貧乏を装って私に三つのバイトを掛け持ちさせ、闇金を返済させていた夫。実の娘が惨死したその日、あいつは他人のガキに湯水のように大金を注ぎ込んでいた
1.骨壺の中の真実
娘の遥の治療費を集めるために、私は三か月ものあいだ、一度もまともに眠れなかった。
昼はコンビニでレジを打ち、夕方は居酒屋の厨房で皿を洗い、深夜はオフィスビルの清掃に入った。結婚指輪を質に入れた日、私は雨の中で紙幣を三度数え直し、ようやく病院から催促されていた分の費用をそろえた。
私の娘、久我遥は、まだ六歳だった。重い肺炎と免疫系の異常で入退院を繰り返し、医師からは東京の専門病院への転院を勧められていた。検査や新薬の一部は保険の対象外で、必要なお金は膨らむ一方だった。
もう少しだけ耐えれば、きっとすべてよくなる。そう思っていたのに、遥はその日を待つことができなかった。
救命処置が失敗したあと、私は小さな骨壺を抱きしめたまま、夫の今月分の借金を返しに行った。その闇金業者は、銀座の古いビルの地下にあった。入口には看板もなく、黒いスーツを着た男たちが冷たい顔で立っていた。
個室の扉の前まで来たとき、中から聞き慣れた笑い声がした。
「久我さん、佐倉清花は今月もきっちり金を持ってきましたよ」
「あの女、本当にまだ信じているんですね。あなたが父親のために高利で金を借りたって」
足が止まった。腕の中の骨壺が、危うく滑り落ちそうになる。次の瞬間、女の甘ったるい声がした。
「景臣、あなたって本当に見る目があるわ」
「家は普通、父親は重病、行き場もない。あなたが父親の手術費を一度立て替えただけで、あの女は何でも信じるんだもの」
その声を、私は知っていた。神崎美月。久我景臣の前妻。久我景臣はゆっくり煙を吐き出し、まるでどうでもいいことを話すような声で言った。
「感謝して当然だろう」
「あのとき俺がいなければ、清花の父親は最後の手術台にすら乗れなかった」
神崎美月は彼に寄り添い、笑みを含んだ声で続けた。
「でも、あの女は今でも知らないのよね。あなたがただの医療財団の若い理事代表なんかじゃないって」
「あの女は、自分が嫁いだ男が久我家の御曹司だってことも知らない」
久我景臣はグラスを軽く揺らした。そこには、わずかな罪悪感さえなかった。
「あいつが知る必要はない」
「あいつは俺を普通の男だと思っているからこそ、あの高利貸しを信じる」
「俺があいつの父親のために借金したと思い込んでいれば、清花は勝手に罪悪感を抱く。必死に金を返し、あの地下室で大人しく暮らす。俺の正体を調べようとも、どうして本家に連れていかないのかと問い詰めようともしない」
個室の中が一瞬だけ静まり返った。やがて、神崎美月の笑い声がさらに明るく響いた。
「じゃあ、久我家のほうは?」
「あの現妻が外であんな惨めな生活をしているなんて、誰も知らないの?」
久我景臣は鼻で笑った。
「本家には、清花は内向的で人前に出たがらないと言ってある。遥は体が弱いから、外で静かに療養しているともな」
「久我家が欲しいのは、俺の家庭が安定しているという事実だけだ。お前のことでこれ以上騒ぎを起こされたくないんだよ」
「俺がお前と切れたと本家が信じて、久我ホールディングスでの立場が守られるなら、清花が本当に幸せかどうかなんて、誰も気にしない」
私は扉の外で、全身が凍りついたように動けなかった。彼は普通の男ではなかった。借金などしていなかった。私と遥が暮らしていた地下室も、食べた苦しみも、浴びせられた暴力も、すべて彼が作った檻だった。
神崎美月が、何気ない調子で尋ねた。
「あの子は? あなたの娘。ずっと病気だったんでしょう?」
久我景臣は少しだけ黙り、やがて淡々と言った。
「子どもだろ」
「そのうち一日帰って、玩具でも買って、食事に連れていけばいい。そうすればまた、俺を父親だと呼ぶ」
私は腕の中の骨壺を見下ろした。その中に眠っているのは、私が命を削っても救えなかった娘だった。
久我景臣。あなたの娘は、もう二度とあなたをお父さんとは呼ばない。
2.遥が見たかったイルカ
遥の骨壺を抱いたまま、私はふらふらとあのビルを離れた。
遥は生前、イルカが大好きだった。入院中、ベッドの枕元にはいつも横浜ベイ水族館のパンフレットが置かれていた。何度もめくったせいで、角はすっかり丸まっていた。
パンフレットの最後のページには、青と白のイルカのぬいぐるみが載っていた。水族館のショップ限定品で、特別高価なものではない。けれど、あの頃の私にとっては、簡単に買ってあげられる金額ではなかった。
遥はそれを見るたびに、遠慮がちに尋ねた。
「ママ、パパの借金がなくなったら、イルカを見に行ったとき、これを買ってもいい?」
私はいつも、彼女の頭をなでながら答えた。
「いいよ」
「パパが帰ってきたら、ママが買ってあげる」
けれど遥が目を閉じるその日まで、私はそのイルカのぬいぐるみを彼女の腕に抱かせてやれなかった。道端でタクシーを止め、私は腕の中の骨壺をそっと撫でた。
「行こう」
「ママが、あなたをイルカに会わせてあげる」
私は遥を連れて、横浜ベイ水族館へ向かった。
館内には、子どもたちの笑い声があふれていた。水槽の光が水面に揺れ、砕けた星のようにきらめいている。私は通常料金のチケットを一枚買い、骨壺を抱えたまま、すべての展示を回った。最後に、イルカショーのエリアで足を止めた。
観客席に座り、私は長い時間そこにいた。客が何度も入れ替わり、次のショーの案内放送が流れても、私は動けなかった。
時間を確認しようとスマートフォンを取り出したとき、ショート動画アプリのニュース通知が画面に浮かび上がった。
【神崎家の御曹司、沖縄離島リゾートで誕生日会 謎の富豪が数千万円で島ごと貸し切り】
最初は、ぼんやりと眺めただけだった。けれど動画の中に、あの青と白のイルカのぬいぐるみが映った瞬間、指先が凍りついた。
遥が何度もパンフレットを見つめ、それでも死ぬまで手に入れられなかったぬいぐるみだった。
