Insanity.1 忍び寄る狂気
「ふぁーあ……」
バルコニーに座って本を読んでいたエレンは、覚えず大欠伸をしながら、腕を頭上に伸ばす。
(流石に退屈ね……)
その日も晴天だった。
庭の大木が、建物に殆ど被さるように茂っているので、直接日光は射さないが、木漏れ日が緑の隙間にキラキラと踊る様は見ていて心地いい。
基本的にインドア派のエレンだが、こんな日は軽食でも携えて、ピクニックに出掛けたくもなる。
こんなにいい天気なのに、外に出られないなんて。
そう胸の内で呟くが、それをティオゲネスにでも聞かれたら、『何言ってんだ、立派に外じゃねぇか』とでも返ってきそうだった。
自分を娘と勘違いした気の毒なあの婦人と遭遇してから、ちょうど一週間が経っている。
あの日から、ティオゲネスはエレンに外へ出ることを禁じてしまった。
何で自分が閉じ籠もらなければならないんだと抗議はしたが、それに対するティオゲネスの返答は、大凡倍以上の毒舌だった。
『バカか、お前。つい昨日誘拐され掛けたんだぞ?』
『誘拐って……ただあの女の人は、あたしを娘と思い込んだだけなのに』
『それで意に反して連れて行かれでもしたらどーするんだよ。立派な誘拐じゃねーか』
それに――と言いさして、その後モゴモゴと口を閉ざしてしまったところは、歯に衣着せない毒舌家の彼には珍しいことだった。追及しても、はっきりしない内は言えない、などと言って、『とにかく、お前は俺が良いって言うまで家から出るな!』と一方的に釘を刺したのだった。
そして、その彼はと言えば、毎日のようにどこかへ出掛けている。勿論、遊山に出掛けている訳ではないとは思う。
しかし、自分には外出するなと言った本人は、意気揚々(?)と外出しているというのが、いかにも理不尽と思えてしまうのは、気の所為だろうか。
開いたままになっていた本を閉じて、バルコニーの階段から庭先へ降りる。これくらいなら、外出の範疇には含まれまい。
教会内孤児院と言っても、教会の建物の中に孤児院がある訳ではなく、子供達の生活空間は、教会のすぐ傍に建設された別館が中心だった。
今は、ティオゲネスやエレンも含めて、十人の子供達がラティマー神父とその他の修道士、修道女を親代わりに共同生活を送っている。他の子供達は村へでも遊びに行っているのか、珍しく別館の庭には、エレン一人だった。
こんな午後には、自然の中、静寂も悪くはない。けれど、既に一週間だ。いい加減、買い出しくらいには出なければ、運動不足になりそうだ。
堂々巡りを起こしている思考の中で溜息を吐いた時、ふと視線を泳がせた先に、人がいるのに気が付いた。
男性だ。木陰になっているので、はっきりした色は判らないが、短く切り揃えられた焦げ茶色に見える頭髪と、同じ色の瞳を縁取る切れ長の目元が印象的な、二十代半ばと思しき青年は、初めて会う人物だった。
暫し目線が合って、二人の間に沈黙が落ちる。
「こんにちは」
柔らかく微笑んで、先に口を切ったのは、男性の方だった。
「あ……こ、こんにちは」
エレンは慌てて挨拶を返す。
「教会にいらしたんですか?」
「ええ。ここへ越してきて、まだ一度も来ていなかったものですから」
道理で初めて見る顔の筈だ。余所から越してきた人間なら、会ったことがある訳がない。
青年は、再度柔らかい笑みを浮かべると、歩を進めて、エレンの一メートルほど手前で足を止めた。
「先日は、母が失礼しました」
「先日……? あ」
一瞬何のことを言われているのか量り兼ねたが、『母』という単語に、あの女性のことだと思い当たる。何せ、エレンはあれから不本意ながら外出していないのだから。
「じゃあ、あの……貴方は、あの女の人の」
「はい。息子です。何があったかは、同行していた執事のプレストンに聞きました。本当に……ご迷惑をお掛けしました」
形のよい眉の端がやや下がって、心からの謝罪の表情で、青年が頭を下げる。
「いえ、そんな……じゃあ、あの、不躾ですが、娘さんというのは……」
