第32話 決着
「ナシュカ様っ!」
ネックレスの音と景色を頼りに辿り着いたのは、街を抜けて城へと向かう道沿いの──川の中だった。
私が辿り着くほんの一分、いや、数十秒前に、ナシュカ様を乗せた馬車は川へと転落したのだ。幸いナシュカ様は気を失っているだけで無事だったが、馬を引いていた男とナシュカ様を拘束していた男はもう助からない状態だった。
首がおかしな方向に曲がった男達の有り様は、一見すると転落による負傷にも見えた。しかし……よく見ればどれも首の曲がり方が不自然だった。これは、人為的なものだ。
「なんでこんな事するんですか……グレイ」
ナシュカ様の拘束を魔法で解きながら、星空の中に佇むグレイを睨みつける。
彼はいつもの微笑みを浮かべたまま、私を見下ろして言った。
「君に本気になってほしいからさ」
「……帰りましょう、グレイ。許されないかもしれないけど、これ以上被害が拡大するのは見ていられませんわ」
「被害を増やしたくないなら、俺を殺すべきだよ」
「……っ"コール"!」
私が呪文を叫ぶと、グレイの足先が徐々に凍り付いていく。膝まで凍ったところで、グレイは舌打ちをした。
「……こんなもんじゃないだろう、ルルベル。君には俺と同じだけの魔力があるんだ。もっと本気を出しなよ」
グレイは鬱陶しげに脚を払うと、まるで埃か何かのように私の氷を払い落とした。彼の脚からは、血の一滴も溢れてはいなかった。……私が、殺す覚悟を持てていないからだ。グレイを殺すことを望んでいないから、形だけの魔法にしかならないのだ。
「殺したくないですよ……グレイ……! あなたにも、人を殺してほしくないです……っ! グレイが人を殺さない未来だって、あったはずじゃないですか……!」
「……ごめんね。それでも、許せなくなっちゃったんだ。君を傷付けた男を。……君なら分かるはずだよ、ルルベル。もし俺がフリーゼ公爵令嬢を殺したら……君は俺を許せるの?」
「そ、れは……」
「そういうことだよ」
俺も昔は、もっと穏やかだったんだけどなぁ。
グレイはそう言うと自嘲気味に笑って、私の隣で気を失ったように座り込んでいるナシュカ様に指先を向けた。
「さあ、選択の時だよ。俺と、フリーゼ公爵令嬢。君はどっちを選ぶのかな」
「……」
「うん……それで良いよ」
私はナシュカ様の前に立ち塞がって、グレイへと手のひらを向けた。"コール"の掛け声が重なると、ぶつかり合った魔法が爆発して木々が揺れた。
舞い上がった砂埃が晴れるより早くグレイへと追撃を放つ。しかしどれも手応えが無く、私は再びナシュカ様を守るように彼女の前に立った。
「後ろだよ」
「っ!」
まずい。咄嗟に振り返ってナシュカ様を庇おうとするが、私の前に突如大きな影が立ち塞がるとその影はグレイの腕を切り落とした。
その動きはついさっき見た──フリーゼ公爵のそれと全く同じだった。
「間合いに入るのを待っていたぞ、グレイ殿」
「へぇ……ッ、ぉっ、と」
グレイの残った左腕を掴み、川岸へと引き倒したナシュカ様は、まるで磔にでもするようにグレイの白い手首に剣を刺した。
「私はあなたを、信じていたのだがな」
「はは、引き金を引いたのはあなたの父親なのに被害者面するんだ?」
「何……っ?」
「グレイ!! ナシュカ様、聞かないでください!」
「あなたの父親は、ルルベルを殺そうとしたんだよ。だから俺が、殺した」
それを聞いたナシュカ様は、グレイから私へと視線をずらした。何かに怯えるような顔だった。
「本当、なのか……ルルベル殿……っ」
「ナシュカ様! 危ないッ!」
グレイはナシュカ様の視線が私に向いた一瞬のうちに右腕を再生すると、剣を炭のように砕いてナシュカ様に指先を向けた。
私はナシュカ様に飛び付くと、二人とも川底に沈んだ。二人揃って水面から顔を出した時、そこにグレイはおらず、ただ一直線に抉れた地面に水が流れ込んでいるだけだった。
「……私、行かないと」
「待て、ルルベル殿。……さっきの話は、本当なんだな?」
「…………ええ」
