第8話 知らない未来へ
「おや、フリーゼ公爵令嬢。今日も何か買っていかれるのですか?」
左目を眼帯で隠した商人、ヴルフはナシュカ様に気が付くと水色の隻眼をにこりと細めた。
ナシュカ様と違って口元にホクロは無く、代わりに右目に小さな泣きぼくろがある。髪の色は同じ金色だが、オールバックで眼帯までしているせいか、ナシュカ様と双子だとは一見しただけではとても分からない。ナシュカ様本人ですら気付いていないくらいだ。
「いや、入り用なものは昨日買った。ただ、こちらのルルベル殿に少し商品を見てもらいたいと思ってな」
「もちろん構いませんよ。魔族の方達がいらっしゃる機会なんて、そうそうありませんからね」
どうぞ、と笑みを深くしたヴルフは商品のいくつかを指差した。これは遺跡で見つかった宝石を加工した指輪、その隣は同じ宝石を首飾りにしたもの、こちらは有名なガラス職人が作り上げた置き物で……と、口々に説明されるが、あまり身を飾るものに興味の無かった私はこくこくと相槌を繰り返していた。
それに気付いたのか、ヴルフは「食べ物の方が良いですかね」と肩をすくめて今度はジャムや菓子の説明を始めた。
私から近い順に説明されていき、最後に一番端にあった一つのジャム瓶の説明が始まる。
「これは森の奥深くで取れた魔力の実をジャムにしたものです。魔族の方でも腹の膨れる優れもの! もちろん人間が食べても害はありませんよ。ただ美味しいだけです」
「それ……一つ欲しいですわ」
しかし今はパーティの最中。現金など持ってきていない。それを察したらしいヴルフはさらさらと請求書に金額を書くと、ジャムと一緒に私に手渡した。
「後日グレイ様とそこに書いてある住所までいらっしゃってください。お代はその時にお願いしますね」
「ど、どうしてグレイと一緒に……?」
「先程グレイ様も同じ商品を買っていかれたので」
こんなに需要があるなら魔族向けの商品を揃えてみるのもいいかもしれませんね。
顎に手を当て、閃いたように笑うヴルフは、やはりナシュカ様とはだいぶ違った雰囲気を持っている。ナシュカ様は凛々しく、笑い方も爽やかでかっこいいが、ヴルフは笑い方も静かで、どこかミステリアスだ。
あえてナシュカ様と全く違う性格を演じている部分もあるが、半分くらいは本人の元々の性格だ。計算高くて利用できるものは利用するが、悪意などは(フリーゼ公爵以外には)特に無く、ただひたすらに好奇心旺盛で気ままな人。それが私の知るヴルフ・グッドマンであった。
「グッドマンさんのお店……フリーゼ家のお城からは近いんですの?」
「ああ。うちにくる途中に城下町があっただろう? あの町の外れにある森のすぐ側だ。良ければ今度私が案内を……ああ、いや、やはりグレイ殿と二人きりで行くといい」
「えっ」
な、何故……。ナシュカ様が案内してくれるならお言葉に甘えたかったのに……。
「……ナシュカ様が案内してくださるのなら、私はその方がすごく嬉しいですわ……あっ、もちろんナシュカ様がよろしければ、ですけど……」
「そ、そうか……! だが、いいのだろうか。二人はほら、気も合うようだし、仲も良いだろう?」
これはもしかすると、私がグレイを好きだと誤解されているのでは?
ど、どうして……? そんな素振りはしていなかったはず。いや、自分では意識していなかったけど、やっぱりグレイのことも推しだったからそういう目で見ていた……?
「グレイとは……仲が良いというか……」
秘密を共有した仲間というか……。
「で、でもきっと、ナシュカ様が思うような関係ではありませんわ……!」
「そう……なのか?」
「そうですわ!」
そう言い切ると、胸のブローチが小さく振動する。
な、なんだ? 何かまずいことでも言ったのだろうか。振動を止める方法が分からずブローチに手を当てると、グレイの声が頭に響いた。
『ここで"私が好きなのはあなたですわ"って言わないの?』
う、うるせ〜〜〜!! っていうかその脳に直接語りかけるのどうやってるんだ。一方的に念を送ってこないでくれ! 返信させろ!
