとまだ痛みに強張ったままの足をギクシャクと動かす。

 壁に縋るようにして立ち上がると、指先に何かが触れた。何も考えずにその指先に力を入れると、パッと明かりが灯る。

(嘘!)

 追われている状況で、自分の居場所を教えんばかりに明かりを点けるなど、論外だということはエレオノーレにも分かる。慌てて消そうとするが、ふと泳がせた視線の先に、扉があるのが見えた。

 その扉のドアノブの場所を素早く記憶すると、今度こそ明かりを落とす。

 元通り暗くなった視界の中で指先を泳がせ、壁を伝ってドアノブを探す。開くかどうかは分からなかったが、開けば暫くは閉じ籠れるだろう。細長いドアノブを探し当てると、グッと押し下げ、扉を前後に動かしてみた。押す方向には動かなかったが、引いてみると扉はすんなりエレオノーレの手に従う。

 振り向くと、階段にはもう人の足先が見えていた。逡巡の余地などない。エレオノーレは開いたドアの隙間に身を滑り込ませると、内側から懸命にドアを引いた。そうしながら、内側から鍵が掛からないかと、闇の中で必死に手を滑らせる。

 ノブの上にそれらしき引っ掛かりを探し当てて、回せる方向へクルリと回す。ホッと息を吐いて、どこかに明かりのスイッチがないかと、今度は壁に手を滑らせた。

 指先に何かが触れる。けれど、明らかに照明のスイッチではない。柔らかくて、布のような――

 その正体を確認する為にも明かりを点けようと、エレオノーレは懸命に壁に指先を這わせ続ける。向かって左側の壁を上から下へと探る内に、頭よりもやや高い位置にそれらしいものを探し当てて、エレオノーレはそれを押した。柔らかなオレンジ色の光が室内を照らし出す。

 先刻、指先に触れたものが何だったのか、そちらに目を向けた瞬間、エレオノーレは一瞬絶句した。

「ぁ、」

 それを確認すると同時に、掛けた鍵がピクリと動く。咄嗟に施錠の状態を保とうと飛び付くが、そのすぐ横にあるものから同時に離れたくて仕方がなかった。

 怖い――怖い。

 そこにあったのは、壁に吊るされた人間だった。古風なドレスに身を包んだ、十代に見える少女の、恐らくは遺体。それと意識すると、何やら異臭が漂っている気がして、エレオノーレはすぐにもドアを開け放ちたい衝動を、懸命に堪えなければならなかった。

 すぐ傍にあるもの以外はパッと見ただけなので定かではないが、向かって右側の壁際にずらりと吊るされた遺体の、一番右端のものは、既に白骨化しているように見えた。

 鍵がガチャガチャと音を立てるのが、果たして外から開けようとしている所為なのか、それとも指先が震えている所為なのかが分からなくなる。

(何で……何で、こんな……)

 もう嫌だ。この屋敷の全てが。どうして、自分はこんな所にいるんだろう。

「エレオノーレ? ここにいるんだろう?」

 呼び掛けられて、ヒッと短く悲鳴が漏れる。

「いい子だからここを開けて」

「い、やっ……!」

 拒絶が外へ届いたかも分からない。けれど、何故か、もうあの声を聞くのすらおぞましいとしか思えなかった。

「ここを、開けて? すぐに開ければ許してあげる。でも、開けられないのなら仕方ないね。大丈夫、すぐに出してあげるから」

「い、やぁっ……!」

 エレオノーレは反射的に鍵から手を放してしまった。鍵がクルリと反転して、解錠する。少しでもそこから離れたいと、エレオノーレは後ろも見ずに後ずさった。その間にも、ゆっくりと扉が開いて、そこからイェルドが顔を見せる。

「見つけた……さあ、エレオノーレ。僕と一緒に上へ戻ろう」

「や、来ないでっ、あ!」

 イェルドの伸びた手から逃げるように後退し続けたエレオノーレは、腰の辺りにぶつかった何かの為に足を止める。行き止まりか、と恐る恐る視線を背後へ投げると、そこには、ガラス張りのケースが安置してあった。