画面の中で、神崎美月のそばにいる男の子が、それを抱いて無邪気に笑っていた。その子の背後に立つ男の顔は映っていなかった。ただ、男の手が子どもの肩に置かれているだけだった。
それでも、私は一目で分かった。そのカフスボタンは、私がかつて久我景臣に贈った結婚記念日の品だった。その腕時計は、彼が借金返済のために質に入れたと私に言ったものだった。
それはずっと、彼の手首にあったのだ。
私は画面を見つめたまま、涙が止まらなくなった。彼の借金を返すために、一日に三つの仕事を掛け持ちし、私は人間の形を失うほど自分をすり減らした。遥は私が必死に働いていることを知っていて、私が水族館に連れていこうとするたび、首を振った。
「ママ、パパが帰ってきてからでいいよ」
あの子の小さな願いは、神崎美月の息子の誕生日プレゼントにすら及ばなかった。
胸が裂けるように痛み、次の瞬間、喉の奥から血がこみ上げた。
バッグの中で、スマートフォンが震えた。画面には、久我景臣の名前が表示されていた。私は麻痺したような手で電話に出た。
電話の向こうの久我景臣の声は軽かった。まるで、気まぐれに慈悲を垂れた神のようだった。
「清花、今日は債権者の機嫌がいいらしくて、一日だけ帰れることになった」
「今から家に戻る」
「そうだ、遥にサプライズを用意したんだ。何だと思う?」
彼は楽しそうに、良い父親を演じていた。
「帰ったら、三人で東京で一番いいフレンチを食べに行こう」
「今まで苦労させた分、これから全部埋め合わせる」
「俺の小さなお姫様には、もう二度とつらい思いなんてさせない」
私は腕の中の骨壺を強く抱きしめた。私の娘は、もう彼女が恋しがっていた父親に会えない。
私はずっと、必死にお金を稼げばいいと思っていた。久我景臣が借金を返して帰ってきたら、私と遥にも、ようやく頼れる人ができる。守ってくれる人ができる。けれど、すべては嘘だった。
私が命を削って稼いだ一円一円は、彼と神崎美月の暇つぶしの笑い話にすぎなかった。
電話の向こうで、久我景臣は私の沈黙を不審に思ったらしい。
「どうして黙っている? 疲れたのか?」
私は乾いた唇をわずかに歪め、適当に返事をして電話を切った。久我景臣。あなたのサプライズは、もう届かない。あなたの償いも、もういらない。
3.貧乏な夫が帰ってきた
私は遥の骨壺を抱いたまま、東京湾のそばで一晩を明かした。
空が白み始めたころ、こわばった体を引きずるようにして、あの暗く湿った地下室へ戻った。扉を開けると、かび臭い空気が押し寄せた。壁の隅に広がる水染みは、腐った傷跡のように見えた。
久我景臣は、もう帰っていた。彼は壊れかけのソファに座っていた。わざと穴の開いた上着を着ていたが、それでも長年大切に育てられた人間特有の余裕と品の良さは隠せていなかった。
私を見るなり、彼は眉をひそめた。
「どこに行っていた?」
「一晩帰らないなんて、俺が心配すると思わなかったのか?」
その口調には、当然のような責めがあった。
私は、かつて命を懸けて愛したその顔を見つめた。昔の私は、いつか彼が帰ってきて、私と遥を守ってくれる日をどれほど待っていただろう。けれど今は、胃の奥がひっくり返るような嫌悪しかなかった。
私は何も言わず、骨壺を抱いたまま寝室へ向かった。
私に無視されたことが、彼の怒りに触れたのだろう。久我景臣はソファから立ち上がると、私の手首をつかみ、壁に押しつけた。
「佐倉清花、その態度は何だ?」
「俺がやっと帰ってきたのに、そんな顔をするのか?」
この数年、私は死ぬ気で働き続け、体はとっくに壊れていた。彼に力任せにつかまれただけで、骨が砕けそうに痛んだ。
それでも私が黙っていると、彼は少しだけ声を柔らかくした。
「分かった。もう機嫌を直せ」
「お前がこの数年、つらかったのは分かっている」
彼は顔を近づけ、私に口づけようとした。
「この間、俺もずっとお前に会いたかった」
吐き気が込み上げた。私は残った力を振り絞り、彼を突き飛ばした。
「汚い!」
「触らないで!」
久我景臣は一歩よろめき、呆然とその場に立ち尽くした。
彼はまったく予想していなかったのだろう。いつも従順で、彼の言葉を信じていた私が、こんなふうに反抗するとは。短い沈黙のあと、彼の顔が一気に冷えた。
「佐倉清花、何を狂っている」
「つらいのはお前だけだと思っているのか?」
「俺だって、この数年どれだけ苦しかったと思っている」
私はそれ以上、彼と争わなかった。遥の骨壺を抱えて寝室へ戻る。
久我景臣は、私が働きすぎて情緒不安定になっているとでも思ったのだろう。鼻で笑い、別の部屋へ入っていった。もう一言なだめることさえしなかった。
私は壁にもたれ、ゆっくりと床に座り込んだ。腕の中の骨壺を何度も撫でた。遥。ママは、もう疲れた。
久我景臣は、午後になるまで寝室から出てこなかった。
彼は私の前に立つと、何事もなかったように私の頭を軽く叩いた。
「行くぞ」
「遥を迎えに行く」
その仕草は、あまりにも自然だった。まるで私たちが、本当に生活に追われる普通の夫婦であるかのように。まるで彼が、本当に娘の降園時間を覚えている父親であるかのように。
「もう調べてあるんだ」
「城西に、都内でも有名な名門幼稚園がある。借金を返し終えたら、遥をそこへ入れよう」
都内でも有名な名門幼稚園。私の遥は、普通の保育園にさえまともに通えなかった。私は彼の白々しい姿を見つめ、唇を動かした。
「久我景臣、遥はもう……」
私は言おうとした。遥はもう死んだのだと。彼の嘘と傲慢と、貧しさの檻に殺されたのだと。けれど最後まで言う前に、彼は苛立ったように私の腕をつかみ、強引に立たせた。
「何をぐずぐずしている」
「遅くなったら保育園が終わる。遥が俺たちを探して不安になるだろう」
彼の力は強かった。長年栄養も休息も足りなかった私は、振りほどくこともできなかった。
4.前妻のホットラテ
しばらくして、彼は私を連れて街角まで歩いた。赤いスポーツカーが、音もなく路肩に停まっていた。扉が開き、きれいに化粧をした女が降りてくる。
