転入 3
今村の射抜くような視線を浴びながら、香月は自分の座席に向かう。今村が醸し出す特有の緊張感にクラス中も息を飲む。
香月は無事、獲物を狙うかのような今村の視線と、攻撃的姿勢を交わせるのか? そうクラス中が香月に注目した瞬間、今村の隣を通り抜けようとした香月は、大きく体のバランスを崩して転んでしまう。
今村がわざと足を出して彼女を転ばせたのだ。香月を気にかける声や、今村を苛むような声で溢れ返る。
今村は、そんな教室の不穏な空気には一切構わずに、悪戯っぽい笑みを浮かべて香月に言い放つ。
「ゴッメーン! 大丈夫? 足元が脆いのも考えものよね。気をつけなくっちゃ」
制服に少しついた埃を、香月は手で払い落すと、気を持ち直す。
「だ、大丈夫です。ふつつかものですがどぞよろしく」
今村は手を差し伸べて、香月を彼女の席に座らせる。香月は胸の内で、「意地悪だ」「いじめっ子だ」と驚愕の声をあげながらも、直感でこの子は悪い人ではないと思ってもいた。
香月が無事着席し、あらためてホームルームが始まると、今村が香月に握手を求めてくる。その表情は挑発するようで、どこか嘲弄的でもある。香月は若干怖気づきながらも、今村の言葉に耳を傾ける。
「さっきの自己紹介良かったんじゃない? 面白かったよ。どうせ寝ずに考えたんでしょ?」
「なぜそれを?」驚愕の二段重ねに襲われた香月は、今村の勘の鋭さに今一度驚く。
寝ずに考えた。それは図星、見事的中だったのだ。香月はなるべく自分の戸惑う心情を悟られないように、今村の握手に笑顔で応じる。だが若干引きつってはいた。
今村は右眉を軽く吊り上げて、長い髪の毛を掻き上げると自己紹介する。
「私、今村夏樹。夏樹って呼んでいいよ。自分でいうのもなんだけど学業優秀。スポーツ万能。分からないことがあったら何でも訊いてね。よろしく。香月ちゃん」
香月は「ちゃん」呼ばわりされても、その険のある物言いを即行忘れる。香月は、嫌なことはイの一番で忘れるタイプなのだ。
香月はようやく自然体の笑みを浮かべて、夏樹に応える。
「よろしく。夏樹さん。いや夏樹」
「はぁい」
そう言葉を返す夏樹は、はたから見れば妙に嫌味な女だが、香月はそれが全く気にならなかった。香月は人の短所よりも長所の方に目が行く人だからだ。
そして何よりも香月は、「自己紹介」という一つの仕事、ミッションをやり遂げた達成感で満ち満ちてもいたのだから。
昼休みになると、香月は学校の屋上で、一人、大の字で寝ころぶ。空は青々として、白い雲がゆったりと動いている。
青い空と白い雲。悠遠の時。琉球の時、沖縄へようこそ。リゾートはぜひ沖縄へ。
そんなキャッチフレーズをぼんやり勝手に創作しながら、香月は誰に言うでもなく一人反省会を始める。
「ちょっと前もって考えた自己紹介が長すぎたかな。ゼロの話もしたかったんだけど」
香月は大の字の体をぐるりと回転させ、うつ伏せになる。
「でも肝は押さえたし、クラスの子達にもウケも良かったみたいだし。これで良しとしますか!」
香月は完全なる自給自足生活、もとい反省会を終えると、ふと夏樹の顔を思い出す。
「あの夏樹って子。ちょっと怖いな。やっていけるかな」
濁りのない雲は相も変わらず、ゆったりと透き通る空を流れ、香月の転入初日は終わろうとしていた。
ほんのりと暖かい陽気が続く下校時。帰りがけの香月は、課題のプリントを教室に忘れていることに気付く。慌てて教室へ戻る香月は、学校の階段を駆け登る。
「もう! ホンットにこういうとこ抜けてんだから!」
香月はほとんど人けのなくなった廊下を走り抜けて、3年A組の教室に向かう。扉を勢いよく開けると、そこにはショートボブの髪型をした静かな佇まいの女の子が一人立っていた。
腕が細く長くスラリと伸びた彼女は、それこそ童話の絵から抜け出してきたような澄みきった美しさがあった。透明感のある魅力を散りばめたその女の子は、黒板にチョークで落書きをしている。
彼女は香月に気づいたのか、気づいていないのか、それでも黙々と落書きを続けている。
香月は忍び足で、その女の子に近づくと、絵の中身が気になったので恐る恐る黒板の絵を覗きこむ。
するとそこには白雪姫と七人の小人達の絵が描かれていた。可憐な白雪姫を取り囲んで、愉快げに小躍りする小人達。その絵は精緻で軽やかだ。
絵を描いた彼女は相当な腕前らしい。デッサンの技能、技術は飛び抜けている。
香月が絵を覗き込んで、少し飛び上がったのにも関わらず、その子は絵を描く手を休めもしない。香月はそのきめ細かい描写を目にして、思わず声をあげる。
「うわぉ! これあなたが描いたの? スッゴイ上手じゃん!」
その女の子は、表情一つ変えずに、香月を一瞥すると冷めた調子で言葉を返してくる。
「ああ、あなた。今朝の自己紹介で騒がしかった子ね」
「あっ。は、はい。その節はどうも」
香月は恥ずかし紛れに少し頭を掻くと、また一転、表情を変化させて、彼女を後押しする。興奮の余り、その子の背中を両手で触れてしまったほどだ。
「これならすぐにでもプロになれるよ! この絵、プロ級の腕前だよ!」
香月の上気し、興奮した口振りにも、彼女は少しも動じることはない。ただ一言こう、自分の絵に添えるだけだった。
「別に。これぐらい描ける子、ざらにいるし」
「そ、そうなの!? でも! だって! だって!」
若干歓喜の余り、そう取り乱す香月の言葉を、その子はあっさりと無視して帰り支度を始める。
静謐な教室にて、品のいい佇まいで教材をバッグに仕舞うその子の姿は、それは艶があり、雅やかだった。
「その絵、気に入ったんならしばらく眺めてていいよ。で、そのあと消しといて」
そう素っ気なく言い残すと、彼女は愛想もなく教室を去っていく。香月はその子を引き留めようとしたが、その子は香月に言葉を返す間も与えなかった。
跳ねあがる小人達と、一緒にダンスを踊る白雪姫。そして静寂と寂寥感だけが残る教室に一人立ち尽くす香月。赤く滲んだ夕陽が教室には差し込んでいる。
香月は、立ち去る彼女を見送って、一言吐息にも似た言葉を漏らすしかない。
「あ、ああぁ」
香月は一人ぼっちになった教室で、もう一度黒板の落書きを覗き込む。愛らしく上目づかいに微笑む白雪姫。その白雪姫の斜め下に、香月はサインが小さく書かれているのを見つける。
「Akemi。あけみって言うのかぁ。彼女。友達に、なりたいな」
黒板の落書きにしばらく見惚れて立ち尽くす香月。
彼女は存分に白雪姫の美貌を堪能したあと、決心したかのように、黒板消しで白雪姫を消していく。消すのは惜しいとつくづくも思いながらも。
砂で作り上げたら、一瞬の内にかき消されていく曼荼羅のように、白雪姫は黒板の舞台から立ち去っていく。
「アケミ、さんかぁ」
香月は、淡く仄かで、少し胸に痛みが滲む感傷を覚えながら、転入初日を無事終えたのだった。