「な、っ」

 エレオノーレは瞠目した。

 その中には、美しい少女が眠っている。眠っているように見える少女の容姿が、自分に瓜二つだったからだ。

「嘘……私?」

 違う。私じゃない。私は……私は――

「いっ……た!」

 ズキン、と痛みが頭の中を走り抜ける。

 痛む頭を両手で抱えて、ガラスケースに凭れるように屈み込む。頭痛が膨れ上がる錯覚の中で、ガラスケースが弾ける。いや、弾けたのはガラスケースではない。

「う……あ、」

 あたし――あたしが、もう一人? 違う、これはあたしじゃない。あたしは、……『あたし』は。

「エレオノーレ?」

「触ら……ないで」

 エレオノーレ――エレンは、頭を抱えたまま低く呻くように呟いた。

「これは……誰なんですか。彼女が……もしかして、エレオノーレ? でも――」

「あーあ、残念。エレンさんに戻っちゃったね」

 クス、と耳元で笑うと、イェルドはエレンを背後から抱き竦める。

「でも大丈夫。母さんの所へ行こう。すぐにエレオノーレに戻れるよ」

「ふざけないで、放して下さい。貴方は……貴方は彼女を妹だと言ったのに」

 荒い息をつきながら言うと、イェルドは覆い被さった体勢のまま、耳元で囁いた。

「うん、そう。本当は妻なんだけど、君に警戒されたくなかったからね」

「警戒ですって? 一体、何が……」

「どうせすぐにエレオノーレに戻るんだから、話してもいいかな。そう、彼女が前のエレオノーレ。僕の元から去ろうとしなければ、こんなコトにならずに済んだのにね」

「こんな、コト……て、まさ、か」

 綺麗な顔をして、眠っているだけに見える少女を、エレンは改めて見下ろした。

 しかし、よく目を凝らせば、肌がどこか不自然な光沢を放っているのが分かる。

「あんなに愛していたのに……今も愛しているのに」

「放して! 貴方は一体、彼女を……!」

「もう放さないよ。さあ、母さんの所へ行こう。君を元に戻して貰わなくちゃね」

「い、や……っ!」

 耳元に吐息を吹き掛けられるように囁かれて、背筋を寒気が走る。その腕から逃れようと必死になるが、男の腕力に(かな)う訳がない。

「や、だ! 放して! 放してよ!!」

「嫌な訳がないだろう。君だって僕を愛している筈だ。だから僕の元へ戻ってくれたんだろう?」

「勝手なコト抜かしてんじゃねぇぞ」

 聞き慣れた、それでいて随分久し振りに聞くような声音が耳に滑り込んで来たのは、半ば観念した瞬間だった。


***


 プレストンとの勝負に決着が着こうとしたその時、屋敷内ではあるが遠くから甲高い女性の声が聞こえた気がして、ティオゲネスはそちらを振り仰いだ。

(どこだ……!?)

 痛みに悲鳴を上げる肩口をどうにか無視して立ち上がろうとした途端、足元を掬われてティオゲネスは再び引っ繰り返った。咄嗟に背後から倒れ込むように受け身を取ったお蔭で顔を階段の角にぶつけるのだけは避けたが、再度身体を階段に叩き付けられて発信源の分からない痛みが脊髄を這い上がる。

 歯を食い縛って左手で階段の端を掴んで下を見ると、プレストンがやはり無事な方の手でティオゲネスの足首を掴んでいた。

「行かせないぞ……!」

 必死の形相だった。恐らく二階に何かある。見る者にそう直感させるには充分な形相だ。彼に吐いて貰えば一番早いが、主家に忠誠を誓った男は簡単には口を割りそうにない。逡巡する間に、男は体重を乗せて足首を引っ張って来る。

「ッ、あ……!」

 大の大人であるプレストンが、十代半ばにしては小柄なティオゲネスに体重と重力に任せて足を引っ張れば相当な負荷が掛かり、それだけでかなりの攻撃となり得る。足首の関節が抜けそうな危惧と、肩口に負った傷が引き攣れる痛みに、加減を考える余裕は消し飛んだ。

 それでも痛いという単語で埋め尽くされそうな意識をどうにか掻き集めて、引き金を絞る。放たれた銃弾は、プレストンの腿に着弾し、衝撃で手を放したプレストンは階段を転がり落ちた。

「おい。坊ちゃまはどこにいるんだ」

 荒い息を吐きながら、ティオゲネスはプレストンの胸部に照準を定めて問い質す。

 だが、同じように息を弾ませたプレストンは、ある意味予想通りの答えを口に乗せた。

「ふん……私が、坊ちゃまを売ると思うか?」

 ティオゲネスは小さく舌打ちする。答えをくれない相手に構っていても時間の無駄だ。それなら、自分の足で探した方がずっと早い。けれど、立ち上がった瞬間、足首にも激痛が走る。遠慮なく体重を掛けてくれたおかげで足首をも痛めたらしい。

(……ンの、中年太りがっ……! 思いっ切り足首引っこ抜いてくれて後で覚えてろよ!?)

