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ティオとエレンの事件簿  作者: 神蔵(旧・和倉)眞吹
Case-book.2―Sad insanity―
12/72

Insanity.2 エーデルシュタイン邸の罠

(あのバカがっっ……!!)

 口に出して思い切り叫びたいのを、どうにか脳裏で叫ぶだけに留めたティオゲネスは、半ば睨め付けるようにして視線を投げる。

 その先には、木戸から玄関へ続く石畳を歩くエレンと、彼女を先導する青年の姿があった。

 全く、何の為に外出禁止令を出したと思っているのか。誰の為に、自分がやらなくてもいいことをしていると思っているのか。

 エレンのことだから、大方『母の非礼を詫びたい』とでも言われて、それをコロッと信じてノコノコくっついて来たに違いない。

 どうも今回は『吸引して突進』バージョンだったらしいぞ。

 今回は『吸引』の方だったかと思った一週間前の自分に訂正するというどうでもいいことが、ティオゲネスの頭の中で行われた。

 大体にして、どうして彼女は、好き好んでトラブルに自ら突っ込もうとするのか。

(てゆーか、あいつホントに十六か?)

 知らない人間に付いて行ったらどういうことになるか、想像する分別もないのだろうか。読書が趣味なら、想像力がもっとあってもいい筈なのだが。

 本当に、真実自分よりも二年長く生きているのか、真剣に疑いたくなる瞬間だ。

 覚えず舌打ちを漏らすが、こうなっては仕方がない。

(全部踏み込んでみて確かめるだなんて行き当たりばったりな……)

 何で俺まであいつみたいな真似しなきゃならないんだ。

 溜息を一つ吐いて、意識を切り替える。一瞬の間、伏せた瞼に隠れた翡翠の瞳は、次に姿を現した時には何の感情も映していない。

 エレンと青年が死角に入ったのを確認すると、ティオゲネスは音もなく地面へ降り立って、建物に向かって走った。


***


「母さん。いる?」

 軽いノックの音と共に(おとな)いを告げると、室内から「いるわよ。どうぞ」と柔らかなアルトが返事をした。

 入室の許可を得たイェルドは、そっと扉を開けた。

 部屋の奥に設えられた、大きな窓の外へ顔を向ける母親は、イェルドには背を向けたままだ。

 彼女は、今日も裾が床まで届く古風なドレスを身に着けていた。何度意見しても、地味な色の生地で仕立てられたものを選ぶので、若干年よりも老けて見えるが、それにしてもスラリと背の高い彼女には、そのデザイン自体はよく似合っている。

「お客さんを連れて来たんで、客間まで来て欲しいんだ」

「まあ、イェルド」

 母が、ゆったりとした動作で振り返る。

「彼女は、いつ『お客』でなくなってくれるのかしら」

 細面の輪郭の中で、念入りに化粧をした顔が微笑む。

 焦げ茶の瞳を縁取る切れ長に近い目元が、柔らかな弧を描く。下品でない程度に引かれた口紅の色が、彼女の美貌を引き立たせていた。

 今年、四十八を迎える筈の母だが、息子の目から見ても美しいと思う。ただ、イェルドにとって、彼女は勿論母親以上でも以下でもない。

「さあ。それは母さん次第さ」

 頑張って、というと母はニコリと笑い、戸口付近に立ったままのイェルドに向かって歩を進める。

「大丈夫。今回はきっと上手くいくわ。だって、あんなによく似ているのですもの」

 イェルドの傍まで来た母が、イェルドの手を取る。彼女は息子の顔を見上げて、慈愛に満ちた微笑を浮かべた。

「僕もそう思うよ。彼女は、エレオノーレそのものだからね」


***


 エレンを客間へ通したイェルドは、「母を呼んできます」と言って、エレンを残して部屋を辞して行った。

 客間に残されたエレンは、見たこともないような豪勢なインテリアに、ただただ圧倒されるばかりで、出された紅茶と茶菓子に手を着けるどころではない。

 腰掛けているソファはふかふかで、ビロードの布で覆われている。

 紅茶と茶菓子の乗った机はガラス張りで、足には金細工が施されていた。

 部屋全体は、縦二十メートル、横五十メートルほどの広さがあって、床はやはりビロードの絨毯が敷き詰められている。天井は、白地に金細工の装飾で正方形に区切られた空間に、各々構図の異なる絵画が丁寧に描き込まれていた。照明器具としてシャンデリアが等間隔で下がっているが、今はまだ昼間なので、大きな窓から射す太陽の光だけで充分ことは足りている。

