26.星は流れない
茫然。
としか表現できなかったように思う。
間違いなく、誰もがいつも、そんな日がくれば良いと思っていた。
アルギアでの戦いの末、すべての翼樢は滅ぼされ、もはや人類が脅かされることはない。
平和で穏やかな、戦いのない日々を、皆が夢見ていたはずだ。
ただ、こんなに突然、それが降ってくるとは思わなかった。
「エリオットが戦死した件は、あたしも本当に惜しいと思っているよ」
エリム・ラスがその名を出し、弛緩した空気がピリッと引き締まる。
「やつがいれば、きっとこの場を明るく盛り上げてくれたろう。あんたたちの笑顔も見れただろうにね」
「……知ってるんですか、エリオットのこと」
ティルチェが低い声で問う。
「あたしもそう思います。そう思うけど、不思議です。あなたとは初対面なのに、あたしと同じくらい、みんなのことを理解している」
「最初に名乗ったが、あたしは翼樢対策委員会の魔術顧問だ」
エリムが動じる様子はまったくない。
「本業は、あんたたちラーヴェを生み出すこと。操士になってからの動向も、当然把握していたよ」
「……そう」
「実際、あたしがまずここに来たのも、エリオットがいたのが理由なんだ」
声音柔らかに、エリム・ラスはそんなことを言う。
「彼は良いリーダーだった。他の部隊にもまとめ役はいたけど、ここまで穏やかに皆が結束できているのは、間違いなく彼の手腕のおかげなんだよ」
「そんなこともわかるんですか?」
「分かるとも。情緒面で最も安定した部隊があんたたちだ。だから、これから全てのアルギア部隊を解体し、全操士をアルギアから降ろすにあたり、最初にあんたたちを選んだんだが……」
(……本当に、もう終わりなのか)
そんなことをぼんやりと考えてしまう。
(アルギアに、もう……乗れなくなるのか)
ティルチェに答えると、エリムは改めて皆の顔を見渡す。
「多少はましな顔になったか」
杖こそついているが、その立ち姿は一切揺るがなかった。
「ではこれからの話をしよう。まあさっき触れたが……アルギア部隊は解体される」
皆はしんと静まり返っていた。
「アルギアは厳重な管理下におかれ、残党狩りが完了次第、封印される。その残党狩りも、担うのは中央部隊だ……だから本当に、あんたたちはもう二度とアルギアに乗ることはない」
皆の気持ちは分かった。それがどういうことだか、いまいちイメージできないのだ。
俺たちは大体、家族も故郷も翼樢に奪われ、ゼファー・マクシミリアンに救われた手合いだ。部隊を解体された後のこと、なんて――
(ゼファー。ゼファー・マクシミリアン)
その名が思考をよぎると、また言いようのない違和感を覚える。
だがその正体が分からない。『ゼファー・マクシミリアンは存在しない』という仮説と、その事実、いや、その記憶? が、嫌な感じの摩擦を起こしている。
「最終国家フェリィは、部隊解体後の操士たちの生活を、全面的に支援する」
エリムの言葉に対して起こったどよめきに、俺の意識も現実に帰ってくる。
「これは文字通りの意味だからね。フェリィは、人類を救ったあんたたちに対する『ありがとう』を、形にして示す。可能な限り――法や倫理の枠内の願望を、お前たちは叶えることができる」
「……それって、『一生働かず遊んで暮らしたい』とかでもいいの?」
「一番想定されているケースだね。もちろん、その希望は受け入れられるよ」
レミアの質問への回答に、ざわめきがいっそう大きくなった。
「今フェリィで生きている人類は、どれもあんたたちがいなければ死んでいた命であり、また皆、それを自覚している。あんたたちラーヴェへの感謝を示すことに抵抗を覚える者はいないはずだ……ただし」
ドン、とエリムの杖が強めに床を突き、浮足立った皆を静まらせた。
「『社会勉強』をすることが条件だ。あんたたちの出生はバラバラだからね。基地の外での『前提』は身につけてもらう」
(出生)
それは存外に、ぞくりとする言葉だった。
俺たちの過去。ラーヴェとなる前に送ってきた人生。
話の種にすることはしばしばあった。
皆さまざまな経歴を持っていて、だが最後には、翼樢に脅かされ、『英雄』、ゼファー・マクシミリアンに救われる。
その姿に憧れる。
おかしな話、ではないのだ。事実として、翼樢はほとんどの人間を脅かし、殺し、その社会を滅ぼしつつあったのだから。
ただ、マックス・ゼフの存在が疑わしい今、その意味は――
『では最初に』
エリム・ラスの言葉が深く響いた。
(……声じゃない!)