 口に出せばその美貌と凄まじいギャップのある悪態を、脳内でだけ吐きながら再度舌打ちする。左足を引き摺りながらどうにか階段を登った。

 登り切った先は、手前が行き止まりのT字路のようになっていた。

 右か、左か、それとも正面か。さっと視線を走らせて右手に意識を向けた時、そちらに人の気配が集中しているような気がした。

 長年戦場で培われた勘は決して裏切らないことを、ティオゲネスはよく知っている。

 勘に導かれるまま、足を引き摺って突き当たりへと歩を進めた。壁を背にして曲がり角の先を窺うと、廊下の中央部分に人が集まっている。

 内訳として、黒い執事服に身を包んだ男性が四人と、その周囲を心配げに見守るメイドが四人。身体さえ万全ならこれくらいの人数は傷付けずに突破できるのだが、今は足が宛にならないのは致命的だった。

 ティオゲネスが逡巡したのは、ものの一、二秒のことだった。

 軽く深呼吸しながら、目を伏せる。何も考えない。情けは無用だ。生き伸びる為なら――仲間(エレン)を救う為に必要なら。

(俺は、手段を選ばない)

 見る者はいなかったが、もしいたなら、その底抜けに冷然とした翡翠色に戦慄しただろう。その瞳には、最早何の感情も映ってはいなかった。

 ティオゲネスは、侵入した際に奪った銃の弾倉を取り出して残弾を確認すると、弾倉を戻してスライドを引く。そして、それを左手に持ち替えると、右手で元々持っていた銃を脇下に吊っていたホルスターから抜いた。

 足を引き摺るようにしか歩けない今、ここを突破するには不意打ちしか手段がない。向かいの壁際に足音を殺して移動すると、反動で転ばないように壁に背を預け、両手に構えた銃の引き金を絞った。

 悲鳴と銃声が被って、合計八人は申し合せたようにほぼ同時に床へ沈んだ。急所は外したつもりだったが、こちらも痛みと出血で眩暈がしている状態なので、自信がない。

 とにかく障害を排除すると、床で呻く人間に躓かないよう注意しながら、最奥の、壁が不自然に開いたままになっている場所まで移動した。右手に持っていた銃を一旦ウェストへ押し込むと、ティオゲネスは上着の内ポケットへ仕舞っておいた携帯端末を取り出した。馴染んだナンバーをプッシュすると、呼び出し音ツーコールで相手は電話口へ出た。

「よぉ。どうやらビンゴみたいだぜ。ソッコーで応援寄越してくれ」

 そう告げると、通話状態にしたままの端末を元通り上着の内ポケットへ滑り込ませる。

 暗がりを覗き込むが、外からの明かりが届く範囲には何も見えなかった。用心深くその中へ踏み込んで、壁際にノロノロと進む。やがて、足の先が空を踏んだ。階段のようだ。降り始めると、その階段は酷く急勾配になっているのが分かる。暗がりに慣れた目を凝らしながら、踏み外さないように慎重に下って行くと、やがて誰かの話声が聞こえて来た。

「ここを、開けて? すぐに開ければ許してあげる。でも、開けられないのなら仕方ないね。大丈夫、すぐに出してあげるから」

 男の声だ。

 恐らく、プレストンが『坊ちゃま』と呼んでいるあの青年だろう。

 金属音がして、男の声と、少女の声が交錯する。焦る気持ちに理性で蓋をして、階段を降り切ると、開いた扉があった。中にオレンジに見える明かりがぼんやりと灯っているお蔭で、室内の様子はよく見えた。