「僕の妹です。数年前に亡くなったんですが、ちょうど貴女くらいの年頃で……こうしてお会いして驚きました。本当にそっくりです。まるで、妹が元気で目の前に立っているようだ」
青年の愛おしげな眼差しは、自分と彼の妹を重ねてのことだろう。
人によっては不快と感じるその視線も、エレンには同情の念しかなかった。
「あ、すみません。不躾にジロジロと」
「いえ! こちらこそ、イヤな質問をしてしまって」
「そんなことないですよ。ええと……」
言い淀むように言葉を濁した青年は、エレンを見つめた。
「僕は、イェルド=エーデルシュタインと言います。先日、母が貴女にご迷惑をお掛けした日より、ひと月程前に、トラレス・タウンの郊外に引っ越してきました」
「はあ」
急に自己紹介を始めた青年に、エレンは、胡乱な目を向けて眉を顰めた。その意図が、どこにあるのかが読み取れなくなった瞬間、先刻までの同情は綺麗に吹き飛んでいる。
「あの……失礼ですが、お名前を伺っても?」
しかし、この言葉を聞いた途端、エレンは自分の不作法を恥じた。
名前を聞きたければ自分から、というのは礼儀だが、相手が名乗ることでその意図を読み取れないなど、ぼんやりしているにも程がある。
「すっ、済みません! 申し遅れました。エレン=クラルヴァインです!」
慌てて名乗って、勢いよく頭を下げる。
「宜しく、エレンさん。――あの……もしこの後ご予定がないようでしたら、当家へおいでになりませんか?」
「は?」
「先日の母のご無礼をお詫びしたいのです。母も今は落ち着いて、関係のない娘さんにとんでもないことをしたと……機会があれば詫びたいと、そう申しております」
「え……でも」
この後の予定などない。強いて言えば、引き籠もっていなければならない予定だ。
けれど、保護者でもないティオゲネスに従う義務は微塵もない。
「あの……ご不快でしたら、申し訳ありません……」
しかし、その逡巡の間をどう取ったのか、イェルドと名乗った青年は、まるで主人に叱られた仔犬のように、しょんぼりとした表情で言った。
なので、エレンはまた慌てて、今度は首を横に振る羽目になる。
「あ、いえ、そうではなくて……神父様に一言断ってからと……」
「神父様になら、先程、僕の方から許可を頂きました。エレンさんさえ宜しければ、このまま当家に来て頂きたいのですが」
ここで、もしティオゲネスが同席、或いは陰で話を伺っていたとしたら、この青年がさっきはエレンの名を知らなかったのに、ラティマー神父にエレンを家に同行させる許可をどうやって得たのかという矛盾点を突いて、イェルドを追い払っただろう。
しかし、エレンは元来真っ直ぐな性質で、他人もそうだと信じている。というより、人には裏表があるなどと、この年にして考えもしない少女だ。
更に、この西の大陸<ギゼレ・エレ・マグリブ>が、世界で一番平和な大陸と呼ばれている所為か、亡くなった両親も、『知らない人に従いて行ったらダメですよ』という基本的なところを教育していなかった。
両親亡き後の保護者であるラティマー神父にしても、他の修道士・修道女にしても、職業柄『人を疑う』ということは基本的に口にはしない。と言った事情から、自然『人を疑って掛かる』という文章自体が、エレンの脳内には知識としてインプットされていなかった。
「でも、あの……ご迷惑じゃ」
「こちらから来て欲しいと言ったのですから、全然迷惑ではないです。貴女さえ良ければと」
イェルドと名乗った彼も、彼の母親も、根は悪い人間ではないのだ。ちょうど鬱屈していたところだし、気分転換に出掛けるくらいはいいだろうか。
「帰りは責任を持ってお送りしますから」
是の意に傾き掛けていた気持ちに、懇願の響きを帯びてきたイェルドの言葉が追い打ちを掛けた。
「そうですか。では……少しだけ」
エレンは、うっすらと微笑んで、ようやく頷く。
こちらです、とエレンを伴って歩き始めたイェルド青年の笑顔の中に、何か別のものが含まれていることに、勿論エレンは気付かなかった。
***
その頃、ティオゲネスは、件のエーデルシュタイン邸の前にいた。前と言っても、正面玄関の前にいては流石に目立つので、身を隠せる場所から邸を窺っているだけだが。
