Prologue
「あのー……」
「ああ、エレオノーレ……私のエレオノーレ……生きていたのね……お母様、どんなに心配したことか……」
ティオゲネスの目の前では、エレンにしがみついた見知らぬ女性がこう繰り返しておいおいと泣いている。
女性の年の頃は、四十を少し越したところだろうか。黒に近い茶色の髪を纏めて帽子の下にしまい、この田舎でも滅多にお目に掛かれないような、足までスッポリと隠れる古風なドレスを身に着けている。生地の色合いが、ややくすんだモスグリーンの所為か、下手をすると四十代よりも若干老け込んで見えた。
一方、抱き締められて困った顔をしているエレン=クラルヴァインは、若草色のぱっちりとした大きな瞳が印象的な、可愛らしい少女だ。その目元がやや幼い印象を与えるが、実年齢は十六歳である。柔らかそうな、淡い栗色の髪は緩いウェーブを描いて腰まで届いている。
その光景を見ながら、苦虫を噛み潰したような顔をしているのも、またひどく整った容貌の持ち主だった。
翡翠の瞳を縁取る形のよいアーモンド型の目元と、綺麗に通った鼻梁の下にある薄く引き締まった唇が、小振りな逆卵形の輪郭の中で絶妙な位置に納まっている。中性的な美貌は、どちらかと言えば女性寄りだったが、彼は歴とした少年だ。
ストレートの頭髪は、珍しい銀灰色で、今日はうなじよりもやや高い位置に纏まっているが、下ろせば肩胛骨の間辺りまで長さがある。
ティオゲネス=ウェザリーという名を持つその少年は、頭痛を覚えていた。
しかし、厳密に言えば、彼は朝から調子が悪かったという訳ではない。一日の始まりは、至って健康そのものだった。
ただ、今日の買い出し当番がエレンと、という時点で、何か嫌な予感が頭をよぎったのも事実だ。
『トラブル突進&吸引体質』のエレンが、いかんなくその本領を発揮したのは、買い出しの為に出て来たトラレスタウンに足を踏み入れて程なくだった。
今日は『吸引』の方か、などと冷静に分析している場合ではない。その果てに彼女の抱え込む面倒ごとは、最近ほぼ百パーセントの確率で、ティオゲネスが事態を収拾する羽目になっているのだ。しかも、事態がひと段落した時、ティオゲネスは身体のいずこかに傷を負い(傷の度合いはこの際問わない)、何故か同じ修羅場の渦中にいた筈の彼女は無傷、ということが大半なのである。毎度毎度、生きているのが不思議だと自分でも思う。組織にいた頃だって、これよりはマシだったと思えてしまうのは何故だろうか。いくら『暗殺者養成組織』で育ったからといっても、これはちょっとヒドい報いじゃないかと思わないと言えば嘘になる。しかもそれだとて、自分の意思ではない。不可抗力だ。
――といったことを頭に巡らせること、約三十秒。
ティオゲネスの嘆きを余所に、エレンは既に面倒ごとに肩まで浸かっている真っ最中だ。
彼女の名誉の為に言うなら、今日のところは、エレン自身の責任は一割にも満たない。
ことの始まりはと言えば、ほんの○・一秒余所見をしたエレンが、この婦人と衝突したことだ。だから、エレンにも責任があると言えばある。しかし、ぶつかったことを謝罪する為に顔を上げたエレンと目が合った途端、婦人は「エレオノーレ!」と叫んでエレンを抱き竦めたのだ。
それからそのまま時間が経過すること、およそ二十分。エレンが必死に人違いだと主張する声は、見事に婦人の耳を素通りしていくらしく、エレンを連れ帰ろうとする婦人と、婦人の腕から逃れようとするエレンの攻防が続いている訳である。
それを遠巻きに眺めている群衆にも気を留めることなく、婦人は自分の世界に埋没しているようだ。
「ああ、ごめんなさいね、エレオノーレ。貴女も疲れているのに。さ、早く帰りましょうね」
「だから、人違いですってば。私の名前はエレン=クラルヴァインで、両親はとっくに亡くなってるんです」
「どうしてそんな悲しい嘘を言うの? ああ、早くお母様が探しに来なかったから怒っているのね。でも、もう大丈夫よ。さあ、帰りましょう。今夜は家族三人で久し振りに過ごせるのね。嬉しいわ」
「そうじゃなくて……」
どんなに言葉を尽くしても聞いて貰えない無限ループに、遂にエレンは助けを求めるようにティオゲネスを見た。
ティオゲネスは、その翡翠の双眸を、やや軽蔑するように細めてエレンを一瞥した後、はあ、と溜息を吐いて、ようやく割って入ることにした。遅かれ早かれ、関わるのは避けられない運命なのだ。なら、早く介入して早く解決するに越したことはない。
「取り込み中悪いんだけど、邪魔するぜ」
「どなた? エレオノーレ、貴女のお友達?」
友人、なのだろうか、彼女は。
自問してしまうティオゲネスだったが、悠長に考え事をしている場合でもない。
「こいつは、エレンだよ。あんたの探してるエレオノーレとは別人だ」
