Insanity.5 イェルドの誤算と、新たな策略
「延期するってどういうことだよ!」
「しぃーっ! 静かにして頂戴。漸く落ち着いて眠ったところなんだから」
母が唇に指を当てて、静かにするように身振りで示す。
不承不承口を噤んだイェルドだったが、それにしても言いたいことは山ほどあった。
眠るエレオノーレの枕元を離れて、普段夫婦で使う寝室を出る。
そこから遠く離れ、エントランスに近い客間まで誘われるままに歩を進めた。そこまで来れば、先程のように大声を上げても、流石に寝室までその声が届く気遣いはない。
「それで、一体どういうことなんだよ。どうして出発を延期する必要が?」
それでも、一応はまだその声のボリュームを落として、改めて母に問う。
「上手くいき過ぎだとは思っていたのよ……記憶の定着にはまだ時間が掛かるわ」
母は、眉根を寄せて、寝室の方を伺うようにそちらへ視線を向けた。
エレオノーレが急に倒れたのは、母が戻って来る直前のことだった。正確にはいつ倒れたのか、詳細は分からない。
倒れているのを見つけたのは執事のプレストンだった。気を失っていたエレオノーレはすぐに意識を取り戻したらしいが、その時は錯乱状態だったという。落ち着いたと思われた後で、イェルド自身も話をしたが、今度は打って変わって彼女は何も言葉を口にしようとしなかった。
程なく外出から戻った母は、エレオノーレと二人きりにしてくれと言って、イェルドを含む人間を皆寝室から追い出した。再度寝室に呼ばれたのは、数時間後のことだ。
「これを見て」
先程から難しい顔をしていた母が取り出したのは、一枚のメモだった。
数字の羅列と、文字が書き付けられている。
「マルタン教会?」
確か、彼女が『エレン』であった時分に、世話になっていると言っていた教会の名前だ。ということは、数字の羅列の方は電話番号だろうか。
「倒れていたエレオノーレの傍に落ちていたそうよ」
「一体誰が」
「さあ……誰かが置いて行ったものなのか、彼女が元々持っていたものかは分からない。でも、倒れた原因であることは間違いなさそうね」
「どういうこと?」
「それを見て、記憶が混乱を起こしたということよ。自分が何者であるか分からなくなって、パニックを起こしたんだわ。この上、急激な環境の変化は、必要以上の危険を伴う。せめて一ヶ月はみないと」
「そんな……」
まるでそれが仇であるかのように、イェルドは手にしたメモ用紙を睨み付けた。
確証はない。けれども、これは元々彼女が持っていたものなどではなく、恐らく再びあの少年がこの屋敷に侵入を果たしたのだ。そして、彼女に接触した。
「母さん。やっぱり、ここにこれ以上いるのは危険だよ。今すぐにでも移動しないと」
「どうして? どうしてそう急ぐ必要があるの」
「アイツだよ!」
危機感のない母に苛立ったイェルドは、その苛立ちのままに叫んだ。びっくりしたように、気持ち半歩後ずさる母に構わず、イェルドは続ける。
「あの銀髪のガキが……きっとまたエレオノーレに近付いたんだ。アイツから離れないと、またエレオノーレが危険に晒される。早く、ここを離れないと」
「イェルド、落ち着いて」
狂ったように『離れないと』と繰り返すイェルドの肩に、そっと母の手が触れる。
「落ち着いて話して。どうしてそこまであの子を危険視するの? ただの子供でしょう?」
「母さんは見てないから分からないんだ。アイツの目を……アイツの危険な目を!」
研ぎ澄まされた刃のように、冷たく凍った瞳。見る者を射竦め威圧する、背後から焦燥に似た恐怖に追い立てられるような、あの翡翠の瞳を。
「アイツは、次はないと言った。次に会う時は逃がさないって。だから、再会する訳にはいかない。もう一度アイツがエレオノーレに接触する前に、何としてもここから逃げないと」
「でも難しいわ」
母は相変わらず危機感がないようでいて、存外に毅然とした口調でぴしゃりと言った。
「わたくし達が消えるだけなら簡単よ。この屋敷も何もかもをそのまま置いて、ただここを出れば良いのだもの。でも、そういう訳にもいかない。貴方も分かっている筈よ」
イェルドはそれでも反論を探した。有効な反駁を探して、今度は目の前の母を睨み付ける。けれども、結局言うことは見付からなかった。母の言い分が、百パーセント正しいと分かっていたからだ。
「出来るだけ急ぎましょう。でも、出発は当分延期ね。一週間だけ我慢して。その間に、取り敢えず荷物だけは運び出せるようにするわ」
***
周囲は見渡す限り闇だった。
比喩でも何でもなく、文字通りの暗闇。
誰もいない。何もない。
エレンは、どうしたらいいのか分からずに立ち尽くす。
何か見えないかと巡らせた視線の先に、微かに光が見えたような気がして、エレンはその光に向かって足を踏み出した。
誰か、助けて。誰でもいい。
光の度合いはどんどん広がって、それはやがて闇を照らす明かりになる。
明るい光の灯る場所に、誰かがいた。女性だ。
助けてくれるなら誰でもいいと、たった今まで思っていたのに、エレンの足は反射的に止まる。しかし、遅かった。
『私の可愛いエレオノーレ』
嫌。違う。
『さあ、いらっしゃい。イェルドが待っているわ』
イェルド? 誰のこと?
