虹を越えて 2
香月は戦々恐々としてあけみの綺麗な横顔を見つめる。
「あ、けみさん? もうすぐ授業、始まりますよ。どうしたんですか?」
あけみは一度香月に視線をやるとすぐに関心を失う。彼女は諸行無常を感じさせる、黒板の絵描きに没頭するのが何よりの関心事のようだ。
彼女の黒板に絵を描く手は休まることがない。
「別に。体育の授業なんてそんなに興味ないし」
香月は控えめにご意見を申しあげる。
「でも先生待ってますよ。それより」
そこで香月の興味の一端は、またあけみの絵に移ったようだ。香月はあらためてあけみの落書きを覗き込む。
あけみが黒板に描き出した、ワンダフルワールド。それは朝焼けの綺麗な街並みに大きな虹が掛かる風景画だった。
香月は感嘆して、両手を叩くとため息交じりに零す。
「うわぁ! ホンットに綺麗! この前の白雪姫も凄かったけどそれ以上ね」
香月は目の前に絵を描いた当の本人が立っているのも忘れて興奮しきりだ。グッと握り拳を握りしめる。
だがあけみの言葉は素っ気ない。香月の最大級、ウルトラスーパーメガトン級の賛辞、褒め言葉に大した反応も見せない。
「そう、ありがとう」
あけみは素っ気なく応えると、少しその切れ長の瞳を香月に向けて、逆に香月へ訊き返す。
「でも。どうしてあなた、私の名前を知ってるの? 『これから友達になりましょう。ヨロシクね』なんて自己紹介でもしあったっけ」
夏樹には及ばないものの、その独特の人を圧倒する存在感に、香月は気圧される。
「い、いや、それは」
香月は慌てて取り繕う。あけみに澄ました瞳で見据えられた香月は、両手を顔の前で交差させる。
「この前の白雪姫の絵にサインがしてあったから……!」
「あぁ、そうなの」。そう応えるあけみはどこまでも淡々としている。彼女の表情には、更には感情にでさえもあまり起伏がない。
香月は二人の間の悪さを気遣うように、彼女に勧める。
「あけみさん、美術部にでも入ってるの? 入ってないんだったら絶対入った方がいいよ! 友達もたくさん出来るし!」
あけみは相変わらず素っ気ない。香月の提案にまるで興味がなさそうだ。チョークをクルクルと手元で回すと、ポンッと宙に放り投げてそれを手に受け取る。
「美術部。入ってない。一人で描いてた方が気楽だし。それに」
「それに?」
前のめりになって、答えを待つ香月に投げられた言葉は、香月にはショッキングなものだった。
「友達なんていても煩わしいだけだから」
「あっ……」
あけみの返事に香月はしばらく言葉を失う。
「友達なんていらない」、「煩わしいだけ」。そういう価値観は、香月にはひどく乾いていて寂しいものに思えた。香月は何とか自分の気持ちをあけみに伝えたかったが言葉にならない。
「あのっ! あのっ!」と言って香月は俯くだけだ。香月は、友達が多ければ多いほどいいとシンプルに思っている。だがそれとは全く正反対のあけみの考え。
対極にある二人。教室の静けさが、やけに香月の胸に疼く。
それでも香月は、この女の子、「あけみ」と距離を縮めたい気持ちで一杯だった。頭の中が真っ白になっていた香月だが、ここで無意識にぽつりと言葉が零れ落ちる。
それは宝石のように美しく、煌びやかな響きを伴っていた。
「この絵。タイトルは『虹を越えて』だね。虹が、綺麗だから」
「……」
あけみは、そう香月に絵を名付けられて、しばらく黙り込んだ。あけみの胸に香月の想いが、そのタイトルを通して、少しでも届いたのだろうか。
しばらくの沈黙。誰もいない教室に差し込む陽射しがやけに眩しい。陽射しはあけみと香月のシルエット、そして二人の透明感溢れる存在感を、より鮮やかに際立たせている。あけみは朴訥と答える。
「別に。タイトルなんて、決めてないから。それに」
あけみが心を開きかけた、二人の距離が少しだが、ほんの少しだが縮まった。そう香月が感じた瞬間、けたたましく教室の扉を開ける音が響く。
扉を開けたのは俊哉だった。俊哉は教室の香月とあけみを見咎めると、血相を変えて二人に呼びかける。
「何やってんだ! 二人とも! 体教の橋本が怒ってんぞ! 早く準備して……!」
