転入 1
香月の通う学校の職員室。彼女の担任を受け持つ高橋は、短めの髪をクシャクシャにしながら香月の編入手続きを見つめている。
高橋は軽い無精ひげが特徴的で、酩酊感のある右目が、いつも左目より見開いているのが、トレードマークの男た。
外では朗らかな陽気が心地よく、職員室の教師達も小気味良く教材の準備を進めている。高橋は片方だけ奥二重の右目より普段より大きく見開く。
「福岡からか。馴染めるかな」
高橋の隣で、同僚の東がテストの答案用紙を整えて、香月の写真を覗き込む。
「福岡から。しかも同じ九州同士。カルチャーショックなんてなく、ごく普通に馴染めるんじゃないですかね」
「だといいんですがね」
東は、綺麗に整った顔立ちの香月を見て、少し肩をすぼめると、一言添える。
「それにしても見た目が印象深い子ですね。高橋先生のクラスは個性的な子が多いから。どうなるか」
高橋は燻らせていた煙草の火を揉み消すと、軽く欠伸をする
「ま、そこはそれ。なんとかなるでしょう」
「でしょうかねぇ」
東は高橋に相槌を打つと、いよいよ自分の仕事に気を傾ける。気ままな口振りの高橋は高橋で、もう一度香月の編入手続きの写真をよくよく覗きこみ、朴訥と零す。
「少し垂れ目だな。この娘」
高橋が背伸びして、ホームルームの準備をしようとした瞬間、職員室の扉が勢いよく開く。驚いて教師達も扉に視線を向ける。
そこにいたのは直立不動で立ち尽くし、ガチガチに緊張している香月だった。彼女は覇気のある声を職員室中に響かせる。
「今日から転入する高樹香月です! 遅くなって申し訳ありませんでした!」
高橋は、硬直して、体に電流が走っているかのように震える香月を手招きして、呼び寄せると一言添える。
「高樹。声がデカい」
「は、はぁ。ど、どうも」
高橋は教材を整えると、香月を連れて自分の受け持つクラスへ足を運ぶ。高橋のクラス、「3年A組」の表札のかかる教室からは生徒達の騒がしい声が響いている。高橋は香月と廊下を歩きながら淡々と話しかける。
「まぁ、いろいろと個性のある子が多いクラスだが。気負わずに。普通にやってれば慣れてくる」
高橋が淡泊に話を続けている間中、香月は2日間かけて丸暗記した自己紹介文を俯きながら、ぶつぶつと念仏の如く唱えている。両目を寄せて神妙な面持ちの香月の顔を高橋は覗き込む。
「聴いてる? 俺の話」
香月は悪夢から目覚めたかのように、顔を一瞬だけあげる。
「あ、はい! 気負わずにですね。分かっております。これでもリラックスすることにかけては人一倍!」
そこまで口にして、香月はまたも呪文のように暗唱を始める。
(大丈夫かな? この子)
高橋は、自分の殻にヤドカリのように閉じこもる香月を一瞬心配したが、高橋も相当ルーズな性格らしい。もう一度軽く欠伸をすると、短めに調髪した髪の毛をクシャクシャにして、ぼんやりと窓の外を眺める。
高橋に連れられて歩く香月は、背を少し屈めて呪文を唱え続けている。
「高樹香月です。私の夢は……ラリホー、メダパニ、ファイガ、ブリザド、エトセトラエトセトラ」
一人詰んでしまっている香月を差し置いて、窓には朝の陽射しが美しく反射している。空気は程よく澄みきって心地いい。高橋と香月はいよいよ教室の扉に近づいた。
一方教室ではクラス一冗談好きな西島俊哉が、親友の福原健と話をしていた。
俊哉は少し低い鼻が難点といえば難点だが、どこか酩酊感のある瞳が印象深い少年だった。
髪の毛を整えれば相当のルックスなのに、彼はお洒落に余り興味がないらしい。それが彼の少年性をより際立たせ、魅力の一つとなっている。
健の方は若干、色抜きされたヘアカラーといい、紫の縁の眼鏡といい、洗練された容貌が二人の姉の影響を感じさせた。
俊哉と健は対照的でもあったが、その相性の良さは抜群だ。
俊哉は、健が力説する、映画「涙のあとに風は吹き抜けて」の良さを、冗談で茶化している。
「だから。分かったよ。『おめでとう。子供たち。完』だろ?」
健はどこかで聞いたフレーズを引用して、感想をはぐらかす俊哉に呆れる。
「だぁー! 俊哉、お前がそういうノリだから、お前は『鋼の涙腺を持つ男』とか言われるんだよ」
俊哉は特段悪気もなく、切り返す。
「だって泣けなかったんだからしようがない」
「鋼の涙腺を持つ男」とは、俊哉の異名の一つだ。それは去年の体育祭で、逆転優勝して泣きじゃくるクラスメートを横目に先輩達と将棋を指していたエピソードから来ている。
健は、朴訥と受け答えをする俊哉を前に、ふんわりとカールした栗色の髪を掻きむしる。健は俊哉に分かってもらうのを半ば諦めたようだ。
「俊哉。お前はそうやって一生涙なしで生きていけ。俺は人として生きる」
「そんな人をアンドロイドみたいに」
そう俊哉と健がふざけ合っていると、教室の扉が横開きに開き、高橋が入ってくる。クラスメートの派手なお喋りはやみ、皆、各々の席につく。
だが高橋の鷹揚で、オープンな気質、教育方針からか、私語はあちらこちらで聞こえてはいる。
高橋はそんな生徒達に特に注意するわけでもなく、教卓につく。やがて静まり返る教室。それが彼と生徒達の信頼関係を表してもいた。
高橋は淡々とした口振りで話し始める。
「あー、五月ということで五月病の季節だが」
そう話を切り出して、この類の話に、高橋は即座に飽きたのか、早々と切り上げる。
「まぁ、この話はいいや」
高橋はまた髪の毛をクシャリとすると生徒達に告げる。
「あー、昨日言った通り今日からみんなの仲間が一人増えることになる」
教室は新しいクラスメートがどんな子なのか、期待を膨らませている。同時にこの年代の子特有の警戒心も少しだがあった。
高橋はみんなの緊張を解きほぐすように軽い調子で話し始める。
「お父さんの仕事の都合で福岡から転校してきた子だ。一年間という短い間だが仲良くしてやってくれ」
高橋はそう話を締めると、教室の前で待っている香月を呼び出す。
「じゃあ高樹。入りなさい」
その言葉に呼応して、勢いよく音を立てて開く教室の扉。教室に足を踏み入れた新しいクラスメート、香月の顔は、強張って緊張している。
機械のように両手両足を揃えて歩く香月を見て、俊哉は少し興味を惹かれたようだ。胸の内でこう呟く。
(面白そうな奴だな)
香月は高橋の隣に立ち、直立不動の姿勢を見せる。そう。そんな香月は実際、俊哉の予想通り「面白い奴」ではあったのだ。