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香月  作者: keisei1
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疾走 1

 六月、蒸せるような夏が近づいてきた時期。未だ夏の灼熱地獄の恐ろしさには何とか触れずに済む休閑のひと月。


 その六月の、とある一日。ほんわりのどかな放課後の職員室では、東が帰り支度をしている。その様子は慌ただしげだ。彼は荷物を急ぎ、とりまとめ高橋に話をする。



「例の今村さんって生徒。学校に来るようになったって話じゃないですか。良かったですねー。高橋先生」



 忙しげな東とは対照的に、高橋は高橋で、散らかり放題の自分のデスクをマイペースでゆったりと片付けていた。高橋はまるでスラムかジャンクタウンのジオラマにでもなったかのような机を整理整頓している。高橋は口にする。



「ええ。全部高樹のおかげですよ。こう言っては何ですが、彼女には人を包み込む大らかな『愛』のようなものがあるから」



 「愛」という大げさな言葉の響きに東は感心しきりだ。



「『愛』。ありがたいお言葉ですね。高橋先生も早くその『愛』をゲットしてくださいよ!」



 その刃の如く、月に突き立てられるロンギヌスの槍の如く、すっ飛んできた言葉のエッジに、高橋は整理する手を止める。



「東先生、もしや先生のオウチには」


「新妻が風呂とご飯を作って待っております。それじゃ私は一足先に!」


「な、な、何と!」



 そう驚愕の声をあげた高橋は、嬉しそうに帰宅する東を黙して語ることなく見送る。高橋は半ばヤケになってデスクのジャンクタウンを修復するしかなかった。



「何で! 何で! 何で!」



 一方その頃。香月と朱美、夏樹の三人は美術部の女性顧問、田上を手伝い終わったあとで、少し遅い帰宅の途についていた。


 朱色の陽射しが傾きかけたグラウンドを三人はまばらに歩いている。三人三様気ままで、群れた印象はない。香月は、口元に手をあててそれはお上品に欠伸をしてみせた朱美に、確かめるように訊く。



「ねぇ。朱美。ホントに美術部には入らないの? あの田上先生って人もいい先生だし。上手くやっていけるかも」


「うーん。どうかな。やっぱり多分入らないと思う。田上先生たしかにいい人なんだけど、私と考え方が違うっていうか。だから」


「んー。残念! 未来のクロード・モネが!」


「大げさだって。香月」



 そう朱美と香月が楽しげにやり取りしていると、両手を頭の後ろに組んで、バッグを手にぶら下げていた夏樹がグラウンドのとある一角を指さす。



「おお! 美穂だ!」



 即座に反応する香月。



「美穂? えっ? 誰? 誰? その人?」


「ほら向こう」



 夏樹は自分の視線の先を指さす。夏樹が指差した方角を、香月が左手で手傘をして見ると、その女の子「美穂」はいた。彼女はクラウチングスタートの構えを見せては何度もスタートし、タイミングを計っている。


 香月は美穂の姿を認めると、ほっと一息つく。



「ああ、永瀬さん。『美穂』って永瀬さんのことだったのね。彼女、陸上部だったんだ」



 香月の気の抜けた返事に、若干激したのか、夏樹は鋭く反応する。



「『陸上部だったんだ』って香月知らないの? あ、編入して一か月程度じゃまだ知らないか。それでも! 美穂の話くらい少しは聞いたことあるでしょ?」


「ううん。ないよ」



 あどけなく香月が答えたので、夏樹は得意げに「彼女」、永瀬美穂のキャリアを滔々と話し出す。その様子はまるで自分の自慢話でもするかのようだ。



「小学校の時全国大会100M走優勝。去年は二年生ながら全国大会準優勝の華々しいキャリアを持ち、なおかつ将来のオリンピック候補とも目されてる金の卵! 短距離陸上界のホープ! それが彼女、永瀬美穂よ!」


「アハッ。夏樹ったら自分のことみたいに話すんだね」



 香月の素朴だがエッジの利いた左フックに、夏樹は少し頬を赤らめて、一度咳払いをすると言ってのける。



「と、とにかく! 今では陸上関係者で知らない人はいないほどの女の子なのよ!」


「知らない人がいない。それはスゴイね!」



 香月もようやく美穂の凄さに気づいたのか、喜色ばんで声をあげる。夏樹はややはしゃいで美穂の練習する姿をひたすら見ている。夏樹は結構な美穂のファンでもあるようだ。


 夏樹は朱美と香月の肩を揺さぶる。



「見て見て! 彼女、走るわよ!」



 見ると美穂は胸に手を当てると、一度軽く深呼吸をする。彼女は何やら呟いている。彼女の褐色に焼けた肌が健康的で野性味さえ漂わせている。いよいよ美穂は100Mを疾走するようだ。


 ゴール付近には陸上部顧問の久我がストップウォッチを持って立っている。やがて美穂の目つきは一際鋭くなり、ゴール付近を見据える。その顔貌は獲物を狙うチーターにも似て殺気立ちさえしている。


 いよいよ久我が高々と手をあげて、ゆっくりと振り下ろす。その瞬間、グラウンドを走り抜ける美穂。


 それは「疾走」。その言葉そのものだった。筋肉質のスリムな足でグラウンドを跳ねるように駆け抜けていく美穂。その姿に夏樹と朱美は息を飲み見惚れている。さしもの香月も驚かずにいられない。



「速い!」



 そうして息つく間もなく、瞬く間に彼女、美穂は100Mを駆け抜けて、強烈なイメージを香月達へ鮮やかに植え込んだのだった。


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