Insanity.4 それぞれの焦燥と葛藤
「母さん。ちょっといいかな」
イェルドは、礼儀正しく母の部屋の扉をノックすると、入室の許可の声を待って扉を開いた。
「なぁに、イェルド。どうかして?」
扉を開けるタイミングで俯けていたらしい顔を上げた母の手元には、丸い輪に布を張った、刺繍用の道具がある。隣にはエレオノーレが座っていた。女同士仲良く刺繍の最中だったらしい。
イェルドは、漸く戻った幸福に頬を緩めた。
エレオノーレがいなくなってから、本当に生きている気がしなかった。早く、彼女を取り戻したい。その一心で、代わりを探し続けた。
けれど、髪と瞳の色だけが同じでも、顔立ちが少しずつ違って、結局取り戻すことは叶わなかった。だが、神は見捨てなかった。
二人が座る丸い小さなテーブルへ足を進めると、イェルドはエレオノーレの頬に小さくキスを落とす。
「へえ」
次いで、彼女の手元に視線を落として、思わず感嘆の声が漏れた。
彼女が縫いとりをしているのは、特に変わったところもない白い小さな花の図案だった。だが、それは今し方道端で摘んできたかのように瑞々しい。
「エレオノーレが刺繍が得意だなんて知らなかったな」
「あら、ひどい。結婚前から一緒にいるのに、私の何を見てたのかしら」
拗ねた表情で睨め上げる表情は、元のエレオノーレそのものだ。
「はは、ごめんごめん。それより、母さんと話したいんだ。ちょっと席を外して貰えないかな」
「益々ひどいわ。私を除け者にする気?」
本格的に拗ね始めた表情で、若草色の瞳がイェルドを睨む。
「本当にごめん。少し母さんに相談したいことがあるんだ。ちゃんと決まったらエレオノーレにも必ず報告するから」
「家のコトなの? なら私も知る権利がある筈だわ。お義母様を邪険にする気はないけど、私だってこの家の主婦なのよ」
主婦と言っても、エーデルシュタイン家において、家事は全て使用人がしてくれる。この家における主婦の役割は、使用人を束ねて家内を取り仕切ることだ。
「それは解ってるけど……」
イェルドは困ったような表情を浮かべてエレオノーレを見下ろした。
以前なら、これで大抵決着が付いたが、今回も程なくエレオノーレの方が白旗を挙げた。
「解ったわ。私に聞かれたくない話なのね」
「そうじゃないったら。後でちゃんと話すって言ってるだろう?」
納得した割にまだ拗ねたような捨て台詞を零すエレオノーレを慌てて宥めに掛かると、母が堪え切れないというように軽く吹き出した。
「あらあら、この場じゃまるで邪魔なのはわたくしね。ごちそうさまと言わないといけないかしら?」
「母さん!」
「お義母様っ……」
瞬間、顔を薄赤く染めた二人が同時に叫び、それが益々母の笑いを誘う。
クスクスと笑い続ける母を、どこかバツの悪い思いで眺めていると、ふとエレオノーレと視線が合う。やがてどちらからともなく、母に釣られるように笑い出し、暫くその場は笑い声で満たされた。
暫しの平穏を満喫すると、エレオノーレが立ち上がる。
「じゃあ、部屋に戻るわ。後でね」
エレオノーレは、イェルドの頬にキスを一つすると、母に「失礼します」と言って一礼し、部屋を辞した。
それを見送って、数瞬その場に静寂が落ちる。
「完璧、だね」
感嘆の息と共にその静寂を破ったのは、イェルドの方だった。
「今までは何がいけなかったのかな」
「そう……ねぇ。やっぱり容姿かしら」
それまでの“失敗”を反芻するように、母は吐息を漏らす。
「術は完璧だったのよ。今までもね。ただ、髪と瞳の色だけが似ていても面ざしが似ていても、やっぱりよく見れば別人だった。彼女達が壊れた原因も、本人と自分との容姿の違いに気付いたことがきっかけだったものね」
