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-記憶の彼方-猫探偵事務所 猫野ぶちお-

作者: にこた
掲載日:2026/05/31

-記憶の彼方-猫探偵事務所 猫野ぶちお-





明日香1


「明日香君、気分はどうだい?」


「はい・・・・・。大丈夫です」


「無事、終わったよ」


「そうですか・・・」


「君のおかげだ」



私はこの実験の被験者に自ら進んでなった。危険はないと分かってはいたが、さすがに怖かった。怖かったのは手術そのものではなくて、そのあとに訪れるであろう実験の結果が怖かった。成功すれば、私のクローンが誕生する。正確に言えば、私の脳を持った別の顔の人間が現れる。脳のクローンだ。見た目は違っても性格、嗜好は同じなのだ。私達がおこなったことは、現在の倫理に反する。私とおなじ記憶の持った人間がこの世にもう1人できるのだ。


いま思うことは、「気味が悪い」。そう、そう感じるのが当たり前だ。


人類史上初のこの実験が成功すれば、人は「記憶の不死」を手にすることができるようになる。それは、またべつの体へと替えるたびに記憶は受け継がれ、それは「不老不死」つまり「永遠の命」を獲得することを意味する。私達はタブーを犯す。開けてはならぬ扉を開けてしまう。もう後戻りはできない。これから先、どんなことがあろうと私は受け入れなければならない。





樹里1


「気分はいかがでしょうか?手術は成功しましたよ。もう心配いりません」


「ありがとうございました」


「このあとはリハビリをしていただきます。頑張ってくださいね」


「はい」


私は脳腫瘍の手術を受けた。悪性で頭の骨を切開するものだった。このままだと残された時間は6ヵ月と言われ、手術の成功確率は20パーセントだと言われていた。最悪死もありえると。

とりあえず、ほっとしたという気持ちでいっぱいだ。私はまだ生きいていていい。あの店のパスタや、あそこのハンバーガー、お寿司も食べたい。この季節は登山やジョギングも気持ちいいだろう。食べたいことや、やりたいことが次々と浮かんでゆく。気持ちは早ぐ。またあの生活に戻れるようにリハビリに励もう。私は手術前の鬱々とした気分を忘れていた。





猫探偵社1


「はじめまして、わたしはこういう者でございます」


狐顔に牛乳瓶眼鏡の風吹けば軽く吹き飛ばれそうな男の名刺にはこう書かれていた。「内閣府倫理委員会室長佐木津はじめ」。


「ありがとうございます」オレはいつもの愛想もない名刺を差し出した。


「こういのが私立探偵の事務所なんですか。勉強になります」木津は物珍し気に事務所を見ている。


「散らかってまして・・・」


「いえいえ、本日はお忙しいところお時間をいただきまして、ありがとうございます」


「仕事ですから。それでご依頼の件は?」


メーテルが階下の喫茶白熊からコーヒーを持ってきた。香ばしい。頭が冴えてくる。


「コーヒーをどうぞ」


「あ、ありがとうございます」


木津は表情を引き締めて本題に入った。


「じつは、最近東都大学付属病院で倫理委員会が見過ごせない手術が行われたという噂があります。この場合手術と呼ぶよりも生体実験と呼ぶ方が相応しいです」


「生体実験?」


「はい。それも私達、いや、人類のタブーを犯すものです」


「?、ちょっと話が大きすぎて理解に苦しむのですか・・・」


「これから、私が言うことは絶対にどこにも漏らさないでいただきたい」


よほど深刻なのだろう、牛乳瓶の奥にある目つきが鋭くなってゆく。


「はっきりと申し上げます。脳をコピーした人間をつくることに成功したという噂があるのです」


「もしかして、それは・・・・・クローンですか?」メタボがいないので、こういう話のときは少し心細い。なんでも大学院の論文の打ち合わせを教授としなければならないらしく、きょうは白熊にも来ていない。


「正確に言えば脳のクローンです。外見は元のままですが脳は書き換えられています。これを発展させると「永遠の生命」を手に入れることが理論上できます。記憶はそのままで体をつぎつぎと替えてゆけばいいのです。この考えは古くからあったのですが、実現は遠い未来のこととされていました。しかし昨今の科学の進歩で、近いうちに現実になる可能性がでてきました。それがわが日本で行われたかもしれないということです。絶対にあってはならないなことです。もし実験が行われ、成功していたとするならば由々しき事態です」


全体図はわかった気がする。しかしいくら科学が進歩したからと言っても、本当に可能なことなのだろうか。話が突飛すぎる。オレには手に負えないと思うが・・・。



「それでわたしたちに何をご依頼でしょうか?」


「生体実験が成功したかどうかを探っていただいきたい。成功したとすればクローンの人間とオリジナルの人間を探し出して、研究のデータをわたしに提出してください」


「しかし相手が国立大学付属病院ならば、内閣の機関であるあなた方が直接調査すればよいかと思いますが」


「こちらの動きを知られてしまう危険があり、重要なデータ媒体を隠してしまう恐れがあります。よりリスクが少ないあなた方の力を借りたい。噂はかねがね聞いております」


そういうことなら、なんとかやれるかもしれない。いわば人探しだ。


「わかりました。お引き受けします」


「ありがとうございます。よろしくお願いします。報酬は300万円です。成功報酬は別途差し上げます」


おいしい仕事かも・・・。





明日香2


手術から10日かが経った。私は順調に回復している。切開した部分は髪が長いのでよく見ないと髪がないことはわからない。


私が受けた手術は、頭部を切開し私の脳データをコピー、クローンのほうへ転送し、記憶を書込むというものだ。まるでPCのデータをコピーする簡単な作業のように思えるが、実際にはそれぞれの過程で高度に繊細な作業を必要とする。手術は9時間に渡った。教授1人が執刀した。


この技術がもし、実用化された場合、人間の存在そのものの定義が変わる可能性がでてくる。

記憶を新たな身体に転送することで「不死」が実現されることもあるかもしれない。個人が複数の身体に記憶を転送して異なる環境や状況で「自分」を体験することも可能になるのかもしれない。国家や企業がこの技術を悪用して、個人の記憶を操作することもできるようになるのだろう。またクローンが「道具」として扱われるリスクも生まれるだろう。さままざまな可能性を秘めている技術だ。それは「できること」と「してよいこと」の倫理的基準について我々人間が考えなければならない時が必ずくるということだ。その実験に私は関わってしまった。


ふと頭に浮かんだ。もしわたしのとおなじ記憶、性格を持ったクローンに会うことができたなら・・・・・と。しかし、それは教授から禁じられている。


「わかっているね。絶対にクローンと接触してはいけない」と。


私も私のクローンもパニックになるかもしれないからだ。人類初の実験であり、2人にどう影響するかわからない。このことは慎重に段階を踏んで進めていかなければならないと考えられている。またそれ以降の実験が被験者に拒否されたならば、すべてが水の泡になってしまう。


そう、絶対にあり得ない。でもその誘惑を振り払うことが最も難しい仕事なのだと、このとき気がついた。





樹里2


個室の窓から見えるものは特になにもない。いや何もないことはない。この病院の敷地にある駐車場は満車の表示になっている、こちらに向かって走っている救急車が見える国道、住宅街、ドラッグストア、見える景色は特別変わったものはない。きっとこの病院が一番目立っているのだろう。この青空に巨大な建物は映えているに違いない。東都大学附属病院は都で一番の脳外科だ。ここで人間ドックを受けたときに脳に腫瘍が見つかった。結果を聞いたときは、思わず天を仰いだ。

とんとん拍子に手続きは終わった。そこに私の意思などなかった。システマティックにすべてが進んで、こころの整理なんてする暇がなく手術のときがやって来た。そして目覚めると病室にいた。それが成功率20パーセントの手術だった。ロングな髪の側頭部に5センチ大の切開した部分は髪が長いのでよく見ないと、それがないことはわからない。