直感した。
『もっとも基本的で、重大な前提を授けよう』
思考リンクが深く繋がったことによる、声にも似た思念が、俺たちの恐ろしく深い点に呼びかけてくる。
『これが、現実だ』
* *
その日俺は、女の子を背負って森の中の道を走っていた。
脚を怪我していた彼女は、村落で、一人逃げ遅れていたのだ。
「はっ、はっ、ぜはっ、はっ……」
「だ……大丈夫? お兄さん……」
気遣わしげな声を漏らす彼女を、安心させてあげられれば良かった。
だが、俺にできたことと言えば、荒く呼吸をしながら引きつった笑みで振り返ることだけだった。
言葉を発する体力も惜しかった。奴らが、いつ追いつくか分からない。
俺は走り続ける。
足、腰と言わず、全身が痛かった。頭と魔力を動かすのは得意だが、肉体労働は専門外だった。
だが、それはその子を助けることを、諦める理由にはならなかった。
「……降ろして」
だからその言葉も、相手にしない。
「はっ、はあっ、はぁっ」
「降ろして!」
「はあ、はあっ……ははっ」
「降ろしてよっ、お兄さん、このままじゃ私のせいで……」
聞く気はない。
それが、彼女の弱気と気遣いに基づくものであることは分かっている。だったら反論する時間と体力の無駄だ。
だって俺は、助けたいからそうしている。
「……聞こえるの!」
続く彼女の言葉は、半ば悲鳴だった。
「羽ばたきが……奴の飛んでくる音が!」
バサッ バサッ バサッ
巨大な翼の羽ばたき音が聞こえる。
その持ち主は、鳥ではない。
いわんや、植物にて編まれた鳥など。そんなものは存在しない。
「ハ、ハ、ハ」
乾いた笑い声が届いた。
「どーうなんだね? 逃げる側があんまりにも遅く、地べたを這うしかできない追いかけっこというのは。遊びとしてもお粗末なんじゃあないかね? ン?」
白い翼を生やした、恰幅の良い男が、空から舞い降りる。
彼らは天騎士と呼ばれていた。
「まあ、景品が豪華ならそれも良し、か~……」
「ひっ……」
……騎士?
笑えてしまう。奴らにその称号に相応しい精神性なんてありはしない。
あれは敵国の人造兵器。天使と呼ばれる、かつて存在した高位存在の力を移植しただけの、ただの人間。
そしてかの国において、人造兵器の実験体には、死刑囚を含む重罪人ばかりが選ばれたという。
「脚が不自由なんだろ? 君ぃ……俺は一向に構わんよ。たまにはそういう女性も乙だ」
「い……嫌っ……」
「ちゃんと優しくもしてやるさ。かわいい顔をしている。天性の才能だ。おっぱいはどうかな? おい、君。確かめるから下ろしなさい」
「……ふざけるなよ」
「オ?」
俺は懐から魔石を掴み出す。
「行け!」
突き出した魔石から、稲妻が迸る。
雷の魔法を封印した魔石だった。少し魔力を注いでやれば、封印を内側から破って電撃が放たれる。
「『炎熱よ』『渦巻き巡る』『八角の熾球を成し』『爆ぜろ』!」
間髪入れず、魔石に残存した魔力を俺自身の魔力と合わせて、次の魔法を放つ。
今度は炎だ。人の頭ほどの大きさの火球が、天騎士の男へ迫る。
爆発。
「うおっ!」
「きゃあ……っ」
反動に吹き荒れる熱風にたたらを踏み膝をつく。女の子も、俺の背中からずり落ちてしまった。
(……でも、できることをした)
渾身の魔法攻撃だった。これで殺すことはできずとも、足止めくらいは
「はあ~……」
溜息。
魔法の余波が収まったその中心で、男は頭を掻いていた。
「なんでそんなことを?」
「っ……」
「天騎士の力は天使の力だ。人間が及ぶことはない……まッ、首輪はついてるもんだから、ご主人サマには逆らえないんだがさ」
首元に突き刺さった鎖を見せびらかしながら笑う。
「ただご主人サマには、敵国住民を好きにすることは許されてんだよなあ~」
数秒だった。
俺がそいつを見ていられたのは、それから数秒。
そいつの放つ光線に、まず両目を焼かれ、悲鳴がうるさいからと喉を焼かれ、動かれると面倒だからと脚を焼かれ、特に意味もなく腕と頭を焼かれた。
