反抗 1
香月が転入して半月ばかり。まだ春の陽気が仄かに残る五月下旬。穏やかな陽射しが柔らかく差し込む職員室では、東と高橋が休憩をしている。
東はお茶を煎れてご機嫌だ。少し体を浮かせたかと思うと指揮者のようなポーズを取る。
「高橋先生。転入してきた子。名前。名前なんて言いましたっけ」
高橋は相変わらず飄々としている。財布を忘れた高橋は、東に借りたお金で買った缶コーヒーを飲んでいる。
「香月。高樹香月ですよ」
「あの子。クラスに馴染んでなかなか上手くやってるみたいじゃないですか。お、茶柱だ」
東は、湯呑に注がれた、濃厚な茶葉の香りを漂わせる緑茶に、茶柱を見つけて喜色満面だ。
「この間も。澤村って生徒いるでしょう」
「ああ。あの絵が抜群に上手い子」
「あの子と仲良くお喋りしながら廊下歩いてましたよ」
「ほぉ」
高橋はそう相槌を打って目を細める。東は緑茶に息を吹けかけて、冷ますと一口喉に流し込む。
「あの澤村って子。担任の高橋先生ならご存知の通り、なかなか心を開かないので先生達の間でも有名だったんですよ」
緑茶をチビリチビリと味わうと、渇いた喉をも潤す東。
「その子を落城、いやこれでは言葉が悪いな。その子と仲良く出来てるなんて大したものじゃないですか」
東の話を聴いた高橋は、コーヒーを飲み終えると、嬉しそうに机に肘をついた。茶柱を愛おしげに眺める東はなおも話をする。
「高橋先生の話では、あの今村。今村夏樹という問題児とも仲良くやってるということだし」
「問題児」というやや険と棘のある言葉、形容詞を、高橋はそれはやんわりと否定する。
「今村は問題児じゃありませんよ。ただ、人よりませてて勉強が出来る分、自分を持て余しているだけです」
高橋の言葉に、東も何やら興味津々、感心しているようだ。
「自分を持て余す。なるほど」
「十代っていうのは色々と白黒つけたがる時期でもありますからね。大変ですよ。本当はアバウトでもいいんですがね」
「白黒。なるほどねぇ」
高橋の教師然とした話を聴いて、高橋より三つ年下の東は頷くしかない。だが東は生徒達の事情を汲み取る、高橋の話の終わりに、肝となる部分を抑えるのを忘れなかった。
「モカブレンド。130円。ちゃんと返してくださいね」
「……あい」
高橋はしばし言葉を失い、黙するしかなかった。職員室の窓からは朝の清掃に励む生徒達の姿が見えている。それはとても貴重で、代えることの出来ない大切な日常の断片なのだが、生徒達は多分それに気づかない。
高橋はポケットから取り出した手帳に、東から今聞いた、香月達の話をスラスラとメモすると、ぼんやりと胸に染み入るようにそう思っていた。
夏樹は好き嫌いが激しい。人にしても、食べ物にしても、聴く音楽にしても、取り組む科目にしても。特に教科は受け持つ先生によって「好き」「嫌い」がはっきり分かれるので、夏樹自身困っていた。
夏樹が一番嫌いな科目は「物理」だった。
それは物理の教師、上林に理由があった。上林は、夏樹が物理を得意なのをいいことに、難題ばかりを解くように彼女に求めてくるからだ。
見方を変えれば上林は「嫌がらせ」を夏樹にしてくる。
夏樹はその「嫌がらせ」に過敏に反応し、物理が大っ嫌いになっていた。
「いつか恥をかかせやろう」。上林の狙いと意図がそこにあると、夏樹は半ば決めつけた。
その日の五時限目。肝心の物理が始まる。
香月は授業の間中、夏樹がピリピリしているのが手に取るように分かった。
香月が転入して物理の授業はまだ十回もない。だが夏樹が物理の時間が来るたびに苛立ち、神経質になっているのが香月には分かった。
彼女は試しに夏樹に訊いてみる。
「物理。嫌いなの? 夏樹。いつも少し調子悪そうだけど」
夏樹は香月の質問を振り払うように言い放つ。
「うるさいわね! あんたには関係ないでしょ!」
「う、うん」
香月は、ヒステリックに質問を跳ねつける夏樹を前にして黙り込むしかない。
香月にすれば、夏樹は不得意科目のない生徒だ。全教科平均点を上がったり、下がったりの香月には少しばかり羨ましい存在でもある。
事実、これまで夏樹は、物理の時間には、上林の出す超難題をスラスラと解いていたのだ。
「夏樹?」 膝を組んで小刻みに、神経質に震える夏樹を見て、今一度香月は機嫌をうかがう。だが夏樹は「ほっといて」「黙ってて」の一点張りだ。
すると香月と夏樹の話し声を聞き咎めたのか、かの問題教師、上林が「おい、そこうるさいぞ」と二人を注意する。香月は姿勢をピンっと正す。
「はい。すみません」
夏樹は顔をうつ伏せて、両掌を机の下で激しく擦り合わせて呟く。
「上林ー」
香月は夏樹が気掛かりでならなかったが、彼女を刺激しないように授業に集中するしかない。
唇がやや紫がかる夏樹を、香月が横目でチラリ、チラリと視線をやっていたその時、上林が相当難しい問題を黒板に書き連ねる。
「と、いう風にこの法則は応用出来るので、頭のいい子ならスラスラ解けると思う」
静まり返る、というより黙り込むクラスメート達。あるいは「また始まった」とでもいう諦めの思いだろうか。重たい空気が教室を包む。
上林は意味ありげに顎に手をあてがい考え込む。
「じゃあこの問題は誰に解いてもらおうかな。やっぱりクラス一、頭のいい子じゃないとな」
そうわざわざハードルを上げる上林が指名したのはやはり夏樹だった。
「今村。お前、これ解いてみろ」
「やっぱりか」。沈み込んだ空気がクラス中を覆う。上林の夏樹への「嫌がらせ」が始まったと、クラスメート達は感じる。
だが指名された当の夏樹は、毅然とした物言いでそれを拒む。
「上林先生。私、その問題解けません。どうか他の生徒を指名してやってください」
上林は悪びれる様子もない。
「何言ってる。この問題は去年の進学校の受験で出た一番難しい問題だ。お前にしか解けないだろう」
「お前って……」
ついに堪忍袋の緒が切れたのか、夏樹はそう一言呟くと意を決したように、椅子から立ち上がる。
香月は上林と夏樹のやり取りを見て、夏樹が物理が始まるごとに苛立っていた理由が、ようやくにして分かった。
香月は夏樹を気遣い、背中にそっと触れる。
「大丈夫? 夏樹」
すげなく夏樹は香月の手を払いのける。
「大丈夫。あんな問題、簡単だから」
夏樹は射抜くように上林を見つめると小声で激する。
「上林」
スタスタと早足で歩いて教壇に立った夏樹は、黒板に書かれた問題を仰ぎ見る。
確かに夏樹にとっては簡単、やさしい問題だ。ただ普通の学力の子には戸惑う問題だろう。それを自分に「解け」と言う。「何を考えているのだろう。この教師は」という思いが彼女の頭をよぎる。
だが彼女は一度大きく息を吸い込むと、滑らかな筆致でスラスラと問題を解いていく。
安心するクラスメート達。「やった」と小さな声で呟く子もいる。夏樹は一気に解答を書き上げると上林を睨み付ける。