神崎美月。久我景臣のかつての妻だった。
彼女は以前、表に出せない財務スキャンダルに巻き込まれた。久我家はグループの名を守るため、久我景臣に彼女との離婚を迫り、彼女を久我家の表舞台から完全に切り離した。
けれど久我景臣は、それをずっと久我家の仕打ちだと思っていた。神崎美月は巻き込まれ、誤解され、一族の犠牲にされたのだと信じていた。だから彼は、私と結婚したあとも、本当の意味で彼女を手放さなかった。
そして私は、彼が久我家に「自分はもう新しい安定した家庭を築いた」と証明するための、二番目の妻にすぎなかった。彼の正体を知らず、強い実家もなく、父の手術費の恩で彼に感謝しているだけの、都合のいい女。
神崎美月は私たちを見ると、いかにも驚いたような顔をした。
「景臣?」
「偶然ね。あなたもここにいたの?」
彼女は甘えるように歩み寄り、慣れた手つきで久我景臣の腕に絡みついた。
「景臣、急に喉が渇いちゃった」
「ホットラテを買ってきてくれない?」
彼女は彼の腕を揺らした。
久我景臣は私を一瞥し、何も起こらないとでも思ったのか、そのまま背を向けた。彼が離れた途端、神崎美月の笑みは消えた。彼女は私を上から下まで眺めた。その目は、悪臭を放つごみでも見るようだった。
「佐倉清花、何年ぶりかしら」
「あなた、ずいぶん惨めな姿になったのね」
「知らない人が見たら、どこかのごみ捨て場から這い出てきたのかと思うわ」
私は拳を握り締め、何も言わなかった。
反応しない私を見て、神崎美月はさらに楽しそうに笑った。
「知っている?」
「景臣は毎晩、私の隣で眠っているの」
「あの人、あなたみたいに干からびた体を抱くのは気持ち悪いって言っていたわ」
「あなたのこの数年の苦労なんて、私たちにとってはお茶の時間の笑い話だったのよ」
「犬みたいに必死で借金を返す姿、本当に面白かった」
彼女はそこで一拍置き、私の腕の中の骨壺に視線を落とした。
「あら、そういえば、あなたのあの病弱な娘は?」
「今日は連れていないの?」
「まさか、育てられなくて死んだんじゃないでしょうね?」
その一言が、私の中の怒りに火をつけた。遥は生きているあいだ、貧しさと病気のせいで、十分すぎるほど冷たい視線を浴びてきた。死んだあとまで、誰にも侮辱させたくなかった。私は手を振り上げ、神崎美月の頬を叩こうとした。
けれど私の手が届くより早く、彼女は久我景臣が買って戻ってきたホットラテをつかみ、自分の体に向かって思いきりぶちまけた。
「きゃあ――!」
彼女は悲鳴を上げ、その場に倒れ込んだ。
「清花さん、どうしてこんなことをするの?」
「私を恨んでいるのは分かるわ。でも、こんなひどいこと……」
久我景臣が声を聞きつけて走ってきた。地面に倒れた神崎美月を見た瞬間、彼の顔色が変わった。
「美月!」
彼は駆け寄り、彼女を抱き起こした。
私は慌てて説明した。
「違う」
「彼女が自分でかけたの」
けれど久我景臣は、まるで聞いていなかった。
「佐倉清花。お前がここまで悪質な女だとは思わなかった」
彼は私に弁解の機会を与えなかった。次の瞬間、彼の手のひらが私の頬を激しく打った。
口の中に、鉄の味が広がる。私は頬を押さえ、信じられない思いで目の前の男を見つめた。遠い昔、彼は同じ手で私を守ってくれたことがあった。
取立て屋に玄関先で囲まれたとき、彼は私を背中にかばい、はっきりと言った。
「清花は俺の妻だ。誰にも傷つけさせない」
仕事先で理不尽な目に遭ったとき、彼は私を抱きしめ、低い声でなだめた。
「怖がるな。俺がいる」
「命に代えても、お前を守る」
あの誓いは、今この頬に残る痛みだけになった。神崎美月は彼の腕の中で、か弱く震えてみせた。
「私は、あなたを大事にしてって言っただけなの」
「それなのに、顔を焼こうとするなんて。景臣、怖かった……」
久我景臣は私をにらみつけ、怒鳴った。
「佐倉清花、何年たってもお前は何も分かっていない!」
「美月はもう十分傷ついてきた。どうしてお前は、いつも彼女を追い詰めるんだ!」
5.救命恩人という名の罠
その瞬間、息が止まったような気がした。私が初めて久我景臣に会ったのは、病院の廊下だった。
その日、彼は久我医療財団の人たちと一緒に、支援患者の見舞いに来ていた。私は彼が久我という姓で、財団の若い理事代表だということしか知らなかった。彼が久我家本家の御曹司だとは、夢にも思っていなかった。
父が危篤状態になったとき、私は会計窓口の前で膝をつき、数日だけ支払いを待ってほしいと頼んでいた。けれど手術の予定はすでに決まっていて、費用が払えなければ、医師にもどうすることもできないと言われた。
久我景臣は、そのとき足を止めた。私の事情を聞いたあと、彼は長く沈黙した。
「財団の金は、今日中には下りない」
「申請、審査、振込まで、早くても一週間はかかる」
「あなたのお父さんは、そこまで待てない」
私は顔を上げ、涙でぼやけた視界の中で彼を見た。彼は私の手から請求書を抜き取り、静かな声で言った。
「この金は、俺が個人的に立て替える」
「返すのは、あとでいい。急がなくていい」
あのときの私は絶望しきっていて、深く考える余裕などなかった。父は結局助からなかった。それでも、私がいちばん無力だったとき、久我景臣は唯一手を差し伸べてくれた人だった。
葬儀のあと、彼は私を訪ねてきた。その日は大雨だった。彼は斎場の外で黒い傘を差し、低く静かな声で言った。
「清花、ひとりでは支えきれないだろう」
「俺に、あなたを守らせてほしい」
彼が医療財団で働いていることは知っていた。私より広い世界を見ている人だとも分かっていた。だからこそ、私は彼の重荷になりたくなかった。手術費を立て替えてもらったから、彼にしがみついているのだと思われたくもなかった。
その迷いを見抜いたように、久我景臣は言った。
「俺は大した人間じゃない」
「ただの普通の男だ」
「派手な暮らしはさせてやれない。でも、家なら作れる」
