43.その少年の絶望
農園の片隅に、白いティーテーブルと2台のチェアが置かれている。
かつてそれは星見席と呼ばれていた。もしくはアルビュー、アルヴとも。
使用するのは、二人限定。その用途も、二人きりの秘密のおしゃべり限定。
(……とかだったかな)
夜。
俺はグレゴールにあれこれ言いくるめられて、いつものスーツを着込まされ、そこに向かっていた。
アルギア管理局東方支部は、日が沈んでもまだまだ活発だ。それでも、そこにいる人間の絶対数の少なさがあって、農園の方に向かえば人の気配はほとんどなくなっていた。
でも、レミアはいた。
「……なんだそれ」
「何?」
その姿に、思わず笑ってしまう。
ブルーグレイのハイウェストドレス。エリム・ラスの婆さんに会いに行った時の、つまりはフォーマルな格好だった。あの羽飾りつきのクリップに、それに合わせたささやかなシルバーとレースのアクセサリーまで。
夜の薄闇の中、星明かりの下、レミアの姿は、白く青く光っているようだった。
「ここ、そんな格好する所か? 汚れるだろ」
「……ちゃんと掃除してもらったし」
「そんなことに研究員の手を借りるなよ」
「ていうか、ファレンだってその、かっこつけた格好じゃん」
「かっこつけてねえ。俺のは普段着」
「じゃあ普段からかっこつけてるんだ」
「なんだよ。じゃあ脱ぐか?」
「ほんとやめて、そういうの」
イスを引き、腰を下ろす。
改めて座ると、粗末なものだ。こんなの首都にでも行けば、ちょっとしたカフェのテラス席にいくらでも置いてある。
ただ、あの時のここにいた皆にとっては、ただ一つの特別な場所だった。
「最初にここに呼ばれた時」
テーブルを挟んだイスに座った彼女が、おもむろに話し始める。
「私、特別な格好してたんだけど」
「ああ……なんかヒラヒラしたの着てたな」
俺がそう言うと、レミアがぐるりとこちらを向く。
「気付いてたの?」
「え? まあ……」
「……じゃあ、何で何も言わなかったの?」
「言うってなんだよ。服の下の方がヒラヒラしていらっしゃいますねとでも言うのか?」
レミアがかなりありえないという顔をしたので、俺は溜息を吐く。
「今ならちったあマシなことを言うよ」
「たとえば?」
「似合ってるなー、とか」
「……嘘だ」
「なんでだよ。グレゴールについてりゃそれくらい覚える」
「だってさっき、さっきまさにそれを言うタイミングだったじゃん」
「いや、それは……」
「さっきそれを言うタイミングで、ファレン、『なんだそれ』『汚れるだろ』だったじゃん……!」
「…………そうだな……」
言われてみればまったくその通りで、ぐうの音も出ない。
(少なくともグレゴールから学んだみたいなこと言うのはやめよう……)
俺が反省していると、溜息を吐きながらも、レミアはかすかに笑う。
「そういうところは良いんだけどね」
「良いのか?」
「良くないけど、そうじゃなくて……」
その笑みは、溶けるように消える。自信なさげに眉を下げて。
「……グレゴールから、聞いた?」
「俺がお前に、ここに呼ばれた理由? 特には聞いてない」
俺はただ、この場所でじっくりレミアと話して来い、と言われただけだった。
そっか、とまた溜息混じりに言うと、レミアはぽつぽつ話し始める。
「教えてほしい。ファレンのことを」
「俺の? ことを?」
「2年前から、今まで……何があって、どうしてたのか」
「……それ、か」
薄々とは予感していた。
レミアとじっくり話せと言われて、話さなければいけないことなんて、そこ以外にはないだろうとは。
ただ、俺も意味なく今まで話さなかったわけではないものだから。
「あんまり楽しい話じゃない」
抵抗はする。話さずに済まないだろうとは分かっていても。
「情けなくて格好悪くて、グレゴールに助けてもらってばっかりだ」
「いいよ。話してよ」
「俺の弱みを握りたいのか?」
「ほんとにそうだと思ってる?」
その声には、予想していない強さとまっすぐさがあった。
「……思ってない」
俺は屈する。ここからさらに混ぜっ返すほど無神経じゃない。
「うん。……ファレンが私をそういうやつだとは思ってないことも、分かるよ」
でもね、とレミアは続ける。
「今、ファレンのこと……分からないことが多いの」
「俺のことが、か」
「……あの日、最初にファレンがソール・ブレッドに来た時、ファレンの顔と声の人が来たな、って思った」
「なんだそれ」
「だって2年前のファレンなら、そのジャケットも、帽子も、そんなにかっこよく着こなせないでしょ」
「……かっこいいか?」
「かっこいいよ」
なんとなく、俺は口を閉じる。
考えてみたら、服を褒めろだのなんだの言う割に、レミアのやつ、俺の服装を褒めたのは初めてじゃないか?
