1:Sweet Home Catacombs
一年と三ヶ月前のこと。
父は定年退職後、我が家の地下蔵を改築し始めたのである。
当時の私は、奇行とも呼べる父の改築作業の行く末が気になるものの、最終的に何になるのか訊ねることはしなかった。
というのも、ことさら仲が良いわけでもない父と娘のありきたりな家庭である。家族の会話も久しく疎遠であったからだ。
なにより私は、その時期に社宅へ移る予定があった。
あまりにも長い通勤時間に辟易していたので、慣れ親しんだ実家暮らしに別れを告げて引っ越し作業に忙しかった。
密かに憧れていた一人暮らしに、浮き足立っていたのだ。
はっきり言ってしまえば、父の行動なんて意識の外だった。
今思えば父は、私が居なくなるからこそ、今回の改築に踏み切ったのかもしれない。
あの埃っぽい地下蔵をどうするつもりなのかわからないが、父一人、自由にやりたいことがあるならそれに越したことはないだろう。口を挟むつもりも興味もなかった。
私が物心つくより前に、母は他界していた。
男手一つ、仕事一辺倒で口下手な父に新たな伴侶は望み薄……孤独な余生を送る上で、趣味が必要だった。
そう、趣味。
定年退職した男がその後の時間を『第二の人生』と呼び、謳歌するそれだ。
例に漏れず父もその『第二の人生』とやらを踏み出したのだと思い、他人事ながらも喜ばしい事だと思っていた。
――それがたった一年と三ヶ月前のことだったとは、今でも信じられない。
「……まさか、あの物置がホームシアターになるなんてねぇ」
と、私は様変わりした地下蔵を眺める。
久しぶりに帰って来てみれば、埃をかぶっていた元地下蔵は見る影もないほどに生まれ変わり、お洒落な秘密基地となっていた。
四方に備え付けられた棚には記録媒体が整然と並び、間取りを分けた後ろ側には瀟洒な間接照明が棚を照らしている。父の秘蔵酒コレクションがバーラウンジのように飾られていた。正直、父にこんなセンスがあるなんて知らなかった。もっと素直に驚きを言葉にしたかったが、これまでの隔たりの時間が私を口下手にさせた。
「いいだろう? お父さん頑張ってみたんだ」父ははにかむように鼻を掻いて、少年のように笑った。
「何か観ていい?」
「ああ」
私は起毛の柔らかなソファを指先で撫でながら、壁面棚の方へ移動する。
てっきり名作映画でも並んでいるのかと思っていたが、どうやら違うらしい。
ディスクメディア形式の映像たちが横並びに棚に収められている。カバーは簡素なもので統一されており、タイトルはそれぞれ父の直筆で書かれている。
『母:2016.12.24』
「これって――」私は振り返って父に問いかけた。
父は二つのロックグラスに褐色の液体を注ぐと、片方を私に手渡して、交換するようにディスクを受け取る。
「母さんの映像だな。19年前のクリスマスだ」
私の手が軽く震えた。
19年前。……私がまだ、幼稚園児だった頃だ。
「全部そうなの?」
棚から他のものを抜き取ってタイトルを眺める。油性ペンで書かれたそれは日付がそれぞれ異なっていた。母:2017.04.28……母:2017.06.08……。
「余命宣告をされてから、母さんが言ったんだ。『娘が私の事を忘れないように、何かを残したい』って。俺は、ほら、口下手だから、カメラを買えば、映像を残せば、写真よりいいって思ったんだ」
そう言ってディスクを取り出すと、私に視線を送ってきた。「観るか?」と聞いているのだろう。
私は頷いた。喉の奥が詰まったような感覚があった。
映写機から投影される映像は数秒の暗闇の後、無編集の録画開始時点がスクリーンに投影されている。私と父はソファに並んで座り込んだ。
ブレブレのカメラは病室の天井から、ぐいっと持ち帰られて母の生前の姿を映す。
白い病室で、一度話しはじめようと口を開き、話は始めるタイミングを逃して一人笑う母。カットされることなく、仕切りなおす姿が流れ、改めてたどたどしく語りかけてくる。
「紗希。お久しぶりです。あなたの母ですよ。今日は……えーっと、クリスマスですね。お父さんがカメラを買ってくれました。私、こういうの苦手なんだけど……」
画面の中の母は少し照れたように笑い、目線を撮影者の父に向けて微笑む。それからまた私に向き直り、話し始める。
「紗希がもう少し大きくなったら、これを見せてもらうんだと思うの。その頃はお母さんのことをどれくらい覚えてるかな。たとえ忘れてしまっていても、全然大丈夫よ。それだけ元気に楽しく日々を過ごしてくれたってことだと思うから。お母さんは……お母さんはあなたのことを、とても愛しています。お父さんのことも、とても愛しています。空から見守っているからね」
私の頬を涙が伝った。隣の父も、涙を悟られまいと静かにこらえ、グラスを握りしめている。誤魔化すように酒を舐めた。
「ここはな――」父がスクリーンから目を離す事なく言う。「母さんだけじゃなく、家族全員の記録で埋め尽くしたいんだ。この時代に仏壇なんて堅苦しいだろう?」
「そう、だね」私は涙を拭いながら頷く。
確かに、仏壇は以前からあった。
私は母の顔を、声を、存在を忘れていくうちに、いつのまにか手を合わせることはなくなっていたのだ。
「だから、ここは思い出でいっぱいにしたい。ここを改築した時の俺の姿も残してみたんだ。お前の小学校の運動会の映像だってある。初めて歯が抜けたときのだってある」
「えー恥ずかしい」私は涙混じりに笑いながら、酒をそっと口に含んだ。喉を通る温かさが、心の奥まで染み渡るようだった。「でも、いいね。それ」
父も安堵したように微笑んで、グラスを傾ける。
「お前が帰ってきた時、いつでも母さんに会えるように。家族みんなで一緒の時間を過ごせるように」
私は父の横顔を見つめた。口下手で不器用だと思っていた父が、こんなに深く家族のことを考えていたなんて。
「この地下で家族みんなが眠るってことだね」
「そう、そうだ。カタコンベだな」
ここは、暖かな地下共同墓地だ。
しかし、眠るのは遺灰じゃない。
思い出が眠る憩いの場で、これまでの距離を埋めるように私と父は語らった。