新チャンピオン
その夜、淳実はいつものように笑顔だった。別に何か特別なことがあって笑顔になっているわけではない。いつもどこかで同じように繰り返される日々を送っているに過ぎない。でも、そんな繰り返される日常でも淳実は嬉しかった。その日常の中に今、想いを寄せている水森がいる。同じ部屋にいる。それが何より楽しかった。
水森が来て四日目の夜も楽しい時間はあっという間に過ぎていくのを体感していた。しかし、それもマンションの呼び鈴が鳴るまでのことだった。呼び鈴が鳴り、由里が玄関ドアを開けると突然、「ちょっと!」と由里の慌てるような声が聞こえたかと思うと、富長がズカズカと部屋にあがりこんできたのだ。それはまるで楽しい時間をぶち壊しにきた悪魔のように。そして、入って来るなり富長は淳実を見つけ、射抜くように睨みつけた。その睨みだけで人をぶちのめす意思がまざまざと感じとれる。怒りのオーラを滾らせているのが容易に分かる。淳実は突然現れた富長を見て、驚きのあまり、無意識に口を大きく開いた。富長の後に、小野田と中島が続けて入って来るも淳実には富長しか見えなかった。ただただ富長の自分を睨みつける目を見て、今まで夢見心地だった気分が急速に青ざめていき現実に連れ戻された。淳実は心の底から悪寒を感じた。
「お前か、俺の女に手を出したのは」富長は怒りを抑えて、静かな口調だがドスの効いた声で話しかけてきた。淳実は怖さで何も言えず、その場で固まり動けなかった。まるで蛇に睨まれた蛙そのものだった。由里は富長の訪問を事前に小野田から連絡を受けていたが、いざとなると由里も体がすくみ動けなかった。それほど富長の人を威圧するオーラは凄かった。二人が動けずにいる中、意外にも水森が動いた。
「違うの! この人は違うの!」水森はこういう場面を幾度となく経験しているのか、なんの躊躇なく富長と淳実の間に割って入った。
「何が違うんだよ。お前も勝手にブロックしやがって」富長は片手で水森を弾き飛ばした。
水森は横に倒れた。富長は倒れた水森には目もくれず、富長は淳実に詰め寄り、睨みながら淳実の胸倉を掴み上げた。富長は歯を食いしばりながら唇だけ動かしてしゃべった。
「お前は許さねぇ!」
「いや、僕は違うんだ!?」と淳実が言い終わる前に富長のパンチが淳実のボディにめり込んだ。淳実はうめき声をあげ、悶絶うって膝から崩れ落ちた。倒れても富長は淳実の襟を離さない。
「何が違うんだよ。こいつがお前の部屋にいることが何よりの証拠だろうが!」
富長は淳実の襟を掴んでいる手で淳実の頬を叩いた。淳実は、唸り声をあげて顔を歪めた。
「お前のせいで恥かいたよ。この落とし前、たっぷりつけてもらうぞ!」
「もう辞めてよ! ほんとに彼は関係ないんだから!」水森が淳実の襟を掴む腕にしがみついた。
「どけ!」富長は片足を水森の体にぶつけて吹き飛ばす。水森は悲鳴を上げて倒れる。
「こいつはいつもより派手に吊るす。見せしめにしてやる。俺に隠れてコソつく野郎がどんな目に合うか思い知らせてやる!」
由里はその場に立ち尽くしていたが、我に返って膝をついてお腹を押さえている淳実に覆いかぶさった。
「もう辞めなさいよ!」
「うるせぇアマ! すっこんでろ!」
「もう辞めろ!」小野田が富長の後ろから叫んだ。富長はゆっくり小野田の方を振り向いた。
「なんだと?」富長はドスの効いた声で言い、小野田を睨んだ。富長の目は小野田が手に持っているスマホの動画に映っていた。小野田はこの場を動画撮影しているのだ。
「なんだそれりゃ?」
「お前のやっていることを撮影してるんだよ」
「なんだと?」
「水森を賭けた喧嘩が暗黙の了解だかなんだか知らねぇけど、暴力に暗黙もクソもあるか! 俺はお前がこうやって淳実や岩崎たちにしてきた暴力をSNSで公開する。これが公開されれば、いくら喧嘩が強くてもタダでは済まんぞ。炎上ぐらいで済むと思うなよ。場合によっては警察沙汰にもなる」
「そういうことか。お前も水森のことが好きなのか? だから俺に馴れ馴れしく近づいてきたのか。こうやって俺を嵌めるために」
「お終いにするために近づいたんだよ。もうこんなこと、いつまでも続くと思うな。お前がこれ以上やるなら出るとこ出るぞ。行くところまで行くぞ。これが出回ればお前らのベルトごっこもお前らの仲間が許しても、社会がお前を許さない。社会がお前を裁く。もうチャンピオンベルトごっこなんてやってる場合じゃないぞ」
