1章1話◆始まりは突然に
薄暗く、物静かな部屋、その片隅から聞こえる、カチカチというクリック音。
一見、勉強机に見える部屋のおよそ半分を占めている木星の机の上には乱雑に参考書やプリント類がおいて(撒き散らして)あり、机の一角にある白い一台のノートパソコンが部屋の一部を照らしていた。
今まで連続で聞こえていたクリック音が不意に止まり、青年らしき低い声が部屋中に響いた。
「くそっ、またコイツか」
チッと、舌打ちをしながら、画面に表示された「リターン」と書かれた案内をクリックすると、さっきまでパソコンの画面に表示されていた、恐らく男の利用しているキャラクターがはじめの町に転送される。
そして、「ああ~っ!」とその男は頭をくしゃくしゃにし、傍らに置いてある財布から、いまや伝説となりつつある二千円札を握り締めて、家を飛び出した。
何故男は二千円札を持って家を出たのか、彼を突き動かした理由はついさっきまで使用していたパソコンにあった。そのパソコンで行っているのはオンラインゲーム。オンラインゲームとは、他人と交流しながら空想世界を通じて会話したり、協力して新たな敵に立ち向かっていく、ネット上のゲームである。
彼の利用していたオンラインゲームの名称は、「モンスターバトルオンライン」というものである。通称「モンバト」とも呼ばれている。(以下モンバトと略称で呼ぶこととする)
オンラインゲームには、数多の種類があるが、無料で利用できるものが大多数を占め、現金が無いとゲーム本体に大きな支障が出てしまうようなものは少ない。しかし、課金をする事で、ゲームのシステム上、大幅に有利に進めることが出来る、ということもまた事実である。そして、このゲームもその類なのだ。
モンバトは、はじめの町から様々なエリアに移動し、そこで何らかの目的(例えば、そのエリアのモンスターを倒す、など)を果たして帰還するというゲームシステムを採用している。
エリアにはボスと呼ばれる、そのエリアを代表したモンスターが存在し、それらを倒す(倒す事も至極重要だが、そのボスからしか取り出すことのできないアイテムを入手することも重要である。そしてボスから取り出した特異で価値の高いアイテムを用いて最初の町でより精度の高い装備を作る事も出来るし、掲示板などを使ってユーザー同士でトレードし、ゲーム内の通貨などを大量に輸入する事も出来、その用途は多岐に渡る。)ことはこのゲームのプレイヤーにとっては大きな目標の一つとなる。つまり、エリアの新設は新たなボスの登場と同等の意味を成す。
モンバトは昨日のアップデートで、新エリア「レイティビア」を開設した。このエリアのボスは、このゲームにおいて最高レベルであるレベル100のキャラクターが、組む事が出来る最大人数の8人でパーティーを組まなくては倒せない(それでも倒せるとは限らない。このゲームにおいて、最も重要なのはレベルや装備ではなく、そのプレイヤーのテクニックだからだ)ほどに、強いボスだった。
そのボスの名は「ゼウス」
5種類の攻撃をランダムに、それも高速で発射し、ほぼ無尽蔵の体力を誇る、モンバト史上最強のボス。
これは、もう無課金者が勝てるような相手では無く、最強の課金装備の一式を揃えて挑む価値のあるほどの敵だった。そして最強のボスの出現は、プレイヤーに課金をさせるよう誘導するための運営側が仕組んだ質の悪い巧妙な罠だった。
そして、その落とし穴にまんまと嵌まってしまった者の一人がここにいる。
片道徒歩6分、走れば2分でいける近くのコンビニに向かって、玄関で靴紐を硬く結び、走り出そうと右足に力を入れようしたところで男の動きが唐突に止まった。
彼には迷いがあった。この二千円を、課金のために使ってしまっていいのかという確かな迷い。
いつからだったか、ずっと昔から取っておいた、思い出を厚く纏うこの二千円を使ってしまえば、彼の財布には小銭が僅かしか残らない。よって、これは彼にとってはおおよそ全財産と呼べた。
しかし、躊躇いはしたものの、やはり課金への欲求は止まらず、再び足は動き出し、玄関から飛び出す。ここで引き返す事も出来たのだろうが。
だが、出鼻をくじかれるように最初の曲がり角で、何かに衝突する。彼は驚いたように小さく声をあげた。頭を強く打ったようだ。額の右半分に鈍い痛みが走っている。
途端に、吐き気を誘うような激しい目眩が彼を襲う………
目をつぶり、頭を抱える。そしてしゃがみ込んで、夏の熱いアスファルトに頭を付けた。
僅かずつではあるが、次第に痛みが引いていく。