切開した部分から地肌が覗いて、それを鏡で見ると唯一の手術をしたという実感が湧いてきた。


頭が痛い。少しずつ痛みが増してくる。側頭部が疼く。

先生に告げると、「よくあることだから心配ないよ」と言われたのでいくらか安心できた。


日ごとに頭痛が酷くなってゆく。なにも考えられないくらいだ。先生に診てもらうと、「心配ないと思います。経過を見ましょう」とのことだったが、心配でならなかった。


痛みに眠れなくなった。でも先生は何もしてくれないので不安でしょうがなかった。


頭痛が治まった。ひさしぶりに生きた心地がした。夜も眠れるようになったが、毎晩不安になることがあった。「このまま寝てしまえば、二度と目覚めることがないのではないか?」「わたしは消えてしまうのではないか?」と。眠ることが怖くなっていった。


先生が診察にやってきた。


「気分はいかがですか?」


「頭痛が治まって楽になりました」


「それはよかった。なにか聞きたいことはありませんか」


「いつ退院できますか?」


「もうちょっと先ですね。慎重に経過を診なければなりませんから。じゃあ、少し私の方から聞きますね。いいですか」


「はい」


「あなたのお名前は?」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


「もう一度聞きます。あなたのお名前は?」


「・・・・・・・・・・・・・・・工藤明日香です」





猫探偵社2


「メタボ、卒論はどうなんだ?」


「大丈夫ですよ。完成させて提出するのはまだまだ先の話ですから。まだ全体の流れを打ち合わせしている段階です。それに僕は優秀ですから」こいつが言うと自惚れに聞こえないので、そうなんだろう。


「それで、院の後はどうするつもりなんだ?」


「修士課程に進もうかな?かな」


「ところで、おまえ何学部だったけ?」


「法学部法学科猫ゼミですけど、いまさらなにを聞くんですか」


「・・・・・・・・猫ゼミ・・・・か」


「ところで、その依頼ですが、あんまり乗る気がしませんね。なんか単なる人探しで終わらないような危険な感じがしますね」


「そうだな。しかし報酬金300万円。成功報酬別だぞ」


「え!?それはやるしかないですね。報酬で正式な社のクルマを買ってください。僕のクルマじゃあ実用性がなさすぎますよ。SUVですね!あとPCを最高スペックに買い替えましょう!いまのは僕について来れませんから」


・・・・・もう使い道は決まってしまったらしい。


メタボは報酬につられてやる気に満ちている。



「さてと、問題はどうするかだ。探る対象は東都大学付属病院だから手間が省ける。整理してみると、オレたちの仕事は?」


「東都大学医学部において、クローン人間の生体実験が行われたかどうか。そして、その実験が成功したかどうか。成功したとするならばオリジナルとクローンを特定すること」


「そうだ。じゃあ、そのための近道は?」


「最近実験が行われたとするならば、オリジナル、クローンともにまだデータを取るため、病院にいると考えるのが妥当です。病院内を調べるのが第一歩でしょう」


「具体的にどうする?」


「潜入捜査!」


「よし、決まりだな。単純だが・・・そしたら、なにか病院内をうろついていても違和感のない姿にならなければならないな」


「・・・・・白衣ですか?」


「大病院だからな、1人や2人紛れていてもわからんだろ・・・・・木津氏に手配してもらう。内閣府倫理委員会に行けばあるだろう」


「うい」





明日香3


病院内を男の看護士に付き添ってもらい歩けるようになった。私の個室は一般のものとは遠く離れたところにあった。

退院したらその後は研究室に通い、体調の変化などのデータを取ることになる。


まだあの誘惑に時々負けてしまいそうになる瞬間がある。

私のクローンを見てみたい。私のクローンと話をしてみて本当に記憶が移されているのか確認してみたい。人類史上初めての人間同士の生体実験の成果だ。確認したいと強く思うことは極自然の感情に違いない。まして私はこの実験に一研究者として深く関わっている。自分自身が研究対象なのであるからして当然のことだ。

忘れよう忘れようと努力するが、返って意識してしまう。クローンはこの病院の中にまだいるに違いない。

もし私がクローンと接触してしまったとしたら、どういうことが起きるのか。それだけでも教授に聞いてみたい。おそらく私もクローンもパニックになる。私はこの実験を知っているのでまだ正常を保っていられるかもしれないが、クローンの方のショックは想像できない。教授に相談してみようか・・・・・。

行く日も行く日も同じことを考えている。もう頭から離れない。気が狂いそうだ。このままだと押し潰されてしまう。

1人で抱え込むには限界に達したので、教授に聞いてもらいに教授室に行った。


「気持ちはわかるが、すまない。無理だ。クローンに会わない状態のきみのデータを取らなければならない。精神安定剤などを処方してあげたいが、実験に差支えてしまうだろう。理解してくれ。かわりにカウンセラーをつけることはできるよ」教授は低い声で諭すようにおっしゃった。


「はい・・・・・お願いします」正直、その程度か・・と思った。



三田村さんは2日に一度で、私の病室に来てくれた。彼女が実験のことを知っているのかどうかはわからない。


優しい声で、「なにについて悩んでいるのか、あなたの重しになっているのかを正直に教えてください。大丈夫、誰にも話しませんよ。お互いに理解しあって気持ちを楽にすることが大切です。あなたが思っていることを正直に話してください」と囁いた。


「はい・・・」どこまで話していいのかわからない。


「大丈夫よ。ここであなたが話したことは絶対に口外しません。私はカウンセラーです」


「・・・・・・・・・・・・・・・仕事のことで悩んでいます。私はある研究に携わっています。その実験の被検者でした。でもその結果については何も知らされません。私は研究者であるにもかかわらず・・・・・そのことについて知りたくて、気になってしょうがないんです。毎晩毎晩眠れません。そのことが頭にこびりついて押しつぶれされそうです」


「そうですか。お話してくれてありがとう。つらい体験ですね。あなたはこの病院の研究者なのですね」


「はい」


「この病室を出ることは、許されていますか?」


「時々、看護士同伴でそこの廊下を少しだけ歩いています」


「そうなんですね。もっと歩きたいと思いますか?知っているでしょうが、運動することで気が紛れることがありますよね?」


「はい。自由に歩きたいです。気分転換に」


「そうですね。そのことは病院側に伝えておきます。自由に歩きたいと。安心してください。詳しいことはなにも言いません」


「お願いします」


「食欲はありますか?」


「あまり・・・・・」


「食べないといけませんよ。元気が出ません。なにか食べたいものはありますか?伝えておきますよ」


「・・・・・・いちご大福を」


「わかりましたよ。手配しておきますね。楽しみにしてて」彼女はウィンクして見せた。


「はじめてですから、あまり時間をかけて負担になってはいけませんので・・・今日はこの辺りにしておきましょう。なにか聞きたいことや。言いたいことはあります?」


「いいえ。特には」


「それでは、また」


「ありがとう」


翌日、いちご大福がおやつに出てきた。ひさしぶりの甘いものは懐かしく、そして美味しかった。涙で視界が曇った。実験の被験者になったことを少し後悔し始めていた。


私はクローンよりも早く退院できることになった。





樹里3


退院後、私は引っ越しして仕事も替えた。心機一転したかった。


不思議なことがあったが、それほど気にはならなかった。たぶん手術の影響だろうと思った。今度、診察のときに先生に聞いてみよう。退院してその足で部屋へ帰りドアを開けようとしたけれども、カードがまったく反応しなかった。不動産屋に電話で問い合わせたところ、1週間前に退去の手続きを私がしたということだ。身分証明書で「工藤明日香」と確認したと。身分証明書で確認できたのならば、正しい。私の記憶違いだということだ。家族はいないし、友人もこれといっていないので、いわゆる身一つでの引っ越しだった。それまでの人間関係を捨てて新しい環境で生活することになるが、これと言って捨てるものもないので気軽なものだ。