あのときの私は、疲れきっていた。父を失い、家は空っぽになり、借金と葬儀費用に押しつぶされそうだった。久我景臣は、暗闇の中から差し伸べられた唯一の縄のように見えた。つかんではいけないと分かっていたのに、私は手を伸ばしてしまった。
私は信じた。彼は本当に、私と普通の暮らしをしたいのだと思っていた。けれど後になって知った。彼は最初から、普通の男などではなかった。久我景臣が私と結婚したのも、愛していたからではなかった。
神崎美月が久我家を離れたあと、彼には新しい結婚が必要だった。自分があの過去の関係と完全に切れたと、本家に証明するために。そうして初めて、彼は久我ホールディングスでの立場を保てた。そして私は、最も都合のいい相手だった。
家は普通で、父は亡くなったばかり。頼れる親族もなく、あの手術費のことで彼に深く感謝していた。彼は久我家に、私は内向的で人前に出たがらず、遥は体が弱いから外で療養していると説明した。久我家は、彼が安定した家庭を築き、妻子をきちんと養っていると思い込んだ。
結婚してしばらくすると、闇金業者を名乗る男たちが家に押しかけてきた。彼らは言った。久我景臣は、私の父の手術費を立て替えるために、個人的に高利で金を借りたのだと。利息が膨らみ、今では私には想像もつかない額になっているのだと。
私は震え上がった。数日後、久我景臣は体中に傷を作って地下室へ戻ってきた。疲れきった顔で、無理に笑った。
「清花、怖がるな」
「これはお前のせいじゃない」
けれど、私がどうしてそう思えるだろう。あの金は、私の父のためのものだった。
その日から私は、必死に働き始めた。その借金を少しずつでも返そうと思った。最初のうち、取立て屋たちは家に来て脅すだけだった。扉を叩き、家具を蹴り倒し、玄関に赤いペンキをぶちまけた。そして、金を返さなければ保育園にいる遥のところへ行くと脅した。
私は怖かった。警察にも行けなかった。誰にも助けを求められなかった。久我景臣の財団の同僚に聞くこともできなかった。男たちははっきり言ったのだ。下手に口を開けば、まず遥から狙うと。
久我景臣は私を抱きしめ、何度も慰めた。
「もう少しだけ耐えてくれ」
「この金を返し終えたら、普通の暮らしができる」
「清花、俺はお前と遥をずっと苦しませたりしない」
そのときの私はまだ知らなかった。個人的な借金も、高利貸しも、闇金も、すべて久我景臣が作り上げた嘘だった。
あの手術費は、彼が借りた金ではなかった。久我家の御曹司にとって、それはその場で簡単に支払える程度の金だった。
けれど彼は、それを救命の借金に変えた。私に申し訳なさを植えつけ、罪悪感を抱かせ、父と私が彼に命を借りたのだと思わせるために。
6.砕かれた骨壺
家に戻ったとき、地下室の扉はすでに蹴破られていた。数人の男たちが、中をめちゃくちゃに荒らしていた。
私は彼らを知っていた。この数年、毎月のように借金を取り立てに来ていた男たちだった。
私は部屋に飛び込み、遥の骨壺を守ろうとした。けれど入ってすぐ、床に散らばったクレヨンの絵が目に入った。遥が生前、いちばん大切にしていた絵だった。
絵の中では、私たち三人が手をつないで、草原で凧を揚げていた。遥はそれを、いちばん幸せなときの絵だと言っていた。
神崎美月は部屋の中に立ち、ハイヒールの先でその絵を何度も踏みつけた。やがて彼女は、テーブルの上に置かれた骨壺を指差した。
「あの箱も目障りね」
「壊して」
その瞬間、全身の血が頭にのぼった。
「やめて!」
私は何も考えずに飛び出した。けれど近づく前に、ひとりの男に遮られた。膝から力が抜け、私はその場に崩れ落ち、みじめに頭を下げた。
「お願いします」
「あの箱だけは壊さないで」
「土下座でも何でもします。欲しいものは全部あげます。だから、それだけは……」
あれは私の遥なのだ。あの子がこの世に残してくれた、たった一つのしるしだった。
男は私を嫌悪するように見下ろした。次の瞬間、彼の足が私の肋骨を強く蹴った。激痛が走り、私はうめき声を漏らして壁に叩きつけられた。
同時に、遥の骨壺がテーブルから落ちた。鈍い音を立て、白い粉が中からこぼれ出した。
「ああ――!」
私は這うように駆け寄り、両手で必死にその粉をかき集めた。けれど粉はあまりにも細かく、風が吹くだけで散っていった。どうしても、つかまえることができなかった。
「私の遥……」
「私の娘……」
絶望の叫びの中で、私の涙と床のほこりと遥の遺灰が混ざり合い、顔中にこびりついた。
長い時間が過ぎてから、神崎美月と男たちはようやく出ていった。
久我景臣が戻ってきたのは、そのあとだった。私の腫れた目を見て、彼はしゃがみ込み、当然のような優しさで私を抱きしめた。
「清花、これからはもう離れない」
「お前と遥を、大きな家に連れていく。いいだろう?」
彼が私の手を取ったとき、ようやく私の手が陶器の破片や木片で血だらけになっていることに気づいた。
次の瞬間、彼は床に転がるひび割れた骨壺を指差し、怒ったように言った。
「このくだらない箱を探すために、そんな手になったのか?」
私が反応する前に、彼は私をつかんだ。病院へ連れていこうとしたのだろう。
けれどそのとき、彼のスマートフォンが鳴った。彼はすぐに私の手を離した。
「清花、自分で少し手当てしてくれ」
「急用ができた」
「戻ったら病院に連れていく」
「そのあと、遥と一緒に新しい家を選ぼう」
神崎美月からの連絡なのだと、私は分かった。彼が出ていく背中を見つめながら、私は必死に立ち上がった。遥はここにいるべきではない。
私はあの子を故郷へ連れて帰り、海が見える場所に葬る。
床に残った遺灰を少しずつ集め、バッグに入れた。それから新宿のバスターミナルへ向かった。
7.死亡届は受理済み
改札へ向かう直前、久我景臣からのメッセージが次々に届いた。
「清花、新しいマンションの名義を遥にしようと思ったら、司法書士が住民票は除票になっていると言った。どういうことだ?」