「それから今まで一緒にいて……ファレンだな、って思うこともあれば、ファレンの顔と声だな、って思うこともある」
「俺は……ファレンだよ。全部俺だ」
「私はそうは思えない。……そうは思えなくって、その……」
今度はレミアが口ごもる。だが、ほんの少しの間だけだった。
「淋しい」
顔を上げる。
星は瞬き、膨らんだ月が中腹に浮かぶ、夜の空。
言葉の受け止め方と、返し方に困っても、空の光は絶え間なく瞬く。
彼らは俺たちの沈黙を許してくれているようでもあるし、ひっきりなしに続きを促しているようにも思えた。
だから、星見席。星の見守るところ。
なるほど。
「あまり楽しい話じゃない、とは言ったからな」
「それでもいい。ファレンの全部を教えて」
目を細める。
星光が霞み、あのおぼろげな日々を映し出し始める。
* *
そこは中央アルギア部隊基地にほど近い、研究施設だった。
既知の医療では対応の難しい、前例のない重病者・重傷者に対し、実験混じりの治療を施し、知見を高める。
ラーヴェの重傷者というのも前例がないものだから、俺は必然そこに搬送されたのだ。
重傷だった。
あの日蒼鷹級にしてやられ、赫炎撃の爆炎に焼かれた俺は、誇張なしに生死の境をさまよった。
生きていたのは幸運だった。それは天気が良くて迅速な搬送ができたからとか、腕の良い回復魔術師がいたからとか、そういう所もあるが。
もっとも幸運だったのは、その日死んだ一人のラーヴェの身体パーツ、特に皮膚を俺の治療に流用できたことだった。
『その日死んだ一人のラーヴェ』が誰のことかは、言うまでもないだろう。結局あいつは、最後まで俺を助けていった。
意識を取り戻したのは、あの夜から20日ほど後。
主要な感覚が回復し、痛覚が収まり、外部との意思疎通ができるようになるまでにはさらに5日を要したらしい。
最初、俺は何も思い出せなかった。
記憶喪失――とは少し違う。記憶はあるのだが、それを引き出すことができない状態、あえて名付けるならば『追憶喪失』であると、術師に言われた。
損傷した脳を強力な回復魔法で一気に治すとたまに起こる症状であるらしい。
そんな状態で何ヶ月かを無気力に過ごしていた。
掛け値なしに、無気力な日々だった。そこがどこで、自分が何かにも興味が湧かず、ただ食い、ただ寝る。
たまに熱心な看護師が来て、言われるままにリハビリをする。おかげで、身体の最低限の機能は維持できたのだと思う。
無気力の理由は、不明だとされていた。
それなりの数の人が俺の元を訪れ、何か話し、去っていった。
おおむね、去っていく時の表情は失望か落胆だったように思う。
どうにも俺に何かを期待して話をしていたようだが、生憎その時の俺は、何も思い出せず何をする気もなく、ただ呼吸をしているだけの、虚弱なラーヴェの男だった。
その日。
もう来客も随分まばらになった頃、誰かが俺に会いに来ていた。
それが誰かは知らない。俺はろくにそちらの方を見ず、何も話さず、ほどなく来客は去っていったはずだ。
それから少しして、用を足すためだかに立ち上がった時。
(……?)