私は和菓子屋で働き始めた。もともと和菓子が好きなので、店頭の従業員募集のリーフレットを見てその場で問い合わせた。前職はスーパー店員にしておいた。従業員が10名の和菓子屋としては比較的大きい店である。いまはまだ商品陳列とレジくらいしか仕事はできないが、いつかは上生菓子をつくっていきたいと思っている。いつも店主の生菓子には感動してしまう。今は入学式シーズンなので可愛らしいランドセルの上生菓子が店内の隅に置かれている。お客さんはそれを見入ってしまう。そして感嘆の声をもらす。私もいつかそういうものをつくって、お客さんを楽しませてあげたいと考えるようになった。ここの空気が好きだ。いつも緊張感を保っていなければならない研究室とは違う。



「明日香さん、明日香さん」経理担当の春奈だった。


「これからお茶しませんか?」


「いいね」


彼女は活発だ、なんでこんな地味な私とつきあってくれるのか不思議なくらいだ。


いつものスタバのいつもの席で季節限定の甘いドリンクを持って座る。私は、いちごだ。そして仕事の愚痴やテレビドラマのことや、好きなアーチストのことなどを取り留めなく話す。研究一辺倒だった私にはどれも新鮮だった。


「ねぇ、明日香さんは彼氏とかはいないんですか?」


「私・・・いないよ。忙しかったから。仕事ばかりで」


「ふーん、スーパーって忙しいんですね」


「意外でしょ」


「私、いまの彼氏が付き合って2年なんですけど、もうそろそろ結婚しようって」話が変わったようだ。


「いいな。そんなの。うらやましい」


なにもかもが新鮮だ。





猫探偵社3


「白熊ちゃん、アイス」


「僕はチーズバーガーセット。コーラで!」


「せめてダイエットコーラにしとけ」


「東都大学附属病院に潜入する。明日からこれを羽織るぞ。サイズを確認してくれ。その下はスーツ、ノーネクタイでいいぞ」


「ちょうどいいです」


「おまえ、その格好でハンバーガー食べて汚すなよ。みっともないから」


みいちゃんがやって来た。


「あら、コスプレ?素敵ね。病院の先生ね。メタボくん、ちょっと着させてよ」


「ダメ、これは仕事で使うものです」


「ふーん、ケチ。じゃあ仕事が終わったらで。子供のころ女医さんになりたかったのよ」


「・・・・・・・・・・・・」


「なによ!はい、アイスコーヒーとチーズバーガーセットね。おまちどうさま。くれぐれも見つからないでね」ドン!それらは乱暴に置かれた。


「あたりまえだ・・・」



東都大学附属病院。日本を代表する医療機関で研究においても多数の実績がある。ある世界的医療専門紙の世界医療機関ランキングで毎年ランキング一桁台を維持している、世界屈指の医療機関でもある。ここで人体クローンの実験が行われたという噂が流れている。噂は広がるのが速い。人類のタブーを犯す人体実験が行われたという噂ならば尚更である。


ぶちおとメタボはまだ新しさが残る院内を隈なく周り、各フロアのマップを頭に叩き込んでいた。


「よし、7Fトイレでドクターコートを羽織るぞ」


「うい」


「いいか。誰かとすれ違うときは一瞥して軽く会釈だ。あとはオレに任せろ。気を抜くなよ。とにかく堂々としてろ」


「うい・・・」


「オレたちの仕事は実験が成功したかどうか。成功したなら、オリジナルとクローンと特定することだ。それと実験データも手に入れる。倫理がどうのこうのだとか、正義とは何かとか余計なことは考えるなよ」


「うい」





明日香4


私のものとおなじ記憶を持つクローンが退院したと知らされた。彼女は私の部屋に帰るだろう。私は自分の部屋を解約しておいた。そして新しい住み家に引っ越ししておいた。お互いの記憶は同じでも外見は違うので、すれ違ったとしても気が付かないだろう。引っ越しは「もしも」のときに備えての教授からの指導だった。

部屋を解約しないで、私がいるときに彼女がやって来るとしたらどうなるだろう?名前を聞かれ工藤明日香という人物が2人いると知ったとき、おなじ記憶の持ち主がいることを知ったとしたら、彼女は必ずパニックをおこすだろう。意味がわからないと。

「彼女のことを知りたい」という私の欲求はいくらか満たされるのかもしれない。

それとも彼女はただの偶然として流すのかもしれない。どちらにしても、彼女と接触することになって教授との約束を破ることとなる。この私がタブーを犯すことになってしまう。それでも「そうしてみたい」のだ。





樹里4


退院した。それから少し頭痛がするようになった。疼く。先生に診てもらうべきかな。悪性腫瘍、余命6ヵ月と診断されたときの絶望をまた味わうのは絶対に嫌だし、近いうちに診てもらおう。私は詳しくはわからないが診察費を免除されている。おそらく研究材料かなにかにされていると思うけれども深くは考えていない。命があればよい。救ってもらった恩みたいなものか。





猫探偵社4


メタボのロングコートの袖が明らかに短い・・・・


「袖が短いぞ。サイズがあっているか確認しとけと言っただろ。着こなしは大切だ。ましてここは東都大学付属病院だからな」


「すみません・・・」


「どこでオレたちが偽物かバレるかわからんからな。まあ、いい。気をつけろ」


7Fの西トイレでひそひそと話をしている2人。


カツカツと誰かの足音が近づいてくる。


トイレの前で足音は止まった。


「宮西教授」


「鈴丸君か。どうした」


「例の丸2の方から診てもらいたいと連絡がありました」


「で、なんと言っている」


「頭痛がすると・・・」


「わかった。私は、明日時間がある。9時に研究室まで案内するように手配しておいてください」


「わかりました」


2つの足音はそれぞれ違う方向に遠のいてゆく。消えた。


「危なかったー。ここじゃあ逃げ場もありませんから」


「並んで「してるふり」をするところだったな。この狭いトイレの中だ、気づかれていたかもな。ま、ふざけているときじゃあない。宮西教授の後を追うぞ。研究室か教授の部屋にたどり着けるかもしれん」


「うい」


宮西はエレベーターに乗った。矢印は↑になった。


「ぶちおさん、どうします?」


「教授は↓になる階で降りる。他に誰も利用しないことを祈るしかない。↑を押してくれ」


さすが東都大学附属病院だ、エレベーターは速い。11Fで止まったようだ。そして↓になった。


すぐにぶちおとメタボのいる7Fでエレベーターは音もなく止まった。


「11F、行け!」メタボがエレベータに小声で活を入れた・・・・・エレベーターはさらに速くなったような。


長いストレートの廊下を歩く宮西教授の背が見える。誰も現れない。そう思ったとき、奥から左5番目のドアが開きドクターコートの女性が現れて、こちらに向かって進んできた。彼女は宮西教授とすれ違う。会釈を交わす。そして彼女は2人へ向かって歩いてくる。


「おい。堂々とだぞ」


「うい」


カツカツと宮西よりも小さく、テンポは速く足音が迫って来る。


会釈する。気づかないようだ。


すれ違う。


「大丈夫ですね」


「それで教授はどの部屋に入った?」


「えー奥から右3番目の部屋ですね」


「流石だな」






明日香5


私は三田村さんから病院で週に2回カウンセリングを受けている。もう実験のことは隠していない。カウンセリングを受け始めてから少しずつ心が穏やかになってきたように感じる。彼女の話し方は優しく、私の話すことを受け入れてくれる。私は孤独ではなかった。仕事は休職中にしてもらっている。ただ週2回研究室に行きデータを取っている。私の研究者としての本能は消えずに残っている。


「私のクローンに会ってみたい」


でもどこにいてどんな姿をしているのかがわからない。どうやったら会えるのだろうか。彼女が診察中に研究室に入ろうとしても完全にロックされているので対策は完全である。私が関わった実験はそれだけの実験なのだ。運転のできない私には乗り越えられない壁があった。病室にいるよりもはるかに安全に彼女を守ってくれる。



