お人形 3
香月と桜の淡い、そんなすれ違いがあった午後。現国の授業。教室に戻ってきた桜は、気まずそうに下を向き、香月と視線を合わせようとは決してしなかった。
香月は桜の心情を慮り、チラリチラリと視線を桜にやるも、彼女は気づく様子はない。一瞬だけ桜が落とした消しゴムを拾おうとした時、香月と桜は視線があった。
元旦思考の香月はこれがチャンスとばかりに、桜に大きく手を振ってみせる。だが桜は顔を真っ赤に晴らして俯くだけだ。
そんな二人の奇妙なやり取り、間合いが続く中行われる授業は、創作俳句がメインだった。現国の教師でもある担任、高橋の手で、みなに自作の俳句を詠み上げてもらう形で授業は進んでいく。
発表会といった緊張感は、高橋の気質のせいか一切なく、みなでのんびり俳句という一種の言葉遊びでもしようといった雰囲気だ。
ほのぼのとしたテンポで、みなの順番が一回りし、そこで高橋が桜を指名する。
「そういや、宮沢はまだ詠んでなかったな。それじゃあどうぞ」
高橋のチョンボで期せずして最後の詠み人になってしまった桜。クラス中の視線が彼女に集まる。
これは桜にとって大きなマイナス要因だったらしい。彼女は少し緊張した面持ちで席を立ち、震える手でノートを手に取る。
そして彼女が詠み上げた一句。それはとても鮮やかな出来栄えだった。
『夢たくす 月波に映る ガーベラに』
生徒達は桜の無難な出来の一句に、一先ずは感心して、視線を高橋に戻す。
高橋はいつも大人しめで、控えめな桜が、品のある一句で授業を締めたことに満足そうだ。嬉しそうに目を細めて彼女の句を褒める。
「月の波で『月波』か。いい響きだ」
その講評にほっと胸を撫で下ろしたのか、桜は静かに席へ座る。高橋の講評は続く。彼はイマジネーションを膨らませているらしい。
「月夜の湖にガーベラが映る。そのガーベラに夢を託す。うん。いい出来だ」
その評価を桜は少し嬉しそうに聞いている。香月はその間中、心配げに彼女を見つめていた。だが高橋は悪気なく、つい付け加えてしまう。
「ちなみにガーベラの花言葉は『神秘』だ。季語としては『夏』で若干フライング気味だが、この際よしとしよう」
高橋は自分の解釈、桜の句の出来映え、両方に満足して、機嫌良さそうに授業を締めにかかる。
だが桜はちょっとしたミステイクを指摘され、顔を赤らめて伏せてしまった。
クラスメート達は、古今の俳人達の面白エピソードを、楽しげに話して聞かせる高橋に夢中だったが、香月だけは彼女の、桜のその激しい変化に気がついていた。
授業が終わり、休み時間。その休閑のひと時にも、桜は自分の犯した軽い「ミス」を気にかけているように香月には見えた。
香月は、ついに意を決したのか、元旦に東から昇る鮮やかな初日の出のように立ち上がると、ひと息息を吸いこむ。
香月は大股で歩き彼女、桜に近づく。香月の瞳は覚悟を決めている。香月は彼女を心から褒めてみる。
「さっきの一句。素敵だったね。桜さん」
突然話しかけられて、加えてに気にしていることを、また蒸し返された思いもあって、桜は動転気味に戸惑い、俯いてその評価を拒む。
「ダメです。あんな一句。春なのに夏の季語を使ってしまって。大失敗でした」
彼女はそう自己否定して首を左右に振る。すると香月は力強く桜の手を握ると、彼女の手を引いて歩き出した。
「ちょっと来て。桜さん」
「待って。やめてください。高樹さん」
慌てふためく桜の静止を振り切り、香月は足早に彼女を図書室へと連れていく。
「こっち。来てください。桜さん」
「ちょっと。高樹さん!?」
当惑する一方の桜を、香月が連れてきたのは句集が置いてある一角だった。
香月は「よし!」と一声あげると、手当り次第、句集を手にして詠み上げていく。最後にはお決まりのように、こう否定の言葉を添えて。「ダメね。こんなの」と。
「『古池や 蛙飛び込む 水の音』。ダメね。こんなの」
「芭蕉の句よ。名句だわ」
暴走する元旦。香月の一言一言を、春のような穏やかな陽気漂う桜が修正していく。
「『菜の花や 月は東に 日は西に』。ダメね。これも」
「与謝野蕪村の句ね。広がりがあって情景が目に浮かぶ」
香月の狙いは分からないが、一々しっかりと香月の論評を修正していく桜。
「『梅一輪 一輪ほどの 暖かさ』。これもダメ」
「江戸時代の俳人、服部嵐雪の句ね。近づく春を感じて私は大好き」
「『わかるるや 夢一筋の 天の川』これもダメ!」
「夏目漱石の有名な一句よ。知らないの? 高樹さん」