 その窓からは、丹精された庭がよく見えた。新緑の季節なら花が綺麗に咲いているのだろうが、生憎もう秋口ということもあって、今は常緑樹が庭を彩るばかりである。それでも、手入れが行き届いている為か、緑だけでも美しく思えた。

「庭がお気に召して?」

 ぼんやりと窓の外を眺めていると、そんな声が耳に飛び込んで来て、エレンはハッと顔を上げた。

「あ……!」

「ああ、いいのよ。そのまま掛けてらして」

 立ち上がって挨拶しようとするエレンを、にこやかな笑顔で押し留めたのは、一週間前に会った、あの婦人だった。

「わたくしにもお茶を」

「はい、奥様」

 エレンに紅茶を出してそこに控えていたメイドに告げると、婦人は向かいのソファに腰を下ろした。イェルドも一緒だ。

「改めて紹介します。母です」

「あ、……エレン=クラルヴァインです」

「イェルドの母で、リヴィエール=ルスラン=エーデルシュタインと申します。先日は本当に申し訳ありませんでした」

「い、いえ」

 真剣な表情で詫びられると、もういいです、としか言い様がない。

 気まずい間を持たせるように、エレンはようやくティーカップに手を伸ばす。出されてから時間の経っていた紅茶は、若干冷えてしまっていた。

 それでもカップの中に視線を落として、紅茶を啜る。一息吐いて、そっと目を上げると、リヴィエールと名乗った婦人は、愛おしげに目を細めてこちらを見つめていた。

「あ、ごめんなさいね。不躾に眺めてしまって」

「い、いいえ」

 エレンは、もう一度首を振った。

「本当に……よく似ているから」

「あ、の」

 娘さんに、ですか。

 ついそう訊いてしまいそうになって、エレンはそれを辛うじて呑み込んだ。

 エレンは母親になった経験がないので想像することしかできないが、我が子を亡くすなんて、さぞかし辛いことだろう。

 亡くした子の思い出を語りたいという親もいるかも知れないが、結局のところそれをどう感じるか、何が心の傷跡に触れてしまうことになるかは、本人にしか分からない。

 そんなエレンの逡巡を素早く察したのか、リヴィエール婦人は、寂しげなものを含んだ微笑と共に首を振った。

「いいのよ。その通りだから。本当に、そっくりなの。まるで……あの子が戻ったようよ」

「イェルド……さんにも、言われました」

「ごめんね。気を悪くしたかな」

「いいえ」

 二人は、大切な家族を亡くしたのだ。

「よく……解ります。あたしも、八年前、両親を亡くしたので」

 水難事故だった。クルーズ船に乗っていたので、両親以外にも大勢の人が亡くなったと聞いている。

 けれど、目が覚めた時、自分は同じ船に乗っていて助かったのに、両親が死んでしまったことがどうしても納得できなかった。

 君は運が良かったと、生き延びた命をご両親の分まで生きろと、そう周囲の大人達に諭されても、エレンの耳には空々しく響いたのを昨日のことのように思い出す。

「もしも……あたしの目の前に、両親と同じ顔の人が現れたら、きっと、あたしも同じように錯覚するでしょうから。気にしないで下さい」

 静かに話すエレンの顔に、二人は同情とも憐憫とも取れる表情を浮かべて、静かに頷いている。

 いつの間にか婦人の方は、目に滲んだ涙を、白いハンカチーフで拭っている。そして、ふと立ち上がると、婦人はエレンのすぐ傍に膝を付いて手を取った。

「エレンさん。貴女のことを詳しく聞きたいわ。ご両親が亡くなった後は……今はどこにお世話になっているの?」

「あ……今は、マルタン教会の孤児院に」

 唐突な質問にやや面食らいながらも、生来の性格から、エレンは素直に答えを口に乗せる。

「孤児院ということは、他にも子供達が?」

「はい。私を含めて十人お世話になってます」

「そう……仲間達やお世話になってる方とお別れするのは辛いかしら?」

「え?」

 エレンのことを聞きたい、と言った割には、話がどんどん脱線しているような気がするのは、気の所為だろうか。

「母さん。その話は今度に……」

 やんわりと母を遮るイェルドに、リヴィエール婦人は強硬な姿勢を崩さない。

「いいえ。エレンさんにとっても良い話の筈よ。良いお話なら早い方がいいわ。ねぇ、エレンさん」

「はい?」

 同意を求められても困る。そう顔全体で訴えたが、それがリヴィエール婦人に通じたかは、凄まじく怪しい。

「貴女さえ良ければ……でいいのだけど、私の娘になってくれないかしら」

「え……?」

「エレオノーレになって欲しいの。こんなにそっくりな貴女が傍にいてくれたら、どんなに慰められるか……ご両親がいなければ、私の娘になって下さるのに、何の不都合もない筈でしょう?」

