反抗 2
「先生、何が目的か知りませんが、私にばかり難しい問題を解かせるのはやめていただけませんか」
溜りきったフラストレーションを吐き出すように夏樹はぶちまける。その形相は鬼にも似て、彼女の可憐で豊潤な魅力とは大きく距離を隔てている。
「もっと平均的な問題をクラスメート全員で分かち合いながら授業を進めていく。それが理想的な授業のあり方ではないでしょうか」
強力に生徒から叱咤されて、上林は冷たい瞳で夏樹の話を聴いている。彼女は、最後にこう痛烈に指摘する。
「先生の授業は隔たりがあります。偏っているといっていいと思います。一人の生徒を『いびる』よりも他に有意義な時間の使い方はあるはずです。生意気を言うようですが私からは以上です。それでは」
そう言い残して夏樹が席に戻ろうとした瞬間、寡黙、だんまりを決め込んでいた上林が大げさに拍手をする。彼は生徒の前で逆に恥をかかされ、ある種の「逆襲」に及んだようだ。
「スゴイ、スゴイ。素晴らしい。夏樹大先生は。学力、成績優秀なだけでなく、教師を嗜めるほどの教育理念もお持ちらしい。参った、参った」
上林の皮肉とも嫌味ともつかない言葉に、夏樹は足を止めて、耳を傾ける。上林には背を向けたまま。上林のお喋りは終わらない。
「私みたいな偏屈教師は頭も上がらないよ。ご立派、ご立派」
夏樹は何とか聞き流して、席に戻ろうとしたが、最後の上林の言葉でついに「キレる」。上林が最後に添えたこの言葉に。
「これで素行が良ければね」
次の瞬間、夏樹はものすごい勢いで上林に振り返る。彼女の瞳は、爛々と輝き、上林を睨み付ける視線は、上林の一種の浅ましさを一刀両断し、貫くようだった。夏樹は彼に罵声を浴びせかける。
「てめぇ! 何考えてんのかマジ分かんねぇ! 私に嫌がらせして何が楽しいわけ!? 出来る子供に嫉妬してんの!? だとしたらマジサイテー!!」
奔放で、教師に臆することもない夏樹。そんな彼女でも教師にこうも激しく言い返したのは初めてだった。そのせいか、さすがの上林も上体を少し後ろに逸らし、驚いている。夏樹はなおも上林を罵る。
「偏屈教師って自分で分かってんなら、改めろっての! あんたみたいな奴がいるから生徒は荒れんだよ! 自覚症状ないのか!? あるなら少しはマトモな教師になれっての! この! バカ!」
激しい身振りを交えてそう言い終えると、夏樹は教室を飛び出していく。香月は慌てて席を立ち、夏樹を追い掛ける。騒めく教室。上林は騒ぎを収拾するのに必死だ。なんとか平静を取り繕って生徒を鎮めるだけだ。
「あー、あー! 静かに。静かにしなさい! みんな! 一人サボりが出ただけだ。授業を続ける」
俊哉は上林も少しはこれで懲りただろうと達観しながら、彼の様子を顎肘をついて、見ていた。
校舎から駆け降り、ひたすらどこへ向かうのでもなく、走り抜ける夏樹。その夏樹を追いかける香月。
香月は、歩みを止めた夏樹に校舎のグラウンドでやっとのことで追いつく。香月は必死の思いで夏樹の名前を呼ぶ。
「夏樹! 夏樹ってば!」
夏樹の手を引き留めて、彼女の心の内、胸の内を聞こうとする香月。だがその手を振り解き、払いのけて夏樹は叫ぶ。
「もういいってば! ほっといてよ! 私のことは!」
「だって!」
香月は懸命に夏樹の心に歩み寄ろうとする。だがそれを受け入れる様子は夏樹には毛頭ない。香月を拒んで、苛立ちさえ見せるほどだ。
香月は、ここで夏樹を見放せば、彼女の心は永遠に、自分から、そしてみんなから離れてしまう。そう敏感に感じ取っていた。
夏樹は香月を遠ざけるように、香月の右手を振り払う。
「香月! 何よ、あんた! 引っ越してきて半月ちょっとで私と友達にでもなったつもり!? 友達じゃないし! 仲良しでもないし! ほっといてよ!」
夏樹のその言葉には、さすがの香月も何も返せない。「何の! 私はこれでもウルトラハイパー乙女だぜ!」などと冗談を言う気力ももちろんない。
香月はこう口から零して立ち尽くすだけだった。
「あ、あぁ」
夏樹は先の激昂の言葉を残して、一度も校舎を、そして香月にさえも振り返らずに学校を後にしたのだった。
それから一週間、夏樹は学校に来なかった。欠席理由は「風邪」だった。だがそれが「嘘」であることは当然、香月には分かっていた。香月は夏樹のことが気掛かりで仕様がない。
彼女はこのまま学校に来なくなるのだろうか。誰にも心を開かずに、誰とも心通わせることもなく、強く、高く築き上げた自分自身の城に、彼女は立て籠もるつもりなのだろうかと。
香月は右肘をついて切なげに教室の窓の外を眺める。空には白い鳥が群れを成して飛んでいく。その鳥の群れの調和は、人間社会が時折みせる不調和と対比を成している。香月は軽く吐息混じりに言葉を漏らすしかない。
「どうしよう」
憂いた様子の香月に気が付いたのか、朱美が香月の顔を覗き込む。
「香月。どうしたの? 冴えない顔して」
「あっ、朱美。う、ううん。大丈夫、大丈夫。平気、平気。何も、ないよ。何も」
朱美は、その黒く丸い瞳が美しい目をやや見開いて、核心を突く。
「嘘。夏樹のことでしょ?」
香月の上滑りな嘘など、人の心を見透かすのが得意な朱美には、通じるわけもない。香月は頷く。
「う、うん」
朱美には彼女特有の懐の深さ、人間味の大きさのようなものがある。朱美は右手を大きく広げて、香月に勧める。
「行ってあげたら? 彼女のおウチ」
さすがの「年がら年中元旦娘」を自認する香月も、そこは少し気が引ける。とりあえずは正直に胸の内を明かす。
「でも、私なんかじゃ」
朱美はためらう香月を後押しする。
「夏樹、ああいう子だから、友達が意外に少ないし。私が言うのも変だけど、喜ぶと思うよ。彼女」
香月はその言葉を聞いてしばらく考え込んだあと、朱美の言葉に励まされたかのように頷く。
「う、うん。そうだよね! きっと」
朱美は香月の肩を軽く二度ほど叩いて席につく。こうなったら香月の気合いの入りようは十分だ。香月は髪を思いっきり、両手でかき上げると声をあげる。
「よし!!」