プロローグ・お参り
「ロックなんてクズみてぇな音楽じゃねえかぁ!!!」
髪を短く刈り上げ、唇と耳たぶにピアスを開けたステージ上の男。その男は人差し指を突き立て、右腕のタトゥーを舐めあげると、大声で客を煽り立てる。
紛いものの扇動者。そんな言葉がぴったりと当てはまる男の怒号が、ギターの歪んだ轟音とともにライブハウスに響き渡る。
「彼女」はこのライブハウスにいるらしい。彼女は白くきめ細やかな肌が印象的で、手足は細く、スラリとしている。その瞳は丸みを帯びており、やや長めの睫毛が彼女の魅力を引き立てる。
口元は適度にふくよかで柔らかく、綺麗に引き締まっている。肩口まで伸びた長く、黒い光沢を放つ髪が、彼女の長所をより際立たせていた。
その容貌からは、彼女がこんな気狂いじみたライブに訪れるとは想像だに出来ない。
彼女はライブハウスに紛れ込んだのか、はたまた巻き込まれてしまったのか、そこでは客は唸るような叫び声をあげて、先の男の狂気めいたアジテートに応えている。
彼女はむせかえるな暑さ、息苦しさで思わず声を出さずにいられない。
「ん、んん。何が、おがじいぞ」
彼女は自分の意思とは無関係に、いつの間にかライヴハウスの「モッシュ」、客同士が体を押し付け合う行為に巻き込まれていた。
酔狂に溺れる客同士は、背中を押したり、押し付けられたり、狭いライブハウスで更に体を密着させあう。その様子は凄絶であり、さらには身体面でもやけに暑苦しい。
彼女は状況が掴めていない。ただただ周囲の熱狂と絶叫に圧倒されるだけだ。彼女はたまらず呻く。
「ぐ、ぐるじい。私こんなライブに来たこと……」
彼女の細い手がライブハウスの天井に向かって差し伸ばされる。光の差し込む天へと、あるいは仏様が地獄に垂らした蜘蛛の糸にも似た救いの手に、助けを求めるかのような彼女の指先。
それにも構わずにライブハウスの客はひたすら雑音、騒音、さらにはノイズの混じった音に身を委ねている。
彼女は、光の差し込む方へ手を掲げる。彼女の艶やかな指先は、蜘蛛の糸を掴み取ったのか、はたまた天空の階段の淵を掴んだのか、ベッドを辿るように伸びていく。……けたたましく鳴り響く目覚まし時計に向かって。
瞬間、ライヴハウスの喧騒と騒音はかき消え、一瞬にして彼女は、眠りから目覚めた。彼女。綺麗に鼻筋の通った顔が、美しい高樹香月は、鳴り響く目覚まし時計のベルを止める。
「へ、へヴィーな夢。きっと昨日の夜、つべで激しいのを聴きあさったせいね」
香月はしばらくの間、呆然としていた。彼女の髪の毛は乱れ放題。むさくるしい夢のせいで、顔にはやや赤みが差している。
パシャマ姿のまま、ベッドの上で胡坐をかいて呆けていた香月だが、次の瞬間、彼女は体を翻し、時間を確かめる。
「6時! あと30分早く起きる予定だったのに!」
香月はベッドから跳ね起きると、慌てふためき私服に着替える。手櫛で整えた髪の手入れもそこそこに、階下へと階段を降りて行く。
香月の軽やかでリズミカルな足音が先の、悪夢のような空間と対比を成している。
香月がリビングに来ると、そこにはいつも早起きな香月の母、沙織が朝食の準備をしている。
沙織は、いつも甲斐甲斐しく働く良妻賢母、とまでは行かないが、品のいい若さが目立つ香月、自慢の母親だ。
沙織は香月を目に留めると「珍しい」と一言零して、目を丸くする。
「あら、香月。早かったじゃない。いつもはあと30分、あと30分ってゴネルのに」
余裕たっぷり、いつも通りのマイペースを貫く沙織に、香月は大袈裟な身振りを交えて訴える。
「それどころじゃないって! お母さん! 今日は神社の境内にお参りに行く予定だったんだから!」
切羽詰まった香月を見ても、沙織はどこまでも自分のペースを崩さない。
「ああ、早朝お参りに行くって言ってたわね。編入初日だし。それに」