『貴女の夫よ。さあ、こちらへ』
嫌。あたしは誰とも結婚してない。違う。
逃れようとする腕は、誰かに取られて動けない。
『こちらへおいで。何も怖いコトはないんだから』
取られた腕を引かれて、たたらを踏む。
『愛しているよ。僕のエレオノーレ……』
『い……や』
倒れ込むのを阻止するかのように誰かの腕に抱き竦められ、耳元で囁かれる。ゾワリと背筋が粟立った。気持ちが悪い。
エレンは生まれて十六年、まともな恋愛経験はないが、その種の小説なら沢山読んで来た。愛を囁き合うことは、何と素敵なことだろうと憧れもした。けれど、自分の思いが向いている訳でもない相手に、一方的に、しかも強引に愛を囁かれることが、これ程の苦痛と不快感を伴うとは思ってもみなかった。
もがいても、身体に絡み付いたようなその腕はビクともしない。
『放して……やだ』
『大丈夫。もう放さないよ。大丈夫、ちゃんと愛してるから』
『嫌……! 誰か』
――エレン。
その時、耳慣れた声音が、まるで救いを差し伸べるように、耳に滑り込んで来る。どうにかしてそちらへ目を向けると、整った容貌の持ち主が佇んでいた。
銀色の髪。子猫のようなアーモンド形の目元。綺麗な翡翠の瞳。
――早く来いよ。置いてくぞ。
『待って……待って、置いてかないで。助けて』
固く自分を抱き締めて離そうとしないその腕から逃れようと、今度こそ必死になる。しかし、その腕は益々きつく絡み付いて離れず、美貌の救い主はどんどん暗闇の方へ離れて行く。
『嫌……待って、』
名前が、出ない。思い出せないのだ。
彼を、よく知っている筈なのに。
『嫌、だっ……!』
助けて。
「――――ッッ!!」
ビクリ、と身体が仰け反って、エレオノーレは目を開いた。
息が出来ない。必死で呼吸を取り戻そうともがくのに、まるで気管が呼吸の仕方を忘れてしまったかのようだった。
「エレオノーレ? 大丈夫?」
その時になって、誰かが自分の手を握っていることに気付く。
「落ち着いて。深呼吸して」
「ッ……あっ……」
言われる通りに、必死で息を吸って吐くと、やっと呼吸の仕方を思い出したとでもいうように、酸素が気管を通り抜ける。数秒振りの空気に噎せ返るように咳き込むと、手を握った誰かがゆっくりと身体を起こすのを手伝ってくれた。
「水だよ。飲める?」
手渡されたコップを無意識に受け取って口元へ運ぶ。冷たすぎない水が喉を通って、ようやく落ち着くことができた。
「エレオノーレ?」
「あ……」
目を上げると、そこにはイェルドの顔があった。
辺りは明るい。
「今何時?」
夜中ではなさそうだという見解の下に、エレオノーレは疑問を捻りもなく口に乗せる。
「朝の九時だよ」
「え……」
エレオノーレは瞠目した。
「やだ、もうそんな時間? すっかり寝過ごしちゃって」
「いいんだ。昨日は疲れていたみたいだし、母さんも寝かせておいてあげてって」
「昨日……?」
そう言われれば、自分でベッドに入った記憶がない。
「私……どうしたの?」
「昼間、倒れたんだ。お医者に来て貰ったけど、貧血みたい。暫く養生した方が良いって」
「そう……」
何か、納得できない思いがあったが、貧血で倒れたというのならそうなのだろう。
「近い内に療養の為に、田舎に行くことにしたよ。今、別荘の手配をしてるところ」
「いいのに、そんなの。だって引越しの準備だってあるでしょ」
言うと、イェルドはどこか怯えたように表情を強張らせた。
「イェルド?」
「あ、いや。何でもないよ」
名を呼んで、顔を覗き込むと、彼は笑って首を振る。
「もう少し眠ったら? それとも何か食べる?」
「あ……」
そう言われれば、昨日の夜から何も食べていないことに気付く。
意識すると、急に空腹を覚えた。同時に、イェルドに口で返事をするより先に、胃がグウッと音を立てた。
一瞬の沈黙の後、イェルドが小さく吹き出す。
「イェルド!」
「ッ……ははっ、ごめんごめん。お腹は正直だね」
クックッ、と笑いの残滓を引きずりながら、イェルドが立ち上がる。
「今、簡単なものを用意させるよ。身支度が済んだら降りておいで」