母が、所謂ショー催眠に区分される種の『催眠術』を習い覚えたのがどこでだったのか、いつからそれが使えるようになっていたのか、イェルドは知らない。母が、言わないからだ。イェルドも、敢えて訊こうとは思わなかった。
ただ、本当のエレオノーレがいなくなって、気も狂わんばかりに嘆き悲しむ自分を見兼ねたのか、母がある日彼女に面ざしのよく似た少女を探して連れて来たのが、母が術師であるのを知ったきっかけだったと思う。
「それで? 何か話があったのでしょう?」
思索に耽っていたイェルドを、母の声が現実に引き戻す。
「あの子に聞かせられない話が」
「あ……あ、うん」
頷いたイェルドは、先刻までエレオノーレが座っていた席に腰を下ろした。
「次の引っ越し先の相談なんだけど」
「あら、もう?」
母は驚いたように、イェルドと同じ色の瞳を瞬いた。
「エレオノーレの記憶もすっかり定着したようだし、もう少し落ち着いてから……と思ってたけど?」
「僕もそう思うよ。ただ、あの子のコトがなければだけど」
イェルドの言う『あの子』が、三日前にこの家に不法侵入した銀色の髪を持つ子供のことだと、母も思い当たったらしい。
あの翌日、執事のプレストンが、合計で四台ある筈の車の一台がなくなったと報告して来た。被害届は出していない。
あの、性別の判断が難しい子供(口調から察するに恐らくは少年だろう)が言った通り、警察が乗り込んで色々調べられると、有難くない腹があるのは自覚している。なくなった車も、十中八九は彼の仕業なのだろう。ならば後でゆっくり取り返せばいいし、一台くらいは痛くも痒くもない。
今後のエレオノーレとの生活と引き換えるには安いくらいの代償だ。
それよりは、彼が去り際に残した言葉が気になって、この三日の間、イェルドは夜も碌々眠ることもできずに、只管善後策を考えていた。
『次に会う時は逃がさない』
あの時、イェルドを睨み上げた翡翠の瞳が、頭から離れなかった。
氷のように冷やかで、刺すように見据える、あんな瞳は生まれて初めて見た。しかも、相手がどう多く見積もっても十代半ばより上に見えなかったことが、イェルドの恐怖を倍増させた。
少なくとも、イェルドとは違う世界で生きていただろうことは、嫌でも解った。
次に会う時は逃がさない。
その言葉が、何を意味するか。文字通りなのだろうが、それを想像するにはイェルドの生きていた世界はあまりにも平穏だった。
とにかく、あの少年と再会することだけは、何としても避けなければならない。そう思わせるだけの威圧感のある言葉だった。
「海を渡るのが一番確実だと思うんだ。でなければ、半島へ越してもいい」
イェルドの言う『半島』とは、北半分が北西半島<アルステーデ>、南半分が南西半島<アデライーデ>と呼ばれる半島のことだ。ルースト・パセヂと呼ばれる、入国審査を待つ人間が待機する宿場町を挟んで西の大陸<ギゼレ・エレ・マグリブ>と繋がった半島だが、合計全長は約五千七百三十キロもあり、その大きさから『半島』と呼ぶのが正しいかどうか、大いに悩むところである。
「遠回りになるけど、半島経由で海を渡るのが一番いいと思う。僕達がここから消えたのに気付いて向こうが追って来たとしても、ルースト・パセヂの入国審査はかなり手間取るから時間稼ぎにもなる。勿論、僕達も同じように足止めは食うけど、近日中に発てば、そう易々とは見付からないと思うんだ。審査は僕達の方が先に終わるだろうしね」
「それはそうだけど……そんなに急ぐ必要があるの? そりゃあ、不法侵入したり、車を一台盗んで行ったりして、中々抜け目がないようだけれど、でも、どう見ても十二、三歳の子供よ?」