さらに俳句を一通り詠みあげる香月。香月は手にした句集を全部宙に放り投げると、最後にこう締めくくる。
「これもこれも! ぜーんぶダメ! 桜さんの一句の方がよっぽど素敵よ」
そうやって桜の顔を覗き込む香月。だが桜の表情は曇ったままだ。
「私のなんか。全然よ。それに季語を間違えるなんて。全然ダメ」
さすが元旦。今頃になって、ようやく自分の落ち度に気が付いたのか、香月は恐る恐る桜に尋ねる。
「あのー。『季語』ってそんなに大切なんですか?」
桜は香月の無知に驚く。いや厳密には、桜はそんなに意地の悪い子ではないので、素直に「知らない人もいるんだ」という調子で話してみせる。
「大切も何も俳句の基本よ。季節の移り変わりを、短い句に乗せるのが俳句の醍醐味なんだから」
彼女にそう教えられて、さすがの元旦娘、香月も頭を抱える。書棚に寄り掛かり、桜に降参してみせる。
「だぁー。ダメね。私って。励まそうとして、いつも無知が空回り」
香月は両手を広げて自分自身に呆れ返る。
「私って、無知が大手を振って歩いてるようなものね。おまけに大! 大! 先生方の俳句にまでダメ出ししちゃって。大失敗」
その言葉を聞いた桜は、きょっとんとして不思議そうに、改めて香月に訊く。
「ひょっとして、今挙げた句。一つも知らないの?」
香月は「いいや」と目を鋭く光らせると口元に笑みを浮かべる。
「えっ? 『古池や 蛙飛び込む 水の音』くらい。知ってるよ」
するとようやく桜が小さいが、非常に小さいが、声を立てて笑い出す。
「高樹さんって、ホントに面白い人ね」
「えっ? そう?」
香月の面白味が桜のツボに入ったのか、やがて爆笑の渦、爆笑の波が桜に訪れ、彼女はお腹を抱えて笑い出す。
「うん。そう。可笑しい」
香月は照れ笑いして頭を掻くしかない。
「そう?」
「うん」
誰もいない図書室で、香月と桜は二人して笑い続けた。やがて笑い疲れた香月は伸びのある声で桜にお願いする。
「桜さん。これからは私のこと『香月』って下の名前で呼んでくださいね。よろしく」
「私こそ『桜』って呼んでください。香月さん」
その交渉が成立したのか、今一度名前を呼び合う二人。
「ありがとう。桜」
「うん。香月」
一方教室では夏樹、朱美、美穂が、桜を強引に連れて行った香月のことを、何よりも元旦娘の勢いに桜がダメージを受けていないかを心配している。
朱美が口を開く。
「大丈夫かな。桜さん」
半ばお手上げ、投げ槍気味に夏樹が応える。
「大丈夫なんじゃないの? 少なくとも元旦の方は。もし桜さんを傷つけてしまったとしたら、元旦も時には反省するいい機会よね」
「それもそうね」
そう言って相槌を打ったのは美穂だ。三人が「全く嵐の吹き荒れる日の元旦は」と言った調子で、一つ軽いため息をつく。
するとそこへ香月と桜が戻ってくる。二人は夏樹達の予想に反して楽しげに話をしている。さしもの夏樹と朱美も、その不条理な光景が不思議だったのか訝しむ。
「あら? 仲良さそう。どうなってんの? 二人とも」
美穂が呆れ気味に笑う
「さぁ。多分元旦が勝ったんじゃない?」
そう美穂が言い終えると香月と桜が、夏樹達三人に近づいてくる。桜はまるで初対面であるかのように、三人にお辞儀をして自己紹介する。
「私、宮沢桜です。あらためてよろしくお願いします」
「いや『よろしく』って」
美穂はクスリと笑い、夏樹が少し戸惑っていると、朱美が優しく桜に尋ねる。
「昨日。どうして学校に戻ってきたの? 何か忘れ物でもしたの?」
するとその光景を誰かに、しかもクラスメートに目撃されていた恥ずかしさからか、桜は顔を真っ赤に赤らめる。
「はい。課題を忘れたんですけど」
『ですけど?』
夏樹達三人は彼女の顔を覗き込んだ。
「よくよく考えたら忘れてなくて、すぐに家に帰っちゃいました」
ザ・無神経、夏樹が爽快に笑う。
「そうなんだ。あなた相当なおっちょこちょいね。おまけに面白い」
夏樹のズケズケとした言葉にも、今日の桜はタフだ。彼女は笑みを零す。
「面白いですか? 私。間が抜けてるんです。それに、方向音痴だし」
それを聞いた朱美が左眉をひそめて、桜に尋ねる。
「ひょっとして一度学校と反対方向に行ったのは」
「はい。方向音痴だからです。間違えちゃいました」
桜はそう言って笑顔を見せる。その瞬間、氷の檻の中に閉じこもっていた桜の何かが「氷解」したようだつた。香月もその様子を見て嬉しそうだ。
こうして桜は、元旦、チーター、ピカソ、ザ・無神経のいる仲間に入ったのだった。