富長は小野田を睨み続けた。小野田は決して怯まない。富長に向けてかざしているスマホの動画で富長を撮影し続けている。
静寂。
皆、次の富長の出方を待っている。
富長はスマホから目を逸らした。
「わかったよ。お前の言う通りにするから、もうやめろよ」
小野田は安堵し、顔が少し緩んだ。するとその隙をついて富長は小野田のスマホを手で弾き飛ばした。小野田は、「あ!」と叫んだ。すかさず富長が、「この野郎!」と言って小野田に殴りかかった。小野田も殴られると思い目を閉じた瞬間、富長はその場にうつ伏せで倒れた。
淳実が富長の両足を抱え込むように飛びついたのだ。
「この野郎!」
「水森さん、逃げて!」淳実は必死に富長の両足を両手で抱えている。富長は足を抜こうと藻掻きながら、拳で淳実の頭を殴る。淳実は殴られながらも、必死に両足を離さず、しがみついている。
「水森さん、逃げて!」
すると、由里がうつ伏せで藻掻いている富長の背中に飛び乗った。それを合図に、小野田も水森も富長の上に飛び乗り、それぞれが富長の頭や腕を両手を使って必死で押さえつけた。富長も三人に馬乗りに乗られ、初めは反射的にジタバタしてたが、一息吸って体の力を抜いた。
「わかったよ。もう終わりだ。終わりにするからどいてくれよ」
富長の上に乗っている由里、小野田、水森は富長を押さえつける力を抜こうとせず、ずっと押さえつけている。淳実もずっと富長の両足を両手で抱え込んでいる。
水森は富長の腕に噛みつく。
「いてぇよ! 噛むな! 終わりにするって言ってるだろ。もう何もしねえよ。しねぇからどいてくれねぇかな。水森も自由にするし、ベルトも終わりだ。お遊びはもうお終いだ」
「ほんとか? ほんとにもう終わりにするんだな」小野田が確認を取った。
「ほんどだよ。終わりにしなかったらお前の撮った動画でも何でも流せばいいだろう。お前こそ、終わりにするんだから何もしないんだよな?」
「ああ、しない。約束する」
「なら、ほんとにお終いだ。俺が本気になったら、こんな、お前らに乗られたくらいで俺を押さえることは出来ないよ。だから、もうどいてくれよ」
小野田は由里と目が合う。由里が富長の体を押さえるのをやめて、立ち上がり、小野田も足り上がった。しかし、水森だけは足を押さえつけて噛みついたまま動こうとしなかった。由里が水森の肩を叩いた。
「もう終わり」
小野田は富長の両足を抱えて淳実に声をかけた。
「淳実。もういいよ」
淳実は顔を上げた。小野田と由里と水森が立っていた。淳実も立ち上がろうと片腕を付いたときわき腹が痛み、その場に崩れ、わき腹を押さえた。
「イテテ」
「痛いの?」由里が淳実の傍についた。水森も淳実の傍に来た。
富長は、抵抗するそぶりを見せず、その場に立ち上がる。立ち上がると同時に一瞬、片足を踏み込み小野田を威嚇した。反射的に小野田は体を仰け反らせた。富長は笑った。
「冗談だよ。冗談」
富長は中島が持っているチャンピオンベルトを手に取った。
「まこ」
水森は富長を見た。富長はベルトを水森に投げた。
「お前が処分しろ」
水森は富長からベルトを受け取り、ベルトにある自分の顔を見た。
富長は部屋から出て行った。中島はベルトが惜しいのか、水森が持つベルトをチラッと見るも富長の後に続いて部屋を出て行った。
「なんか肋骨が痛い」
「とりあえず、医者に診てもらおう。顔にも青反がある。きっと足を押さえていたからおそらく膝が入ったんだろ。兎に角、見てもらおう。立てるか?」
「立てる。ただ、少しわき腹が痛いんだ」
「じゃぁ、俺、タクシー捕まえるから、ゆっくり降りてきて」
「医者は?」由里が小野田に尋ねた。
「俺の家族のかかりつけ医がいるから、そこで見てもらおう」小野田はタクシーを呼びに部屋を出た。
「大丈夫?」水森は心配そうに淳実に声をかけた。
「大丈夫」淳実は微笑んで見せた。
あの後、病院に行き、淳実は肋骨にヒビが入っているのがわかったがコルセットを撒くほどではなかった。顔の腫れも大したことはないと言われた。淳実は大事をとって大学を二三日休むことにした。顔にあざを付けたまま行くのも気が引けたし、そのことで周りにとやかく言われたくもなかった。