桜が満開の街を散歩に出た。たまにはバスで少し遠くまで行こうとしたけれども、バスの入口が分からなかった。料金を払う方法も分からなかった。そもそも料金がいくらなのかさえ分からなかった。結局おばさんにすべて教えてもらった。地下鉄とは違った・・・。私には社会常識がなかったのだ。



「明日香ちゃん、こんにちは」


「こんにちは。三田村さん」


「今日は顔色がいいですね。なにかよいことでも?」


「いいえ、特には。でも1つありましたよ。バスで少し遠くの和菓子屋に行きました。そこでとても可愛い上生菓子を買いました。見入っていまい、食べるのがもったいなかったです。街のあちこちで満開に咲く桜を眺めながら歩いていると、和菓子屋があって「さくら餅」の垂れ幕があったんです。立派なお店で、さくら餅を2つ買おうとレジを待っているときに商品ケースのなかに可愛い上生菓子があって思わず買ったんです。ランドセルの上生菓子でした。そして、店員さんにお金を渡しました。そうしたら「このランドセル、可愛いですよね。みなさん見てほっこりするんですよ」って、彼女は言いました」


「そうなんですか。ちょうど桜の時期ですしね。陽気に誘われて散歩するなんて、私の方がうらやましいです」


「私は研究一筋だったので・・・」


「先生の診察はどうですか」


「幼いころからの記憶をできるだけ詳しく話しています。きっとクローンのものと比較する作業でをしているのでしょう。気持ちが悪いんです。もうやりたくありません」


「クローンは自分がクローンだと知らないんでしょ?」


「はい、そうです。コピーされた私の記憶を自分の記憶だと」


「はい」


「じゃあ、これからは違う新しい記憶をつくってゆくわけね」


「はい、でもコピーした記憶はそのまま残っているので、性格、嗜好はオリジナルの私と変わりませません。コピーは手術前の性格や記憶は二度と取り戻せないのです。本来の記憶はなくなりましたから」


「私はただのカウンセラーだから、実験のことは理解できないけど・・・一度会ってみたいと思ってる?」


「正直、その気持ちは消えません」


「そう思うことが止められないのならば、会ってみたら?」


「それでは・・・研究が」


教授との約束を破ることになる。


「わたしはカウンセラーとして、こうしてあなたとお話しています。あなたが心安らかになる方を選べばよいと思いますよ。研究よりも自分のことを考えないと、あなたはその気持ちにいつか押し潰されてしまいます。1つの意見としてゆっくりと考えてみてくださいね」


最後は突き放されたように感じた。





樹里5


宮西先生のところに相変わらず通っている。和菓子屋が休みのとき、もう1日は営業時間が終えてから。そのあたりは私の都合に先生はあわせてくれている。なにをしているかというと、幼い頃からの記憶をたどること。どんなにささやかなことでも構わない、むしろその方が役に立つと言われた。なぜこんなことをするのか先生に尋ねたことがある。腫瘍ができた場所は記憶をつかさどる部分で、ちゃんと治っているのか確認していると答えてくれた。たとえば「小学5年生のとき、なにか思い出に残る出来事はありましたか?」の問いに私はこう答えた。「初恋しました。サッカーが好きな子でクラスの人気者で、背は私よりも低かった。算数が得意でした。話すことはほとんどありませんでしたが、話しているときには胸がときめきました。匿名で年賀状を送ったと思います」「彼の住んでいたところは?」「詳しくは思い出せませんが、学校から遠かったと思います」「彼はクラスでどんなこと、たとえば学級委員長とかそんなことをしていませんでしたか?」「給食係でした。前期の生徒会選挙に立候補しましたが、落選したと思います」などだ。

1回にかなり時間を取るので、いつまでこれを続けるのか聞いたことがあったけれども、「現在に至るまでです。辛抱してください」だった。ため息をついてしまった。





猫探偵社5


「ここは教授の個人部屋だろう。研究室にしては狭い」


「そうですね」


「どうやって入る?」


「さっきの様子を思い出すとIDのナンバーカードが鍵の役目をしているようですね」


「・・・・・・あきらめるか?」


「でも研究室も同じでしょうし・・・」


「手荒な真似をするか。時間はないぞ」


「うい」



どれくらい待っただろう、2人は部屋のドアの両側に立っている。


カッチャ・・・ドアが開いた。


教授が部屋から出てくる。そのときメタボが体当たりして、油断していた教授がよろけた。


メタボが部屋の中に入った。


「誰だ!?」


「すみません。しばらくおとなしくしていてください」ぶちおが小声で言う。


「どん!」


教授はぶちおの手刀を首の後部にくらって気を失ったようだ。ぶちおは教授をトイレまで引きずり個室に閉じ込めてドアを閉めた。ぶちおはそのままドアを閉めている。


・・・・・・・・・


「おい、開けろ!」


教授が意識を取り戻した。必死でドアを開けようとするが、ぶちおは背が高いぶん体重もある、全体重をドアにかけているのでびくともしなかった。

タッ、タッ、タッタ・・・メタボがトイレに向かって走ってくる。


「ぶちおさん・・・OKです。行きましょう」


「よし!」


「おい、待て!」


小走りで非常階段を下りる2人。


1F。ぶちおはひらりひらりと人波をかわしながら進むが、メタボはときどき人にぶつかっている。


病院のエントランスを抜けて、タクシーに飛び乗る。


「おい、ちょっと。順番ですよ!」


「いいから、だせ!殺されたいか!!」ぶちおがすごんだ。



「もう、いいだろう。メタボ、よくやった。なにかあったか?」


「USBがありました。これで間違いないです。パスワードもちゃんと記憶しましたよ」


「それにしても、まったく追手らしき者が来なかったですね。なんで?どこかで待ち構えていてもいいじゃないですか」


「それは、おそらく物が物だけにオレたちを捕まえたときにUSBの中身を見られるのを避けたっかったからだろう。半分逃がしてくれたようなもんだ」





明日香6


クローンに会ってみるかどうか気持ちが整理できない。三田村さんは「自分の気持ちに従って会ってみたら。そうでないと貴方はいつか押し潰されてしまう」と言う。しかし、そんなことをすれば、研究が台無しになる。宮西教授やスタッフがどういう思いでこの研究に身を捧げてきたのかはよく分かっている。皆を裏切ることはできない。私だって・・・・・。


そんな時は気晴らしにバスに乗ってあの和菓子屋に行くことにしている。今月の上生菓子は紫陽花だ。色鮮やかで造形も素晴らしく、とても繊細なものだ。その紫陽花を2つ買ってしまった。レジでいつもの女性に声を掛けられた。私とおなじロングだ。


「今月のは、しっとり趣があっていいですよね。私もこういうのを作れるようになりたいんです」


「このままずっと飾っておきたいくらい」


「お客さんもそう思いますか?」


「クドウさん!」おしゃべりをたしなめられた。


「すみません・・・」


クドウさんか。まさか名前も同じだったりして。


彼女が紫陽花を慎重に陳列ケースから出しているとき、胸の名札を覗いてみた。


そこには・・・・・


「工藤明日香」と書かれていた。


まさか・・・そんなことあるはずがない。きっと間違いだ。珍しくはない名前だ。でも、そんなはずはないか・・・。





樹里6


夏を迎えた。いまお店の上生菓子は七夕だ。つぎは向日葵だろうか。


和菓子屋はもの静かなところである。そもそも賑やかさは似合わないしっとりした空間だ。そんな静かなところで私は彼のことを考えている。彼はどうだろう。私のことを考えてくれているだろうか。


