疾走 4
赤褐色の荒野に風が吹きすさび、二人の着流し姿の浪人、もとい、荒野のガンマンは、一度背を向けあい、いよいよスタートラインに足をスックと立てる。
ゴール付近にはこの勝負の審判をなぜか請け負った夏樹が立っている。夏樹はこの勝負をそそのかした身。責任を取るべきだとの自覚もあったようだ。だが夏樹は仕切りたがりであるのにも間違いはなかった。
夏樹は、どこからか聴こえてきた自分をおちょくる言葉に、一度くしゃみをすると、100m先から香月と美穂の二人に呼びかける。
「二人とも準備はいい!?」
香月は大きく右手をスラリとあげてそれに応える。だが、その時美穂は「待って!」と一言言うとポケットから、白く長い鉢巻きを取り出す。ついに来たか。奴は本気だ。奴は本気でスペースレディ香月を仕留めるつもりらしい。
クラスメートはそう口を揃えてどよめく。
そう。その白い鉢巻きは、何を隠そう美穂が、本当に「本気」になった時にしか使わない彼女愛用の逸品であったからだ。
美穂はざわめくクラスメート達の動揺を、意にも関せず、鉢巻きを額にしっかりと締めると、香月に尋ねる。
「あなたは大丈夫? 準備は万端?」
「あ、はい! もちろんです!」
美穂の瞳が鋭く光る。その瞳は自分の空腹を満たすため、あるいは自分の子供の空腹を満たすため、狩りに出かける狂気のチーターそのものだ。
美穂は先制の一撃の一言で、香月を貫く。
「それじゃあ容赦しないわよ」
夏樹は風向きを計り、いい塩梅、いい具合に風がやんだのを待って、二人にもう一度呼びかける。
「二人とも用意はいい?」
美穂の瞳は猟奇性さえ漂わる。香月の瞳にはなぜか元旦の飾り物、門松が浮かんで、目が炎に燃えている。美穂が次いで香月が、順に夏樹の呼びかけに応える。
「いいわよ」
「はい!」
息を飲み、掌に汗が滲むのを確かめるクラスメート達。少し勝負の現場から離れた場所には、話を聞きつけた陸上部顧問の久我も観に来ている。
クラウチングスタートの姿勢を整える香月と美穂。寂寞とした吹き抜ける荒野の風。その風が僅かの間、途絶えた瞬間、掛け声と共に夏樹は右手を振り下ろす
「スタート!」
インスタントな100M走の競技場。公式の大会に出慣れている美穂にとっては物足りないものであったかもしれない。だが美穂は、そんな悪条件にも構わず全力を出す。
それは香月とて同様だ。二人は抜群のスタートを切った。疾駆。まさにグラウンドを跳ねるように二人は駆け抜けていく。
グラウンドを走り抜けていく元旦とチーター。そしてその光景は大方の予想通り香月がすぐに引き離される様を映し出して、あっさり終わるはずだった。
そう。そのはずだった。だが、香月の足も相当速い。美穂に食らいついている。というより全く引けを取らない。健は予想外の香月の好走に思わず叫ぶ。
「速い!!」
俊哉は俊哉で、自分の目の前を走り抜けていく二人の姿を、時が止まったかのように目に焼き付けている。俊哉は疾駆する美穂にはもちろん、その美穂と同等に渡り合う香月にも深く魅了されていた。
転入したてでも臆することなくクラスに溶け込み、何事も尻込みすることなく、チャレンジしていく香月。
夏樹や朱美といった接するのが難しく、扱うのも難しい二人の親友を勝ち得た香月。チャレンジ精神の塊、香月。そして事実、ことごとく人を惹きつける結果を残していく香月。
その香月の姿を目と心に深く刻み込んで、俊哉は自分の魂の奥底に眠る「何か」、野性味のようなものが覚醒するのを感じ取っていた。
だが100m。永遠にも思える100mを二人が駆け抜ける時間は瞬く間、あっという間だった。勝負が決するのは寸刻の時であった。
結果は持久力の差だろうか。ゴール手前でやや失速した香月がわずかの差で美穂に敗れた。ゴールを走り抜けて、リラックスした様子で呼吸を整える美穂。香月は両膝に両手をついて激しく息を切らしている。
