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第29話 旅への誘い


「ナシュカ様、すみません……グッドマンさんにはバレましたわ」


 季節は十一月。ちょうど十一回目のパーティのその日、私はナシュカ様に先日のヴルフの話を耳打ちした。ナシュカ様は驚いたように目を見開いたが、そのすぐ後には眉を下げて笑っていた。


「やはりダメだったか」

「すみません……上手く誤魔化せたら良かったのですけれど……」

「いや、仕方ないさ。まあ、あいつなら貴族とはほとんど関係が……あぁ、いや、多少はあるか……」


 ナシュカ様の笑い声は徐々にため息混じりになっていき、最後には深く息を吐いた。


「はぁ〜……今度ヴルフに他言しないよう言い含めに行こう」

「そう……ですわね。ちょうどグッドマンさんもナシュカ様とお話ししたいと仰っていましたわ」

「ヴルフのやつ、弱みでも握ったつもりか……? 一体何を要求されるんだかな」


 ナシュカ様は遠い目をしながら手に持っていたワイングラスを煽ると、小さく喉を上下させた。今までにも何かしらの小さい弱みを握られては、何かを要求されてきたのかもしれない。

 実際、ヴルフはこれからこの弱みを利用しようとしている。

 "ディグ戦"において、十一月はヴルフルートのエンディングがある月だ。ヴルフとのイベントはほとんどがパーティ外で発生するから、今日は何も起こらない。だが、十一月に入ってからヴルフの店を訪れると、イベントが進む。それが、フリーゼ公爵の醜聞の暴露と、旅への誘いだった。


 今はヴルフルートではないが、ナシュカ様が店に来たら間違いなくこのイベントは発生するだろう。

 既にゲームの物語とは大きく展開が変わっているけれど……何らかの強制力が働いてゲーム通りの進行に戻されたらどうしよう。このままゲームと同じヴルフルートに行ったら、ナシュカ様は戦争が起こる前にどこか遠くの町へ逃亡することになる。

 ただ一点。今回はゲームと違い、ヴルフへの好意ではなく(魔族)への好意が引き金になっている。私とナシュカ様が同時にこの町から姿を消せば、魔族の立場が危うくなるのは火を見るより明らかだった。


 もし付いてきてくれと言われたら、私は即決できるだろうか。


 しかし迷っていても時間というものは過ぎていくもので、恐れていたイベントの日はすぐにやってきた。

 鈴を鳴らして店に入ったナシュカ様は、ヴルフに促されるとそのまま客室へと足を踏み入れた。店番はグレイに任せて私もヴルフの後ろに続くと、ナシュカ様の隣、革張りのソファへと腰を落とした。


「……さて、ヴルフ。ルルベル殿から聞いたんだが……何でも、私たちの関係に気付いたとか」

「ええもちろん。呆れるほど分かりやすかったもので」

「……何が望みだ?」


 テーブルに肘を付いて手を組んだナシュカ様が、目を鋭くしてそう問いかけた。


「そう緊張しないで、リラックスしてください。今日はいつもの交渉ではなく、ただの勧誘がしたいのですよ」

「……勧誘?」

「ええ」


 ヴルフの口角が歪む。


「実は自分、フリーゼ領をそろそろ出ようかと思っていまして。ですが一人旅は寂しいじゃないですか。そこで、フリーゼ公爵令嬢とルルベル様も一緒に来てくれると嬉しいなと」

「……何故私達なんだ?」

「嫌だなぁ、お得意様じゃあないですか! それに、二人が恋人同士ならなおのこと。公爵令嬢が魔族と結婚なんてここでは到底認められません。ですが誰もあなた方を知らない場所に行けば……結婚だって不可能じゃない。自分は、自分の旅で誰かに幸せになってほしいのですよ」

「……誰か、なら。それなら私でなくてもいいだろう」

「いいえ」


 どこか懐疑的なナシュカ様に、ヴルフは笑顔の仮面を外した。冷め切った水色の瞳は、まるで私なんて見えていないように真っ直ぐにナシュカ様を見つめている。


「……言い方が悪かったですね。ナシュカ、あなたに幸せになってほしいのですよ」

「何……?」

「何故、と思いますよね。大丈夫。ちゃんと理由を説明しますよ」


 ヴルフはソファに置いてあった古びた紙を一枚、ばさりと机に広げた。そこにはナシュカ様に良く似た女性の似顔絵と、その下に大きく『探しています』という文字が書かれていた。