礼の言葉を口に乗せるよりも早く、イェルドの唇が額に落ちる。瞬間、背筋に凍るような何かが走って、エレオノーレはビクリと身体を震わせた。
「エレオノーレ?」
「あ……あ、ごめんなさい。少し、寒気がして」
「大丈夫かい? やっぱり、まだ横になってた方がいいんじゃ……」
「ううん、大丈夫。すぐに起きるから、先に行って?」
そう? と心配げに覗き込んで来る瞳に、曖昧に微笑みを返したものの、感じたのはやはり寒気という名の嫌悪感だった。上手く微笑できたかは甚だ怪しいが、イェルドはこちらの感情には気付かなかったらしく、笑みを返して寝室を出て行った。
彼が出て行った後も、エレオノーレは暫し扉を見つめたまま動けなかった。
どうしたというのだろう、自分は。
相手は、愛する夫だ。嫌悪など、感じる謂れはない筈なのに。
「夢……」
その時、目覚める前に夢を見ていたことを、唐突に思い出す。
内容は思い出せない。だが、ひどく恐ろしい夢だったような気がする。イェルドに関する夢だったのだろうか。
(私は……一体どうしたのかしら)
何かがおかしい。
退院してきたというその日から、どこか歯車が狂ってしまっている気がしてならない。けれど、原因が分からなかった。
イェルドの手配してくれたという療養先で、何も考えずゆっくり過ごせばこのモヤモヤとした感覚もなくなるのだろうか。
『本当の自分が知りたかったら――』
(あ……)
原因、と思った時、不意に思い出したのは、あの銀髪の少年の残した言葉だった。
本当の、自分。
それは、一体何を意味しているのか。
「あのメモ……」
どこかへの電話番号が書き付けられたあのメモ用紙を、どうしただろうか。思い出せない。
(とにかく、着替えなくちゃ)
貧血で倒れたのなら、その時誰かが拾ってくれたのかも知れない。
屋敷の中を普通に歩き回る格好を手に入れる為、エレオノーレはまずベッドの下へ足を下ろした。
***
その日の礼拝が終わって、教会を訪れていた人々が一人、また一人と席を立って行く。
だから、その中で、最後まで教会内に残っていた男性に、ラティマー神父は目を引かれた。
見た目、六十代の半ば程だろうか。丸い輪郭の中に丸い鼻、その下には口髭が生えている。頭部は頭頂部が薄くなり始めていた。
誂えたような丸い目元に縁取られた黒い瞳が柔和な色を湛えている。
「懺悔がご希望ですか?」
ゆったりと上段から足を運びながら、ラティマー神父は男性に声を掛けた。
「ああ……ええ、まあ。懺悔というよりは、神父様に折り入ってお話がありまして」
じっとこちらを見ていた男性は、声を掛けられるのを待っていたのだろう。すぐに立ち上がって一礼した。
「どうぞお掛け下さい。お話とは?」
ラティマー神父に進められるまま、改めて長椅子に腰を下ろした男性は、丁寧に自己紹介から入った。
「わたくし、トラレス・タウン郊外に居を構えております、エーデルシュタイン家にお仕えする者で、プレストンと申します」
はあ、と言いそうになるのを呑み込みつつ、ラティマー神父は無言で先を促す。
「恐れ入りますが、神父様は、銀髪の少年をご存知でしょうか?」
「銀髪の?」
それはもしかしなくとも、ティオゲネスのことだろうか。
あれから四日が経つが、ラッセル=ギブソン刑事に説き伏せられる形で、定時連絡を免除してしまったおかげで、今どうしているか分からない。
「失礼とは思いましたが、調べさせて頂きました。ティオゲネス=ウェザリーという名の少年です」
「はい。確かに当教会の孤児院の一員として、私が保護者代わりを務めております。今は少し外出しておりますが……彼が何か」
「ええ、実は……いきなりのお願いで失礼なのですが、彼をエーデルシュタイン家に貰い受けたいと思いましてね」
「ティオを、ですか?」
ラティマー神父は、灰色の目を瞬いた。
「はい。正確には、わたくしの養子という形で引き取らせて頂きたいのです。不都合でしょうか?」
「いいえ、それは……」
ラティマー神父は、言い淀む振りをして、男性の真意を探ろうとした。
