Insanity.3 偽りの『エレオノーレ』
一瞬、本当に自分の頭の方がいかれたかと思った。真剣に、自分の正気を疑った。けれど、そんな筈はない。
この屋敷に入った時の彼女は、確かにエレン=クラルヴァインだったのだから。
***
「納得してくれたかな? 彼女は僕の妻だ」
「お前ら……エレンに何をしたんだ」
悪びれもせず、穏やかな顔で問うてくるイェルドに、ティオゲネスは吐き気にも似た感情を覚えていた。
怒り、なのだろうか。
暗殺組織で六年も過ごす内に、すっかり冷めてしまった感情の迸りのようなものは、孤児院での生活で少しずつ息を吹き返しつつあった。だがこんな、マグマのようなやり場のない苛立ちを感じたのは、もう随分久し振りだった。
喉の奥から絞り出すような声で問うティオゲネスに、イェルドはやはり柔らかな笑顔を浮かべて返す。
「何をも何も、彼女は僕の妻のエレオノーレだ。君はいつまでその勘違いを僕達に押し付けるつもりなのかな?」
「答えになってねぇ!」
叩き付けるように叫ぶと、エレンがビクリと肩を震わせた。
「イェルド」
「君はもう休んで、エレオノーレ。母さん、彼女を部屋へ」
「分かったわ。さ、エレオノーレ」
「お義母様……」
青ざめた顔をして、エレンは婦人に寄り掛かるようにして支えられ、部屋を辞して行こうとする。
「待てよ!」
すかさずエレンの腕を掴むと、エレンは小さな悲鳴を上げた。その見慣れた若草色の瞳が、怯えたような色を帯びてティオゲネスを見つめる。――知らない、全くの他人を見る目だった。
だが、ティオゲネスは構わなかった。
「覚えてねぇ訳ねぇだろ。お前はエレンだ。エレン=ヴィルヘルミーナ=クラルヴァイン。マルタン教会内孤児院の古株で、両親は八歳の時に死んだんだよな。覚えてるだろ」
二度、その肩が震えた。けれど、瞠目した瞳の中で、何かが渦巻いているのが分かる。まだ、取り戻せる。直感のままに畳みかけようとするティオゲネスの頭部に、しかし、硬質な何かが押し当てられた。
「その手をお放しなさい」
声の方に視線だけを動かすと、婦人がまっすぐ自分の方へ腕を伸ばしている。その手に、拳銃が握られていると理解するのに、然して時間は要らなかった。
「お義母様……」
「おい、いい加減にしろよ、おばさん」
「いい加減にするのは、貴方の方よ。本来なら、不法侵入と恫喝で警察に引き渡すところを、その幼さに免じて見逃してあげようと言っているのよ。今の内に退くのが賢明じゃなくて?」
(不法侵入と恫喝、ね)
ティオゲネスは、内心、鼻で笑いたいのを呑み込んだ。
俺が不法侵入と恫喝なら、そっちは誘拐と洗脳の現行犯だ。
余程そう言ってやりたかったが、洗脳はともかく誘拐に関しては確たる証拠はない。
先週の騒動は誘拐に当たるとしても未遂に終わっているし、今日だって、エレンの意思でここへ来たのは誘拐に当たらないと言われればそれまでだ。それに、エレオノーレという人物の容姿を、ティオゲネスは、まだ確かめていない。
もしも、本当にエレンとそっくりな人物だったとしたら、こちらが不利になる。教会へ確認してエレンが行方不明になっていたとしても、ここにいるのがエレオノーレ本人だと言い張られたらこの場ではどうしようもない。
この婦人の腕もタカが知れているし、強引に突破しようと思えば出来ないことはない。ただ、下手に自分が暴れれば、逆上した婦人がエレンに危害を加える可能性も否定できなかった。この様子では、その確率は限りなく低いが、絶対の保障はない。完全に八方塞がりだ。
最善の手を打てずに逡巡していると、婦人の手が、力の抜けたティオゲネスの手をエレンの腕から払った。
「さあ、行きましょう、エレオノーレ」
「は……い。お義母様」
エレンの方は、何か言いたげな様子を残しつつ、それでも婦人に従って踵を返す。
唇を噛むようにしてその後ろ姿を見送ることしかできないティオゲネスに、イェルドが追い打ちを掛けた。
「分かったかな? 彼女は僕の妻のエレオノーレだ。今日のところは見逃そう。ただ、この先僕達の周りを彷徨く様なコトがあったら……分かるね?」
分かって堪るか。
反射でそう思ったが、それも口にはせずに呑み込む。
代わりに、かつて組織にいた時分に、底冷えがすると言われた冷たい翡翠の瞳で、イェルドの焦げ茶を見据える。
「こっちのセリフだよ」