 これは……フリーゼ公爵夫人の捜索願いだ。


「この女性に見覚えはありますか?」

「いや……だが……」

「お察しの通り、これはあなたの母君です。そして──自分の母でもあります」

「何……? どういう……」


 明らかに動揺して紙とヴルフを交互に見つめるナシュカ様に、ヴルフはよく通る声で言い放った。


「双子なんですよ。自分と、あなたはね」


 ナシュカ様の空色の瞳が、バッとヴルフを捉える。机に手を付き、ヴルフへと顔を寄せたと思うと、もう片方の手でヴルフの襟首を掴んだ。


「そんな話など、聞いたことがない……!」

「そりゃあそうですよ。自分は生まれたその日に母に連れられて城を出たのですから」

「何故……」

「自分は忌子です。あなたと双子でありながら、髪は銀色でした──」


 そこからは、以前私に話した内容と大体同じだった。

 公爵から殺されそうになったこと、母親と慎ましい生活をしていたこと、母親が公爵に殺されたこと、そして、その後公爵と妹に会いに行ったことを。ナシュカ様はそれらを全て食い入るように聞くと、上げたままだった腰を再び皮のソファに下ろした。下ろしたというより、力が抜けて座り込んだのかもしれない。

 呆然とするナシュカ様は瞬きもせず、開きっぱなしの口からは何の言葉も発されなかった。


「まあ、突然こんな話をされても信じられませんよね」

「……」

「ですが今話したことは全て事実です。城に帰って、公爵に確認すればすぐに分かりますよ」

「…………ヴルフ」

「はい」

「……私を恨んでいるか?」

「何故?」


 本当に理解できないという声だった。首を傾げるヴルフに、ナシュカ様は続けた。


「お前は何もかも失ったのに、私は何不自由無く育った。同じ兄妹なのに……」

「……なるほど。どうやらあなたは勘違いをしていらっしゃる」

「え?」

「自分は何もかもを失ってなどいません。母との思い出も、培った生きる力も、商才だってあります。今では常連を抱える身ですしね。自分はむしろ、あなたよりずっと自由に生きていましたよ。……ナシュカ。あなたは本当に、不自由無く育ちましたか?」


 ナシュカ様はその問いを肯定しなかった。

 言葉に詰まるように俯いて、しばらくすると「いや……」と小さく呟いた。


「……でしょうね。時々あなたの様子を見に行きましたが、笑顔のくせにいつもどこか疲れた顔をしていましたよ」

「……」

「はっきり申し上げますと、自分はフリーゼ公爵のことはろくでなしだと思っています。だから、大事な妹をそんな奴のところにいつまでも置いていたくないんですよ」


 ヴルフは終始落ち着いていた。

 襟を正し、机の上のカップをそっと摘んで紅茶を啜る。かちゃりと小さな音を立ててソーサーの上にカップを戻すと、彼は机の上で両手を組んだ。


「自分と一緒に、どこか遠くへ行きませんか? あなたが、幸せになれるどこかへ」


 それは魅力的な誘いだった。ナシュカ様もどうしようかと悩んでいるように見える。

 答えを言い出せないまま、彼女は一度不安げにちらりと私を見た。不安に揺れる空色の瞳には、しかしどこか期待の色も浮かんでいた。


「ルルベル殿は……私が旅に出たいと言ったら、付いてきてくれるか?」

「……行きますわ」


 そう答えると、ナシュカ様はほっとしたように息を吐いた。


「でも……今すぐは難しい、ですわ。せめてパーティを終えるまでは、私はこの場に残らせていただきたいんですの」

「……それは、何故?」


 尋ねたのはヴルフだった。ヴルフは、当然私も逃避行に乗り気だと思っていたらしい。水色の隻眼が、睨むように細まっていく。


「パーティも終えていないというのにナシュカ様と私が同時に消えたりしたら、私がナシュカ様を攫ったことになってしまうと思いますの。そうしたら……魔族への風当たりはきっと強くなりますわ」

「……では。パーティが終わって、あなた方に帰還命令が出された後でなら、文句はありませんね?」

「ええ。……そうしたら、是非ご一緒させていただきたいですわ」


 十三回目の──最後のパーティを終えても戦争が起こらなければ、その時は。私もナシュカ様と一緒に生きたい。一緒に幸せを共有しあって、一緒につらさを分け合いたい。

 魔族の私と人間のナシュカ様は同じ時は歩めないけれど、ナシュカ様の人生の終わりまで、側で護り、見届けたい。


 こんなにも誰かを想ったのは初めてだ。

 前の人生ではこんなことは無かった。誰かのための人生を生きてはいても、自分の意思で誰かを想うことは無かった。二十七年という短い人生の終盤では、いつも死ぬことばかり考えていた。今思えば、人生が終わってからもしばらくは死ぬことばかり考えていた。