「やめっ……触らないで……!!」
「うーん、つつましいなあ。惜しい! まあそこ以外は合格か~……」
地面の上、少女の悲鳴と、下劣極まる言葉を耳にしながら、ひれ伏している。
「大体なあ、キミ。考えなかったのか? どうしてキミが置いていかれたのか」
「……っえ……?」
男は少女に語りかけていた。俺は声を発せない。少女の声が震えている。
「この村にキミより可愛い子はいた?」
「なに、言って」
「こんなに可愛い子が、脚を怪我していて、逃げられない。だからしょうがなく置いていく。そこへ攻めてくるのが悪評高い『天騎士』だなんて、ちょっと出来過ぎだよ……なあ、ボーイ」
(やめろ)
「一か八かのイケニエなんだろう? もしかしたら、俺がこのコに夢中になって、侵攻の足を止めるんじゃないかという……おっぱいあれば行けたんだけどね。惜しいところでした!」
「そっ……んな……っん痛っ!」
「しかもこの脚、ヤケドだろ? あれえ~……ヤケド?」
(やめろ……やめろ!)
「俺、最近、炎の魔法使いを見た覚えがあるなあ。この国、魔法使いは少ないって聞いてたんだけど……どう思う?」
男は笑っていた。
嘲笑っていた。
「ああ、いいよいいよ。何も言わないで。俺は天騎士のギフトで過去視ができますからね。つまり……」
「あっ……」
「村全体を生かすために、村一番の美少女を犠牲にした。そのくせに、後から罪悪感を覚えて、助けに来て……あっ、もしかしてそうすればこのコが君を好きになるとか……考えてました?」
(ふざけるなよ……!!)
その怒りを、動作にも声にも託せない。
血と共に、意識も命も流れ落ちて、土に滲んでいく。
正しい。
唯一の魔術師として、その計画を飲んだ。
事故を装い、彼女の脚に火傷を負わせた。
一度は下したその判断を、深く後悔した。
そこまでは正しい。
だが最後だけは違う。絶対に違う。
確かにその、歳下の少女のことが好きだった。花咲くような笑みが、繊細な感性が、優しい声が好きだった。
だから貴族との婚約の知らせを聞いた時も、嫉妬を殺して、全力で祝福した。
婚約者が敵国との戦争で敗死した時も、友人たちと一晩中慰めた。
ただの一度も、見返りなんて求めていないのに。
「……お兄さん」
俺を呼ぶ彼女の声に、総毛立つ。
侮蔑があった。
明確に、俺を、蔑んでいた。
「そう、だったの」
(違う!! 違う、違う違う!!!)
冷めきった指が、土を掻く。立ち上がって、否定しようともがいている。
錯覚だ。土の一粒を動かすことすら、今の俺には叶わない。
(絶対に違う! それだけは……!!)
「まあ、男というのはそういうものだからね。結局全部、この通りだめになったわけだけれども……」
「…………」
(ふざけるな! ふざけるなッ……ふざけるなよ!!)
消えゆく命が、憤怒を叫ぶ。
(お前が……ッ、お前のようなやつが、いるから! そうするしかなかったんだろうが! 誰が喜んで彼女を差し出すものか!!)
「沈黙は肯定、って言うな。全くひどい話で……ああ、泣かないで! 可哀想に……頭を撫でてあげよう」
(なのにお前は、俺たちが必死で決めた現実を、自分の良いように嘲笑って……何もかも……汚すのか!)
「よしよし……安心しなさい。俺はこれで紳士だからね。ちゃんと守ってあげるよ。さて……」
(そんな奴がッ、のうのうと生きて……俺たちが……死ぬのか!? そんな、そんなの)
「お疲れ、少年」
(……ふざけてるだろうが……!!)
死を目前に、怒号を吐くこともできず。
俺は死んだ。
* *
俺は知っている。
フェリィ大陸の人々は、そんな、長く愚かな戦争により、魔法技術のほぼ全てを失い、人口を100万人にまで減らした。
大勢の人間が、死んだ。
1000年も前のことだ。
次話更新は17日13時です ここまで悪趣味な話はもうないです