城で何があったかを聞いたナシュカ様は、彼女は何も悪くないというのに、むしろ父親を殺された被害者だというのに、それでも私に頭を下げた。
「すまないルルベル殿……っ、本当に、すまない……」
「私の方こそ……すみません、私がもっと気を付けていれば、公爵だって……」
「あんな奴はいい!! ……もう、いいんだ」
ナシュカ様は大声を出したと思ったら、今度は川の音にかき消されそうなほど小さな声で、話した。
「……なあ、ルルベル殿。私はな、あなたが思うよりずっと、自分勝手で薄情だ。帰る場所が無くなったことに、私を縛る者が居なくなったことに、正直なところ少し安心したんだ。これで自由だと。もう、どこへ行っても咎められはしないのだと。……卑怯な奴なんだ、私は」
「そんなこと、ありませんわ……」
「あるよ、ルルベル殿。私は卑怯者だ。家なんて、もっと早くに出ようと思えば出れた。母のようにな。でもそうしなかった。いつか……状況を変えてくれる何かが起こると、そればかり期待した」
今私の前にいるのは、勇ましく、太陽のように人々を救うナシュカ様ではなく、ただ一人の若い女性だった。虚栄心が剥がれた、純朴で少し臆病な部分のある、ただの、私の愛しい人でしかなかった。
彼女は拳を握りしめながら、悔いるように、そしてどこか恥じるように心の中を吐き出した。
「グレイ殿が父を手にかけたと聞いて、申し訳なく思ったよ。……グレイ殿に、やらせてしまった。本来なら私がやるべきなのに」
「……殺すほど憎かったんですの?」
「少し前までは、私は父を立派な人だと思っていた。だが、ルルベル殿を殺そうとしたと聞いて、はらわたが煮えくり返ったよ。この間の謁見の時に、私が斬っておくべきだったと思うほどにな」
そう言うと、ナシュカ様はふん、と鼻を鳴らして腕を組んだ。
「私の大切なものを大切にしてくれない奴を、大切にする義理など無いからな」
そう言った彼女の瞳は、親に反抗することで高揚していたあの頃の目ではなくなっていた。鋭く、強い眼差しは、明確な独立のそれだった。
「……ともかくルルベル殿が無事で良かった。怖い目に遭わせてしまって、すまなかったな」
「……いえ。怖い目に遭ったのは、ナシュカ様も、ヴルフも、チャッピーやワタも同じですわ。だから、ナシュカ様一人が謝る必要なんてないんです」
「…………それでも謝らせてくれ。全て、私の父が引いた引き金だ。衛兵を殺すのを躊躇って、ルルベル殿の仲間も守れなかった。……私にも、責任がある。共に償わせてくれ」
ナシュカ様は凛としたつり目で私を見つめると、胸に手を当てて敬礼した。
公爵を殺し、城を壊した大罪人を助けに行こうとする私と、共犯になったっていいのだと、彼女は敬礼したままの姿勢で言った。
「巻き込んでしまってごめんなさい、ナシュカ様……」
「いや、巻き込んだのはむしろ私の方だ。だから……行こうルルベル殿。グレイ殿は、あなたにとってはまだ、大切な人なのだろう? 私は、ルルベル殿の選択を尊重するよ」
「ありがとう、ございます……ナシュカ様」
私の二十七年間は、選択肢の無い人生だった。
この世界に来て初めて、私は多くを自分で選び取るようになり、そして、その選択の重さを知った。ゲーム通りに進めていた方が、やっぱり良いエンドに行けたのかもしれない。私が首を突っ込まない方が、良い展開になったのかもしれない。眠れない夜のたび、そんなたらればを何度も何度も考えた。
しかし一つの選択をした以上、その道を歩くしかない。ここに来るまでに散ってしまった命の重さを抱えて、生きていくしかない。苦しくても、それでも今の私には仲間も、愛する人もいる。
前の私には、何も無かった。だから死んだのだろう。
私に殺されることで私を英雄に仕立て上げようとしているグレイの姿は、ここに来たばかりの私によく似ていた。彼もまた、何もかも無くなってしまったのだろうか。まだ、残っているのに。グレイを大切に思う人が、すぐそばにいるのに。
「……そうですね。グレイに、ちゃんと分からせてやりましょう。グレイにも居場所が、大切にしてくれる人がたくさんいるんだって」
「ああ、それがいい」
