忘却の川 3
閑話。ギリシア神話におけるヒュプノス。彼は眠りの神として知られており、人間の最後の眠りとして、「死」をもたらす神だともいわれる。
「死をもたらす神」であるヒュプノスは、黄泉の国に流れる忘却の川、レテ川とも当然縁深い。彼は死を人にもたらし、レテ川の水で、人間に全てを「忘れさせ」、昇天させる役目をも司っているのだ。
それはさておき、夏樹を先頭にした一陣が入ったライブハウスでは、ドリンクが無料で配布されている。それはライブスタッフの持て成しの一つだという。
ライブスタッフは、エディ・ヴァイの不気味で不穏なイメージに則り、人に全てを忘れさせる「レテ川の水」だと称し、ドリンクをみなに振舞っている。
実際には粉末状のドリンク剤で作った飲み物に過ぎないのだが、彼らも色々と趣向を凝らしているらしい。
舞踏会の仮面を被った男二人組が、入場する人々にコップ一杯分ずつ手渡している。おどろおどろしい口振りで、こう言葉を添えて。
「どうぞ。全てを忘れさせる『レテ川の水』です。ライブ後に、ライブの余韻からみなが覚めることを願って」
それを受け取った夏樹は「『レテ川の水ぅ』!? 何なのよ。それ。ただのスポーツドリンクか何かでしょ」と、開けっぴろげに言い放ち、ドリンクを口に含む。
「うん。味は悪くないわね。みんなも飲んだら?」
そう夏樹に勧められて、警戒心の和らいだ香月、俊哉を含む六名は「レテ川の水」ドリンクを飲み干していく。
「ああ、美味しかった」
「美味しかったわね。ホント」
「うん。ウマい」
各々の感想を零して、客席へと入っていく夏樹達。ただ一人俊哉だけがドリンクの味に首を傾げる。
「んっ? 何だかこの飲み物、変な味がしねぇか?」
「気のせいでしょ? ただのスポーツ栄養ドリンクよ」
美穂に背中を軽く叩かれて、諭された俊哉は、とりあえずは「レテ川の水」を飲みほし、美穂のあとを追う。
一方、ライブハウスでは、スタッフ二人組の片割れが、テーブルで「何か」を探している。
「あっれぇ。ここに置いておいた粉末知らない? ギリシア人留学生君に貰った代物なんだけど」
もう一方の相方が慌てたように弁解する。
「『あっれぇ』って! あの薬袋みたいなのに入ってた小さな奴?」
「そうそう」
相方がその返事を聞いて青ざめる。
「あの粉もスポーツドリンク剤だと思って、さっきのジュースに使っちゃったよ! あれ違ったの!?」
「バカ! ちげぇよ! あー、あれ高値で買ったのに何てことしてくれるんだ。お前は」
相方を左手で小突く粉末の持ち主。相方は相方で余り反省している様子もない。
「ワルイ、ワルイ。で何か効能あったの? その粉末」
そう訊かれて粉末の持ち主は両手を広げる。
「何でもその粉末、体に取り込めば、全てを忘れられる秘薬の作用があるらしい」
秘薬の作用。不気味めいた響きだが、相方君は意にも介していない。
「あっ。そんなのか。それじゃあヤバい薬じゃないんだな。良かった、良かった。で、ところでそのギリシア人留学生君の名前は何て言うんだ?」
何か衛生面諸々での事件、事故が起こる可能性をも考えず、厭わず、呑気に粉末の持ち主だった男は答える。
「たしか、ヒュプノス君とか言ったな。ギリシア神話に出てきそうな変わった名前だった」
「ヒュプノス君ねぇ。それは珍しい」
そう言葉を交わして、ライブスタッフ二人は、能天気に笑い合うのだった。