瞬間、イェルドが息を呑むように、気持ち半歩後ずさりしたのが分かった。その怯えを、しっかりと捉まえて言葉を繋ぐ。
「今日は俺の方が準備不足だった。それは認めて今日は退いてやる。けど、次に会う時は逃がさない。その時、もしエレンに傷の一つでも付けてたら、タダじゃおかない」
負け犬の遠吠えにも等しい捨て台詞だと、百も承知だった。けれど、言わずにはおれなかった。
だが、イェルドの方はそうは思わなかったようで、返す言葉を必死で探しながら震えだすのを懸命に堪えているように見えた。
それに、本当に僅かに溜飲を下げると、ティオゲネスは無言でイェルドに踵を返す。
帰りは、勿論屋根裏からでなく、きちんと正面玄関からエーデルシュタイン家を辞した。
外は、とっぷりと日が暮れて、真っ暗になっていた。
***
エレン――エレオノーレは、自室だと言って案内された部屋の窓の外をぼんやりと見やりながら、先刻出会った人物のことを考えていた。
見た目はひどく整った容姿を持っていて、一見すると少女のように見えた。けれど、口調はまるきり少年だ。どこかで会っている気がするのに、どうしても思い出せない。
(私は……エレオノーレ、よね)
自らに言い聞かせるように自問するも、それを、さっきの少年の様な人物が発した言葉が強烈に否定する。
『お前はエレンだ』
(エレン……)
『エレン=ヴィルヘルミーナ=クラルヴァイン、それがお前の名前だ』
(違う)
『お前の両親は八歳の時に死んだんだよな』
(違うわ、私の両親は――)
そこまで考えて、エレオノーレは先を続けることができなくなってしまう。
自分の両親は、健在の筈だ。
普通の家庭に育って、イェルドと出会って恋に落ち、成人を待ち切れずに結婚した。その時、両親を説得するのに恐ろしく苦労した――筈だ。だのにその過程も、両親の顔も思い出せないことに愕然とした。
「エレオノーレ?」
その思考を遮るように、義母・リヴィエールの呼ぶ声が背後から聞こえて、エレオノーレは我に返る。
「あっ……はい、お義母様」
「どうかしたの? 新しい部屋は気に入らなくて?」
「いえ……そうではありませんけれど」
優しい義母の顔を曇らせたくはなかったが、エレオノーレは、思い切って疑問を口に乗せる。
「あの……お義母様。お訊きしてもよろしいでしょうか?」
「何?」
「私……今日この屋敷に来るのが初めての様な気がするんです」
イェルドと結婚して、彼と離れたことなどない筈なのに、この屋敷で生活した記憶がない。言われればそれは確かなことで、言われるまで気付かなかったことにひどい戸惑いを覚えていた。
「それはそうよ」
リヴィエールは柔らかく、それでいてどこか憐れむような微笑を浮かべてエレオノーレを見た。
「貴女は今日ここへ戻るまで入院していたんですもの」
「入……院?」
「ええ。酷い熱病を患ってね。あちこち名医を探して、この近所の病院でやっと診て下さるお医者様を見つけたの。でも、私達が元いた北部の住所ではお見舞いにも来られないから、貴女が退院する前にこちらに越して来たの。私達もここへ越して来て日が浅いのよ」
「そう……でしたか」
では、記憶がないのも熱病の所為なのだろうか。
どこか釈然としない何かを感じたが、入院中の記憶がないのも、その前の記憶が曖昧なのもその所為なのだと、自分を納得させる。もっと詳しいところを訊きたかったが、義母をこれ以上困らせたくはない。
「病み上がりだし、退院したばかりだから、今日はこちらで眠る?」
「え……あ、はい」
意味が今一つ呑み込めなかったが、反射で一つ頷く。
リヴィエールは、普段通りの柔らかい笑みを浮かべると、エレオノーレの頬にキスを落とした。
「退院できて、本当に良かったわ。今日はゆっくりお休みなさいね」
「はい……おやすみなさい、お義母様」
疑問はまだ解けた訳ではない。けれど、自分はエレオノーレに間違いないのだ。
ここで生活する内に、追々記憶も戻るだろう。
馴染みのある人間に自分を否定されなかった安堵と共にリヴィエールを見送って、エレオノーレは微かに微笑した。
***
一方、エーデルシュタイン邸を出たティオゲネスは、同家の車庫にあった車を失敬して、クルキネン・シティへと向かった。嫌味な金持ちにありがちだが、エーデルシュタイン家も例に漏れず二台以上の車を所有している。一台くらいなくなっても困らないだろうし、立派な窃盗の上に、組織時代に車両訓練を受けたとは言え正式には無免運転だが、全部コトが終われば情状酌量されるだろう(というのは、ティオゲネス独自の理論だ)。