「あの、」

「貴女もまた母親ができるのだし……父親についてはごめんなさい。夫は数年前に病で他界してしまって……でも、代わりに兄ができるのよ。兄弟の数は、今と比べると減ってしまうかも知れないけど」

「母さん」

「孤児院よりも一家庭の娘である方が、この先幸せになれるわ。エーデルシュタイン家は由緒ある家柄ではないけれど、でも今は社交界に顔も広いし、孤児院出身よりは一流に近い結婚もできるから」

 立て板に水と喋り続けるリヴィエール婦人に、息子のイェルドも口を挟む隙がない。エレンに至っては言うに及ばずだ。

「お願い、もうどこにも行かないで……ここにいて、私の娘になって頂戴」

 懇願の表情で見上げられて、エレンは言葉を返すことができなくなってしまった。

 多少差別的な物言いもあったが、未だ娘を失った傷が癒えていない故だろう。そう解釈し、エレンはそこだけは聞かなかった振りをすることにした。

 孤児院で生活する孤児には、時折養子にという話も持ち込まれるし、実際どこかの家庭の養子養女として孤児院を離れていく子供も珍しくはない。けれど、今保護してくれる孤児院の保護者――エレンにとってはラティマー神父がそれに当たる――が存在する以上、養子縁組みの話はエレンの一存で決められることではなかった。

「あの……お気持ちはとても嬉しいのですが」

「じゃあ、娘になってくれるのね」

「いえ、そうではなく……」

「ああ……エレオノーレ。私のエレオノーレ……」

 何でこうなるんだろう。これでは、一週間前のリプレイではないか。

 ここに至って、エレンはイェルドに従いて来たことを、若干後悔した。

 ただ、あの時のイェルドは、縋るような目をしていたから。この婦人は、本当に『エレオノーレ』を大事に思って愛していたのだと解ったから。

 自分が逆の立場なら。

 そう考えれば考えるほど、エレンにはこの母子を冷たくあしらうことはどうしてもできなかった。

 しかし、養子縁組みを受けるにしろ受けないにしろ、この場はとにかく教会の方へ帰らない訳にはいかない。

 助けを求めるようにイェルドの方へ視線を向けると、彼は端正な顔にすまなそうな表情を浮かべて、母親をエレンから引き剥がしに掛かった。

「ほら、母さん。エレンさんが困ってるだろう」

「何を言うの、イェルド。エレオノーレが帰って来たのよ」

「落ち着いて! お詫びする為にわざわざ来て貰ったのに、結局迷惑掛けてどうするんだよ」

 ピシャリと息子に一喝されたリヴィエール婦人は、ハッとしたように瞠目すると、息子に向けていた顔をノロノロとエレンの方に戻した。

「あ……あ……ごめんなさい。わたくし……」

「いえ……あの、イェルドさん。あたし、そろそろお(いとま)しないと」

「え、だってまだ五時過ぎだよ。折角だから夕食を一緒にどうかと思っていたのに」

「いえ、そこまでご迷惑掛けられません。それに、今日はあたしが当番だし、六時には準備に掛からないと……」

 孤児院内では食事当番や掃除当番など、毎日の生活に関わることは当番制になっている。買い出しもそうだ。二人一組になって日替わりでの当番制だが、先日誘拐され掛けたとティオゲネスが大袈裟に騒いだ所為で、この一週間買い出し当番からエレンだけは外れていた。

 代わりに、炊事洗濯当番を増やすことで帳尻を合わせており、今日は本当にエレンが夕食を作る当番の中にメンバーとして組み込まれていたのだ。

 これが当番でない日だったら、真っ直ぐな気性のエレンにはとても方便は言えなかっただろう。

 だが、イェルドはエレンの断る理由をとことん潰しに掛かった。

「なら、こちらから連絡を入れておくよ。それなら良いだろう?」

「イェルドさん」

「迷惑を掛けたのはこちらなんだ。改めてお詫びしないと僕の気が済まないし、母も気にしてる。ここで貴女を帰したら、またお詫びに呼ばなきゃならないし」

「そんな」

 そんなのは、そちらの都合だ。

 ここで食事の準備に帰らなかったら、後々他の子供達と顔を合わせ辛くなる。それに、当番というのは言わば、自分の『責任』だ。よほど命に関わる理由でもない限り、それを放棄することはできない。