ふわりと。
何か妙な気配を感じた。
その気配の正体が、病室のカーテンから漂う匂いであると気付いた時。
「……っ……!」
猛烈に、頭が痛んだ。
もうずっと動かしていなかった脳のどこかが急に動きだして、軋んでいるかのような痛み。
(何だ。何だ……この、匂い。妙な、何だ)
何かの『匂い』が特別だったわけではない。味の薄い食事の香り。薬品の刺激臭。嗅覚刺激は今までにいくらでもあった。
だから、そうじゃない。『この匂い』だ。甘く痺れる、妙な匂い。嗅ぐと、痛烈に脳が痛む、この匂いは。
「……おっと」
病室の入口から声がして、俺はじろりとそちらを見た。
グレーのジャケットを着た男だった。
彼からすれば、異常なことだっただろう。ぼさぼさした身なりの男が、頭を押さえながらカーテンの端の匂いを嗅いでいるのだから。
だけど彼は、少しも躊躇いなく俺に歩み寄った。
「どうかしたのかな」
「こ……にほっ……」
この匂いが。
そう言おうとして、喉がかすれ、咳き込む。これほどまでに何かを伝えたいと思うのは久しぶりで、発語の機能が空回りしていた。
「匂いっ……がっ……」
「……匂い?」
彼は鼻を近づけ、すんすんと鳴らし、頷く。
「するね。女性用の香油のたぐいか……誰かが塗った所に触ってしまったのかな」
「なんっ……この……」
「気になるのかい?」
「……っっ」
分からない。
分からないが、その匂いはどうしてか気にかかるし、脳は内側からどくどく拍動して、腫れ上がりそうなくらいに痛む。
彼はすぐに看護師を呼んで、その看護師が俺をベッドに座らせた後、カーテンの匂いについて訊いた。
「……ああ、これはバンレイシじゃないですか?」
バンレイシ。
「たぶん今日、午前中に来た方が――」
「ああ……――!」
悲鳴を上げる。喉が。脳が。
バンレイシ。
それは特別な単語じゃない
『ただの匂いの名前』
だけど特別な
『それを覚えていれば』
『全部反省したってことにする』
『絶対に忘れないで』
『何度だって、何度だって』
約束。
「っあああ……ああァア――!」
悲鳴を上げ続ける。
追憶の路を、はちきれんばかりの勢いで
記憶が逆流する
『良いわけないでしょ、なんにも』
『エリオットの仇を討つ』
『出撃でもなんでもしたいならその後にしな』
『そんなことしたって……!』
『何の意味もなかった』
『ゼファー・マクシミリアン』
『ひどすぎるよ』
『あんたたちはもう二度とアルギアに乗ることはない』
『絶対に、お前は――知らなきゃいけない』
『誰も死なせねえオレになりてえ』
『そうだったの』
『もう終わったんだ!』
『ファレン』
『どうして?』
「ハッ……ハァッ……ガ、はッ」
脳が熱い。
悲鳴に裂かれて掠れた喉も、また熱い。
なのに胸の内側は恐ろしいくらい冷たく。
すべてが痛く、苦しく、悲しかった。
絶望。
仇を討つという最終目的を果たしたことに対して。
もう自分がやるべきことなどないことに対して。
己が今に寄る辺なき亡霊であることに対して。
自らの軽率で親友を亡くしたことに対して。
焦がれた英雄が虚像だったことに対して。
二度とアルギアに乗れぬことに対して。
何もかも忘却していたことに対して。
その全ては、今なお俺が生きているという事実に対する絶望に収斂する。
「ぐッ、ッゴフッ…………ッうぅ…………!」
頭を、顔を、喉元を。
その他、ありとあらゆる自分の存在に爪を立てて、引き裂こうとした。
誰かの腕がそれを止めようとしても振り払って。
この肉体を殺さなければいけないと、反射的に決断した。
悲しいのは、この弱りきった手ではしっかり治癒した皮膚にろくな傷もつけられず、散らばった液体は汗と涙ばかりで、血液の赤はそれで薄められるほどに僅かだったことだ。
「ファレン」
やがて無慈悲な癒やしの魔法が、俺のほんの僅かな傷を塞いで、半狂乱の心を冷ましきった後。
彼はまったく落ち着き払った声で、俺に話しかけた。
「正直、驚いている。君にまだ、自傷しようとするほどの情動があったなんて」
「…………」
「それとも……取り戻したのかな。さっきの香りと、バンレイシという名前で」
「っ……」
彼のみならず、複数の大人たちが俺を見ていた。
苦しさに任せて暴れた所で、きっと何も意味は為さないだろうと、俺の脳のどこか醒めた部分は判断した。
「君の中で、それほど大きな言葉だったわけだ」
「…………そう、だ」
大人たちのどよめきを背に、彼は穏やかに笑った。
「嬉しく思うよ。君のことをようやく、君自身の言葉から一つ知ることができた」
「…………」
「そして君には、涙を流し、怒り、叫ぶ力があることも分かった」
「……なんだよ」
俺は震える声で問う。
「何で、何を……何の分際で、言ってるんだ。お前は」
「改めて自己紹介するよ。君にはもう3度も会って、そのたびに名乗っていたけど、今の君にはそれが必要だろう」
ベッドの上でうずくまる俺に、しゃがんで視線を合わせる彼。
そんなこと求めていない、と俺が言おうとしても、彼は一切有無を言わさずに。
「グレゴール・シュストラール」
その名を告げる。
「君たちに感謝をする、たくさんの人々のうちの一人だ」