エンジン音で気付かれる恐れもあったが、そこは敷地の広さが幸いした。母屋と車庫は、エーデルシュタイン家とその隣家と同じくらい――五十メートルほどだろうか――離れている。エンジンを掛けたところで、どこの車かは咄嗟には分からない。
一度、教会の方へ戻るのも手だが、車を使っても余りに時間が掛かり過ぎる。
ここからは時間との勝負だと、嫌というほど解っていた。
もし、相手に充分な時間を与えてしまったら、証拠隠滅と高跳びされてしまう可能性が限りなく高い。
焦る気持ちを宥めながら、それでも結構なスピードで運転し(恐らく警察に見つかったら言い訳の余地もなく違反切符を切られるであろうスピードだった)、クルキネン・シティの手前で車を停車した。
目立たない路地裏へ車を停めると、そこから駅前までは自分の足で走った。
時間を駅の時計で確認すると、午後七時になろうとしているところだ。
公衆電話に飛びついて、まずは教会の方へ電話を入れた。
『ティオか!? 今どこにいるんだ、随分探したんだぞ!』
数回の呼び出し音の後に受話器を最初に取ったらしい修道士が、噛み付くように怒鳴った。
聖職者の常で、少なくともマルタン教会に勤める修道士は、通常頭ごなしに怒鳴るということは滅多にない。これは、かなり心配を掛けた証拠だ。
「あー……悪い。色々あって、今クルキネン・シティの駅前の公衆電話から掛けてる」
『小言は後だ。とにかく無事で良かった。すぐ帰って来い』
「んー、ちょっとそういう訳にもいかない事情があってさ。神父様に替わってくんねぇ?」
『事情って何だ?』
「同じコト二度言うのも面倒だから、後で神父様に聞いてくれよ」
若い修道士は、まだ何か言いたげにしていたが、ティオゲネスがこう言い出したら簡単には退かないのも彼はよく知っているのだろう。数秒あって、ラティマー神父の声が電話機を通して耳に入って来た。
『もしもし、ティオですか?』
「ああ。悪い、何か……心配掛けた?」
『そう思うなら早く帰っておいでなさい。謝罪くらいは聞いてあげますから』
穏やかな口調に聞こえなくもないが、彼の場合これは相当怒っている証拠である。普段温厚なラティマー神父までがこの有様だ。
半年前に一度やらかしているので、再度こんなことがあっては無理もない。ティオゲネスは、ラティマー神父から見えない電話のこちら側で苦笑しながら、言葉を接ぐ。
「悪い。後で土下座でも何でもするから、こっちの質問に簡潔に答えて欲しい。エレンは帰ってねぇよな」
『一緒じゃないんですか?』
問いに問いが返って来た。これが、何よりの答えだった。
「一緒だったって言えば一緒だったけど、それも後で説明する。いつからいない?」
もしも、面と向かって会話をしていたら、やはり相手は何か訊きたげな顔をしていただろう。それを思わせる間がややあってから、ラティマー神父が口を開く。
『そう……ですね。昼食が済んで、私達は午後のミサに出ていて……他の子供達は村の方に遊びに行っていたと思います。その間ですから……午後一時にはまだ教会にいたと思うのですが、気が付いたら姿がありませんでしたとしか』
ティオゲネスは、内心で舌打ちした。
連れて回ると面倒だから教会に据え置いたのが、今回は見事に裏目に出た格好だ。今後こういうことが起きた時は、絶対に目の届くところへ置いておこうと、ティオゲネスは固く決心した。尤も、そうしょっ中起きていては、それこそ身が持たないが。
「分かった。神父様は駐在にでも一応捜索願い、出しておいてくれ。また連絡する」
『分かりました。いつ頃帰りますか?』
あっさりとこう返って来るところが、ラティマー神父もタダ者ではない。本当に聖職者かよ、と突っ込みたいのをすんでで呑み込む。
「さあ。アイツ次第かな」
『そうですか。じゃあ、帰るまでは毎日この時間に連絡を入れて下さいね。なるべく私が出ますから』
「えー」
そんな面倒くさい、というか時間が惜しい。と続ける隙を、ラティマー神父は与えなかった。
『もし連絡がなければ、その時点で追加でティオの捜索願いも出しますから、そのつもりでいて下さい』