由里が大学に行くと、部屋には淳実一人。一人になると余計、物寂しさを感じた。なぜならあの夜の一件以来、水森は晴れて自由になり自分のマンションに戻ったからだ。部屋は淳実と由里の二人暮らしに戻り、いつもの日常に戻ったといえば聞こえはいいが、淳実にとって水森との生活はまさに思い描いていた青春そのもの。それだけに水森が去った部屋にいると、心にぽっかり穴が開いたような気がして虚しかった。
淳実は肋骨に響かないように静かに歩いてキッチンに行き、冷蔵庫から牛乳を出してコップに注ぎ、それを持ってテーブルのイスに座った。目を閉じると水森の姿が浮かぶ。水森は自分の前に座っていたことを思い出す。水森のいない部屋に居ても、目を閉じれば水森の姿が見える。淳実は瞑想するかのように目を閉じ、瞼に映る水森の姿を追った。そして、一人微笑んだ。
すると由里が帰ってきたのか、目を閉じて、ニターっと微笑んでいる淳実の顔を見るなり一言言った。
「何してるの?」
淳実は、ビクッと体を震わせながら目を開けた。初めて由里の存在に気づいた。
「なんだよ! びっくりさせるなよ。骨に響くよ」
由里は向かいの椅子に座った。
「響くよ、じゃないでしょ。何笑ってるのよ。どうせ水森さんのこと、思い浮かべてたんでしょ」
「なんだよ!」
「あら、図星?」
「いいじゃねぇかよ!」
「悪いとはいってないわよ。それよりもっといいものがあるのよ」
「何?」
由里はテーブルにケーキの入った箱を乗せて開いた。
「これ、水森さんから」
「え?」
「自分で渡せばって言ったんだけど、なんか自分のせいで酷い目に合わせちゃって、気がひけるってさ」
由里は、キッチンにフォークを取りに行った。
「でも、富長くんと別れることが出来て、自由になれて、これもみんな実友君のおかげだって、感謝してたよ。私、モンブラン貰っていい?」
「いいよ」
由里はモンブラン、淳実はショートケーキを選んだ。
二人はケーキを食べた。
「でも、見直したよ」
「何が?」
「何がって、まさか淳実が富長君に抵抗するなんて思ってもみなかったから。両足掴んで離さなかったでしょ。小野田君も驚いてたわよ」
「そうお?」
「そうよ。意外だったわ」
由里はあの晩、病院で淳実が診察を受けている時、小野田と話した。小野田の筋書きでは淳実は富長に少しやられて終わるだけだった。それが富長の足を取って抵抗したのは驚きでしかなかった。そのおかげで結局、富長を封じ、終わらせることが出来た。小野田の筋書きをはるかに超えていた。
「あ、そうそう、ケーキと一緒に水森さんから渡されたものがあったんだ」
由里は白々しくニヤニヤしながら大きな紙袋を淳実に渡した。淳実は見当もつかず黙って受け取った。
「迷惑でなかったら受け取って欲しいってさ」
淳実は紙袋を開けて中のものを取り出すと、それは水森まこの顔を象ったチャンピオンベルトだった。
「こんなの受け取れないよ!」
「あら、どうして?」
「だって、これが水森さんを苦しめていたんだ。いわば全ての元凶だよ」
由里はニヤニヤしながら言った。
「分かってないなぁ」
「何が?」
「違うんだよ、これは。そういう意味じゃないんだよ。実友淳実君。このベルトを持つということはどういうことになるのかな?」
「このベルトを持つ……」
淳実は気が付いた。淳実は由里のニヤついた顔を見てこれが水森の自分への告白ということを察した。
「どうお、分かった?」
「え、そういうことなの?」
「他に何があるっていうのよ」
「え、いいのかなぁ」淳実は言葉とは裏腹に顔はどうしようもないぐらい綻んだ。
「いいのかなぁって。そんなに顔を綻ばせて。あなた次第でしょ、コノコノ!」由里は淳実の脇をフォークで突こうとする。
「やめろよ」
「ねぇ、ちょっと、そのベルト、巻いて見せてよ」
「ええ、やだよ」
「なんで?」
「そんなの、巻けるか!」
「どうせ、部屋で一人で巻くんでしょ。ねぇ、巻いて見せてよ」
「ええ、嫌だよ。恥ずかしいよ」
「いいから早く!」
撒く、撒かないのとりとめのない水掛け論。淳実はチャンピオンベルトを大事そうに持っている。そのチャンピオンベルトの水森の顔が微笑んだ。
終わり。