 けれど、これを角を立てないように言うにはどうしたらいいだろう。

 逡巡している間に、イェルドは、メイドに声を掛けて携帯端末を持って来させた。

「イェルドさん」

「いいから、僕に任せて」

 言うや、少し席を外すよ、と言って、イェルドはさっさと部屋を出て行ってしまった。「嬉しいわ、エレオノーレ。お帰りなさい」などと婦人が口走るのが遠くに聞こえる。

 任せて、じゃない。

 エレンの後悔比率は、先刻の二・五倍ほどに跳ね上がった。先刻が、二割くらいの後悔度数だとしたら、一気に半分の後悔になった訳である。

 後はもう、大人の筈のラティマー神父が、実はあの食えない笑顔で(と言っても、電話越しでは見えない筈だが)やんわりとお断りしてくれるのを願うしかない。

 だが、数分で部屋に戻ったイェルドの口から告げられたのは、エレンにとっては何とも無情な結果だった。

「お許しが出たよ。今日はこちらに泊まれるようお願いしたから」

「泊まるだなんて、イェルド。他人行儀ね。エレオノーレが帰って来たんじゃない。さ、エレオノーレ、行きましょう? 部屋はそのままにしてあるから」

 だから、私はエレオノーレじゃない。

 そう叫ぶ気力も萎えたエレンは、深い深い溜息を吐いて、グッタリと肩を落とした。


***


 その頃、ティオゲネスはエーデルシュタイン家の二階裏手の窓から侵入して、廊下を伺っているところだった。

 この屋敷、敷地自体は確かに広いが、庭が広大なだけで、生活空間はさほどでもない。しかし、それも『敷地に対して』という注釈が付く。

 使用人がいるにしても、母子二人だけで住むには充分過ぎる広さだ。

 単純に地続きの一階裏手から侵入してもよかったのだが、窓から入るとすぐ見つかってしまいそうだった。扉は玄関と勝手口の二つしかなく、勝手口から入れる部屋には、どう感覚を凝らしても人の気配がしたのだ。恐らく、仕事中の使用人だろう。

 となれば、上からお邪魔するしかなかった。

 銃に代わる武器として常備している鋼線(こうせん)を縄代わりに、屋根飾りへ引っかけて鋼線を伝ってよじ登り、屋根裏の窓の鍵を外からこじ開けた。その瞬間、警報が鳴り出す覚悟は半ばしていたが、その点は意外を通り越して不気味なほど屋敷は静まり返ったままだった。

(犯罪容疑が掛かってるにしちゃ、不用心だな)

 自分もたった今不法侵入中なのは棚に上げて、ティオゲネスは一人ごちる。

 屋根裏部屋には一つしか扉がなく、その扉を開けると急勾配の階段が下に向かって延びていた。階段を下った先の扉を開くと、居住空間の一つと思われる廊下に出た。

 時刻が日暮れ近い所為か、外の明かりが届かない場所にあるらしい廊下は薄暗い。

 人の気配がないのを確認すると、ティオゲネスは無造作に足を踏み出した。まるで、自分の家で歩くような無防備さでさっさと歩いていく。

 奥まった細い廊下は、暫くは壁に隔てられている。しかも、床が赤い絨毯に覆われている為に、容易に足音を殺す事が出来る。

 壁が途切れた先は、広く開けているようだったが、ティオゲネスがいる場所からは構造の詳細は判らなかった。相変わらず、人の気配はない。

 少女達の失踪事件に関わっているにしては、余りに無警戒としか言い様がない。もしかしたら、向こうは自分達がしていることが犯罪だという自覚がないのかも知れない。もしくは、限りなく低い可能性ではあるが、本当にただ事件のあった付近に住んでいただけで、何の関わりもないのか。

 確たる証拠がない以上、その可能性もゼロではない。

 けれど、ティオゲネスは、すぐにそれを否定した。

 一ヶ月に一度の引っ越し魔であれ、事件が起きた近所にピンポイントで在住しているなど、たった一つの可能性を除いては有り得ない。『偶然』その近所に必ず居合わせるなど、不自然過ぎる。

(証拠があればな……)

 せめて遺体でも見つかれば、と無意識に考えた自分に、ティオゲネスは苦笑した。

 自分はもう、失踪した少女達は死んだものと決めて掛かっている。彼女らの家族に聞かれたら、八つ裂きにされるのは間違いない。

 けれど、それは限りなく確信に近い推測だった。

 根拠は勿論ない。

 犯人と一度接触したきりで、ティオゲネスには失踪事件を起こしたであろう犯人の犯行『動機』を想像する材料もないのだ。

 ただ、人生の大半を裏社会で生きてきた者だけが持つ『勘』のようなものが、彼女達は既にこの世にいないだろうことを確信していた。

(とにかく、屋敷を全部調べるっきゃねぇな)