そして先ほどまでの痛みが嘘のようにすっかり引いて、ようやく目を開き、体を起こした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
微かにぼやけてはいるが、視界に映っているのは自分の身体。
俺はアスファルトの上でうつ伏せに倒れていて、俺はそれを見下ろしていた。俺の身体はピクリとも動かない。
そして俺は俺を起こしてあげるために体を動かそうとした瞬間、異変に気づいた。
「あ……れ?」
今まで気にも留めなかったが、何で俺が目の前に倒れている?それに俺の服装も………
自分の着ている服を見ると、それは布とは思えない、まるで宝石のように光り輝く純白の白衣であった。だがそれが自分が生涯見てきた全ての物の中で一番綺麗に見えたのは、輝きだけではない、他に何か神秘的なものを感じたからだろうか。
服の袖を擦るように触ってみるが、生涯で経験したことの無い感触であった。言葉では何とも表せない、そんな感触。
まるで神様が纏っている衣のような………
色々なことを考えているうちに、意識を失いうつ伏せになっていたはずの俺は、むくりと起き上がった。
そしてすかさずその口が開いた。
「やれやれ、全く私としたことが、まさかこんなことが………」
どう見ても俺の姿、俺の声、だが、決定的に違っているのは口調。
俺の形をした何かは、まだぶつぶつと、御経のように唱えている。
「明日か明後日か、記憶は確かではないが重要な議会が控えているというのにこんなことが起きるとは、、、ミカエルに何と説明付けようか、それにおそらく十二柱神全員が出席するだろう2000年に一度の頻度で催される超重要な会議にこの私が欠席となると、これは大変な騒ぎになってしまう、このままでは天界の秩序が………………それに一体なんだって言うんだ、こんな事私が生まれてから七十六億年の中で一度も起こった試しが無いぞ、それも最悪なことに人間と入れ替わってしまうとは………。
人間の事だ。ゼウスという無敵の存在を武器に何を仕出かすか解ったものでは無いな………」
自分が自分の意識とは無関係に勝手にぺらぺらと喋りまくる様子を見ていると、何だか気が滅入ってくるが、ここは心を落ち着かせ、話しかけることにした。
「あの、どうしました?」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
自分に対して敬語で話しかけるとは何とも滑稽な光景だが、相手の正体が何者であるか判らない以上、下手に上手から出られないと踏んだ、なにやら別の存在と入れ替わってしまった元「佐藤 隼哉」は、よく喋る現「佐藤 隼哉」に質問を投げかけた。
一般人、基人間ならば、落し物をした、逃げた猫を探している等、当たり前の言葉が返されるはずなのだが、
「私はオリュンポス十二柱神の最高神、万能にして最強の神であるゼウスだ。どうやら何か決定的な手違いにより、貴様と私が入れ替わった。だから私のみに備わっている操魂術で魂を本来あるべき位置に戻してくれ。明日か明後日かは記憶に確かではないが大事な議会があるんだ、理解してくれ」
予想外の返答、それも、普通の者なら理解のできない返答だった。言動者を変人扱いする者も出現しそうである。そして、隼哉も非理解者の一人であった。
「え?」
隼哉の思考回路では全く追いつかなかった。
神?オリュンポス?ゼウス?操魂術?
隼哉は、モンバトのやりすぎで頭が犯されてしまったのかと、頭を抱えた。余りにも非現実的で常識を卓越し、どこまでも突飛かつ不可解な状況にその身を置かれ、混乱して思考がまとまらなかった。
「あの、もう一度、よく説明を………」
「うむ。つまりな………」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
およそ7分にわたる現「隼哉」、つまりゼウスの切実で丁重な説明により、元「隼哉」は状況を完璧、とまではいかないが、殆ど把握した。
「なるほど、つまり俺は今最強の神であるあなたと入れ替わっていて、あなたは近日中に重要な会議があるから今すぐ魂を元に戻して欲しいと………」
「そういうことだ」
隼哉は路地によく建っている橙色のミラーを見て、自分の姿を見ると、そこにはこの世の物とは思えないほど美しく、品のある衣を纏った、若々しくて整った容姿を持つ青年が映っていた。そして、先程の7分間の説明にあった、ゼウスだけが使用できる、あらゆる物を撃ち貫く最強の電撃に、行きたい場所を頭に思い浮かべ、行く、と念じただけでその場にいけてしまう「思念移動」
どう考えても人間の生活より楽しそうだ。
俺の心の天使と悪魔が言い争う。
「隼哉!こんないいチャンスはねぇ!逃げろ!逃げちまえ!!」