トラレス・タウンの郊外は、一歩町中を外れると、だだっ広い緑の絨毯の上に、ポツリポツリと個人邸宅が点在しているような場所だ。そんな中に、エーデルシュタイン邸もあった。
町中と違って遮蔽物が殆どない故に、身を隠す場所も探すのに相当難儀した。
塀代わりに植え込みで敷地を囲んで造られた庭も、嫌みなほどに広い。敷地へ入るための門だけが木製だったが、泥棒などを防ぐ為のものでないのは明らかだ。
ティオゲネスは、この一週間で調べ上げたことを頭に反芻しながら、茂った植え込みの中にある、数少ない背の高い木の一本によじ登って、上から屋敷を眺めていた。その木は、丁度外界との境に位置しており、庭へわざわざ入り込まなくても登れる上、こぢんまりとした門まで見渡せるベスト・ポジションだ。
それにしても、金持ちの屋敷というのは、どうしてこう古今東西無駄に豪勢なのだろうか。
エレンが誘拐されそうになってから、既に一週間。
まず、あの翌日にティオゲネスがしたことと言えば、警察に通報することだった。
とは言え、未遂に終わっているし(それも自分が傍にいてこそで、エレン一人なら多分あの誘拐劇は成功していただろうが)、普通に通報したところで、「まあご注意下さいよ」で終わりである。警察とはこれまた、古今東西、『何か』が起きないと動いてくれない組織なのだ。
それで、個人的なコネを利用することにした。
連絡した先は、ティオゲネスが四年前まで所属していた暗殺者養成組織崩壊の際に知り合った、ラッセル=ギブソン刑事だ。
以前、警察内であったイザコザに、ティオゲネスとエレンが巻き込まれた一件から、半年が経っていた。あの後からラッセルは、ティオゲネスの住むギールグット州のプロプスト・シティにあるギールグット支部勤務となっている。
ラッセルの個人携帯端末に連絡を入れ、開口一番『逮捕して欲しい人間がいるんだけど』と言うと、(予想はしていたが)断られてしまった。
『大体、久し振りに電話してきたと思ったら、いきなりそれかよ』
「ヤローに用もないのに電話してどーすんだよ、気色悪い」
『はは、相変わらずだな。でも、真面目な話、状況も分からない、証拠もない、じゃ逮捕には至れねぇよ、残念ながらな』
一般的に見れば、至極尤もな意見だ。
しかし、ついこの間、証拠もないのに殺人犯呼ばわりされて、死に掛けたティオゲネスとしては、それを言ってやりたい気持ちもなくはない。
喉まで出掛かったが、話が反れるので、辛うじて呑み込むと、その前日に起きたことを、一から説明してやった。
すると、話を聞き終えたラッセルから、意外な言葉が飛び出した。
『それって、もしかしたら、エーデルシュタイン家の主人じゃねぇかな』
「エーデルシュタイン?」
訊き返すと、ラッセルは「あ、やべ」と言って黙り込んでしまったが、電話を切らなかったところを見ると、言うべきか言わざるべきかで逡巡したらしい。
ティオゲネスも催促はせず、辛抱強く待っていると、やがて、例の「絶対におれが言ったっていうなよ」という注釈付きで、ある事件について教えてくれた。
『最近、ガーティンとリヴァーモアで、ひと月に一人の割合で、失踪事件が起きてる』
「失踪事件?」
『ああ。十五歳から十七歳くらいの女の子ばっかり。この半年で六人だ』
「多いな」
この西の大陸<ギゼレ・エレ・マグリブ>は、世界で一番治安のいい大陸として知られている。
ただ、ギゼレ・エレ・マグリブ内で本拠を構える暗殺者養成組織に拾われたティオゲネスにとっては、その説も相当眉唾ものだ。
とにかく、事件らしい事件をあまり聞かないこの大陸内で、ひと月に一人の失踪者は多いとしか言いようがないのも事実である。
『ああ。最後の失踪者が出たのが、先月。場所は、リヴァーモアの西部の町・アールノ。失踪したのはアイリーン=ガーディナー、十七歳』
「おいおい、いいのか。そんなところまで情報渡してくれちゃって」