何が出来るというの、と言わんばかりの母は、しかし、あの凍るような瞳を見ていない。焦燥に押されるような、年齢にそぐわないあの瞳を。
「とにかく、エレオノーレが落ち着いたら、どの道引っ越す予定だったんだ。それが少し早まるだけさ」
「それにしても、そんなにすぐおいそれと引っ越し先が見つかる訳じゃなくてよ」
「だから、今日から行動しよう。取り敢えず、ここから一日でも早く離れたいんだ」
いや、違う。『ここから』ではなく、『あの少年の行動可能範囲』から離れたいのだ。
口には乗せずに脳内だけでそう訂正して、イェルドは苦笑した。その苦笑を、母がどう取ったかは分からない。ただ、彼女は分かったわと言って頷いた。
「じゃあ、取り敢えず入国審査局前までの長距離列車の切符を手配して来るわ」
「うん、お願いするよ。僕はエレオノーレに引っ越しの準備について話しに行くから」
***
「お」
車のフロント越しに拡がる緑の絨毯。その絨毯の上に点在する個人邸宅の中の一つから、古風なデザインの車が発車するのを認めて、運転席に座っていたラッセルが短く声を上げた。
時刻は、午前十一時を指そうとしていた。
三日前のあの日の夜、八時半に駅前喫茶店でラッセルと落ち合ったティオゲネスは、それからずっとラッセルと行動していた。
まずは、ラッセルから教会に連絡を入れて貰い、一日一回の定時連絡を免除してくれるよう、ラティマー神父を説得させた。それから、ラッセルがそこまで乗って来た車で、一度彼が勤めるギールグット支部のあるプロプスト・シティへ向かった。ラッセルが、署で正式な調査の要請に必要な手続きをするのを手持無沙汰で待ち、ギールグット支部の一室へ籠って、共にエーデルシュタイン家の調査と、少女連続失踪事件の詳細について洗った。とは言え、パソコン操作は殆どラッセルがやっていたが。
少女の連続失踪事件については、ティオゲネスがCUIOのデータベースへ侵入して調べ出したこと以外には、特に目新しい事実は出て来なかった。警察の方の調査も行き詰っており、今特に優先して調査すべき案件にはなっていないらしい。
これには呆れた。ラッセルも漏れなく同感だったと見えて、顔を見合わせると揃って苦笑するしかなかった。
暗殺組織で育ったティオゲネスと、『犯罪大陸』とも称される北の大陸<ユスティディア>の北部で幼少期を過ごしたラッセルは、奇妙に似通った思考回路を持っている。一人で立てなければ即死に直結する世界で生きていた二人からすれば、ギゼレ・エレ・マグリブははっきり言って隙だらけだった。
失踪や殺人は、発生から時間が経てば経つほど解決が難しくなる。目撃者がいたとしても、その記憶は時と共に薄れ、風化して行くからだ。
二人に言わせれば、失踪や殺人に関しては早期決着が常識だと思えるのに、そもそも事件らしい事件が少ないギゼレ・エレ・マグリブの中でも、都市部から離れた田舎で起きた事件となると、警察の意識でさえも平和ボケしているらしい。『有力な解決要素のないもの=(イコール)急いで解決しなくて良いもの』になってしまっているようなのだ。全く以てタチが悪い。
「何でこれで犯罪件数が少ないんだろうな」とティオゲネスが零せば、ラッセルは「少ないからこそ平和ボケしてるんだろ」と返して来た。矛盾しているが、要約すればそういうことなのだろう。
エーデルシュタイン家の調べに関しては、調査を終えるまでに丸一日掛かった。
正確に言えば、掛かった時間を単純合計すると二十四時間前後だったのだが、実際は、昼間のエーデルシュタイン邸の張り込みを挟んだので、三日弱掛けたことになる。