と悪魔。
「隼哉、よく考えて見なさい。よく考えれば、今取るべき行動がわかるはずです。そう、逃げなさい。それも全力で。何処までも逃げるのです」
と天使。
両者の意見が一致しているため、隼哉は逃走を試みようと決めた。
隼哉は眼を閉じ、記憶を弄った。すると、明らかに自分の物ではない、変な記憶が所々に混ざっている事がはっきり解る。黄金に輝く城や、純白の神殿、そして太陽光が温かい雲の大地。
隼哉は、その中から太陽光が温かい近くに巨大な建物がある雲の大地を思い浮かべ、行きたい!と思念した。
そんなことはいざ知らず、俯きながらブツブツと独り言を発するゼウス。
「まったく、早く魂を交換してくれ、さもないと………え?」
顔を上げたゼウスは、自分の置かれている状況をすぐさま理解し、同時に絶句した。
「あの男………逃げたな!!」
ひとりっきりの路地に虚しく響く。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
うっすらと眼と開けると、天国が存在するとしたら正にここだ、というほど綺麗な場所に立っていた。
地面は地球とは違う、温かで柔和な雲。東に聳えるは巨大な城。北には立派な虹を掲げた美しい噴水が煌き、南には暖かな太陽が微笑み、西には、途方も無く続く雲の大地。
隼哉は感激のあまり、そこに立ち尽くしたまま動けなかった。
そして、突然目の前に炎の渦が巻き上がったかと思うと、それが四方に飛び散り、中から右膝を跪いた赤髪の好青年が姿を現した。
「ゼウス様、これよりゼウス神殿にて御昼食の時間と思いまして、お迎えに参りました」
その赤髪の天使はふと隼哉を見ると、突然唖然といった表情に変わり、跪くのをやめ、全てを悟った表情でつかつかと早歩きで近づいてくる。
「おい、人間、これはどういうことだ?」
まるで、町で肩に膝をぶつけた際に睨みながらこちらに近づいてくるような厳つい不良の顔つきで睨んでくるその青年は、先程の一件での会話に出てきた、執事であるミカエルだろうか。顔と顔がくっつきそうな位置まで接近していたため、隼哉は思わず頭を退かせつつ、両手を胸の前に引き寄せてしまった。
隼哉はたじろぎながらも、確認の意も含めミカエルに質問をした。
「あ………あの、ミカエルさんですか?」
返事は無い。
依然としてしかめっ面は変わらず、ただ無言。静寂という暴力を受けつつも隼哉はこの状況について自己分析を始めた。
(この人はゼウスである俺の今後の予定について詳しく知っていた………それにこの雰囲気、やはり………)
純白の白衣か、どちらかといえばワイシャツに近い衣の上に、吸い込まれるような漆黒の光を放つ黒いセーター。それらはどれも上品な輝きを放っており、青年の直角に曲げられた右手には、食事の際に用いられる白いエプロンのような物がかかってあった。
どこまでいっても仮定は仮定なのだが、上記の事を整理すると、隼哉は自己完結的に、「好青年=ミカエル」という結論に達した。
その瞬間―――
「そうだ、僕はミカエルだ」
その発言に、バチッと彼の脳内に一筋の電流が走り、その副産物として今さっきの光景がフラッシュバックする。
ミカエルが昼食の案内をしてきた後の、次の言葉………
―――おい、人間、これはどういうことだ?
何故人間と判った?何故今も俺の考えている事が読まれた!?
隼哉が理解を始めようとした最中、答えはすぐに帰って来た。
「僕の最も得意な能力は『読心術』だ。僕の読心術のレベルは、全天使、そして上位の神々を含めても第一位の精度と実力を誇っていると自負している」
訳の解らない事を淡々と言うミカエルに、隼哉は何か同じような光景を見た事がある気がしてならなかった。
「そんなことより人間」
ミカエルが話を本題に無理矢理引き戻す。
「お前は今ゼウス様の姿をしている、なのにだ、魂の形状や性質が似て非になる物と化している。なにがあった?詳しく説明しろ」
隼哉は、ゼウスの記憶力を借りて、先ほどあった話を丸ごと取り出す。
すると、ミカエルはすかさずその考えを全て読心した。
「魂が突然入れ替わった?そうか、やはり堕天使ルシファーの呪いがまだ………」
まだ十数分しか会話していないが、この表情は何かとても重大な問題がおきた様に感じられる。
「どうかしました?」
「お前には関係のない話だ」
隼哉は聞いたことの無い呪いの名前に少し興味があったが、あまり関わり難い表情をしていたので、呪いについて問い詰めるようなことはしなかった。
「ついてこい、人間」
不意なミカエルの呼び掛けに、少々戸惑う隼哉だったが、とりあえずはついていくことにした。
頑張ります