「返事をしろ! 遥はどうした?」
「どうして死亡届を出している?」
「まさか、俺たちの娘は……」
画面に表示される文字を見つめ、私は乾いた唇をわずかに歪めた。
そのまま電源を落とし、スマートフォンをゴミ箱に捨てた。バッグを抱きしめ、振り返ることなく改札を通った。
一方、新宿の高級マンションの販売センターで、久我景臣は画面に表示された一行を凝視していた。
【死亡届はすでに受理され、住民票も除票になっています】
心臓が一瞬、止まったように感じた。隣では、神崎美月が苛立った様子で彼の袖を引いた。
「景臣、マンション一つじゃない。あなたの名前でいいでしょう?」
「悠真が沖縄でケーキを切るのを待っているのよ」
「早く署名して行きましょう」
久我景臣は彼女の手を振り払った。頭の中では、私があの木の箱を抱えていたときの絶望した顔と、陶器の破片で血だらけになった手が何度もよみがえっていた。
彼の呼吸は、少しずつ荒くなっていった。
「お前だけで沖縄へ行け」
「確かめることがある」
神崎美月の制止を無視し、彼は販売センターを飛び出した。そのまま車を飛ばし、あの暗く湿った地下室へ向かった。
扉は開いたままだった。部屋の中は荒れ果て、床には白い粉が散らばっていた。破れたクレヨンの絵には、私の血がついていた。
久我景臣はしゃがみ込み、震える指で絵の切れ端を拾った。そこに描かれた遥は、あまりにも幸せそうに笑っていた。
彼は胸が詰まるような息苦しさを覚えた。スマートフォンを取り出し、私に何度も電話をかけた。
「おかけになった電話は、現在電源が入っていないか、電波の届かない場所にあります」
機械的な声が、彼を完全に追い詰めた。
彼は地下室を飛び出し、市内の病院へ車を走らせた。遥がいつも点滴を受けていた病院だった。受付の看護師がまだ忙しそうにしている中、久我景臣は駆け寄り、両手でカウンターをつかんだ。
「患者を調べてくれ!」
「久我遥、六歳だ!」
看護師は彼の血走った目に怯え、慌ててキーボードを打った。数秒後、彼女は顔を上げ、目をそらした。
「久我遥さんは……昨日の午後、死亡証明書の手続きが済んでいます」
耳の奥で、何かが鳴った。久我景臣は一歩よろめき、立っていられなくなりかけた。彼は看護師の襟をつかんだ。
「何を言っている!」
「娘はただ風邪を引きやすかっただけだ。死ぬはずがない!」
警備員が駆けつけ、彼を引き離した。騒ぎを聞いた主治医が診察室から出てきた。久我景臣が遥の父親だと知ると、医師の目に露骨な嫌悪が浮かんだ。
「あなたが遥ちゃんのお父さんですか?」
「昨日、遥ちゃんのお母さんが遺体を抱きしめて三度も泣き崩れたとき、あなたはどこにいたんです?」
医師は冷たい一枚の書類を、彼の胸に押しつけた。
「急性肺炎による高熱とけいれん」
「苦しさに耐えきれず、あの子は自分の舌を噛み切りました」
「最後は窒息です」
久我景臣は書類の黒い文字を見つめ、全身の血を一瞬で抜き取られたように固まった。膝から力が抜け、彼は病院の冷たい床に崩れ落ちた。
「舌を……」
「窒息……」
彼は必死に首を振った。
「ありえない」
「清花は昨日も、俺に金を持ってきていた……」
医師は冷たく笑った。
「あなたにとって、そのお金はお子さんの命より大事だったんですか?」
「久我さん、ずいぶん立派なお父さんですね」
医師の言葉は、何本もの刃のように久我景臣の胸に突き刺さった。彼は昨日、銀座の個室で煙草を吸い、神崎美月を抱き寄せながら、「そのうち玩具でも買ってやれば、遥はまた父親と呼ぶ」と軽く言い放った自分を思い出した。
そのとき、彼の娘はいったいどれほどの絶望と苦痛の中にいたのだろう。久我景臣は、私を本当の妻として見たことがなかった。彼にとって私は、従順で、貧しく、扱いやすい女だった。少し希望を与えれば、またあの壊れた家にしがみつく女。遥についても、まったく気にしていなかったわけではない。ただ彼は、自惚れていた。子どもは小さいから、いつか気が向いたときに戻れば、いくらでも償えると思っていたのだ。
けれど彼は忘れていた。子どもは、いつまでも同じ場所で待っていてはくれない。命に「そのうち」はない。
久我景臣は胸を押さえ、突然大量の血を吐いた。真っ赤な血が死亡証明書に染み広がる。彼は這うように病院を飛び出し、あらゆる伝手を使って私の乗車記録を調べた。行き先は、静岡県伊豆半島の、海辺にある小さな町だった。
久我景臣はアクセルを踏み込み、狂ったように高速道路へ入っていった。
8.海辺の町の新しい墓
夜行バスは一晩中揺れ続けた。
朝、私はバッグを抱え、二両編成のローカル線に乗り換えて、何年も帰っていなかった伊豆の海辺の町へ戻った。
町は山を背にし、海に面していた。裏山には日当たりのいい斜面がある。子どもの頃、私はよく遥をそこへ連れていき、野花を眺めた。遥はいつも草むらのそばにしゃがみ、小さな白い花に向かって長いこと笑っていた。
私は泥の上に膝をつき、錆びたシャベルで少しずつ穴を掘った。指の皮が破れ、血が土に混じった。痛みは感じなかった。ただ胸の中に、大きな穴が空いているようだった。
私はバッグに残っていたわずかな遺灰を、遥が生前いちばん気に入っていた服と一緒に穴へ入れた。ひとすくいずつ土をかけた。最後に木の板を探し、彫刻刀で一文字ずつ刻んだ。
愛女 久我遥之墓。
すべてを終えると、私は木の板のそばに寄りかかり、遠くの海をぼんやり見つめた。
遥、ここには借金取りの悪い人はいない。偏った愛しか知らないお父さんもいない。安心して眠ってね。
背後から、乱れた足音が聞こえた。荒い息づかいも混じっていたが、私は振り返らなかった。久我景臣が、泥だらけの姿で斜面を駆け上がってきた。
高級スーツは枝で裂け、顔には恐怖と混乱が張りついていた。彼は新しく盛られた土と、その前に立つ木の板を見た瞬間、魂を抜かれた人形のようにその場へ崩れ落ちた。
「清花……」
彼は震える手を伸ばし、木の板に触れようとして、感電したように手を引っ込めた。