 それも、まずはエレンの居場所を特定してからの話だ。

 開けた場所まで来て、もう一度気配を探る。ふと漏れた、殺気に近いものを感じたのは、その瞬間だった。

 思考する暇もない。

 ティオゲネスは、身体が動くに任せて、まるで床面が水であるかのようなフォームで前方に飛び込んだ。両手を突いて、一回転しながら身体の向きを変えて着地する。

 暗い廊下の内から足を踏み出したのは、一週間前に出会ったあの執事らしき初老の男だった。

 丸い輪郭の中に丸い鼻、その下には口髭が生えている。あの日は丸みのある帽子を被っていたが、今は薄くなり始めた頭頂部が剥き出しになっていた。

 これで(あつら)えたような丸い目元に縁取られた黒い瞳が柔和な笑みを浮かべていれば、本当に人のいい男性としか思えなかっただろう。けれど、瞳だけは不釣り合いに冷たく鋭い色を湛えて、ティオゲネスを見据えていた。

 振り下ろしたような体勢で止まっているその手には、サイレンサー装着済みの拳銃が握られている。

 一秒でも飛び退くのが遅れていたら、銃床で後頭部を殴打されて、今頃ティオゲネスは間抜けにも敵陣で意識を手放していた。

(あっぶねー……)

 首筋にヒヤリとしたものを覚えながら、身構え直す。

 あれだけ接近するまで気配を感じさせないなど、見た目通りのただの執事ではない。それとも、自分でも自覚しない内に油断していたのだろうか。どっちにしろ、情けない話だ。

「動かないで」

 脇下に吊ったホルスターから銃を抜こうと指先を動かしただけで、相手の持っていた銃口は、ティオゲネスの心臓にピタリとポイントされた。

「……ったく、油断も隙もないおっさんだな」

「こちらの台詞だ。君は、先日エレオノーレ様と一緒にいた子だね」

 初対面で碌々口も聞いていない人間は、大抵ティオゲネスの性別を『少女』と断定する。今目の前にいる男も、断定しないまでも、こちらの性別を判断しかねたのだろう。

 『少女』と言わず、『子』と表現したのが、その証拠だ。

「言ったろ。あいつはエレオノーレじゃない」

「今日からはエレオノーレ様となる」

 『今日からは』?

 どういう意味だろう。けれど、それを問い質すより早く、男が再び口を開く。

「君は何の用でここに?」

「素直に言ったところで、その銃口から弾が出てきたら堪んねーからな」

「用があるなら、玄関から来ればそれなりのもてなしをして差し上げたのに。不法侵入では、警察に通報されても文句は言えないね?」

「へぇ」

 ティオゲネスは、面白そうに唇の端を吊り上げた。

「警察に通報なんかしたら、困るのはそっちなんじゃねぇの?」

「どういう意味だ」

「さあ? どういう意味かは、そっちがよく解ってるんじゃねぇかと思うけど」

 カマを掛けたつもりだった。

 何か心当たりがあれば、普通の人間なら微かにでも感情の揺れを見せる。

 しかし、目の前の男には何の動揺も見られない。

(本当に何も知らないのか、それとも――)

 ポーカーフェイスなら見事すぎる。

「何を勘違いしているのか知らないが、奥様もぼっちゃまも、警察に知れて困るようなことはなさっておられない。それより、君がどうするかだ。大人しく去るか、さもなければ――」

「さもなければ? どうするんだよ。ここで死体一つ作ったら、それこそ『奥様』と『ぼっちゃま』が困るんじゃねぇか?」

 人を殺したことのない一般人なら、流石にこれで充分動揺する筈だったが、やはり男は動じずに、寧ろ鼻で笑った。

「安心しろ。遺体など残さない」

 自信満々に言い放つ様子は、とてもハッタリとは思えない。それに、銃を構え直す、物慣れた態度――

(こいつ……もしかして、元・裏社会の人間か?)