エーデルシュタイン家は、古くから続く旧家ではないが、現当主・イェルド=ヤン=エーデルシュタインの父親である、バジーリウス=エッカルト=エーデルシュタインが一代で財を築いた資産家だ。主には不動産で成功したらしいが、残念ながら五年程前に五十二歳で世を去っている。
それでも、バジーリウスが生前、持ち前の社交性と築いた財力で社交界に食い込んだおかげで、今やエーデルシュタイン家は社交界では顔の知られた家になっている。
それをそっくり受け継いだのが、現当主でありバジーリウスの息子・イェルドだ。
現在二十八歳。
元々エーデルシュタイン家は、今回の連続失踪が起きた最初の地、ガーティン州のハヴラノヴァー・シティの二キロ近郊にあるラマネン・シティに在住していた。
イェルドはそのラマネンで生まれ育ち、二十歳の時、エレオノーレ=アンゲリーカ=ランプレヒトという女性と結婚している。ところが、最初の失踪事件の二年前、その妻女・エレオノーレが忽然とラマネンのエーデルシュタイン邸から姿を消した。葬式は出されていないらしいが、亡くなったのか行方不明になったのか、詳細は分からない。
そのショックからか、イェルドは社交界に顔出しをしなくなった。代わりにエーデルシュタイン家を代表してパーティーなどの集まりに出席し始めたのが、イェルドの母であり、先代未亡人となっていたリヴィエール=ルスラン=エーデルシュタインだ。
イェルドの妻・エレオノーレが姿を消してから二年後、最初の失踪事件が起き、それから三ヶ月程でエーデルシュタイン家は第二の事件が起きたトラフキン・シティに程近いモンティーニ・シティに転居している。
問題の、イェルドの妻・エレオノーレの顔写真があれば調べて欲しいと頼んだティオゲネスは、実際出て来た写真を見ても驚きは半分だった。
そのエレオノーレ=アンゲリーカの顔立ちは、エレンそのものとしか言えない程そっくりだったが、それは予想の範囲内だったからだ。
他の失踪した少女達も、どこか似通った雰囲気の顔立ちではあったが、そのものとまでは言えない。
彼女達の容姿と、瞳、髪の色が、失踪の原因になっているのはこれもある程度予測がつく。が、彼女達のその後の消息は杳として知れなかった。
イェルドとその母・リヴィエールは、一体何故彼女達と接触したのか。この謎についての答えは出ている。恐らく、イェルドがいなくなった妻の代わりを欲し、探し求めたのだろう。
しかし、何故、その接触を持った少女達が揃って姿を消したのか。こちらについては全く分からなかった。
だが、これだけは言える。
今回で恐らく失踪事件は終わるだろう。イェルドが望む、『妻の代わりの女性』がこれ以上ない完璧な形で手に入ったのだ。
後は、彼女を失わずに済む場所へ高跳びすれば完了だ。
エレンの記憶がエレン自身のものとしてしっかりと残ってさえいれば、すぐにでもエレン奪還に屋敷に踏み込むところなのだが、エレンの顔貌がイェルドの妻・エレオノーレ=アンゲリーカそっくりな上、エレン本人が自分を『エレオノーレ=アンゲリーカ』だと信じ込んでいる状況では、催眠術と誘拐の立証は恐ろしく困難だと言わざるを得ない。
「今流行りの、DNA鑑定とかできねーのかよ」
整った容貌をこれ以上ないくらい歪めて問うと、返って来たのは「強制検査となると、それこそ事件性がはっきりしてないと難しいな」と警察の模範の様な答えだった。あっさりしているようで、その時のラッセルの表情も苦渋に満ちていたので、ティオゲネスはそれ以上追及しなかった。
「――で、どーするよ」
そして、三日経った本日、午前十一時過ぎ。
自らが見張られていることなど知らぬげに、古風なデザインの車がエーデルシュタイン邸の車庫から滑り出て行った。
「どーするもこーするも、後尾行るっきゃねぇだろ」
言うなり、助手席に座っていたティオゲネスは扉を開けた。
