42.わたしの知らない物語
中に入ったら、もしかしたらティルチェの香りでもするんじゃないかと思っていた。
でも、そんなことはなかった。コクピットは新品のように磨き上げられて、過去の痕跡はなにもなく、わたしを静かに受け入れた。
ラーヴェの背には3つの端子がある。
真ん中より下で、お尻の上、腰のあたりから3本生えた突起。
指先くらいの出っ張りは、触るとひんやりと柔らかい鉱石のような感触があるが、触られても特に何も感じない。
だけどこれこそが、ラーヴェの一番ラーヴェらしいところ。
腰椎から伸びるこの端子は、アルギアコクピットの小伝導管を嵌めて少し魔力を注ぐと、ぴったりと吸い付く――実際に起こっている事象はもう少し違うらしいのだが、わたしからすると『吸い付く』としか表現しようがない。
そうして繋がったら、端子を介してアルギアに魔力を流し込む。するとアルギアのスイッチが入り、所蔵された魔力でシステムが起動する。脊髄から、アルギアの情報と操作権限が流れ込んでくる。
(外部センサと同調)
ばあっと、世界が広がる。狭くて暗いコクピットの中から、晴れ渡る空の下へ。
「…………」
眩しい。
眩しくて広い、世界。
(だけど隣には、誰もいない)
かつてであれば、顔も名前も知っている基地員が出撃の補助をしてくれて、よく見知った操士の乗るアルギアがあって。
だけど今、この滑走カタパルトに、そういったものはない。
「……おかしいな」
思わず独り言を漏らす。
確かに、そうだ。今ここにそういったものはないけれど。
少なくともわたしの前にはファレンがいる。それはあの頃と同じだ。
なのに、淋しい。
どうしてか淋しい。
(レミア?)
繋がった思考リンクで、ファレンが呼びかけてくる。
(大丈夫か)
(……大丈夫)
何が大丈夫とするかは分からないが、まあ、大丈夫じゃない、というほどではないと思う。
ただ、ちょっと淋しいだけで。
「二人とも、聞こえてるかな」
地上からグレゴールの声が聞こえる。
「そのアルギアは、ちゃんと整備はされているけど、もう2年も誰も乗ってない状態だ。異常があればすぐに教えてくれ」
「大丈夫だ!」
ファレンが答えると、グレゴールは驚いた顔で、少しだけのけぞる。
「動いてみないと分からないが、今のところ異常は感じられない。……レミアもそうだな」
「うん……大丈夫」
大丈夫、大丈夫。
多分、大丈夫ではない、ということはないから、大丈夫だ。
たとえ何か心配されたって、どうすれば良いのか、わたしは分からない。
「よしっ、じゃあええと……」
グレゴールが両手を合わせて揉んでいるのが見えて、少し面白くなってしまう。彼も興奮しているみたいだ。
「基礎動作を試す、だったかな。まずはレミアが動かして、次はファレンだ。ちょっと待ってくれ、離れるから」
そして、そんなグレゴールも、他のアルギア管理局員と一緒に離れていってしまう。
(……ああ)
また、来る。
淋しさ。目の前の世界はこんなに明るくて広いのに、体が冷たいコクピットの中にあることを忘れられない。
(レミア)
(うん)
ファレンの呼びかけに応える。応えながら、そっとファレンの方を伺う。
思考の呼びかけは行わない。だが、少しずつ、ファレンの思考に近付いていく。意識を前に、傾けるようなイメージで。
あの夜やめろと言われた、一方的な思考の盗み見。
(……ファレン)
静かだった。
何も考えていない? 集中しているのだろうか。
それでも、前ならあれこれと色々なことを賑やかに考えていたように思う。
(前なら……)
ぷかりと、一つのアイディアが頭の中に浮かび上がる。
少しの躊躇。だけど、それはわたしの行いを止めるには至らなかった。
「そこって、エリオットが乗ってた場所だよね」
わずかに困惑の気配。
「そうだな」
「……大丈夫?」
「大丈夫、って」
漂ってくるのは困惑の気配ばかりだ。
「何がだよ。別に、操士が違ったら動かないとか、ないだろ?」
「…………」
「どうしたんだ。レミアの方はそうじゃないのか?」
あと一歩。
『そこでエリオットが死んだのに、大丈夫なの?』
そう言えば、彼は怒ってくれるだろうか。
あの日、エリオットの仇を討つと、すべてを賭けて戦った激情を。
あの日々、大雑把で傲慢で、なのに優しく、自信に満ちていた姿を。
わたしにもう一度、見せてくれるだろうか。
(ああ……そうか)
漠然と感じていた淋しさの形が、やっと分かった。
(わたし、今のファレンが分からないんだ)
それは、ティルチェと最後に話したとき感じたように。
いつの間にか大人というものになって、一足飛びで先に行ってしまったという感覚。
理屈ではなく親友の死に激怒していた、あの誰よりも強い操士と、今わたしの前にいるファレンが、同じ人とは思えなくて。
そしてわたしは、そんな人とあの日と同じように翔んでゆけるのか。
「ごめん、ファレン」
「……え?」
わたしは息を吐く。
「一日だけ……待って」
* *
「そこにいたのか」
夕方。
オレンジの陽光が満たす暗い床で寝転んでいたところに、やってきたのはグレゴールだった。
「……ファレンは」
「休んでるよ。明日になれば大丈夫だろうって思ってる」
「そう」
「女性の扱いがなってないね。少し気を使えば、すぐ何か君が思い悩んでいるだろうって分かるだろうに」
「そうなの。本当に。昔からそうなんだから」
言ってから、ああ、なんてばかな、と自分で思ってしまう。