ただの十四歳の少年が相手なら、ラジオかテレビのニュースで流れる情報と変わらない。増して、生活拠点が田舎の孤児院となると、ラジオくらいしかニュースを聞く媒体もない。
けれど、裏社会に属する組織で育ったティオゲネスを『ただの十四歳』と一緒にはできない。
これだけの情報があれば、後は一人でもどうにか調べることはできる。それはラッセルも承知の筈だった。
『別に? おれはただ、旧知のガキと世間話してるだけさ。後はそいつが調べようとどうしようとそいつの自由だ。それに、おれはそいつが調べた情報を悪用しないってよく知ってるからな』
瞬間、ティオゲネスは空気を呑むようにして声を詰まらせた。
無条件に信用されるということにまだ慣れない所為か、言葉にされるとどうにもむず痒い気がしてしまう。
「……で、それとエーデルシュタイン家と、どんな関係があるんだ」
結果、先のラッセルの発言にはリアクションせず、先を促した。ラッセルも特にそれを気にする風もなく、話を戻す。
『確たる証拠がないんで直接聴取したのはあくまで他の聞き込みの一環としてだが、失踪した少女の在所近くに必ず住んでた』
「住んでた?」
『ああ。一ヶ月に一回。引っ越しの回数としては多いが、世の中には引っ越し魔って呼ばれる人種もいる。けど――』
「事件のあった時、必ずその土地にいるってのがいかにも怪しいな」
『そういうこった』
「分かった、後はこっちで調べる。助かった」
情報の礼を述べて通話を切ろうとすると、何か分かったらこっちにも流せよ、と抜け目なく釘を刺された。ただで情報を貰う訳にもいかないので、勿論そうすると約して今度こそ電話を切った。それから、ラッセルの言った失踪事件についてと、エーデルシュタイン家について調べた。
しかし、表面上の情報は、ラッセルが話してくれた以上のことは、特に出て来なかった。辛うじて出て来たのは、せいぜい失踪者の名前と、事件が起こった日時と場所くらいのものだ。
これが、ごく近所で起きた事件なら、端から現地に出向いて調べている。が、何処も遠くて『ちょっとそこまで』という距離ではない。
第一の事件が起きたのは、丁度、リタが亡くなったあの一件が解決するかしないかくらいの頃だ。
場所は、ガーティン州の最北端・ハヴラノヴァー・シティ。ティオゲネスの住む、ギールグット州のテア・ヴィレヂとは千八百四十六キロも離れている。
オレリー=ダンディという十五歳の少女が失踪し、両親が捜索願いを出したものの、未だに行方は判っていない。
第二の事件は、それから約一ヶ月後。
失踪したのは、ガーティン州トラフキン・シティに住む、ユッテ=アダー、十六歳。父子家庭で、やはり父親が捜索願いを出しているが、オレリーと同じく今も行方は判然としていない。
第三の事件は、更に約一ヶ月後。
やはりガーティン州のモンティーニという町に住んでいた、フィリーネ=デルブリュックという十六歳の少女が失踪。両親は他界しており、母方の祖父母宅で住んでいたのが、ある日突然姿を消した。
第四の事件は、リヴァーモア州のヴィンフリーデで、第三の事件から約一ヶ月後に発生。
そこに住んでいた、ラディスラヴァ=シェンキジーコヴァー、十七歳が同じように姿を消した。彼女もまた既に両親は他界。その後、成人済みの姉夫婦の元で世話になっていたらしい。
第五の事件は、リヴァーモア州の南端に程近い、マイシュベルガーで起きた。
母方の叔母夫婦の家で暮らしていた、エルバ=カスティジェホという十六歳の少女が姿を消している。
そして、ラッセルが言っていた最後の事件、つまり第六番目の失踪者が、アイリーン=ガーティナー、十七歳。
テア・ヴィレヂから千二百四十六キロ離れたアールノの孤児院で生活していたらしいが、今からひと月程前に忽然と消えたという。
いずれの事件でも、保護者が例外なく捜索願いを出している。けれども、未だに失踪した少女達の手掛かりはない。