「ティオ?」
「尾行は任せる。俺はこっちに残るわ」
車外に出たティオゲネスは、僅かに身を屈めて運転席に座したままのラッセルに声を掛ける。
問答している時間はない。それはラッセルも分かっていたのだろう。彼が短く頷くのを確認すると、ティオゲネスは「行ってくれ」という言葉と共に助手席の扉を閉じた。
***
エレオノーレは溜息を吐いた。
先刻、義母との話を終えたのか、エレオノーレの私室を訪ったイェルドは、約束通りその話の内容をエレオノーレにもきちんと伝えてくれた。
しかし、その内容はと言えば、突然の転居の話だった。
『引っ越し!? 急に言われても、そんなっ……』
『大丈夫だよ。引っ越しっていっても、準備は使用人と業者がやってくれるから。いつもそうだっただろう?』
エレオノーレはどうリアクションすべきか分からず押し黙った。彼の言う、『いつも』が、いつのことを指しているのか、よく思い出せなかったのだ。
彼はそれをどう取ったのか、宥めるように続けた。
『詳しい日程は、母さんが取って来てくれる切符次第になると思うけど……近日中になると思うから、心の準備だけしておいて』
じゃあまた後で、と言って、頬に口吻けられて、その彼が部屋を出て行くのを、エレオノーレはただぼんやりと見送った。
(心の準備って言ったって……)
荷物の纏めは業者がやってくれるとしても、やはり自分の大事なものは他人に委ねるべきではない。大体、この広大な屋敷の荷作りに何日掛かると思っているのだろう。
これだから根っからのおぼっちゃんは。
と、そこまで考えて、エレオノーレははたと思考を止めた。
(根っからのって)
資産家としてのエーデルシュタイン家に叶うものでないとは言え、出里のランプレヒト家だってかなりの旧家だ。私財も豊富にあり、生活に困ったことはない。自分でする身の回りのことと言えば、着替えくらいのものだった。いつもそんな生活だった筈なのに。
(……いつも?)
『いつも』そうだっただろうか。
『いつも』他人に身の回りの世話をして貰っていただろうか。
正直なところこの三日の間、エレオノーレは暇で暇で仕方なかったような気がしてならない。『いつも』はもっと忙しくて、することが沢山あって、それでも充実していたのではなかっただろうか。
(まだ調子がおかしいのかしら)
義母によると、自分は先日まで熱病で入院していたという。
その所為で、まだ記憶がおかしいのだろうか。
(そうね。きっと考え過ぎだわ)
目を伏せたその時、コトン、と小さな音がした。
音に導かれて振り返ると、バルコニーに面した大きな窓ガラスが細く開いて、隙間から翡翠の瞳が覗いていた。
「――貴方!」
「しーっ。ちょっとだけ邪魔させてくれよ」
静かにするようにというアクションで、美貌の侵入者は自分の人差し指を唇に当てると、入っていいとも言わないのに、窓ガラスを更に押し開けて室内へ滑り込んで来た。
「一体……この間から何なの! それより、どうやって」
「どうやって開けたかは企業秘密。てゆーか、まだ警報装置も取り付けてねーんだな。相変わらず警戒の甘いコトで」
自分が不法侵入しておきながら呆れたような口調で言うその相手は、先日会った、銀髪の人物だった。
もう少し年齢が行けば性差の身体的特徴も露わになる筈だが、相手の今の年齢では、その女性寄りに整った容姿と相俟って、性別が分からない。口調からすると少年のようだが、世の中には少年のような口調で話す少女もいるらしいから、一概に決め付けることはできない。
(いいえ……確か、男の子よ)
相手に直接確かめた覚えはない。ただ、相手は確かに少年の筈だ。何故かは分からないが、エレオノーレはそれを知っている気がした。