「これは何だ?」
「俺たちの娘を呪っているのか?」
彼は激しく顔を上げ、狂気じみた希望を宿した目で私を見た。
「遥は?」
「古い家に隠しているんだろう?」
「俺が悪かった。お前たちを放っておいた俺が悪かった」
「こんなやり方で俺を罰しないでくれ!」
私は冷たく彼を見た。かつて命を懸けて愛した男を、ただ見下ろした。
「久我景臣、あなたはあの箱を邪魔だと言ったでしょう」
「神崎美月がそれを壊すのを、あなたは止めなかったでしょう」
「あれは遥の骨壺だったの」
私の声は、自分でも驚くほど静かだった。
久我景臣は雷に打たれたように固まった。
「ありえない……」
「あれは、ただの古い木箱だろう……」
「どうして遥を、あんなものに入れているんだ……」
彼は必死に首を振り、突然狂ったように土の山へ飛びついた。両手で必死に土を掘り返そうとする。
「信じない!」
「遥は死んでいない!」
「俺があの子を見つける!」
私は立ち上がり、彼の肩を思いきり蹴った。彼は斜面を数メートル転がり、頭から顔まで泥まみれになった。
「私の娘の最後の安らぎを汚さないで!」
私は彼を見下ろした。
「久我景臣、あなたは最初から私を騙していた」
「普通の男のふりをして、私の父を救うために高利貸しから金を借りたと言った」
「あのいわゆる債権者たちに、毎日扉を叩かせた。私に一日三つの仕事をさせた」
「遥が四十度の熱を出したとき、私は床に跪いて、数日だけ待ってほしいと頼んだ」
「あの人たちは遥を蹴り飛ばした」
一言言うたび、久我景臣の顔から血の気が引いていった。彼は泥の中に這いつくばり、ふるふると震えていた。
「知らなかった……」
「本当に、あいつらが手を出すなんて知らなかった……」
「俺はただ、お前が俺の正体を調べないように、本家へ行かないようにしたかっただけで……」
「だけ?」
私は天を仰いで笑った。けれど涙は止まらなかった。
「久我景臣、あなたのその『だけ』が、私の娘の命を奪ったのよ!」
「今さら慈父ぶって何のつもり?」
「神崎美月のところへ行けばいいじゃない!」
久我景臣は泣き崩れ、膝を使って私の足元まで這ってきた。そして私の脚にしがみついた。
「清花、俺が悪かった!」
「本当に悪かった!」
「俺を殺してくれ。何度でも刺してくれ!」
「頼む、俺を追い出さないでくれ。遥のそばにいさせてくれ……」
私は嫌悪を込めて足を引き抜いた。
「帰って離婚届を用意して」
「法廷で会いましょう」
そのとき、久我景臣のポケットの中でスマートフォンが唐突に鳴った。専用着信音は、神崎美月の甘えた笑い声だった。
着信音が誰もいない山の斜面に響き、ひどく耳障りだった。
久我景臣は慌ててスマートフォンを取り出し、切ろうとした。だが画面に表示された「美月」の文字を見た瞬間、その手が止まった。
私は喉の奥で笑い、山を下りるために背を向けた。
「出ればいいじゃない」
「あなたの大切な人を待たせないで」
9.真実の愛の裏側にあった罠
久我景臣は私の背中を見つめながら、震える指で通話ボタンを押した。電話がつながった瞬間、神崎美月の甲高い不満の声が飛び込んできた。
「景臣! どこへ消えたの?」
「悠真の誕生日に来ないだけでもひどいのに、沖縄リゾートの残金はどうしてまだ払っていないの?」
「早く振り込んで。私の息子に惨めな思いをさせないで!」
久我景臣は、その当然のような口ぶりを聞き、胃の奥がひっくり返るような感覚に襲われた。
彼は孤独に立つ新しい墓を見上げた。彼の実の娘は、治療費も足りないまま苦しんで死んだ。なのに神崎美月のそばにいる子どもは、離島のリゾートで彼が出した数千万円を浪費している。
「美月……」
「遥が死んだ」
電話の向こうが、不自然なほど一瞬静かになった。
やがて、神崎美月の声が何でもないことのように返ってきた。
「死んだなら死んだでしょ」
「病弱な足手まといなんて、見ているだけで縁起が悪かったもの」
「死んでよかったじゃない。これからは、あなたのお金は全部私と悠真のものよ」
「早く振り込んで。そんな気分の悪い話で邪魔しないで」
ツー――
通話が切れた。
久我景臣はスマートフォンを握ったまま、脳が真っ白になった。これが、彼がすべてをかけて償おうとしていた女だった。これが、久我家に虐げられ、運命に傷つけられた真実の愛だと信じていた女だった。
彼は妻と娘の命を使って、一つの笑い話を手に入れただけだった。久我景臣は勢いよく立ち上がり、よろめきながら山を下りた。
久我景臣はその夜のうちに東京へ戻った。彼が真っ先に向かったのは神崎美月のもとではなく、銀座の古いビルの裏口だった。そこは、彼がかつて自分の手で「高利貸しの芝居」を仕組んだ場所だった。
遥の墓前で私が言った言葉が、毒針のように彼の胸に刺さっていた。遥が四十度の熱を出していたとき、あの男たちに蹴り飛ばされた。私が数日だけ待ってほしいと跪いたとき、肋骨を蹴られた。久我景臣は、そのことを知らなかった。
彼が裏口を蹴破ると、当時、取立て屋の手配をしていた男が中で煙草を吸っていた。その男は彼を見るなり、顔色を変えた。
「く、久我さん……」
久我景臣は男の襟をつかみ、壁に叩きつけた。
「俺は清花を脅せと言った。逃げるな、俺の正体を調べるなと怯えさせろと言った」
「お前たちに、あいつへ手を出せと言ったか?」
「俺の娘に触れろと言ったか!」
男は顔を紫にしながら、必死に首を振った。
「違います……違います!」
「久我さん、一年目は確かにうちの人間が行っていました。でもそのあと、神崎さんがこの件は自分が処理すると言って、私たちに手を引けと……」
久我景臣の動きが止まった。
「何だと?」
男は震えながら続けた。
「二年目から、佐倉さんのところへ金を取りに行ったのは、うちの人間ではありません」
「神崎さんが、自分の人間に替えたんです」
「久我さんは気にしない、調べもしないと言っていました。金もその後はうちを通っていません。全部、あの人が用意した口座へ流れていました」