婦人は一瞬、その焦げ茶色の瞳をキョトンと瞠ったかと思うと、宥めるような笑みを浮かべてティオゲネスを見た。
「この子は私の娘のエレオノーレよ。あなたのお友達のエレンさんとはよく似ているの? でも、ごめんなさい。私達、もう帰らなければならないの」
帰らなければならないのって。
そう言おうとするが、開いた口から言葉が出てこない。唖然とした。
婦人が返した言葉は、たった今、ティオゲネスが言ったことを鸚鵡返しにしただけだ。しかも、それを婦人は自覚していないらしい。
「さ、行きましょう、エレオノーレ。プレストン、車を」
「はい、奥様」
プレストンと呼ばれた初老の男性がナチュラルに口にした答えに、ティオゲネスは二度唖然と口を開けた。
『はい、奥様』じゃないだろう。普通はここで主を諫める場面じゃないか。
口には出さなかったが、即座にそうツッコミを入れてしまったのは、ティオゲネスだけではない。その場にいた全員――連れ去られそうになっているエレンを含む、トラレス・タウンのその通りを歩いていて偶然この珍(?)騒動に行き合ったギャラリー全部がそう思ったに違いなかった。
「ちょ、放して! 小母様、私はエレオノーレさんじゃないの、これから買い物をしないといけないし――」
「買い物ならお母様と一緒にしましょう? 車があるから沢山買えるわ」
「小母様っ……」
「『お母様』でしょう? エレオノーレ」
ニコリと微笑したその顔に、ティオゲネスはこの女性と出会ってから初めて、どこか薄ら寒いものを覚えた。
腕付くでどうにかしようと思えばいくらでもどうにかできるのは分かり切っているので、力で捩じ伏せられそうになった時のそれとは違う。
婦人の言動から、最初は何らかの原因で娘を失って、精神に異常を来した女性が、たまたま娘にそっくりなのであろうエレンと出会い、自分の娘と思い込んでいるだけだと思っていた。けれど、これは何かが違う。
ティオゲネスは、早々に彼女を『穏便に』説得する選択肢を放棄した。
「行くぞ、エレン」
「え、で、でも」
一方、自分が拉致され掛けているというのに、エレンの方はこのまま立ち去るのを躊躇した。
確かに、この見知らぬ婦人の娘と勘違いされるまま、彼女の家へ行くのは困る。かと言って、娘を失い、我を失ってしまっている気の毒な女性をこのまま見過ごすのも気が引ける。
大方、エレンの考えているのはこんなところだろう。恐らく、ティオゲネスが感じた違和感には全く気付いていない。
だが、切ると決めた時のティオゲネスは容赦がなかった。
婦人に腕を取られ、今しも彼女の(これまた古風な)自家用車に乗せられそうになっているエレンの空いた腕を強引に反対方向へ引っ張った。同時に、エレンの腕を握っている婦人の手首をもぎ離す。
不意の行動に、小さく悲鳴を上げる婦人に構うことなく、ティオゲネスはその手首を婦人の背後に捻り上げ、その身体を前方に軽く押しやった。
体術の心得のない人間相手なら、それだけでも充分な牽制になる。実際、婦人はたたらを踏んで、その場にヨロヨロと崩れ落ちた。
「お、奥様! 君、何を!」
「走れ!」
初老の男性が抗議を始めるのには耳を貸さず、エレンを鋭く促すと、彼女の手を引いて走り出す。
買い出しに来た筈だが、最早買い出しどころではない。この場に居続けると、本当にエレンが連れ去られる確率が高かった。ティオゲネスは、やや後ろ髪を引かれているらしいエレンを急かしながら、教会への道を逆走し始めた。
これで終わるならいい。しかし、このまま事態が収束するとは、どうしても思えない。
募る嫌な予感に、ティオゲネスは今日二度目の溜息を吐いて形のよい眉を顰めた。
***
「あ、母さん。お帰り」
ノックの後、自室の扉を開けて顔を見せた女性に、部屋の奥に設えられた執務机に向かっていた青年が顔を上げる。
焦げ茶色の髪の毛は、前部分が向かって右斜めに流れ、後ろ部分はうなじの上辺りで短く切り揃えられている。切れ長の目元に縁取られた、焦げ茶色の瞳が、彼と同じ目を持つ女性に向けられた。白いワイシャツと紺のスラックスという上下を身に着けた青年は、柔らかく微笑んで母親を見つめる。
「首尾はどうだった」
「上々よ。でも、ごめんなさい。連れて帰ることはできなくて」
「いいんだ、急がなくても。で、今度は?」
「完璧ね。手術をしなくても、あの子はそっくりよ。今度こそ、エレオノーレさんは貴方の元へ戻って来るわ」
「そう」
クス、と小さく笑って、青年は立ち上がる。
静寂に支配された室内に、コツ、コツ、と小気味いい靴音が響いた。やがて、青年は壁に掛けられた一枚の肖像画の前で立ち止まって、その絵を見上げる。
「今度こそ、君に会えるんだね……エレオノーレ」
愛おしげに話しかけた肖像の主は、柔らかな栗色の髪を背に流し、若草色の瞳を持つ、美しい少女だった。