ここまでは、正当な手段で得られる、公表されている範囲の情報だ。そこから先は、表の情報を元に、CUIO――国際連邦捜査局のデータバンクに侵入して情報を引っ張り出した。CUIOの本部長辺りが知ったらどんな顔をするか判らないが、この際仕方がない。行方不明になっている少女がどうなったか判らない以上、この件を一刻も早く解決して貰わなければ、エレンも危ないのだから。
データバンクから引き出した情報に拠ると、州の違う場所で起きた事件が一つに繋がったのは、少女達が、失踪前にある人物と接触していたことが判明したからのようだ。
その人物こそが、エーデルシュタイン家の主らしい。
少女達が消息を絶つまでの経緯も、酷似していた。まずは先日エレンにしたように、エーデルシュタイン家の女主人が少女を娘と勘違いしたように見せて連れ帰ろうとする。後日、母の非礼を詫びたいという名目で、若い男が少女を訪ね、幾度か接触を経た後に少女と共に姿を消していた。
ティオゲネスが注目したのは、少女達の容姿だった。
顔形はよく見れば皆違うのだが、どことなく似た感じだ。だが、何より目を引いたのは、髪と目の色だった。
皆、淡い栗色の髪と、若草色の瞳を持っている。――エレンと、同じように。
ティオゲネスの中で、あの日古風な服装をしてエレンを連れ去ろうとした婦人に感じた、妙な違和感が符合する。パズルのピースが、カチリとはまる感覚。
そこから沸き上がる焦燥感に急き立てられそうになるのを理性で押さえる。
まだ、判断する為のピースは足りない。
逸る思いでパソコンのキーボードに指を走らせたが、肝心のエーデルシュタイン家については殆ど情報を拾えなかった。
当然と言えば当然だ。
犯罪の常習一家とか、古くからの由緒ある家柄等でない限り、いくら金持ちとは言え、ネット上に情報が落ちている訳がない。アンダーネットでも結果は同じだった。
ただ、一ヶ月前までの事件から推察するに、テア・ヴィレヂか、トラレス・タウンの三キロ圏内に住所があることは確かだ。
ティオゲネスはテア・ヴィレヂとトラレス・タウン近郊の役所のシステムに侵入して、エーデルシュタイン家の住所を探し出した。同姓の家もあったが、ごく最近――このひと月以内に、最後の事件のあったアールノから転居して来た『エーデルシュタイン家』はたった一件だけだった。
そうして今、ティオゲネスは常緑樹の葉の茂った植え込みの陰に身を潜めている。
しかし、こうしてエーデルシュタイン家に監視に来るのは、実は初めてではない。この家の住所まで調べ上げるのに、二日と掛かっていないのだ。
通い始めてもう五日ばかりになるが、特に目立った動きはない。時折、あの古風な格好をした女性か、あの時は見掛けなかった二十代後半の若い男性が、あのプレストンと呼ばれた初老の男を連れて自家用車で町中へ出掛けている。
買い出しにしては回数が多く、あっちはあっちで何をしているのか、気味が悪いような気もした。もう一人でも仲間がいれば、一人は見張りでもう一人は尾行と振り分けることができるのだが、生憎ティオゲネスの身体は一つしかないので、結局は隠れ場所で様子を伺うことに終始した。
金持ちの家と言っても、所詮田舎の家。セキュリティも甘いと見て踏み込んでもよかった。
トラレス・タウンの店でさえ、まだ万引き防止タグの導入がされていないのだ。
都会並にセキュリティが完備されているとは考え辛かったが、迂闊に踏み込んで警報でも鳴ったら、次に忍び込むのが困難になる。
こうなると、都会で、セキュリティも万全な方が、案外潜り込むのは容易かも知れない。
ともかく、見張るだけでは埒が明かない。
一か八か、乗り込んで見るか――。
そう思いながら、ふと目を上げると、門の前に車が停車した。一週間前のあの日見た、レトロなデザインの車だ。
今日は青年の方が一人で出て行ったのだった、と思うともなしに脳裏で呟きながら車を注視していると、助手席から青年が降りた。運転しているのは、あの初老の男性なのだろう。
外へ出た青年は、運転席の側の後部に回ると、恭しくドアを開けた。中から出てきた人物を見て、ティオゲネスは思わず声を上げそうになったが、辛うじて唇を噛むような勢いで引き結んだ。
青年に案内されて、木戸を通っているのは、エレンだった。