 でも今は違う。幸せな最期を夢見るより、私はナシュカ様と共に生きたい。


「十二月だと雪がありますけど……魔法で犬ぞりを出す方法をグレイに教えてもらいますわ。……ナシュカ様は、どうしたいですか?」

「私は……」


 どうか、「一緒に行きたい」と言ってほしい。そう祈るように彼女の返答を待ったが、彼女は言葉を詰まらせた。そうして口の前に手をやってしばらく考えた後、彼女はようやく絞り出すように一言声を発した。


「…………っ、少し、考えさせてほしい」

「構いませんよ。どのみち十二月まで出発はお預けのようですから」

「……ここで聞いたことを、父上に確認しても良いか? お前が妄言を言っているとは思えないが、念のために……」

「それも構いません。ですが、公爵に心を揺さぶられないでくださいね。あなたにとって何が最善かは、きちんとあなたの心で決めるんですよ」

「……ああ。ありがとう、ヴルフ。いや、兄上と呼んだ方が良いのだろうか?」

「へっ?」


 いつもミステリアスで冷静なヴルフからは聞いたこともないような、間の抜けた声だった。彼は大きく開いた左目を何度もぱちぱちと閉じたり開いたりすると、小さく開いた口で「兄上……?」と反芻した。


「ああ。今までただの商人として接してきたが、長男であればそう呼ぶべき……だろう?」


 ナシュカ様はいつも私にするみたいに、からかっているわけではなかった。大真面目に、目の前の胡散臭い男を兄と呼ぼうかと思案しているのだ。

 それはおそらく、彼女に刻まれた貴族としての階級を意識した振る舞いや常識の一種だったのだろう。しかし商人として生きてきたヴルフにそんな常識はない。

 彼は未だに「兄上……うーん……」と何やら違和感を拭いきれずにいた。


「いや……廃嫡されているどころか、そもそも生まれてきてないことになっているようなものですから。……今まで通りヴルフと呼んでいただけませんか?」

「しかし長男というのは長女よりよほど位が……」

「ヴルフと、お呼びください。フリーゼ公爵令嬢様」


 珍しい。笑顔を取り繕ってはいるけれど、ヴルフの耳は少し赤かった。



 二人にはまだ積もる話もあるようだった。先に客室を出た私は、グレイの隣に椅子を運んで腰掛けた。


「……旅に出るの?」

「……今、ブローチ付けてないはずなんですけど」

「聴覚強化魔法を使ったんだよ。それで、質問の答えは?」

「……旅に、出たいですわ。ナシュカ様と一緒に」

「うん……そう」


 グレイは一度目を瞑ると、ゆっくりと目を開けた。カウンターに肘を付いて、その腕にもたれかかるようにしながらこちらを向くと、深海の瞳は柔らかく微笑んだ。


「楽しみだね」

「ええ」

「戦争……起こらないといいね」

「……ええ。本当に」

「でもさ、このまま本当に何も無かったら、ひょっとしたら帰還命令も出ないんじゃない? ほら、俺たち結構ここに馴染んできたし。もっとここにいてくれって言われたらどうしようか」


 確かにそうだ。

 その場合、私だけがここを出ることになる。うーん……何か良い言い訳を今のうちから考えておこうかな。


「じゃあ、もしそうなったら……私がここを出て行く言い訳を、一緒に考えてくれますか?」


 私よりグレイの方がずっと頭が良い。彼なら自然な理由を考えてくれるだろう。

 そう思い提案したのだが、彼は眉を下げて自信なさげに笑うだけだった。


 彼の返事を聞くより早く、玄関のベルが鳴る。

 案外繁盛し始めたこの魔族付きの店。まだ三ヶ月だけしか過ごしていないけれど、この店にも愛着が湧いてきた。それはたぶん、私だけでなく、グレイも同じだ。


 もし彼が言うように、本当に帰還命令が出なければ……グレイたちがこの店を続けるのなら、ナシュカ様と旅立った後も時々ここに戻ってこよう。

 ナシュカ様を大切に思うのと同じように、この店も人も、すごく大切なものだから。


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