「だ、大丈夫か? 先程から胸を押さえているが……」
「あっ、だ、大丈夫ですわ。ちょっとブローチが取れそうになっていただけで……」
「ああ、そうだったのか。……魔族の参加者は皆お揃いで付けているが、よく見ると珍しい色のブローチだな。何の石を使っているんだ?」
「え、えーと……」
『──ナイトメアドット。シュカリオンで採れる鉱石』
ブローチに触れた指先から、またグレイの声が流れ込んでくる。しかし今度は余計なお節介ではなく、まともな助け舟だ。
「な、ナイトメアドット……ですわ」
実際はグレイの魔力でできているから、これは嘘だ。そんな名前の鉱石が本当にあるのかすら、私は知らない。
しかしナシュカ様は私の話を信じたようで、物珍しげにブローチを眺めると、「ほう」と息をついた。
「聞いたことのない宝石だ。相当珍しいのだろう」
「い、いえ……シュカリオンで採れるものだから、あまりディグニスでは一般的でないだけ、ですわ……」
凍土の島であるシュカリオンは、魔法で身体を温められない人間にはあまりに過酷だ。普通の人間なら一日も生きられない。だからこそ、魔族たちは迫害から逃れるためそこを住処としたわけだが……。
「……シュカリオン、か。寒くは、ないのか?」
「魔法を使っておりますから……」
「魔法というのは無制限に使えるわけではないのだろう? 使い過ぎれば、身体が崩壊すると聞いている」
その通りだ。
シュカリオンは確かに人間のいない、つまりは迫害されることのない土地だ。しかし、魔族にとって住みやすいという訳でもない。寒さを凌ぐためには常に魔法で体温を調節する必要があり、それによって魔力は徐々に消費されていく。
身体を魔力で構成している魔族たちは、魔力を消費するほどに飢えていき、やがて身体を保てないほどに魔力を失うと、核を残して消えていく。
だから、シュカリオンで暮らすにはある程度の食事量が必要になるのだが、元々資源や生き物の少ないシュカリオンでは、食べ物がほとんど手に入らなかった。
ホームの気温はグレイ一人の魔力で賄っているらしいから、その分彼は他の魔族たちよりも多く食事を必要とする。そしてその食事は……他の魔族の魔力や、ディグニスに住む人間、動物の血から得るのがほとんどだった。
……さっき買ったこのジャムも、グレイにあげようかな。私たちの中で一番魔力の消耗が激しいのは、間違いなく彼なのだから。
「……すまないな。魔族全員が人を襲うわけでもないのに、ディグニスから追放するような真似をしてしまって」
「そんな……ナシュカ様が謝ることでは……」
「……既に知っているだろうが、フリーゼ家はディグニス国内で危険性のある魔族の……討伐もしている。本来であればあなたたちに会わせる顔などないんだ」
本当にすまないと頭を下げるナシュカ様に、私は「頭を上げてください」と狼狽えることしかできなかった。
ナシュカ様は誠実な方だ。誠実だからこそ、魔族に対して負い目を感じている。そして負い目があるから、グレイとの政略結婚ですら承認してしまうのだろう。
……優しくて、誠実で、素敵な方。どうか、そんな暗い顔をしないでほしい。
「な、ナシュ……」
「フリーゼ公爵令嬢」
重い空気を切り裂くような、穏やかで優しい声。振り返るとそこには、両手に細いグラスを持ったグレイが立っていた。
「お心遣い感謝いたします。俺たち魔族のことをそう思ってくれているだけで、十分です。どうか顔を上げてください」
「……グレイ殿」
「このパーティを足がかりに、これから関係を回復していけば良いのです。……そのためのディグニス異種族交流会なのですから」
グレイはナシュカ様にグラスを一つ差し出すと、にこりと人好きのする笑顔を浮かべた。動作も、発する言葉の一つでさえもスマートで、本当にグレイは"完璧な男"であった。
一方で、きっと彼は完璧であることを求められたのだろう。魔族であるが故に。ディグニスにおいて、人間が問題を起こすのと魔族が問題を起こすのとでは、全く違った印象になってしまうから。
──魔族はね、人間からの信用がないんだ。だから、人間たちより少しだけ良い人でいないといけないんだよ。
そう言って眉を下げたグレイの顔が、頭をよぎる。グレイだけじゃない。魔族全員が、人間にとって無害で、温厚な存在だと示す必要があった。だから人間嫌いのゾーイですらパーティでは完璧な猫を被るし、感情の欠落したルルベルですら笑顔を浮かべるのだ。
そうしないと、人間との溝が一生埋まらないから。
「──乾杯しましょう、フリーゼ公爵令嬢。これからの我々の未来を祈って」
「……ああ。ありがとうグレイ殿」
二人はグラスを小さく掲げると、それぞれ口を付けた。ゲーム版では、これはグレイルートに入った時に行われるイベントだが、本来それがこんなに序盤で発生することはない。
ゲームの面影を残しながらも、少しずつ、歯車が乱れていく。そして乱れた歯車はもう、きっと元には戻らない。
物語は……いや、この世界は、私の知らない未来へと進み始めていた。