香月は「ゴメン。お母さん」と一言。淡々とした沙織の話をスルーすると、玄関へと駆け出していく。引き締まった足を軽やかに運ぶ香月。
香月は髪に櫛を通すと、何とか見栄えの良さを整える。彼女の瞳はまだあどけなく、活気に満ちている。
天真爛漫を地で行く香月の表情、仕草。それが彼女の風貌をより魅力あるものにしている。香月は玄関から、勢いよくリビングへ向かって敬礼する。
「それじゃあ、お母さん! 香月は行ってまいります!」
香月はスニーカーの靴紐を結ぶと、駆け出していく。彼女が目指すは近所の神社だ。
「まったくもう編入初日だって言うのにトチるんだから! これだから私は!」
車の込み合う車道を斜め横断して、香月は神社へと駆け込む。
静謐な空間、情趣のある神社に人けはなく、静かで穏やかだ。忙しげな香月とは全くの正反対。
雀の鳴き声が心地よく響き、朝の清々しさをより印象深くする。
「あー、好きだわぁ。この澄みきった空気!」
そう背伸びして、大きな声をあげると、香月は賽銭箱の前に立ち、ポケットをまさぐる。
「今日は大盤振る舞いするって決めてたのよね」
香月は一度目配せすると、五百円玉を景気よく賽銭箱に放り込み、鈴の緒を揺らす。
「あー、神様仏様、八百万の神アッラー、もといヤマトタケルノミコト様。友達百人出来るかなとは申しません。せめて今日の自己紹介で新しいクラスのみんなと打ち解けるように。そして願わくば私に声をかけてくれる優しいクラスメートがいるように。他にも……」
そこまで口にして香月は言いよどむ。さては五百円分の願い事は十分したとの天の声を聴き届けたのかもしれない。香月は「はて」と照れくさげに頭を掻く。
「と、とにかく昨日徹夜で考えた自己紹介がすべらないように! トチらないように! お願いしまっす!」
願掛けを終えると、香月はまた勢いよく帰りの道を駆け抜けていく。彼女の髪がふわりと風に揺れて、その走る姿は颯爽としている。
神社の境内には澄みきった空気が流れ、香月の初々しさの余韻を残す。そして香月の仰ぎ見る空はどこまでも青く突き抜けていた。
沙織は朝食の支度を整え、香月の帰りを待っている。テーブルの前では香月の父親、浩司が新聞に軽く目を通している。
二人が香月を待ちかねて食事に手をつけようとした時、彼女、香月が転がるような足取りと、威勢のいい声で帰ってくる。
彼女の飼い犬。ビーグルの「アメージング・ゼロ」がせわしげに尻尾を振って香月を出迎える。
「お母さん! 朝食の支度出来てる? あ、ゼロただいま。今日は編入初日。張り切っていかないと!」
浩司は半ば呆れ気味だ。
「元気があって結構。その調子で学業、スポーツに頑張るように」
沙織はそれに注釈する。
「あなた、元気過ぎるのが難点だから、くれぐれも空回りだけはしないようにね」
その沙織の言葉に、「おおっと! 待った!」と一言、大見得を切ってみせる香月は、両親の心配を右手でさえぎる。香月は自信ありげだ。
「大丈夫! 大丈夫! この日のために自己紹介文二日かけて推敲したんだから」
そう言い放つと香月は手早く食事を終えて、学生服に着替えていく。
「よし! 時間6時45分。学校行くのに丁度よし!」
慌ただしく香月は、再び玄関に駆け出していく。散歩と勘違いしたのかゼロも尻尾を振って香月にまとわりつく。
「ゼロ、違うのよ。散歩じゃないの。それじゃあ、香月は行ってまいります!」
香月は勢いよく、玄関の扉を開いて、陽射しの射す方へ足を踏み出した、はずだったが、一度ドアに頭をぶつけてしまう。
「イテッ」
「大丈夫か!? 香月」
「先が思いやられるわ」
「大丈夫、大丈夫! 問題なし!」そう声を張り上げて、香月は家を飛び出していく。
こうして彼女の淡く切ない、だが同時にけたたましくもある中学最後の一年間が始まるのだった。