疾走 3
それから二日後の体育の授業。香月と美穂、決戦の日。授業中もクラスメート達は何やらざわついている。香月と美穂が100m走で勝負すると口伝てで広まっていたからだ。
みな、口々に美穂の圧勝か、香月の大番狂わせかと予想しては、はては香月が無謀だ、命知らずだと、大げさがって恐々としている。
柔軟体操をのんびりとこなす俊哉は、クラスメートのざわつきを不思議がる。俊哉はこういう旬な話題に、意外とルーズな方なのだ。俊哉は健に尋ねる。
「なに。どしたん? みんな。何かあるの?」
空手の組手の真似事をして遊んでいた健は、俊哉の情報不足振りに驚き、身振りを交えて教える。
「何だ! 知らないのか? 俊哉。今日授業が終わったら永瀬と高樹が100m走の一騎打ちするんだよ」
「一騎打ち。へぇ。それはまた」
俊哉は少しだけ関心を引かれたようだ。少しだけ。それは中身がはっきりしない内は、あれこれ詮索しないし、想像もしない。それが俊哉のスタイルでもあるからだ。
だがその勝負に惹き込まれている健は、興奮しながらも呆れた口ぶりだ。
「まぁ、だけど永瀬の王女様に100m走で挑もうってんだから高樹の奴も相当能天気、頭の中薔薇色、お花畑な子だなぁ」
更に健はやや諦めたように付け加える。
「さすが365日元旦娘」
「365日元旦娘」。俊哉はその響きが気に入っていたので、とりあえずは健の話に相槌を打つ。
「だな。年がら年中お正月」
だが俊哉は、ただ単に健の話の流れに合わせながらも、こう尋ねるのも忘れない。
「で、あるの?」
健は問い返す。
「何が」
即答する俊哉。
「勝算。高樹の奴に」
健は目を大きく見開いて、俊哉の言葉を笑い飛ばす。
「あるわけないじゃないか! 俊哉。相手、誰だと思ってんだ! 去年全国大会二位の永瀬美穂だぞ。まったく。学校、いや県内中にどれだけ名前が知れ渡ってると思ってるんだ」
その言葉を聴いた俊哉は人差し指を「チッチッチッ」と軽く左右に振る。どうやら俊哉にも香月に近いメンタリティがあるらしい。俊哉は意味ありげに、言葉へ言外の意味をも含ませる。
「わからないぞ。健。勝負は何事も。やってみなきゃわからない。何事もな。大番狂わせもあるかもしれないぞ」
健は俊哉の言葉にある種、驚愕して目を丸くする。俊哉のその自信に満ちた口振りに、健はやや気圧されていたのだ。だが健もまたある種の常識人、すぐに片手を振って俊哉の言葉を否定する。
「ムリムリムリムリ! 相手は今年、中学全国大会で優勝必至の陸上界のホープなんだぞ?」
俊哉はその絶対的な否定の言葉を、半ば反駁してみせる。
「無理。なら賭けるか!? ラーメン一杯!」
「常識」という後ろ盾がある、さすがの健も、俊哉がすかさず賭けを持ち掛けてきたので怯む。話を何とか逸らせて、ごまかすだけだ。
「いや、まぁ賭けるほどじゃないけどな」
二人が熱い「漢の談義」をしていたところ、体育教師の橋本が二人を注意する
「おい。そこのツーバカトップ。静かにしろ」
『はーい』
二人は授業に集中しなおし、俊哉が再び柔軟体操に取り組むと、その彼を横目に健は最後に零す。
「とにかく、勝てるわけねぇんだ」
健の言葉が俊哉に届いたのかどうか、俊哉は胸の内で「いや、分からない」と確かめるように呟いていた。
やがて体育の授業は終わり、静まり返ったグラウンド。夏の季節が近づく涼風が吹き抜ける校庭。陽射しがまだほんのりと暖かい場所。そこでいよいよ香月と美穂の勝負が行われようとしていた。
授業が終わり、橋本が解散の指示を出したのに、教室へ戻るクラスメートは誰一人としていない。息を飲み、固唾をも飲む香月と美穂のクラスメート達。
一方、香月は独自に編み出した、オリジナルの柔軟体操で身体をほぐしている。掛け声も独自のものだ。
「ヨッハッ! ヨッハッ!」
その謎めいた動きを見せるスペースウーマン高樹香月のもとへ、チーター、あるいは雌の黒豹とでも呼ぶべき美穂が歩み寄る。
「じゃあ、高樹さん。走ろうか!」
香月も臆するところはない。
「あ。はい! よろしく!」
美穂の誘いに香月は、お節料理の香り漂う元気ある声で返事をする。級友たちは級友たちで美穂の声のニュアンスから、美穂が手加減抜きで本気で走るのを、敏感に感じ取っていた。
俊哉と健も二人の様子を見守る。今一度、健が半ば吐き捨てるように呟く。
「とにかく! 勝てるわけないんだ」
健の言葉を耳にしながらも、俊哉は心のどこかで香月が勝つ、いや勝って欲しいと願っていた。
それは、大番狂わせの意外性を単に期待していただけかもしれないし、将来が半ば決まっているのかもかもしれない、極々平凡な「一般の自分達」の未来を、香月が覆してくれるのを期待していたからかもしれない。
だが本当の所、その深い理由は俊哉自身分かってはいなかった。