 こちらに背を向けている男は、何かを抱え込む姿勢で背を丸めて立っている。

「や、だ! 放して! 放してよ!!」

 泣き出す寸前の女の声の主は、考えるまでもなく分かった。

「嫌な訳がないだろう。君だって僕を愛している筈だ。だから僕の元へ戻ってくれたんだろう?」

「勝手なコト抜かしてんじゃねぇぞ」

 漸く男のすぐ後ろに立ったティオゲネスは、容赦なく男の後頭部に手にしていた銃口を押し付けた。

「お前……は」

「……ティオ? ティオなの!?」

 男の声を押しのける勢いで、エレンが弱々しく、しかし縋るように確認を取る。

「そーだよ。よーやく思い出したみてぇだな。今回もまた随分手間掛けさせてくれちゃって」

 いつもの癖で肩を竦め掛けるが、左肩に走った激痛に、ティオゲネスは顔を思い切り顰めた。尤も、それを見ている者は、この場にはいなかったが。

「ああ、思い出した。あの銀髪の少年だね」

「へぇ、覚えててくれたのか。光栄だな」

 感心したような声音で言った後、ティオゲネスは男の後頭部にゴリ、という音がする程強く銃口を押し付け直す。

「けど、生憎こっちは、会話を楽しむ余裕はねぇんだ。とっととその汚い腕、エレンから放しな」

「断る、と言ったら?」

「頭吹っ飛ばすに決まってんだろ」

「ティオ!」

 あっさり言うと、こんな時でも人命は重んじる主義のエレンが、非難がましい声音でティオゲネスの名を叫んだ。

「エレンは黙ってろ。余計な口きくんじゃねぇぞ」

「だって……!」

「黙ってろっつってんだ」

 このやり取りにおいてのみ青年に罪はない筈なのに、その銃口は益々後頭部に強く押し付けられる。後頭部にめり込まんばかりの痛みに、青年はどこかおどけたような悲鳴を上げた。

「痛たたた、痛い痛い、止めて」

「止めて欲しかったらエレンを放せ」

 正直なところ、ティオゲネスには本当に余裕がなかった。ズキズキというリズムで肩先を踊る痛みが、限界を越えようとしている。ものを考える余地がある内に、エレンを連れて引き上げたい。

「君こそ坊ちゃまから離れるんだ」

 その焦りに追い打ちを掛けるように、背後から聞こえたのはプレストンの声だった。

 痛みと出血でどこかぼんやりしていたのだろう。彼が後からついて来ているのに気付かなかったらしい。背筋に当てられた硬質なものが銃口だと分かって、ティオゲネスは内心で舌打ちした。プレストンの持っていたものは先程銃口をぶち抜いて暴発させたので、使いものにならない筈だ。二階で撃ち倒した使用人の誰かが持っていた銃だろう。

「いいのか? そこでぶっ放したら、貫通して坊ちゃまにも弾が当たるかも知れないぜ」

「安心し給え。人体は意外と弾避けに使える材質なんだよ。遮蔽がなかったら、その辺の遺体を盾に使えと、君も教わらなかったかね」

 唇を噛み締める。ハッタリも、自分の四倍は生きている人間が相手では、生半可なものは通用しないようだ。

「ハッタリのネタ切れなら、銃を捨て給え」

 背筋に押し付けられた銃口が皮膚に沈み込むような強さで押し付けられて、その整った容貌が歪む。後々どこからどう責められようと、プレストンに止めを刺しておかなかったことを猛烈に後悔しながら、ティオゲネスは目の前の青年の後頭部から銃を引いて、それを背後へ放り投げた。

 万一、投げた銃に怯んでくれればと思ったのだが、人生経験がそのまま戦闘経験になっている男にはやはり通用しない。

 瞬間、足元を払われる。咄嗟に受け身を取りはしたが、強かに背中を床へぶつけて、一瞬息が詰まった。

「あァッ!」

 間髪入れずに負傷した肩先を思い切り踏み付けられて、みっともなく悲鳴が喉から迸る。

「ティオ!?」

「心配ありません、若奥様。さあ、坊ちゃま、若奥様を上へ」

「ありがとう、プレストン。じゃあ行こうか、エレオノーレ」

「嫌ッ……放して! ティオ!」

「若奥様」

「ッ、ァ……!」

 その声と同時に傷口に乗った足に体重を掛けられて、ティオゲネスは二度迸りそうになった悲鳴を危うく呑み込む。否応なく背が仰け反るが、プレストンの足の下からは抜け出せない。

「止めて!」

「止めて欲しければ、坊ちゃまと一緒に奥様の元へ。でないと、彼が死ぬことになりますよ」

 霞みそうになる意識の向こうで聞こえる立派な恫喝に、修羅場経験の少ないエレンが息を呑んだのが分かる。そうは言っても、人質はそもそも命があるから有効なものだという鉄則を知らないのだ。

 もう殆ど視界はぼやけていて彼女の表情を窺うことはできないが、泣き出しそうな顔をしているだろうことは容易に想像が付いた。

「エレ、ン、……俺に、構うな」

「ティオ……!」

「逃げろ……早、く、ぅあ!」

 黙れと言わんばかりにプレストンの足先が傷口に食い込む。いっそ気絶した方がマシだと思える激痛が脳内を支配して、ティオゲネスは歯を食い縛った。

 ある意味で意識が遠退き掛けた、その時だった。

「はいはい、そこまでーっ」

 パンパンという乾いた音と共に、のんびりした声音が割って入る。

「はい、そこのおじさん、ちょっとティオから足退けて離れて。壁に手ぇ突いてくれる? 君もその子放してね」

「ラス、さん……」

 バカ、遅ぇよ。

 まともに口がきけていたらそう返していたところだが、実際にその唇は喘ぐように動いただけだった。


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