昔のファレンと今のファレンが同じに思えないから、なんて考えて、理由もまともに言わずにサボタージュしておいて、もう彼が変わらずファレンである所を見抜いてしまっている。
「まあ、君を信じてるってことでもあるんだろう」
グレゴールは、ドアの横の壁際に座り込んだ。わたしと視線を近づける、しかし近づきすぎないポジション。紳士的だ。
「体調が悪いとか、そういうわけではないんだよね?」
「うん。……ごめん。明日はちゃんとやる」
そうなると、一人で床に寝転んでるのもだらしなく思えて、近くの壁に背を預け、ぺたりと座る格好になる。
「グレゴールには、お世話になってる……お金ももらってるし。ちゃんとやるから」
「本当にやりたくないことだったら、無理強いはしないよ」
彼の声は穏やかだった。
「アルギアを動かすなんて、いやいややってできることでもないだろう」
「そうだけど……」
「まあ、誰だって、生きる以上は嫌なこと、面倒なこともしているけど」
グレゴールは少し顔を上に向けて、夕日に目を細めた。
「でもそれって、生きるためではないはずなんだよ」
「……どういうこと?」
「生きるということに対して、まずは目標があるはずなんだ。そしてその過程で、嫌なこともする」
「目標……」
知っている。
目標という言葉は知っているけど、そういえば、深く考えたことはなかった。
「僕はね。翼樢に直接殺されそうになったことがあるんだ」
グレゴールは声を落として、そんなことを喋り始めた。
「食料の買付に行っていたんだけど、雨がひどくて足止めされてね。それで、翼樢の警戒圏から逃げ遅れたんだ」
「そうだったんだ」
「もうダメだってなった時に、空からアルギアが現れて……装甲も壊れて満身創痍って具合だったのに、ボロボロになるまで戦ってくれてね」
あれは格好良かった、とこぼすグレゴール。
「それから一年半くらいして……翼樢の清浄宣言が出て、色々な情報が開示された時にね。僕を助けたアルギアとその操士に一言お礼を言いたくて、調べたんだよ」
「……それで?」
「戦死していた」
グレゴールは手を組む。
「アルギアは辛うじて無事だったんだけど、中の操士が死んでしまっていた、とかで」
清浄宣言から一年半前というと、まだまだ犠牲になる操士は少なくなかった頃のことだ。
「あいにく、詳しい時期は伏せられていて分からなかったが……きっと、僕を守った時のことだと思った。あれだけ装甲を壊されながら無事に戦い抜けるなんて、素人考えでも思えなかったからね」
(だからか)
前から、グレゴールのアルギアへの入れ込み方は、他の人とは違う熱っぽさがあると思っていた。
そんな理由があったんだ。
「僕は、僕を守って死んでしまった、名前も知らないラーヴェに報いたい。アルギアが僕たちの未来を守った希望だということを、語り継ぎたい」
「それで……アルギアスロンなの?」
「そうだ。語り継ごうという意志が十分にあっても、ほそぼそ伝承されるだけじゃ駄目だ。この世界で存在感を示し続けるなら、利益が必要になる」
そう言って、グレゴールは笑う。
「アルギアスロンを軸に、アルギア経済圏を成立させる。それが僕の目標だよ」
「……なんだか、途方もない話に聞こえるけど」
「途方もない話なんだよ。でもこのためならあちこち働いて回れるし、嫌なことも頑張れる」
「嫌なこと、あるの?」
「お酒飲んでる時に下品な話題になるとつらいんだよね。僕、そういうことに興味が持てなくて……」
「ああ……男の人ってそういうの、なりそう」
「そういう時に出すために、半年に一つくらい下品エピソードを真面目に練るんだけど、それ考えてる間はすごい苦しいよ」
「おつかれさまです」
「ありがとうございます」
よそゆきの口調でそんなことを言い合い、ふふ、と笑い合う。
「その調子だと、あまり目標とか考えたことはない?」
「うん」
「それで迷っちゃってるのかも知れないね」
「あの」
そういうことを言われると、わたしはむしろ他に気になることがある。
「ファレンにもあるの? 目標」
「ん? ああ……どうだろう。彼はどちらかというと……」
言いかけて、しかしはてと首を傾げるグレゴール。
「……あまり話してない? そういうこと」
「う、うん……」
「結構時間はあったはずだけど、そうか……」
「……私」
そしてわたしは、ファレンの話が出た勢いに乗って、本当のことも話してしまう。
「ファレンのことが……分からなくて」
「うん」
「昔のファレンと、今のファレンが繋がらなくて……それで少し、その」
「不安?」
「……はい」
さすがに、淋しい、とは言えなかった。
そんなの、子どもっぽすぎる。何だったら、いま話した内容だってひどく子どもっぽい気がしてきた。
けれど、グレゴールは真剣な顔で考えてくれる。
「……僕は、レミアの言う昔のファレンを知らないけれど、彼が以前から激変してしまったとはあまり思わない」
「そう……なんだ」
「だから、君がそう感じてしまうことの理由は、間が飛んでいるからかな、と思う」
「飛んでる……」
本を読んでいて、ページを飛ばしてしまったら、分からなくもなる。
あの夜から、もう一度ファレンと会うまでの、2年間。
「分かった。ファレンに任せるつもりだったけど、そういうことなら僕が場を設けよう」
「場?」
「そうだ。ここの局員に聞いたけど……」
グレゴールは立ち上がり、わたしに笑いかける。
「ここには、二人きりで大切な話をするための場所があるんだろう?」
明日(11/30)は、13時に2話、21時に1話更新します