その香月に駆け寄る夏樹と朱美。二人は興奮冷めやらぬ、もとい興奮を隠せない。先に夏樹が、次に朱美が香月に声をかける。
「香月、あんた足速いじゃない!」
「どうなってるの? ホントに。信じられない」
口々に香月を誉めそやす言葉が二人の口をついて出る。褒められた香月は、少し照れながらも、嬉しそうにグラウンドに足を広げて座り、邪気なく笑う。
「えへへ。でも負けちゃったね」
『それでもスゴイって!』
夏樹と朱美は口を揃えた。一方、美穂の方は若干の悔しさ、歯がゆさを隠せない。
自分が圧勝出来ると思っていた相手。ゴール付近、流してでも勝てると思っていた相手と最後まで競り合ったからだ。
少し歯噛みしてみせる美穂に、久我が歩み寄る。久我の顔つきはやや険しい。彼は右手をなぎ払うように振り、美穂をやや窘めてみせる。
「今後、こんな遊びは二度とやらないように」
その言葉の意味、真意を美穂は汲み取ったのか、それは多分美穂がこんなお遊びで、自分のペース、自信を崩さないという配慮だったのだろう。美穂は素直にこう返す。
「はい。先生。控えるようにします」
気持ちの整理がついたのか、美穂は笑顔で香月に歩み寄り握手を求める。
「香月ちゃん。本当に足速いわね。ビックリしちゃった。これからもよろしく」
香月は右眉を嬉しげにピンっと吊り上げると、不思議と敵を作らない笑顔で握手に応じる。元旦。それはほぼ全ての人にとってめでたい日ではあるのだ。香月は零す。
「やっぱり速いや。永瀬さんは」
「美穂でいいわよ。これから美穂って呼んで」
「分かった。美穂」
好勝負の余韻冷めやらぬグラウンドで、俊哉は一人、立ち尽くして痺れている。両の握り拳を強く握り締め、こう胸の内で確かめるように呟く。
「なっ。言ったろ? 勝負はやってみなきゃわからないって」
そう雷撃、雷鳴の如き閃きに打ち震える俊哉の肩を軽く叩く手があった。それは健の手だった。彼も興奮が冷めやまない。
「すごかったなぁ! 俊哉! 高樹も永瀬も! 最高の勝負だったなぁ!」
「ああ。そうだな」
そう吐息混じりに返事をする俊哉に、健は立て続けにこう言い添えるのも忘れなかった。
「それじゃあラーメン帰りに一杯な」
俊哉は固まって言葉を返す。
「ラーメン? 何の話だ」
熱狂の勝負、熱く爽やかな風の吹き抜けた一騎打ちの終わった翌日。その昼休み。教室には机を囲んで弁当を食べ合う香月と美穂。そして夏樹と朱美がいた。
四人はすっかり打ち解けている。美穂は香月の弁当のオカズを見て箸を伸ばす。
「あっ、そのコロッケ美味しそう。一つ私に頂戴」
「じゃあそのチキンナゲット一つくれたらね」
美穂は渋りながらもその取引きに応じる。
「わかった。じゃあ交換ね」
楽しげに昼食を摂る四人。それは香月達のクラス、3年A組の新たな代名詞にでもなった光景だった。そこへふと歩み寄る男がいた。それは少し口を真一文字に結んだ俊哉だった。
俊哉は香月に話しかけようとしたものの、言葉が出てこない。いつもお喋りな俊哉もこの時は不思議と、上手く喋れないようだった。
「高樹」
「え、うん、何?」
俊哉はどこまでも、彼らしくなくぎこちない。
「い、いや、ど、どうも」
「はい。どうもです」
そう淡い言葉を交わして俊哉は香月たちから離れていく。
「何の用だったんだろう。あいつ」
「さぁ」
無神経、図太い、繊細さは、男子に向けては皆無の夏樹と朱美が顔を見合わた。
一方、俊哉は俊哉の方で、自分の想いを、感じていることをはっきり言葉にして伝えられなかったのが、悔しかった。俊哉の胸を覆う言葉で言いようのない気持ち。その気持ちが俊哉には妙に心地よく、嬉しくもあった。
俊哉は少し、香月達との距離も縮めていきたい、そう思っていた。