うちのお店は午後7時が閉店時間で、もちろんすぐに帰ることはない。暖簾を片付けて入ったお金と売れたお金を合わす。もったいないけれど、お客さんに期限の切れたものを売るわけにはいかないので、売れ残ったお菓子を処分する。どんなに持って帰ろうと思っても、当たり前だが厳禁だ。そのあとに清掃をする。そして終礼。新しいお菓子のアイデアを発表することもある。これで1時間くらいかかる。営業開始時間は午前10時、出社時間は午前9時30分。班で動いていて、それぞれ順番で休憩をもらう。その時間の私はお菓子づくりの見学をしている。飽きない。


梅雨の雨だ。ねっとりと降る。傘を差す。ぽつぽつと少し大きな音がする。服が少し濡れる。足元は危うい。

・・・昼間のお客さんだ。30Mほど先にいて私を見ている。


「工藤明日香さん!あなた工藤明日香でしょう?」


「私の名前も工藤明日香です!あなた週2回東都大学附属病院に行っているでしょ?私も行ってる・・・・・」


なにを言っているのか雨で聞き取れなかった。


「私達、同じ記憶を持っている・・・・・」


さっぱり意味がわからない。無視しよう。


ぽつぽつな雨の中、明日香と明日香は傘をさしてすれ違う。傘の色は赤だった。Tシャツの色も同じで薄いピンクだった。


見た目は違っても性格、嗜好は同じなのだ。





猫探偵社6


メーテルは言う。「もうこれ以上はやめておいたら?」


「依頼だ。しょうがない。どんなに悲しい出来事に行き着いても、依頼主の意向に従う。それがオレたちだ」


「でも可哀そうじゃない。残酷よ。わたしなら耐えられない。もし2人が出会ってしまったら、それからの彼女たちはどうなるのよ・・・・・だって考えていることは同じなんでしょ?個人のアイデンティティやプライバシーは?実験の対象物という目で見られるのよ」


「そうだな・・・・・」


メーテルは黙ってコーヒーを置いて白熊へ下りていった。



「メタボ。USBは?」


「はい・・・百冊はある書物の1冊に隠れファイルの形で隠してありました。適当に取った本の中にありました。運がよかったです。そのUSBのなかに研究日誌がありました。」



私は悪魔だ。悪魔に心を奪われた悪魔のクローンだ。このことを現在の人間は非難するだろう。賞賛をあびることもないだろう。しかし、いずれは評価される時代がやってくる。人間のために役立つ研究だったと誰かに将来理解されることを信じている。優れた科学者や芸術家の才能を残すことも可能にするだろう。人類の進歩の過程において避けては通れない研究であると自負する。私が礎となって未来の研究者、かつ人類に伝えておきたい。そのためには、しばらくの間は悪名をさらしてもかまわない。また今後、倫理についての議論が深まることも切に願うに願う。

以下に研究日誌を記す。


宮西洋



その研究日誌には、技術的なものだけでなく倫理感に苦悩する記述が多く見られた。こと細かに自らの心情を書き記している。何度も実験を中止しようと考える、そしてまた研究に没頭するの繰り返しだった。

スタッフのことも書かれてある。思うことは皆おなじであると。続けることが使命だと信じ日々励んでいるとも。被験者となった工藤明日香、木原樹里に対しての謝罪の念も長文で書かれていた。

研究は最終段階に入っており、2人を実際に会すことが今後の課題に入っているらしいことが書かれている。



「これで依頼のもう一つの実験データを見つけられれば、実験が実際に行われていたことの証明になります。つぎは被験者の特定ですが、この日誌に氏名が書かれてます。すぐに済みます」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・だな」





明日香7


やっぱり間違いだった。単なる人違い。彼女に無視された。もうあのお店にはいけない・・・・・。


でも、それでよっかたのかもしれない。自分のクローンに会わずに済んでよかったのかもしれない。私と彼女が会ってしまったら、きっと2人とも傷つくに決まってる。


なぜ実験の被験者になんでなったのだろうか。なんで研究に参加したのだろうか。





樹里7


彼は彼女を待っている。彼は彼女がクローンだと知っている。彼女が自分はクローンだと知ったとき、彼はどう彼女と向き合えばよいのか答えが出せないでいる。あたりまえだ、人類が初めて経験することだ。誰も適切な答えは出せまい。もっと重要なことがある。それは彼はオリジナルとクローンのどちらを恋愛の対象にしているのか不安に思っていること。性格が同じ行動パターンも嗜好も同じ、違うのは外見のみ・・・会った順番か?外見か?オリジナルにも恋愛感情を持つだろうかと考えると、自分が情けなく思う。

彼女がやって来た。彼は笑顔になった。

その日は2人で居酒屋に行った。彼女のオーダーするものはオリジナルが飲み会でオーダーするものとおなじだった。服も以前オリジナルの彼女が着ていたのとよく似た服だった。


「わたしね、変なことがあった。店の常連さんが私の帰り道に待ち伏せしてて、大きな声で何か言われた。雨でなんて言ってたのか分からなかったけど「明日香。東都病院」と言ってた。もしかして鈴丸君が知っている人かなぁ。って思って」


「・・・・・いいや。そんな人知らない」彼は困ったように返事した。





猫探偵社7


「なぁ、メタボ。自分がクローンだったとする。自分の記憶をもう取り戻すことはできない、本来乗っていたレールがなくなって、誰かがつくった誰かと同じレールに乗ることになったとしたら、おまえはそれを受け入れることができるのか・・・・・?」


「そうですね・・・・哲学的な話ですね。真の自分の在り方ですね。・・・・・・・・・・そもそも僕にはアイデンティティはありませんからね。チーズバーガーセットがあればそんな悩みは吹き飛ばされますね」


「おまえは3食ハンバーガーをダイエットコーラで食べてろ」


「じゃあ、倫理的にはどう考える?」


「つぎはモラルですか。どうなんでしょうね・・現代では極一部を除いてアウト!と考えているんでしょう。しかし宮西教授が研究日誌に書いたように、やがて人類が止まらなければならない駅と決まっていますから。早い遅いの話ですかね。教授は予想以上に早かったんですよ。きっと。モラルに反しているかどうかは誰にもわからないです。反対に何十年、何百年後にクローンはなんら問題はないと大勢が考える将来も必ず来ますよ」





明日香8


「明日香ちゃん、どうかした?なにかあった?」三田村さんはいつもの通りに接してくれた。私がオリジナルと知っている。私をそんな目で見ない。


「いつも行く和菓子屋の店員さんが彼女でした。たぶん。確認はできなかったけど、おなじ色の傘でおなじいろのTシャツでした。束ねていないときの髪はロングで同じ・・・・・」


「そう。その和菓子屋の名前はなんていうの?」


「材木町の栗田屋です」


「そう。あなたはどう声をかけた?」


「仕事終わりのときを見計らって道で声をかけたけれど、結局無視されました。あたりまえです」


「それで、あなたはこれからどうしたい?」


「わかりません。でも会って確かめたい」


「会うことで彼女を傷つけることになっても?あなたよりも彼女の方が傷つくと分かっていても?」


「・・・・・わかりません」


「彼女の方から自分がクローンだと理解できた上で会う方がいいような気がします」


「その方がいいような気がします。でも彼女にとって一生知らない方がよいに決まってます。だからオリジナルとクローンとして会うことは絶対にあり得ません。だから今ここで諦めます」


「できる?」


「・・・・・はい」


「今度来るときはきんつばでも買って来るから、それまでに笑顔になっていてね」


「ありがとう」





樹里8


秋めいてきた。病院の中庭では秋桜が色とりどりに咲いていた。


もう少しで通院する必要はなくなりそうだ。「脳には異常はなくて手術が成功したことが確認された」と前回言われた。これで本当に安心できる。今日は予約の時間に遅れるので一度キャンセルしたけれど、間に合いそうなので、だいぶ遅くれたけれども病院に来た。たぶん診察はしてくれるだろう。以前も同じことがあった。