ナシュカ様は静かに微笑むと、衛兵の遺体から剣と銃を奪って腰から提げた。
近くでまた爆発音が響いている。行かなければ。被害者が増える前に。全ての取り返しが、付かなくなる前に。
*
町まで戻った私たちの目に入ったそれは、まるで災害だった。嵐が吹き荒び、大地は揺れ、積み木のように建物が崩れていく。混乱する人々の悲鳴と、怪我人の呻き声、絶望の中で助けを乞う声。それら全てを轟音の嵐がさらって、世界は一瞬で混沌へと導かれた。
地獄という言葉通りのその大災害の中心で、しかしグレイは悠然と佇んでいた。災害など自分には何も関係がないとでもいうような、冷めた瞳で崩壊する町を見下ろしている。
「グレイ!! 今すぐ攻撃を止めてください!!」
「どうして? これはある種の報いだよ。住処を奪って、許しを請う背中を踏み躙って、命を軽んじる。どれも今まで人間たちが俺たちにしてきたことじゃないか」
「そうかもしれない、けど……本心ではグレイだってこんなこと、したくないはずです!」
その証拠に、町全体がまだ町の形を残していた。グレイがその気になれば、この程度の町なら一瞬で焦土にできる。人も建物も、何一つ残さずに。
でもそうなっていない。怪我人はいるが、どこにも死者はいない。
「話をしましょう、グレイ」
「ダメだよ。君はフリーゼ公爵令嬢を選んだんだから。俺のことは殺さなくっちゃ」
「だからグレイは! 極端なんですよ!!」
そう叫ぶと、無詠唱のまま魔法が出た。それはかつて初めてグレイに傷を付けた、あの拳の魔法だった。
「──ッ!」
直撃だった。グレイは斜め下に向かって吹っ飛び、彼を受け止めようとした枝は大きくしなった。やがて枝は耐えきれなくなるとばきばきと音を立てて根本から折れた。
彼は吹き飛ばされた勢いのまま石畳に叩きつけられ、おかしな方向に曲がった腕と、ちぎれて何処かに行った脚を、他人事のように見ていた。
「もう逃げられませんよ、グレイ」
倒れ込んだグレイの上に馬乗りになると、人々の避難を手伝っていたナシュカ様もこちらに駆け寄った。
「前に言いましたよね。あなたが正しくないと思ったら、手を噛むって」
「……うん。覚えてるよ」
「今が、その時です」
「それは良い。一思いにどうぞ」
グレイは目を瞑った。大衆の中で、私が彼を手にかけることを願うように。
しかし私は彼の思い通りにはならなかった。彼の襟を掴んで頭を上げさせると、そのまま頬を殴り付けた。素手で殴られるとは思っていなかったらしいグレイは、思わず目を開けると口を開いた。
「え、弱っ。今のな、にッ、」
「二発目ですわ!」
「ちょっと、まほ、っゔ……、素手で殴ったって、死なないよ!」
「分からないか、グレイ殿。ルルベル殿は、あなたを殺す気などさらさら無いんだ」
「は、ぁッ? なんで……」
「あなたが大事だからに決まってますわ!」
グレイの頬に、雫が滴り落ちる。彼はかろうじて無事な方の腕を私に伸ばすと、私の目から涙を掬った。
「……なんで泣いてるの?」
「グレイが……グレイ自身を大事にしてくれないから……っ、!」
「昔からこうだよ。ずっと。俺にそんな、たいそうな価値は無いからね」
「だったらどうして、何度も時間を巻き戻すんですか? 本当に価値が無いと思っているのなら、私と同じで最初から命を断つことだってできたはずです。本当は、自分を大事にしてくれる人が欲しくて、救われたくて何度も巻き戻していたんじゃないんですか!?」
グレイは返答に詰まるように、目を逸らした。いつも饒舌な彼にしては、珍しい挙動だった。
「それで、大事にしてくれる人ができたら満足して死ぬんですか!? 嫌ですよ、グレイ…………生きてください……私たちと一緒に。手に入れたものを、どうか手放さないで」
「……うん。ありがとう、ルルベル。ごめん。……ごめんね」
困ったように微笑んだグレイのまなじりから、雫がこぼれ落ちる。私の涙がまた落ちたのか、それともグレイの涙だったのかは分からない。
それでもグレイはのちに、その時のことを「あれはルルベルの涙が落ちただけだよ」と言ったから、そういうことになっている。