立派な脅迫だ。
「……そういうの、職権濫用っていうんじゃねぇの?」
『おや、人聞きの悪い。いつ私が「神父」の立場を濫用しました?』
「じゃなくて、『保護者』としての立場の濫用」
『それは「保護者」としては当然ですよ。それにね、そっちの要求だけ呑んで貰おうなんて、虫が良過ぎると思いませんか?』
「いつも教会で説いてるじゃん。無償の愛はどうなってんだ?」
『時と場合に拠りますよ。で、どうするんですか?』
修羅場の経験は、その辺の大人には負けないつもりだった。ならず者相手の駆け引きも自信がある方だと思う。
しかし、ラティマー神父を相手にこの状況下でこのテの駆け引きは、分が悪いとしか言い様がない。
早々に白旗を揚げて通話を切ると、続けて今度はラッセルの携帯端末の番号をプッシュした。
『はい、もしもーし。こちらギブソンの携帯でっす』
こちらはこちらで、相変わらずの受け答えに、脱力する錯覚を覚えながら、ティオゲネスは「俺だけど」と告げた。
『おいおい、刑事相手に「オレオレ詐欺」たあ、いい度胸してやがんな。どちらの俺様だ?』
「どちらの俺様でもねぇよ、ふざけてる場合かっ!」
『だーって、公衆からだろ? 一応訊くけど、お名前は?』
「ティオゲネスだよ! 定時っつか、急ぎの連絡!」
殆ど逆切れに近い口調で言うと、カラカラという笑い声と、『悪い悪い』という軽い調子の謝罪が返って来た。
『で、どうなんだ、その後の様子』
「最悪」
ティオゲネスは、先刻エーデルシュタイン邸で起きた一部始終を説明してやった。一通り話を聞くと、ラッセルが口を開く。
『お前はどう思う? そのエレンちゃんの様子については』
「どう見ても洗脳か催眠術……としか言えねぇな。あの短時間であそこまで完璧にやれるとなると、相当な術者だ。組織にいた頃だってお目に掛かったコトねぇよ」
厳密に言うと、洗脳は暴力などの強い外圧があって初めて可能となるものだから、今回のエレンのケースには当たらない。
催眠術も、心理学者には歓迎されない呼称だと聞いたのは組織が崩壊して後の知識だ。しかし、組織に在籍している頃、所謂ショー催眠に区分される『催眠術』を使う術師は存在するらしいという話は、聞いたことがある。だが、それも噂に聞いたことがあるだけで、実際に見たことはなかった。そう簡単に見つかるものなら、教官が大喜びで招いて、組織に引き取った子供達に掛けるのに使役しただろう。
『どっちにしろ、面倒になって来たな』
「ああ。とにかく、急いで調べて欲しいコトがある」
『一つ貸しだな』
「バカ言うな。半年前のこっちの貸しを返して貰わないと割に合わねーよ」
ティオゲネスは、ラッセルにエーデルシュタイン家を徹底的に洗ってくれることと、この半年で起きた少女連続失踪事件について詳細なデータを回してくれるよう頼んだ。言うだけ言って、通話を切ろうとするティオゲネスを、ラッセルが引留める。
『お前、今どこにいるんだっけ?』
「クルキネン・シティの駅前の公衆電話だけど。何で?」
『合流する』
「はあ? いいよ、別に。適当にどうにかするし、あんたは調べ物して情報提供してくれりゃそれで」
『アホか』
「な、」
すっぱり切り捨てるような口調で言われて、ティオゲネスはムッとしたが、咄嗟に言葉を返せず固まったような声を出した。
『別に善意だけで言ってる訳じゃねぇよ。一応、失踪事件の調査も仕事の内だし、早く解決するならこっちとしても助かるんだ。それに――』
先を言い淀むように、不自然に言葉を途切れさせるラッセルに、ティオゲネスは眉をひそめた。
「それに? 何だよ」
『あー……まあ、何だ。いい加減他人頼るコト覚えろって話だよ』
ティオゲネスは二度瞠目した。リアクションはやはり音にならない。
『組織は崩壊した。もう他人の命令で動かなくていいし、お前は一人じゃない。普通の世界はお前が思うほど冷たくないんだぞ。まあ、冷たい連中もいるけど、一握りだ。助けを求めりゃ誰かが手を差し伸べてくれる』
差し伸べてくれる世界に、今はいる。
そのことを改めて言葉にされると、鼻の奥が詰まるような感覚に襲われる。柄にもなく涙が出そうになる前兆を遮るように、「うるせーよ」とぶっきらぼうに返す。
とにかく合流するからと言い張るラッセルに根負けする形で、一時間後に駅前の喫茶店で落ち合う約束をさせられた。