もう少しでこの病院もお別れだ。総合案内、列になっている会計機待ちの人。長い時間待たなければならない診察を椅子に座って待っている人たち。血液検査の部屋、レントゲン撮影の部屋、MRI撮影室。ヤクルトレディのワゴン。私は予約の時間に行けばすんなり通してくれたし、診察まで待たされたこともなかった。VIPだ。そして、診療費も払わないでよかった。恵まれていた。



「あの・・・・・さきほどの方ですよね?」


「いえ、違いますけど」


「すみません」おばあさんが私と誰かを間違えたらしい。



「さっきの人・・・あの、ありがとうございました」


「は?」


「ごめんなさい。人違いでした」夫人が私と誰かを間違えたらしい。



?・・・・・・・・・


こういうことも不思議でない。


2Fから会計課の方に下りる階段に目をやった。そこには私がいた。いや、よく見ると私とおなじ髪型をした、すごく似た服装をしている女性が階段をゆっくりと下りていた。


・・・・・・・あの人と間違われたのか。一瞬自分かと思ってしまった。馬鹿らしい。


・・・・・・あの人は栗田屋の店員だ。こないだ私に声をかけた人だ。間違いない・・・・・


彼女を後ろから追いかけて階段を急いを下りてくる男性がいた。


私の彼だ。


なぜ彼女のことを追いかけているんだろう。彼は私の診察のときはいつも先生の側にいる、先生の助手だ。彼女も私と同じような治療をしているのだろうか。だからこないだ、私に声を掛けたの?





猫探偵社8


白熊ちゃんはビーフシチューをつくっているようだ。ソースのほのかな甘みのなかに数種のスパイスの香りが混ざっている。牛肉の塊がそれらを吸収している。牛肉は充分煮込まれていて、あとは火を止めてじっくり寝かされるのを待つだけだろう。ビーフシチューのコツはスパイスを入れるタイミングと順序で、牛肉はそれほど高価なものでなくてもいいそうだ。ビーフシチューをつくるのは、決まって誰かの機嫌が悪いときだ。今回はメーテルの機嫌があきらかに悪いからだ。なぜビーフシチューなのか聞いたことがあるが、とくに意味はないと返ってきた。


「今日はパンも焼くの?」


「あぁ、そうだよ」オーブンの中からこんがりと焼けたロールパンを取ってで出した。パンは6つある。そしてつぎをオーブンに入れた。


「はい、ぶちおくん試食してよ」


「SO DLICIOUS!」



「メーテルは?」


「赤ワインとか買いに行ってもらってる。メーテルちゃんとなにかあったのかい?最近、彼女あまり喋らないじゃないの」


「ちょっとね。倫理についてみたいな・・」


「高尚な話だね」


「オレには理解できない話だよ。ただ言われたことをやっているだけだ」


「仕事に関する話か。てっきり痴話喧嘩かと思ってたよ」


ちりーん。


メーテルが買い出しから帰って来た。





明日香9


USBが盗まれてしまった。公開される訳にはいかない。あれはコピーだが、すぐに奪い返さなくてはならない。あのパスワードをクリアできる者は、ほとんどいないだろうが安心できない。あれを見ればクローンとオリジナルが分かってしまう。奪うとしたら・・・わからない。手にしたい者は大勢いるだろう。噂というものは広がるのが速い。せっかくここまで来た実験が握りつぶされることになりかねない。しかしどうやってこの秘密裡に行ってきた実験を知ったのだろう。内部から漏れたのか。実験データが幸いにも見つけられなかっただけでも救われるが、研究室には絶対に外部の者には入退出できないようになっているので、漏れるとしたら内部の者が漏らしたということか。



「明日香君、その後体調はどうだい?」


「おかげさまで」


「もうしばらくで経過を見るのは終わりにしようと思う。本当によくやってくれた。礼を言う。研究成果がまとまりしだい論文の作成にかかる」


「はい・・・・・」彼女の顔色が少し悪いように感じる。


「どうしたね?なにかあったか?」


言い辛そうだ。いつも大人しくて意見は言わない方だが、なにかあったに違いないだろう。


「教授、私・・・私」泣き顔だ。


「私、クローンと接触してしまいました」


「そうか・・・。それで相手は自分がクローンだと知ってしまったのかね?」


「いえ、そこまでは・・・ただ、会話をしました。偶然だったんです。偶然」


そこまでなら仕方ない。


「気にすることはないよ。外見は違うから、そうは分からないだろうしね」


「すみませんでした」


「今度から気をつけてくれれば、それでいいよ」



「教授。本当に発表するのですか?」


「あぁ、それが私の使命だと考えている。やらねばならないことだ」


「そうですね・・・」


「君は反対なのか?」


「いえ、せっかくここまで時間を費やして来た研究です。無駄になるようなことは・・・」


「君の言いたいことは充分わかる。だが今指針を誰かが示さなければ、クローン技術が確立したときに人類は不安、恐怖にさらされるだろう。いまからその議論を始めなければならない。もう遅いとも考えている。時間はない。これは私に与えられた使命だ。私が礎になる。たとえ汚名を着せられてもよい」





樹里9


いつものスタバのいつもの席で彼を待って、いちごミルクで暇をつぶしている。彼は間違いなく彼女のことを知っている。知っているに違いない。


彼が入って来た。


「ごめん。待たせたね」


「いいのよ、べつに。はい、これ」栗田屋の上生菓子を彼の手に置いた。秋のは紅葉だった。緑とオレンジのグラデーションが鮮やかだ。彼も和菓子好きだ。最初は和菓子の話で盛りあっがて、仲良くなった。彼は優しくて、私のすべてを受け入れてくれている。もちろん彼はあの研究のスタッフなので私のことをすべて知っているから、あたりまえの話だけれども。私も彼と付き合いはじめて直ぐに自分のすべてをさらけ出せた。


「ありがとう。あとでゆっくり味わうよ」


「つぎは何がいい?」


「水羊羹かな。もう時期は過ぎてるかなぁ」


「うちの店、水羊羹は一年中売ってるよ」


「そうなんだ」


彼はカプチーノを少し飲んだ。


「つぎのお休みはいつ?」


「ごめん、忙しくて当分は取れそうにないよ」


「そうなんだ。研究ははかどってる?」


「もう明日香ちゃんには関係ないことだよ。それに聞かなくてもよいことだってあるしね。少なくともここで話することじゃあないことは確かだ。どこに聞いている人がいるのか分からないから」


「そうだね、ごめん」


「いや、いいよべつに。分かってくれたみたいだし。こっちもごめん、いま皆、神経質になっていて」


「そうなんだ。ごくろうさま」


「また時間が取れそうになったら、直ぐにlineするよ」


「ね。聞きたいことがあるんだけれど」


「なに?」


「今日、鈴丸くんを病院で見かけた。階段で2Fから会計課まで下りて来て、ある人と話してた。知ってるひとだった」


「ある人?」


「その上生菓子の和菓子屋は私が働いている店のよ。その人は常連さんなの。なんでその人のことを知っているの?あの研究に関係ある人なの?私と同じことをしているの?だって研究と言っても、ずっと私にしたこと以外に他の研究をしているところは見たことがなかった」


「あぁ、その人は業社の人だよ。研究室に請求書を渡しに来てただけ。それで」


「よく分からないけど、私に似てた。髪型とか服とか、雰囲気も。その前に1Fで知らない人に「ありがとう」と間違えられたの。2人によ。きっとあの人に間違われたと思う。あの人もいまやっている研究と関係があるの?教えて」