久我景臣は手を離し、顔色を少しずつ失っていった。私がこの数年差し出してきた一円一円は、とっくに彼の自作自演の帳簿などではなくなっていた。
神崎美月が、彼の嘘を引き継いだのだ。そしてそれを、本当に血を吸う仕組みに変えた。
彼は車へ戻り、手下に電話をかけた。
「調べろ」
「二年目以降、清花のところへ取り立てに行っていた連中が誰なのか」
「清花がこの数年払ってきた金が、最後にどの口座へ入っていたのか」
「神崎美月名義の会社と代理口座も、一つ残らず洗え」
10.ついに報いを受けた女
夜明け前、最初の調査報告が久我景臣の手元に届いた。
報告には、はっきりと書かれていた。二年目以降、いわゆる「返済金」はすべて、神崎美月名義のペーパーカンパニーへ流れていた。家に来ていた取立て屋たちも、すべて彼女と地下の暴力業者の男が手配した人間だった。
久我景臣は一枚の写真を見つめた。写真に写る男を、彼は知っていた。神崎美月が「汚れ仕事を任せている」と呼んでいた男だった。
彼は車の鍵をつかみ、そのまま神崎美月の別荘へ向かった。
別荘には明かりがついていた。久我景臣がドアを開けようとした瞬間、中から神崎美月の笑いを含んだ声が聞こえた。
「景臣って、本当にばかよね。いまだに悠真が私と彼の子どもだと思っているんだから」
「あの子が私とあなたの息子だなんて、夢にも思っていないわ」
男が低く笑った。
「あいつは実の娘の命を使って、俺の息子の誕生日を祝ったわけだ。考えるだけで笑えるな」
神崎美月は甘えるように男を叩いた。
「そんな言い方しないで」
「だって、あの人が勝手に愚かなだけでしょう?」
扉の外で、久我景臣の指がドアノブの上で凍りついた。その瞬間、彼はすべてを理解した。彼は妻と娘を閉じ込め、神崎美月を守るつもりでいた。
けれど神崎美月は最初から最後まで、彼をただ使いやすい愚か者としか見ていなかった。
「あの佐倉清花って女、なかなか根性だけはあったわね」
「肋骨を蹴られても、あのくだらない骨壺を必死に守っていた」
「残念だったな。最後は俺が踏み壊したけど」
二人は声を上げて笑った。
久我景臣は玄関に立ち尽くし、目を血走らせていた。全身の血が逆流しているようだった。
「畜生!」
彼は獣のように吠え、玄関脇の花瓶をつかむと、男の頭へ思いきり叩きつけた。
花瓶は砕け、男は血を押さえて悲鳴を上げた。
神崎美月が叫びながら飛び退く。久我景臣を見た瞬間、顔から血の気が引いた。
「け、景臣?」
「どうしてここに……」
久我景臣は彼女の言葉など聞かなかった。彼は駆け寄ると、神崎美月の首をつかみ、壁に押しつけた。
「お前は俺を騙した!」
「俺の娘を殺した!」
「お前に償わせてやる!」
彼の手の甲には青筋が浮かび、本気で締め上げていた。神崎美月は白目をむき、足をばたつかせた。
そのとき、物音を聞いた数人のボディガードが駆け込んできた。男は顔の血を拭い、凶悪な表情で怒鳴った。
「殺す気でやれ!」
数人の男たちが一斉に久我景臣へ飛びかかり、彼を床に蹴り倒した。拳と革靴が、雨のように彼へ降り注ぐ。
久我景臣は抵抗しなかった。床の上で丸くなり、殴られ続けた。肋骨が折れる音が、リビングに響いた。
彼はその痛みを、どこかで快くさえ感じていた。これが清花が味わった痛みなのか。これが遥が蹴り飛ばされたときの痛みなのか。
足りない。こんな痛みでは、あの母娘の万分の一にも及ばない。
久我景臣が息も絶え絶えになるまで殴られたところで、男が手を上げて止めさせた。神崎美月は首を押さえ、血だまりの中に倒れた彼を見下ろした。顔には嫌悪が浮かんでいた。
「もう全部知ったなら、私も演じる必要はないわね」
「久我景臣、今のあなたはただの笑いものよ」
「さっさと出ていって」
久我景臣は血の中に倒れたまま、突然口元を歪めた。その笑みは、人の背筋を凍らせるものだった。彼は血を吐きながら、ポケットから小型の録音機を取り出した。
「俺が……」
「一人で来たと思ったのか?」
その言葉が終わると同時に、別荘の外で鋭いサイレンが鳴り響いた。
大勢の警察官がドアを破って入ってきた。
神崎美月と男は、詐欺、傷害、恐喝、遺骨を納めた物品の損壊および器物損壊などの疑いで、その場で手錠をかけられた。
神崎美月は連行されるとき、泣きながら久我景臣に助けを求めた。
久我景臣は、もう彼女を一度も見なかった。折れた肋骨を抱え、彼はどうにか立ち上がった。
11.赦される資格などない
その後、彼はすべての財産と会社を取り戻した。
けれど、がらんとした最上階のオフィスに座ったとき、彼は寒さに震えた。
久我景臣は不動産の権利書、株式書類、銀行カードを一つの袋に詰め、運転手に命じてその夜のうちに伊豆へ向かった。
彼はそのすべてを私に差し出すつもりだった。許しを乞うために。たとえ牛馬のように働いても、私の前で跪いたまま死んでもいいと思っていた。
久我景臣が実家の半開きになっていた門を押し開けたとき、目に入った光景に心臓が止まりかけた。
庭で、私は踏み台に乗り、物干しひもを少し高く掛け直そうとしていた。足が滑り、体が後ろへ大きく傾く。
「危ない!」
力強い腕が、私をしっかりと受け止めた。森崎修也だった。
高校時代の同級生だ。私が故郷に戻ったと聞き、雨漏りする屋根を直すためにわざわざ来てくれていた。彼は私を支えると、きれいな上着を私の肩に掛けた。
「清花、疲れすぎだ」
「少し休んで。ここは俺がやる」
その声は穏やかで、目には隠しようのない心配があった。私が礼を言うより早く、門の外から絶望に満ちた叫び声が聞こえた。
「その手を離せ!」
久我景臣が狂ったように飛び込んできた。顔には痣が残り、歩き方もふらついていた。明らかに重傷を負っている。それでも彼は全力で森崎修也を押しのけ、私を背中にかばった。
「お前は誰だ?」
「俺の妻に近づくな!」
森崎修也は眉をひそめ、目の前のぼろぼろの男を見た。
「久我景臣?」
「まだ清花の前に顔を出せるのか」