そこまで大声をあげて俊哉は言葉を止める。体操着姿の女の子が二人、誰もいない教室で話をしている。静かに向い合い、言葉も交わさない。淡く仄かな教室の灯。揺れる二人のシルエット。
そのシチュエーションが俊哉の妄想力に火をつけたらしい。
「あら、なぁに? 二人とも体操着姿で、誰もいない教室で二人っきり。何かあるのかな? 百合的な何か? 『同性愛のぬめぬめ』とかそんな感じぃ? 二人して楽しんでるのぉ?」
「なっ!?」
香月が思わず顔をしかめるも、俊哉の妄想はやまない。香月とあけみをからかい半分に下衆、外道な物言いをあえてしてみせる。
「ひょっとして二人してあんなことや、こんなこと。それにそんなことまでやってんたんじゃないのぉ!? なんて健全な学園生活でございましょ! それにそれに……!」
そうやって一人身もだえする俊哉。その彼に歩み寄る人影があった。もちろんのこと、それは香月だ。
香月はつかつかと俊哉に歩み寄り、黒板消しを至近距離から俊哉の顔面向かって投げつけた。こう言葉を添えて。
「虹を! 越えていけ!」
無駄に反射神経のいい俊哉も、間近からの一撃はさすがにかわせず、黒板消しを顔面に食らう。
「ほふぅ!!!」
額を抑えて痛がる俊哉に、香月が右手を腰にあてて、まくし立てる。勢い余って俊哉を下の名前で呼んだほどだ。
「俊哉君!? あなたデリカシーってのはないの!? あけみさんは繊細なんだよ!? そんな冗談通じるわけないっしょ! 夏樹の言う通りだった! 裏切られてがっかりだわ! 何考えてんの!? あんた!」
俊哉は額に手をあてがいながらも懲りずに答える。
「何って。素敵で美しい二人がワルイ」
その悪びれた様子のない冗談を耳にして、呆れた香月はもう一度俊哉の顔に黒板消しを投げつける。
「ほふぅ!」
半分笑みを浮かべて、またもバランスを崩す俊哉。香月もこの一連のやり取りが面白かったのか、少し笑っている。
「あんたいい加減にしなさいよ! 女の子の前ではもう少し!」
だが、そう怒鳴りつける香月の右手を握る手があった。あけみの手だ。香月が懸命に自分を庇ってくれたことで、あけみは心を、より開いたようだ。
あけみは微笑んで香月にこう呼びかける。
「いいよ。こういう子は。ほっとこう」
そう言って微笑むと、あけみは軽やかに香月の手を連れて教室を駆け出していく。少し開いた教室の窓からは涼しげな風が吹き込んでいる。
教室で倒れ伏した俊哉だけには、虚しく寒風が浴びせられる。
教室を飛び出したあけみはこう香月に語り掛ける。満面の笑みを浮かべて。
「あの絵、本当に『虹を越えて』だね。タイトル」
そのあけみの言葉を聞いた香月の表情は、みるみるうちに明るくなり、自分の気持ちがあけみに通じたのを確かめると、声をあげる。
「そうだね! ありがとう!」
あけみは、その時初めて香月に自己紹介をしてみせる。それは心を閉ざしがちで、内省的になりがちなあけみにとっては、とても大きな一歩だった。あけみは右目をうっすらと見開く。
「私、澤村朱美。朱に美で朱美。よろしくね」
名前を正確に教えてもらった香月は弾けるように、心躍らせる。香月の決まり文句、得意技を調子に乗って口にしかけたほどだった。
「私、高樹香月! モットーは年がら年中お正月……!」
「それは聴いた」
朱美は、そう言って人差し指で香月の口元を抑えると、「アハハ」と笑った。それは朱美が初めて香月に見せた、彼女、心からの笑顔だった。
朱美と香月の二人は軽やかに手をつなぎ体育館へと駆けていく。二人の後ろ姿は煌びやかな色彩を散りばめていく。淡く鈍い痛みを俊哉の額に残して。俊哉は零す。
「ちぇっ、少しは感謝しろよな。何だかんだ言って、二人の友情結んでやったんだからさ」
こうして香月にとって、そして朱美にとっても初めての、心を許せる親友が出来たのだった。
後日談。俊哉に誘われてタバスコロシアンに挑んだ香月は、見事俊哉を撃破した。タバスコの辛味に悶絶し、のたうち回る俊哉。神がそんな彼に祝福を与えるのは果たしていつの日なのか。ひたすらアーメンである。