「いや、そんな人知らないよ。誰か他の人と僕とを間違えたんじゃないか。僕はほら、遠目で見たら中肉中背で、どこにでもいそうな体形だからね」


「もういい。この話はお仕舞いよ。ね。いつもに戻りましょう」


彼は、どこか悲しそうな顔をしているように感じた。


気にすることはない。彼の言う通り見間違いだろう。


私は頭でっかしだ。疲れている。





猫探偵社9


「うす」メタボが白熊にやって来た。


「コーラね」


「・・・・・・」飲み干した。


「なんなんですか、この重苦しい空気は。最近ぶちおさんもメーテルさんも、ほとんど喋らないじゃないですか。どうしたんです?痴話喧嘩?」


「違うよ。高尚なことで議論になっているらしい」


「あ、あの話ですか。アイデンティティやら倫理やら」


「うるさい黙ってろ」


「「そんなこと持ち込むな。依頼されたことだけ考えてやれ」と言ったのは、ぶちおさんでないですか」


「うるさい」



メーテルが下りて来て「今日の晩御飯はビーフシチューよね。待ち遠しいわぁ」とだけ言って、また上がっていった。



メタボが教授のところから持ってきたUSBをテーブルに置いた。


「このUSB、どうするんですか?これで教授にたかりますか?」


「冗談でも言うな!」


「まぁ、ぶちおくんも落ち着いて、メタボくんも心配なんだよ」


「・・・・・」


「そのままおまえが持ってろ。どうせコピーくらい持ってるだろ。オレたちが持っていた方が安全だ」


「うい」


「問題なのは、実験データをどう入手するかだ。こいつを盗まれたんだ。もう教授の部屋にも研究室にも容易く入れない」


「誰かがこうして肌身離さず持ち歩いているとか?」


「かもな」


「うーーーーーん。強行突破」


「無理。人手不足だ」


「100万馬力の圓八警部」


「無理。警察はこんなことでは動かない」


「おまえのその頭脳様をフル回転させてくれ。行くぞ」


「どこへですか」


「とにかく研究日誌は手に入れたんだ。木津のところに渡しに行く」


「うい」


「その前にコピーしとけよ」


「済みです」





明日香10


教授から皆へ、研究日誌が盗まれたとの報告があった。「コピーがあるが、ただ今後なにかに利用されてしまうことがあるかもしれないので、くれぐれもこのようなことのないように注意しておいてくれ。またどんな脅しにも屈しないでほしい。今回は私の失態だ、申し訳ない」


私は休職を解かれ、研究室に戻った。教授に許可を得て、三田村さんのカウンセリングは続けている。





樹里10


師走になった。店に並ぶ上生菓子は淡いピンク色をした梅になっている。もう東都大学付属病院に行くことはなくなった。病院との唯一の繋がりは鈴丸君だけだ。午後2時に研究室に来てほしいとlineにあった。きっとあのことに関係することだろう。あれ以来ずっと彼女のことが気になっている。


あの雨の日以来、彼女は店に来なくなった、こちらからは連絡のしようがなかった。病院で彼女が出勤するときや帰るときを待とうしても、それがいつなのか、どこからなのか、おそらく研究室専用の出入口がどこかにあるだろうが建物が大きすぎて見当がつかない。あの病院のどこから出勤するのか分からない。あのとき彼女は何を私に言いたかったんだろうか。ちゃんと聞いてあげればよかった。あの子と私はきっと繋がっていると思う。それは病院に行けばわかる。でも怖かったので行っていない。





猫探偵社10


「これが内閣府倫理委員会の建物ですか。思っていたよりも地味でこじんまりとしています」


「地味な仕事だろうから、これでふさわしいんでないか」


「なるほど。エリートが小難しい仕事しているんでしょうね」



連絡済だったらしく、案内係の女性はすぐに室長の部屋へ案内してくれた。


部屋へはいると、室長の役職の重さを感じさせられた。無駄なものがないくて、すべてが重厚なつくりの調度品。誇りさえもないように思ってしまう。


「お久しぶりですね。猫野さん、目田さん。依頼した件は順調に進んでいますか?」


「宮西教授の研究日誌を持ってきました。研究データはもう少し時間をください」


「ありがとうございます。さっそくチェックさせていただきます」


木津はデスクにあるPCにUSBを差しこんだ。


さすがに読むのが早い。マウスをスクロールさせる手が一瞬も止まらない。メタボとおなじくらいの早さだ。


木津はしばらく宮西の日誌を読んでいた。


「ありがとうございます。とても興味深い資料です。確認ですが。実験に際して被験者からの同意は得ているのかわかりますか?」


「工藤明日香は研究室のメンバーで同意を得ていますが、木原樹里については得ていないかと」


「そうですか、確認しておいてください」


「わかりました。つぎにお目にかかるときは、実験データもお持ちします」


「よろしくお願いします」





明日香11


2週間に一度のカウンセリングの日だ。三田村さんと私は病院4Fの談話室でいつも話している。実験に関すること、それからプライベートのことなど話題は多岐にわたる。私は薄っぺらい人間なのでプライベートの話はいつも短くなる。恥ずかしかった。それでも三田村さんはやさしく聞いてくれた。


この日は樹里に関する核心に迫る話をした。


「三田村さん、私は彼女に何をしてあげられるのでしょう」


彼女の声がピンと張った。


「罪滅ぼししたい?謝罪したい?でもあなたには何もできないの。そんなことをしても何にもならない。あなたはこれからもずっとその気持ちを背負っていかねばならないの。それがあなたのできること。あなたもそう思っているんでしょう?あなたは何もできない。彼女も何もできない。彼女は真実を知りたがっているんでしょう?クローンであることを伝えるべきか。伝えないでおくか。どちらが正しいのか、誰にもわからないと思うわ」




福丸


工藤明日香の様子がおかしい。彼女の記憶は樹里にもある。樹里にそのことが知られたのか?あきらかに疲弊している。その表情は、顔は違うが先日の樹里の表情に全く同じに見えてしまう。



食堂で昼食をとっている彼女を見つけた。


「ここ、いい?」


「福丸くん、いいよ」


「明日香ちゃん、どうかした?顔色が良くないよ」


「僕でよければなんでも聞くよ」


「ありがとう。大丈夫よ。ちょっと疲れているの」


「樹里のことだろ?僕は彼女と付き合っている。だからなんでも聞いて、聞かせて」


樹里とのことは皆には知られていないと思う。仕事が仕事なだけに慎重に付き合ってきたつもりだ。なによりも僕が研究のために彼女と付き合っていると思われるのが嫌だった。僕にはそんなつもりは全くもってない。純粋に彼女が好きなのだ。


「あなた・・・本当にあの子のことが好きなの?私じゃなくて?だって彼女と私は一緒よ。生きてきた記憶が同じなのよ。性格が同じなのよ。あの子が赤い傘を選んだら、わたしも赤い傘を選んでいるのよ。気持ち悪いと思わないの?理解できない。それとも外見で選ぶの?高校生であるまいし!呆れた・・・・・」


彼女はランチを食べている途中で席を立った。


頭のなかでどう処理していいのか混乱した。心のなかでは言われたとおりなのかもしれない。





宮西


福丸が時間をつくってくださいと言う。彼は私の右腕だ、彼がいなければこの研究はなりたたない存在だ。何について話があるのかは、おおよそ見当がついている。


ドアを叩く音がした。


「どうぞ」


「お時間をとっていただきまして、ありがとうございます。教授」


「いや、君は私の助手だ。なんでも聞いてくれ」


「はい。では率直に申します。この研究はもう止めていただけませんか」


「それはできない。君も十分に理解しているだろう。この研究は人類の未来に深く関係するものだ。私以外に、今この研究を成功させることができる者はいないと考えている。誰かが人類の医療、進化ためにやらなければならない。そのために悪名を着せられてもいい」


