虹を越えて 1
香月転入二日目。香月は持ち前の人懐っこさで、今村夏樹のことを下の名前で呼べるようには何とかなっていた。もっとも夏樹の方は、自分からそう勧めたのにも関わらず、香月に「夏樹」と呼ばれるのを余り心地よくは思っていないようだった。
香月のクラス。3年A組では男子達の悪ふざけと冗談が度を越して過ぎている。彼らが興じるのはタバスコロシアンだ。
それは普通のトマトジュースとタバスコジュースの中から一つを選び、タバスコジュースを飲んだ男は身もだえし、悶絶する、というただそれだけのゲームだった。
今し方、健がタバスコジュースを引き当てたらしく、もんどりうって、水飲み場へと駆けこんでいく。
「おえっぷ! うげっぷ!」
えづいてタバスコを吐き出す健に俊哉は、二人の間柄だからこそ許される悪態をつく。
「ハッハッハ。二人の美人姉妹に囲まれて、のほほんと生きているから、こんな仕打ちに遭うのだ」
「うぶへぇ」
タバスコをうがいで洗い流した健はを口元を拭い言い返した。
3年A組の男子達の悪ふざけのモットーは、来るもの拒まず、去るもの追わずで、嫌がる生徒を巻き込んだり、引き込んだりしないのが、特徴であり美点だった。
男子達の笑い声は止まらず、彼らは再びタバスコロシアンに興じる。その中心にいるのはいつも俊哉だ。彼は身振り手振りを交えて冗談を口にし、仲間を楽しませている。
香月は遠くからその様子を見つめ、俊哉に好奇心一杯だ。もちろんタバスコロシアンに参加するつもりなどさらさらなかったが。香月は、俊哉に興味を惹かれ、夏樹へ声を掛ける。
夏樹は男子達の悪ふざけに、ただただ呆れ、無視を決め込むと、予習に励んでいる。香月はそんな彼女の肩を、右手で軽く揺さぶって訊く。
「ねぇ、夏樹、夏樹」
「何よ? 香月」
夏樹はただでさえ俊哉達の喧騒に、集中力を削がれ、苛立っているのに、香月に話しかけられて更に不快げだ。
香月は、クラスのムードメ―カーにも映る俊哉について、夏樹に尋ねる。
「ねぇ。みんなの中心になっている、あの男の子、名前はなんて言うの」
夏樹は冷たく、それは蔑視するかのように、虫けらを扱うかのように、俊哉に一瞥をくれると、すげなく答える。
「ああー。あいつ。西島よ。西島俊哉。バカ騒ぎだけが得意な男。保健室の桜井先生のスカートをめくって、思いっきり引っぱたかれた大バカよ」
夏樹は、著しく俊哉の評価を貶めたつもりだったが、香月はむしろ逆に、俊哉へますます関心を引かれたようだ。
「へぇー。面白い! そんなことがあったんだ!」
香月の感心のしように、夏樹は悪い予感がしたのか、眉をひそめて、念のために釘を刺す。
「変にあいつへ期待しない方がいいわよ。あの俊哉・大バカ・西島には。期待を裏切られること請け合いよ」
そう諭されても香月の好奇心と、ある種の好意はやみそうにない。
「そうなの? でも仲間が一杯いる男の子っていいと思わない?」
香月の無垢で素朴な感想を前に、夏樹はシャープペンを指先で回して応える。さすがの夏樹も、香月の言葉に少しは一理あると思ったのか。
「ん、まぁ。それはね」
俊哉達のバカ騒ぎは続き、悲劇的なことにタバスコジュースの犠牲者が次々と増えていく。まさに「真実、過酷な真実byダントン」であった。意味不明ではあるが。
やがて授業は三時限目を迎える。三時限目は体育だ。体育館で準備体操でもしているはずの香月だったが、やはりそれは香月のこと。もちろんそうはならなかった。
彼女は体育シューズを履き忘れ、裸足で教室へと駆け戻っていたのだ。
清閑とした廊下に、香月の足音が響いていく。彼女は前のめりになりながら走る、走る。
「んもぅ! ホンットにどこまでマヌケなの!? 私は! 履いてるか履いてないかくらい気がつくでしょうに!」
香月は3年A組の扉を、その言葉の勢いそのままに、横開きに開く。するとそこには体操着に着替えた「彼女」が一人ポツンと教室に残っていた。「彼女」はまたも黒板にチョークで落書きをしている。そう。「彼女」。あけみだ。
「またあの子。あけみちゃんだ」
香月はぽつりとそう零し、蟹歩きでそっとあけみの傍に近づく。香月はあけみとお近づきになりたい一心でもあったのだが、もちろんあけみの落書き、というよりイラスト、もとい作品をご拝見したいとの欲求もあった。