久我景臣は彼を無視し、私の手を強く握った。彼の手は激しく震えていた。
「清花、全部取り戻した!」
「神崎美月は捕まった。あの男も刑を受ける!」
「俺の金も、会社も、全部お前と遥のものだ!」
彼は財産の証明書が詰まった袋を私の腕に押しつけた。目はどこまでも卑屈だった。
「俺と帰ってくれ」
「もう一度、やり直そう」
「今度こそ、命を懸けて大切にする!」
私はその袋を見下ろし、たまらなく滑稽に思った。袋を地面に投げ捨てると、中から権利書がばらばらと散らばった。
「やり直す?」
私は冷たく彼を見た。
「久我景臣、遥が死ぬとき、どんな姿だったか知っている?」
彼は全身を硬直させ、目に恐怖を浮かべた。
「言わないでくれ……」
「清花、頼む。言わないで……」
私はあえて言った。
「あの子が着ていたのは、誰かのお古の服だった」
「高熱でけいれんして、口の中は血だらけだった」
「舌を噛み切ったその瞬間も、かすれた声でパパ助けてって呼んでいた」
私は一歩近づき、彼の目をまっすぐに見据えた。
「久我景臣、今さらその汚い金を持ってきて何をするつもり?」
「あの子の命を買えると思っているの?」
「あなたに、あの子の父親を名乗る資格があるの!」
久我景臣の顔から一瞬で血の気が消えた。彼は泥の中に、重く膝をついた。折れた肋骨のせいで苦しそうにうめいたが、立ち上がらなかった。
「清花、愛してくれと頼みに来たんじゃない」
「俺にそんな資格がないことは分かっている」
「ただ……遥が死んでから、俺には償う資格すらないと分かったんだ」
私は彼を見て、笑いたくなった。
「あなたに償う資格がないんじゃない」
「あなたには、赦される資格がないの」
彼は手を上げ、自分の頬を思いきり叩いた。
「俺は獣だ」
「俺は死ぬべきだ」
一発一発、全力で打っていた。すぐに口元から血がにじんだ。
私は彼の自傷を冷ややかに見つめた。胸の中には、もう何の波も起こらなかった。
「出ていって」
「遥の最後の安らぎを汚さないで」
森崎修也が前へ出て、久我景臣の襟をつかんだ。そして死んだ犬でも引きずるように、庭の外へ引きずっていった。
門が大きな音を立てて閉まった。
久我景臣は捨て犬のように、門の外の大雨の中で一晩中跪いていた。
12.来世では二度と会わない
翌朝、私が門を開けたとき、そこに彼の姿はなかった。森崎修也が青ざめた顔で駆け込んできた。
「清花、大変だ!」
「久我景臣が……」
「裏山の遥ちゃんの墓の前で、自分を埋めている!」
私が裏山へ駆けつけると、すでに村の人たちが輪になって集まっていた。皆が指を差し、ひそひそと騒いでいた。
久我景臣は遥の墓の横に素手で深い穴を掘り、体の半分を土の中に埋めていた。泥に汚れた上半身だけが外に出ている。雨水と泥水が目に流れ込んでいるのに、まばたきもしなかった。
私が来たのを見ると、灰のようだった彼の目に、ほんの少しだけ光が戻った。
「清花……」
「来てくれたんだ」
声は、今にも途切れそうなほど弱かった。
「遥と一緒に眠る」
「そうすれば、あの子が来世へ向かう道で寂しくない」
「来世では……また俺があの子の父親になる」
「今度こそ、ちゃんと守る」
彼は自分に酔い、涙を流していた。私はただ、胃の奥から吐き気が込み上げるのを感じた。
「久我景臣、あなたはいつもそうね」
私は穴のそばに立ち、彼を見下ろした。
「自分だけ感動して、他人を吐き気がするほど不快にさせる」
「ここで死ねば、遥があなたを赦すとでも思っているの?」
「あの子はきっと、あなたを臆病者だと思うわ。生きて償う勇気すらない男だと」
私はポケットから、あらかじめ用意していた離婚届を取り出し、彼の顔に投げた。
「署名して」
久我景臣は雨に濡れた紙を見つめた。目の中の光が、完全に消えていった。
「清花……」
「離婚しないでくれるなら、俺の命はお前のものだ」
彼はまだ最後の抵抗をしていた。私は冷たく笑った。
「署名しないなら、裁判で離婚する」
「あなたの深情ごと、私の世界から消えて」
彼は私の決然とした顔を見つめ、ようやく理解した。何をしても、たとえ死んでも、私はもう振り返らないのだと。泥だらけの手を震わせながら、彼は離婚届に歪んだ字で自分の名前を書いた。
私はその紙を拾い、背を向けた。一片の未練もなかった。
「清花!」
背後で彼が喉を裂くように叫んだ。
「来世では……」
「また、お前に会えるだろうか」
私は足を止めなかった。
「来世では、私は獣に生まれたほうがまし。あなたと知り合うくらいなら」
その後、彼は久我ホールディングスの株式と財産をすべて処分し、一円も残さず全国の小児病院へ寄付した。
彼は「遥遥救助基金」という名の基金を設立し、治療費が足りずに命を落としかけている子どもたちを支援するようにした。
そして彼自身は、完全に放浪者になった。横浜ベイ水族館の入口で彼を見たという人がいる。ぼろぼろのスーツを着て、汚れたイルカのぬいぐるみを胸に抱きしめ、通りかかる人にへらへらと笑いながら尋ねていたという。
「俺の娘を見ませんでしたか?」
「イルカを見に連れていくんです」
「約束したんです。今度は嘘をつかないんです」
通行人は嫌そうに彼を避けたが、彼は怒らなかった。ただ道端にしゃがみ込み、そのぬいぐるみに向かってぶつぶつと話しかけていた。
「遥、怖くないぞ」
「パパはここにいる」
一方の私は、遥の遺灰を抱き、苦しみで満ちた街を離れた。伊豆の海辺の小さな町に住み、小さな花屋を開いた。
毎朝、私はあの木箱を抱いて砂浜に座る。水平線から赤い太陽が昇っていくのを見る。海風が頬を撫で、かすかな潮の匂いを運んでくる。時折、遠くの海面からイルカが跳ね、美しい弧を描く。私は木箱をそっと撫で、ようやく少しだけ穏やかに笑えるようになった。
「遥、見て」
「イルカだよ」
ママが、あなたを海へ連れてきたよ。来世では、どうか優しい家に生まれてね。もう二度と、私たちのような親に出会わないで。
――完――