「そのために傷つく人をこれ以上見たくはありません」


「私も同じ気持ちだ。ただどんな研究でも犠牲はある。代われるなら、私が代わりたい」


「もう止めにしましょう、教授」


「すまない・・・・・できない」


「あの研究は世間に出すには早すぎます。せめてもう少しでも・・・人々が教授のお気持ちを理解してくれるようになるまで待ちましょう。もう僕には耐えられません」


「他に言うことはないかね」


「それだけです。今までお世話になりました。ありがとうございました」


深く礼をして彼は去っていった。





樹里11


私は店で彼女を待ち続けた。あの時なにを私に伝えたかったのだろう。彼女の口から聞きたかった。




猫探偵社11


残るは実験データなのだが、どうすれば手に入れることができるのか・・・研究室も教授の部屋もセキュリティは完璧だろう、近づけまい。


「警備員のふりして侵入するというのは?それか人質を取って・・・」


「テレビの見過ぎだ。そんな安っぽいストーリーじゃないからな。現実は地道なものだ」


「どうにもならないじゃないですか・・・・・」


「おまえの頭脳様はなんて?」


「八方塞がり・・・と」





明日香12


何日も私は彼女を待ち続けている。待っていれば、きっと来るだろう。そう思う。





樹里12


私は店の近くで彼女が来るのを待っている。福丸君が何も教えてくれないなら直接彼女から聞きたい。あのときの場所で待っている。今日はみぞれが降っている。私のずっしりと重い涙のようだ。私はあのときと同じ赤い傘をさしている。

彼女が赤い傘をさして、私の方にやって来る。私に気づいている。私の前、10Mほど先で止まった。


彼女は小声で言う。緊張しているようだ。


「何か私に言いたいことがあるんでしょう?」


「・・・・・・・・・・・はい」


「驚かないから」


「私達がしている研究はクローンです。人間のクローンです。あなたは私のクローンです。私の記憶をあなたの脳にコピーしました。あなたの記憶は私のものです。性格や趣味、嗜好は私とおなじです。だからあなたが選ぶ、髪型も服装も傘も私とおなじようなものになります。あなたは脳腫瘍ではなかった。初めからあなたをクローンにするつもりだった。私と血液型や家族構成などを調査して、あなたが選ばれた。私達の研究のためにあなたを犠牲にしてしまいました。してはいけないことをしてしまいました。ごめんなさい。ごめんなさい・・・・・」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


「私達は生体実験に成功しました。この技術はさまざまな分野で役立ちます。でも、今はすべきではなかったと思っています。あなたという犠牲を払ってまでするべきではなかったと」


「私の記憶は戻せるの?」


「一度脳から消えてしまった記憶は・・・・・戻りません」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そう」


「あなたの名前は明日香ではない。樹里なの。樹木の樹に里山の里で樹里。木原樹里です」


「そう」


「樹里さん、ごめんなさい・・・ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」


「話してくれてありがとう・・・・・」


「ねぇ、思い出してよ!お願いだから。元の樹里さんに戻って。記憶を取り戻してよ。だから謝っても謝り切れない・・・・・」





猫探偵社12


「あのドアを開けるには首からぶらさげられている身分証明証にあるID番号が必要だな」


「そうですね」


「誰かから借りる考えは?」


「誰から・・・?」


「・・・・・」


「警備員がいますよ。身分証明証の写真で顔を確認するでしょう。怪しい者だったら通しません」


「身分証明証そのものを偽造する」


「そんなの簡単にいきません」


「じゃあ、どうするんだ?」


「火事を起こす。非難している間にいただく」


「非難するときに持っていくだろ」


「浮かびません」


「おまえの頭脳様はスリープ中か」


「残念ながら・・・」


「この中で一番うまく行きそうなのは・・・ない」




明日香13


私は彼女に事実を言ってしまった。彼女にとって酷いことを告げてしまった。いま彼女はどんな気持ちだろう。パニックを起こしていないだろうか。もう、どうしてよいのか分からなくなった。どうせなら入れ替わって私がクローンになればよかったのだ。1日中考えてる。もう疲れた・・・・・。





樹里13


私の記憶はもう取り戻せないという。本来の記憶は取り戻せない・・・。本来の記憶とは?それが思い出せない。つまり私はオレンジジュースのかわりにコーラを注いだコップというわけだ。オレンジジュースは飲まれてしまって、もう存在しない。かわりにコーラになった。皆、どちらが好みなんだろう・・・・・。





猫探偵社13


もう一度宮西を攻めることにした。一か八かだ。教授はいつも午後10時ちょうどに部屋から出て帰る。



ドクターコートの2人組、1人は背が高い。185ほどの鍛えたと見られる体形。もう1人は165前後でメタボ体形。ひそひそと何か話しているようだ。いつも教授は第3棟の11Fを西に歩いて地下駐車場までエレベーターで下り、外国車で帰る。今日は他に車があるので、まだ誰かが仕事中らしい。ここは研究専門の棟なのでその他の棟と違い、宿直はなく緊急オペは少ない。


ドクターコートの2人組は宮西がエレベーターに乗ったことを確認した。


ドクターコートの2人組はとなりのエレベーターに乗る。


宮西が地下駐車場でエレベーターを降りた。


続いて隣のエレベーターからドクターコートの2人組が下りた。


後ろからドクターコートの2人組が歩いて来るが、宮西はコートを見てどこかの研究員と思った。そう思うほど、この大学病院には研究者が多い。コートを着ているので何かクルマまで取りに来たのかもしれないと思った。


宮西が自分のクルマに乗った。クルマはゆっくり動き始めた


そのとき、黄色いオープンカーで行く手をふさいだ。


宮西が慌ててハンドルを切った。


だが黄色いオープンカーは屋根を開けている状態なので、ドアを開ける手間がない。その分、宮西よりも行動が早かった。行く手をふさいだ。


しまった油断してしまった!と思い、助けを大声で叫んだが誰にも届かなかった。


宮西は走る。


宮西は逃げようとする。


だが捕まってしまった。


「おい、研究データはどこだ!クローンの研究だ!」


背の高い方の男が声を張り上げる。


「ない」たしかに宮西はそう言った。


「嘘だ」


そのとき彼の首筋に背後にいたメタボ体形が護身用スタンガンをあてた。彼は意識を失った。



「ポケットを探せ」


「ありません」


「クルマの中だ」


「ありません」


「じゃあ、どこだ」


「わかりません・・・」


・・・・・・・・・・・・・・


「こいつの行動を思い出せ」


「7Fです。11Fでエレベーターに乗って、今日はなぜか7Fで下りました。それからしばらく歩き、中央エレベータで地下駐車場まで下りました」


「急ぐぞ。7Fだ」


「うい」


ドクターコートを着た2人組は7Fまで上がって来た。残りの3台のエレベーターは1Fで止まったままだ。


「それらしい場所は?」


「・・・・・・」


「今日はいつもと違うルートで歩いた・・・は?」


「今日はトイレに閉じ込められましたね」


「急げ」


警告音が鳴り響いた。宮西が回復したようだ。


トイレを見渡す。オレはこの間、そこの個室に教授を閉じ込めた。


あのときデータのUSBを教授が持っていたならば・・・オレならば正気に戻ったら、すぐにこの個室のどこかに隠そうとする。


「おい、この個室だ」


「うい」


警告音が鳴り響いている。


「ありました!」


それは予備のトイレットペーパーが積まれた場所で一番奥の物の芯の中にあった。おそらく、ここを一時的な隠し場所にしたのだろう。それでときどき7Fで下りて、あるか確認している。


「警備員が来る」2人はドクターコートを脱ぎ捨てた。


警備員は3台のエレベーターに分かれて上がって来る。非常階段からも上がって来るようだ。逃げ道はない。



「どうしますか?」


「反対側の端まで走れ」


「うい」メタボも彼なりに走る。


「これを使う」


救助袋だった。


「怖いとか言うなよ。そんな暇はない」


「うい」


脱出した。









-明日香-




これですべてから解放される







本日午後2時ころ東都大学付属病院から、人が屋上から飛び降りたと通報がありました。救急車が駆け付けましたが病院の中庭で倒れており、その場で死亡が確認されました。飛び降りたのは女性(31)で、この病院の関係者と見られます。







樹里さん、ごめんなさい。これからは木原樹里として生きてください。私の分も精一杯生きてください。和菓子を食べるとき、ときどき私のことを思い出してくれるならうれしいです。


工藤明日香








その研究は世に出ることはなかった。









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