 だとしたら、背後至近距離へ近寄られても攻撃の刹那まで気付けなかったのも納得がいく。

 それに、もしこの推測が正しければ、失踪した少女達に関わった証拠など、もう出てこないかも知れない。

 ティオゲネスは唇を噛みそうになったが、表面上は無表情を崩さなかった。

 自分一人なら、お言葉に甘えてさっさと退散するところだが、それは最初から選択肢に入れていない。

 本来、事件の解明は、ティオゲネスには関わりないことだ。だが、ここにエレンを置いたまま逃げる訳にはいかない。今この時、彼女を置いて一時でも退けば、恐らく二度と彼女に会うことはできなくなるだろう。

 しかし、動揺と逡巡は微塵も表に出さなかった。裏社会では、付け入る隙を少しでも見せたら負けなのだ。

「解った。ここは手を引く――と言ったら?」

「命は助けよう」

 男は小揺るぎもせずに言いながら、ティオゲネスの心臓にポイントした銃口を外すこともしない。

「それと一つ条件がある。もうこの周囲をこそこそ嗅ぎ回るのは止めて貰う」

「それじゃあ取引は成立しないぜ、おっさん」

 ふん、と鼻で笑うように相手の言い分を退けると、それまで無表情だった男が、ピクリと不機嫌そうに片眉を跳ね上げた。

「何だと?」

「だってそうだろ? 俺がここで手を引く代わりに、あんたは俺の命を助ける。それで一つ取引が成立してる筈だ。あんたの要求を通すとしたら、取引は二つ目ってコトになる。そしたら、ここでもう一つ俺の頼みも聞いてくれるのが筋じゃねぇのか」

「何か勘違いしているようだな」

 それまで辛うじて紳士的だった男の口調が、僅かにトゲを含んだものに変わる。

「君の生殺与奪の権限を握っているのは私の方だ。それが解らないほど鈍くないと思ったが、買い被り過ぎだったかな?」

「試してみろよ」

「何?」

「生殺与奪の権限はあんたが握ってると言ったな。それはあんたが絶対優勢っていう前提の下に成り立つんだぜ」

「私が絶対優勢でないとでも言うつもりか? この引き金を引くだけで、君の人生は終わる」

「あんたがその気なら、とっくに引き金引いてるだろうよ」

 男は咄嗟に何も言い返さなかった。だが、代わりのように唇を噛み締めている。

「そもそも、最初に撃たなかったのが不思議だった。射程まで近付いて、引き金引いてりゃ、あんたの勝ちだったのに、リスク承知で至近距離まで近付いて、気絶で済ませようとしたのは何でだ?」

「……黙れ」

「それ以前に、こっそり警察に通報して、不法侵入者がいるって言えば、あんたは一切手を煩わせるコトなく、俺を追い払えた筈だ。警察に、屋敷にまで踏み込んで欲しくない理由があるとしか思えねぇな」

「黙れと言っている」

「黙って欲しけりゃ引き金引けよ、遠慮なく。折角サイレンサーまで装着してあるんだしさ」

 歯を食いしばるようにして唸った男は、カッと目を見開いた。白目の部分が血走っている。

 トリガーに掛かった指先が動いた刹那、ティオゲネスは床を蹴った。サイレンサーに吸収された銃声が、空気を震わせる。

 横っ飛びにその場を離れたティオゲネスは、着地点を経由して男に突っ込んだ。

 確かに、男にもそれなりの経験があるのだろう。攻撃に移る瞬間までティオゲネスに気配を悟られなかったことからも、それは証明されている。今の歳まで(もしくは数年前まででも)、彼がそういう世界で生きていたのだとしたら、経験という意味では寧ろティオゲネスの方が不利だ。

 だが、速さでなら勝てる。

 望むと望まざるとに関わらず、年齢が若い方が瞬発力には長けている筈だ。ティオゲネスはそこに賭けた。

 ブレスレットに仕込んだ鋼線を引っ張りだして、銃身を狙って擲つ。細い糸状の鋼刃(こうじん)は、狙い過たず銃身に絡み付いた。手前に引けば、いとも簡単に銃身は分断された。男が瞠目する。

 その一瞬の隙に、男の背後に素早く回り込んで、鋼の刃を彼の首にあてがう。

「勝負あったな」

「さあ、どうかな。君こそ、ここまでやったのだから、早く私の首を落としたらどうなんだい」

「そうだな。何もない時ならそうしてるけど」

 自嘲的な笑いが漏れる。

 今でこそ暗殺組織は崩壊して、ティオゲネスは『普通』と呼ばれる生活を送っている。ただ、必要とあれば叩き込まれた技を行使するのも、相手を殺めるのも、一切躊躇わないと言い切れる。そこが、ティオゲネスが『一般人』と一線を画しているところかも知れない。