「俺の顔、何か付いてるか?」
じっと観察するような視線に気付いたのか、少年が翡翠の瞳でこちらを見返す。
「い……いえ、別に」
深い極上のエメラルドに見つめられて、思わずドギマギと視線を外す。いくら相手が鑑賞に値する美貌の持ち主であっても、夫ある身で他の異性に動揺するなど、あってはならないことだ。
だが、それとは別に、エレオノーレはずっと以前からこの美貌の持ち主を見知っている気がしていた。初めて会った筈の三日前から、ずっと。尤も、今の今まで思い出すことはなかったが。
「……と、とにかく、出て行って下さらない? 三日前と言い、今日と言い、当家に何か恨みでも?」
「別に恨みなんかねーよ。俺はただお前を連れて帰りたいだけさ」
「連れて帰るって……」
鸚鵡返しに反芻して、エレオノーレは眉を顰めた。
「そんなコト言われても困ります。私は結婚してるし、今更他の方のアプローチを受けても……」
「アホか、何勘違いしてんだよ」
真面目に言ったつもりだったが、少年の顔は心底呆れたと言いたげに歪んでいた。
「色恋のイザコザでこんな面倒なコトするかよ。お前がそんなに自意識過剰な女だとは知らなかったな」
エレオノーレは、その美貌とギャップのあり過ぎる毒舌に唖然とした。腹が立って仕方がないのに、どう言い返したらいいか分からないこのもどかしさも、以前に一度ならず経験した覚えがある。そんな訳はないのに。
陸に打ち上げられた魚宜しく、口をパクパクとさせる間に、少年の顔はふっと真顔に戻った。
「――本当に覚えてないのか。俺のこともお前自身のことも」
リアクションは、やはり言葉にならなかった。その翡翠の瞳は無表情なようでいて、ひどく寂しげな色を湛えていたからだ。
「私は……私自身のことは覚えてるわ。私はエレオノーレ=アンゲリーカ=エーデルシュタインよ。十八の時にイェルドと結婚して」
「その前のことは?」
「その前?」
「そう、その前。例えばどこでどんな風に育って、子供のころにどういう遊びをしたとか、両親がどんな人だったかとかさ」
「どこでって……」
少年に言われたことを、記憶の中に探す。
「育ったのは……イェルドの家の近所よ。ラマネンの……」
「細かい住所は? 番地とか」
「ラマネン・シティの……0174のラドミラ・ハドリー・KS 16053・ラマネンよ」
「ふぅん」
少年は素っ気ない返事を口に乗せた。
「な、何よ、自分が訊いたクセに!」
「いや。住所は文字の羅列だからな。スラスラ言えても当然だよなって思っただけさ」
「そんなっ……」
泣きそうになったが、エレオノーレはすんでのところで涙を呑み込んだ。何故、この少年はこんなにもエレオノーレの記憶を否定したがるのだろう。正直なところ、自分でもかなり過去の記憶が曖昧なのだ。それを殊更否定して、不安にさせないで欲しかった。
沈黙が落ちたタイミングで窓の外に視線を泳がせた少年は、「いけね」と言いながら窓に手を掛けた。
「そろそろ行くわ」
「えっ?」
呆気なくそう言われて、エレオノーレはまた不安になった。
連れて帰ると言ったからには、自分の意思を無視しても連れて行くつもりかと思っていたが、そうではないらしい。安堵すべき場面の筈なのに、何故か帰るべき場所へ連れて行って貰えない寂寥のようなものの方が大きかった。
「えっ、って何だよ」
「だ、だって……」
「お前の家はここなんだろ?」
「そ、……そう、だけど」
何かが違う。どうして、こんなに違和感があるのだろう。自分は間違いなく、エーデルシュタイン家の人間だというのに。
「本当の自分が知りたけりゃ、ここに連絡してみろよ」
一枚の紙切れをヒラリと落とすと、少年は「じゃあな」と言って今度こそ窓の外に姿を消した。