エーデルシュタイン家については、ギブソン刑事から連絡があった時点で一通り聞いている。そこにエレンが何やら怪しげな術を掛けられて、留め置かれているらしいということも(尤もそういった『怪しげな術』に関しては、宗教上認める訳にもいかなかったが)。
しかし、男性の黒い瞳からは、企みを読み解くことはできそうになかった。
「不都合などあろう筈もありませんが、ただ、あまりに突然のお話で」
「分かります」
「勿論、孤児院よりも個人宅の方が、将来的には有利に働くことも分かっております。折りがあれば、当孤児院から普通の個人宅へ養子養女へ巣立って行く子供もおりますので、お話自体はお受けするのに是非もありません」
「では」
すぐにも彼を連れ帰ります、と言いたげに身を乗り出す男性に、掌を向けて、ラティマー神父は、待ったの意を示す。
「しかしながら、今は本人が不在です。最終的には本人の意思が全てですので、少しお時間を頂けないでしょうか」
男性は落胆したような表情を隠さなかったが、やがて気を取り直したように「分かりました」と言って立ち上がった。
「明日、また伺います」
「ええ、どうぞ。明日までにしかとご返事することもお約束できませんが、それで良ければお越し下さい」
***
『――というお話だったんですけど、どう思います?』
「どうもこうも……」
ティオゲネスは、ラッセルから押し付けられた端末を片手に首を捻った。
ラティマー神父からラッセルの携帯端末に電話が掛かって来たのはついさっき、現時刻は昼間だ。
エーデルシュタイン家が高跳びすると確信が持ててから、ほぼ丸一日が経っている。
ラティマー神父の話に拠ると、昼間のミサに来たエーデルシュタイン家の例の執事が、こともあろうにティオゲネスを養子にしたいと申し出て来たらしい。
(どういう風の吹きまわしかは知らねぇけど……)
「面白くなって来たな」
端末のこちら側で話を聞いていたラッセルが「は?」と言うのと、ラティマー神父が電話の向こうで『何ですって?』と言うのは、同時だった。
「奴は明日また来るって言ったんだろ? もし顔見せるようなコトがあれば、OKの返事出しとけよ」
『本当にいいのですか?』
「もし来たら、って言ったろ。多分そっちに奴は顔見せないと思うし、方便なんだからホントに養子に行く気なんざねぇよ。あっちもそうだと思うぜ」
ティオゲネスは、以前に一度対峙した時の、プレストンと呼ばれていた執事の瞳を思い出す。人好きのする仮面を被った男の、油断ならない瞳は、今でも彼が現役の戦士であることを教えていた。
その彼が、ティオゲネスを養子にしたいと正面から乗り込んで来たのだ。額面通り、本当にティオゲネスを息子にしたいと思っている訳は百パーセントない。
「折角あっちがわざわざ正式に招待してくれるっつってんだ。乗り込んで一気に化けの皮剥がしてやんよ」
んじゃそういうことでー、と軽い口調で言うと、ティオゲネスはラティマー神父の返事も聞かずに通話を切った。
「……どういうコトか聞かせてくれねーかな、トラブル坊主」
「うるせぇ。トラブル引き寄せてんのはアイツだよ」
端末を返しながら言うと、ティオゲネスはラッセルにもラティマー神父から聞いたことを簡単に話した。
「って大丈夫か、何の準備もなく乗り込んで」
「準備なんて、そもそもセキュリティ調べるとこからだろ。今時あんな警報装置も付いてないローテクな屋敷が相手じゃ、準備なんて肚括るくらいっかするコトないぜ。それより、あんたにちょっと頼みてぇコトがあるんだけど」
「そろそろそっちの貸しも切れて、こっちが貸しにするくらいになってねぇか? おれは構わないけどな」
「心配すんな。釣りは出ないようにするからよ」
ちっとも心配しているようには見えないラッセルの顔を見上げて、ティオゲネスはその整った容貌に獰猛な笑みを浮かべて見せる。
「お前さ……今回は楽しんでねぇか?」
「さて、どうだかねぇ」
見下ろす琥珀色にどっちとも付かない返事をしたティオゲネスは、車内で座りっ放しで固くなった筋肉を解す様に伸びをした。
「ま……そろそろ決着付けたいのは確かだけどな」