 未だ『一般人』にはなり切れない自分には、苦笑するしかなかった。

 そんな感傷を脳裏からひとまず締め出して、ティオゲネスは男の耳元へ尋問する。

「あんた、何か知ってるんだろ?」

「何か、とは?」

「例えば、ひと月前にアールノって町で失踪したアイリーンって女について、とか」

 しかし、正面から向き合っていても読めなかった男の感情は、背後からだと余計に解りにくい。

「仮に、彼が何か知っていたとして――」

 カチリ、という音と共に、硬質な何かが、後頭部に押し当てられる。

「それが君に何の関係があるのかな?」

 今の今まで、この場にはいなかった者の声が、背後から割り込む。やはり気配を感知することはできなかった。

 けれど、この場に『いる』と自覚してからは気配を感じることができるところから、今度は完全に警戒を怠っていたことに今更ながら気付いて、ティオゲネスは舌打ちした。

「ぼっちゃま……」

「うん、ごめんね。助けに入るのが遅くなって」

「おいでにならないように申しましたのに」

「自分の家でドタバタやってるのに、来ない訳にもいかないでしょ」

「あー、はいはい、麗しい主従劇は結構だから、その物騒なモン退けてくんない?」

 鬱陶しい、という感想を隠しもせずに言うと、後ろの男がクスッと小さく笑った。

「ああ、ごめん。君との話の途中だったね」

「別に話なんてねぇよ。エレンを返して貰うコトと、もう俺らの周り彷徨(うろつ)くなってコト以外にはな」

「エレンという名の女性はいないよ。母さん以外に女性がいるとしたら、それはエレオノーレだ」

「お前ら、いい加減にしろよ。そっくりさんだか何だか知らねぇけど、外見だけ似ててもエレンとそのエレオノーレとやらは別人なんだぞ。一卵性の双子だって性格まで同じじゃないだろ」

「言ってるコトがよく解らないな。それで、君は僕にどうして欲しいわけ?」

「別にどうもして欲しくねぇよ。エレンを返して貰うだけだ」

「いない人間は返せないな。本当に警察呼んじゃうよ?」

「呼べよ。本当に困らないならな」

 半ばハッタリだった。

 ならお言葉に甘えて、と背後の男が携帯端末でも取り出して操作し始めるのを覚悟したが、背後の男は何故か、空気を呑んだように数瞬黙り込んでしまった。

「呼ばないのか? ケーサツ」

「……別に。呼ぶほどのコトじゃない。君が大人しくここから去ってくれれば、丸く収まる。騒ぎになるのも面倒だしね」

 次の瞬間、ティオゲネスは、前の男の喉元に当てていた鋼線の右端を放した。鋼線は、左手に着けていたブレスレットに収納される。

 呆気に取られる初老の男の後頭部に容赦ない手刀を落として相手を気絶させ様、半回転して、背後の男の足下を払った。

「あ!」

 不意打ちをまともに喰った背後の男は、すんなりと床へ引っ繰り返った。

 すかさず脇下のホルスターから銃を抜いて、引き金を引いた。放たれた銃弾は、狙い過たず男の持っていた銃を弾き飛ばす。

 初めて間近に見たその男は、焦げ茶の髪を短く切り揃えた、中々の美丈夫だった。

「やっぱりあんたら、例の件に関係してるんだな」

「何の話?」

 自分の半分ほどの年齢の子供に床へ沈められたのが流石に屈辱だったのか、二十代後半に見える男は、忌々しげな表情を隠せないようだった。

 しかし、いくら年上だと言っても、彼の方は先ほど当て落とした男と違い、戦闘と修羅場の経験に於いては、ティオゲネスに遠く及ばないのが解る。視界に姿を映していなくともその場にいるのが敵に分かるようでは、その程度は初めから知れていた。