絨毯の上に落ちたその紙切れを拾うと、数字の羅列と文字が書き付けられていた。
数字の羅列は、電話番号のようだった。文字の方は、恐らくその電話番号の先だろう。
「マルタン教会……?」
口に出した瞬間、頭が鈍く痛んで、エレオノーレは思わず頭を片手で押えた。何かが、記憶の底から顔を出そうとしているような錯覚に襲われる。
あの銀髪の少年。マルタン教会。思い出せない両親の顔。幼い頃の生活。
「あ……あっ、」
痛い。頭が割れそうだ。
思い出しさえすれば、この頭痛は消えるような気がするのに、思い出すべきその記憶にどうしても手が届かない。丸で見えない壁に遮られて閉じ込められているかのように。
割れるように痛む頭を抱えて絨毯の上へ膝を突く。
違う……違うわ。私は……私は――
『貴女はエレオノーレよ』
違う。
『エレオノーレ=アンゲリーカ=エーデルシュタイン。イェルドの妻で、私の義理の娘よ』
そうじゃない。
『貴女はエレオノーレなの』
違うわ、止めて。
『大丈夫、何の心配も要らないわ。さあ――』
圧倒的な支配。抗えない。気が遠くなる。
(止めて……『あたし』を閉じ込めないで!)
「嫌……嫌ッ……!」
悲鳴が、迸る。
それが現実のものか、それとも夢の中のものだったのか。確認する間もなくエレオノーレの意識はブッツリと途切れた。
***
エーデルシュタイン家の古風な車が戻って来たのを見て、ティオゲネスが急いで監視地点に戻ったのと相前後してその木陰にラッセルの車が横付けされる。ラッセルが持ち帰ったのは、テイクアウトの遅い昼食と、何とも有難くない報せだった。
「奴さん、長距離列車の手配してたぜ」
「長距離列車?」
空路が限られた人種に支配される昨今、移動は陸路か海路に限られている。列車は、その一般的な移動手段で、長距離列車と言えば、日を跨いで移動する際に使用する、宿泊施設付きの列車のことだ。
「行先と出発の日は分かるか?」
「行先はジルロン駅。入国審査局入口の最寄り駅だな。出発の日は三日後。で、そっちの首尾は?」
「上々……と言いたいとこだけど、厳しいな。かなり術が強力でそう簡単に解けそうにない」
「術に掛かった人間には会ったことあるんだろ?」
「ああ」
組織にいた頃、任務遂行の過程で、一度だけそのテの人間に会ったことがあった。
だから、エレンが術に掛かっていることに何となく気付くことができたのだ。
あのテの術に掛かっている人間には、相対していて共通する違和感のようなものがある。それは、その術を掛けられた対象の人物をよく知らない者にすら感じられる『違和感』だ。けれど、それは組織とは関わりのないところで起きていた話だったし、解術の方法は教わる機会もなかった。
「あーっ……何でアイツ、本当こうトラブルに自分から突進して行くんだろ……」
大きな溜息と共にがっくりと顔を伏せる。
超面倒臭ぇ、と呟いた自覚もないままに、それは口から滑り出ていたらしい。
「『超面倒臭ぇ』割には必死になってるんだな」
突っ伏していた顔をガバリという擬音が聞こえそうな勢いで上げたティオゲネスは、反射的にラッセルの方を見た。彼の顔は、『いいからかいのネタを見つけた』と言わんばかりに笑み崩れている。その笑いは、それはもうタチが悪いとしか言い様がない程に楽しそうだ。
「……別に、必死になんかなってねーよ」
ただ、ほっとくとそれこそ後々面倒だからとか、後味が悪いからとか、空回りする言い訳を思い付くまま口に乗せながら、ラッセルの買って来てくれたハンバーガーに齧り付く。
『必死になってるんだな』というラッセルの言葉が頭をエンドレスリピートしていて、味は殆ど感じることができなかった。