「トボケるなよ。こっちのおっさんに訊いても明確な答えは得られなかったからあんたに訊くケド、先月アールノで行方不明になった、アイリーンって女に心当たりあるだろ?」

 床へ、上半身だけ中途半端に起こす形で仰向けになった青年に、油断なく銃を突き付けながら問う。

 だが、青年もまた、この質問には動じた様子を見せなかった。

「知らないな」

「警察に踏み込まれたくない事情がそれだと踏んだんだけど、見込み違いか?」

「そのようだね。別に、警察に調べられても困ることはないつもりだけど、実際に来られるとやっぱり色々面倒だから、大人しく去ってくれると嬉しいな」

「そういう訳にはいかない。俺の方の用は済んでないんだ」

「さっきから言ってる、エレンって人のこと?」

「俺と同年代くらいの女がさっきここに入ったのは見てる。そいつを返して欲しい。そしてもう二度と俺達の前に姿を現すな」

 焦げ茶の瞳が、静かにティオゲネスを見据えた。ティオゲネスも半ば睨むような強さで焦げ茶の視線を跳ね返す。

 やがて青年は、その感情が読めない表情をしたかと思うと、小さく笑って肩を竦めた。

「分かった。君の言う『エレン』さんに会わせよう」

「!?」

 余りの素直さに、ティオゲネスは呆気に取られて、その翡翠の瞳を微かに見開いた。

「ただ、彼女はエレオノーレだから、君とは初対面だ。それを承知しておいて欲しい」

 そんな訳がないだろう。

 そう思ったが、ティオゲネスは口に出さなかった。

 銃口をしゃくるようにして、青年に立つように促す。

 青年は、もう一度肩を竦めると、銃口を警戒するようにそろそろと立ち上がった。

 二階部分の狭い廊下を抜けた先は、エントランスへ続く階段ホールだったらしい。

 銃口を青年の背後に押し当てながら、先を歩くように仕向けると、彼の後ろを警戒を全開にしながらついて歩く。

 階段を降り切ると、青年は右手に曲がった。

 奥まった場所に廊下があり、やがて左手に扉が見える。

 青年は、そこで足を止めると、扉をノックした。

「母さん。もういいかな」

「イェルド? いいわよ。お入りなさい」

 入室の許可を求めるにしては不可解な会話が成される。とにかく許しを得たらしいイェルドと呼ばれた青年は、ノブを回して扉を開けた。

「イェルド。ほら、見て……」

 母さん、と呼ばれた人物は、先週トラレス・タウンで出会った、あの古風なドレスを着た婦人だ。彼女が何か言い掛けるのを、イェルド青年は、どこか焦ったように遮る。

「母さん。もう一人お客様なんだ。どうしてもエレオノーレに会わせろって聞かなくて……」

「あら」

 イェルドと同じ、焦げ茶の瞳を瞬くと、婦人はティオゲネスに視線を向けた。

「まあ、イェルド。銃を持ってる子なんて、家に入れたの?」

 青年の後ろから、銃を手に持ったまま歩いて来たので、婦人の目から見るとそうなるだろうな、と、ティオゲネスは思った。

それにしても、『銃を持っている』と認識している割には、婦人は落ち着いている。エレンと同レベルの天然だ。

「不法侵入なんだよ。本当なら警察に通報するところなんだけど、僕がこの子の友達のエレンさんという女の子を誘拐したと思い込んでいてね」

 ティオゲネスは、リアクションを音にしなかった。

 出来なかったという方が正しい。開いた口が塞がらないとは、(まさ)しくこのことだ。

「そういう訳だから、エレオノーレ。君の方から説明してくれないか」

 イェルドがそう言うと、今までティオゲネスに背を向ける形でソファに座っていた淡い栗色の頭が、ゆっくりと動いた。ソファの背に隠れて、頭部しか見えなかったその人物が、見慣れた若草色をイェルドに向ける。

「何を、説明するの?」

 エレンだと思っていたその少女が、耳慣れない口調で話した途端、そこでもうティオゲネスは違和感を覚えた。何かがおかしい。それでいて、どこか遠い場所で経験した覚えのある感覚だ。

「そこにいる子が、君は自分の友人だから返して欲しいと言って譲らないんだ。君は、僕の妻のエレオノーレだと、分かるように言ってやってくれないか?」

(……妻?)

 今、何だか、最大級におかしな単語を聞いたと思ったのは、それこそ気の所為だろうか。

 その形の良い眉を、思い切り顰めたティオゲネスの翡翠と、エレンの若草色の瞳が交錯する。

「……随分綺麗な子ね。ええっと、……どちら様?」

 『妻』発言を越える、おかしな発言に、ティオゲネスは真剣に己の耳を疑った。

「お前、頭、大丈夫か?」

 反射で出た毒舌も、普段のエレンなら「失礼ね」の一言で済む。

 しかし、今のエレンは、ティオゲネスに負けないほど眉を顰めて、不快感を露わにした。

「失礼ね。初対面の人間に向かって、『頭、大丈夫か?』はないと思うんだけど。ねぇ、イェルド。この方、貴方のお友達?」

 お友達なら慎重に選んだ方がいいわよ、などと、余計な世話を焼いている様子は、如何にもエレンそのものなのだが。

「いいや、『自称』君の……いや、君が探してるのは『エレン』さん、だったよね?」

 イェルドは、途中で話の矛先をティオゲネスに向けた。

「これで、彼女が君の探している『エレン』でないことは、分かって貰えたかな?」

「お前……」

「ちょっと、いい加減にして頂戴。私は初対面の人間にお前呼ばわりされるような下賤な人間じゃないわ。私はエレオノーレ=アンゲリーカ=エーデルシュタイン。ここにいる、イェルドの妻です。他に質問は?」

「…………」

 今度こそ開いた口が塞がらなかった。色々な意味で。


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