第28話 優しい死刑執行人
夜の散歩からの帰宅中、それは現れた。
真っ暗闇から現れて私の腕を掴んだその男は黒髪で一見人間のように見えたが、触れた肌からは魔力の流れを感じた。そしてその挙動はどう見ても常軌を逸しており、私は咄嗟に魔法の呪文を唱えた。
「"コール"ッ!」
私に触れていた男の腕はみるみる凍り付いていき、やがて男は呻き声を上げながら頭を振った。
「っ! まだ理性がありますわ!」
「魔族なのか!?」
「ええ……下がっていてください」
私はカバンから魔力のジャムを取り出すと、中身を指で掬って男の口に突っ込んだ。男は反射的に私の手を噛んだが、次第に顎の力は弱まっていき、目には正気が戻っていた。
「う、うう……ぼ、僕は一体……?」
「飢えで暴走していたんですわ。ここに来るまでの記憶はありまして?」
魔族は、魔力切れを起こすほどの飢えを感じると意識を失う。そして生存本能として魔力を補充するためだけに稼働し続けるが、十分な魔力の供給が得られればこうして意識が戻ることがほとんどだ。
しかしその間の記憶は……かなり曖昧になっていることが多い。
「分からない……でも、たぶん……ここに来るまでに人を襲った……」
その言葉に、ナシュカ様がぴくりと反応する。
確かに男の服にはまだ乾いていない血が付いている。魔族の服に血が付いているということはそれはつまり、返り血に他ならなかった。
「僕は、町で人間と一緒に暮らしていたんだ……飢えていたなら、そいつを無視して外に出ることはたぶんない……」
髪を染めて人間に紛れて暮らしていたのか。ひょっとすると、私が思っている以上に素性を隠してディグニスで生活している魔族は多いのかもしれない。
「……自宅を教えてくれ」
苦虫を噛み潰したような顔で、ナシュカ様はそう言った。目の前の男はこれから行われるであろう断罪に、可哀想になるほど怯えていた。しかしそれでも罪の意識からか、私たちと行動を共にすることに抵抗はしなかった。
男の家は町の南で、ヴルフの店からも程近かった。一度戻ってグレイにも伝えようか迷ったが、今は被害者の確認が先だ。もし生きていれば、助けられるかもしれない。そう思い急ぎ足で現場へと向かった。
だが……到着したそこにはもはや生存者など一人としていなかった。
「……脈が無い。呼吸もありませんわ。瞳孔も……」
三人診て回ったが、全員魔法でもどうにもならない。言っていて自分も辛くなってきたが、私よりも目の前の男の方がずっと辛そうだった。ぼろぼろと涙を流し、嗚咽を漏らした男は死体の前でひたすらに謝罪の言葉を繰り返していた。
今まで一緒に暮らしてきた相手を自分で殺してしまったのだから、そうなってしまうのも無理はない。
しかし……どれだけ後悔していようと、人を襲ったという事実は確かだった。
ナシュカ様は義務を果たすべく無表情で護身用の剣を抜いたが、私はそれを止めた。
「……今はもう正気ですわ。シュカリオンに送るんじゃダメ、ですの……?」
「悪いが、人間に危害を加えた魔族は生かしてはいけないんだ……」
「じゃ、じゃあ……せめて私が」
「これは私の義務だ。……少なくとも今は、まだな」
「…………わかりましたわ」
いずれこの行為が義務でなくなる日を、ナシュカ様自身も願ってくれている。
それでも今はまだ、彼女はこの心を押しつぶすような死刑執行人でなければならなかった。こんなに優しい人なのに……。
「何か言い残すことはあるか?」
しゃがみ込んだままの男に、ナシュカ様は静かに問いかける。男はただ涙を流しながら「ごめんなさい」としゃくりあげるだけだった。
一呼吸後には、もう刑は執行されていた。
剣に纏わりついた黒い霧を払うと、ナシュカ様はそれを再び鞘へと戻す。倒れた男は首の断面からバケツをひっくり返したようにバシャバシャと液体のような黒い霧を零して、やがてその場から消えた。
霧散していく霧の中には、一枚のコインが落ちていた。一般流通されている、何の変哲もないコイン。これが、男の核だったのだろう。
ナシュカ様はそれを拾い上げると、目を瞑った。その姿は、何かを祈っているようにも見えた。
……こんな風に祈ってもらえるなら、幸せかもしれない。少なくとも私なら幸せだ。でも、ナシュカ様はきっとそうじゃない。祈るその表情は、痛々しいほどに切なげだった。
そんな彼女に殺してもらおうなんて。その上で彼女をハッピーエンドに導こうなんて。そんな浅はかな考えを持っていた自分を、私は改めて恥ずかしく思った。
「……私はこのまま城に戻ってこのことを報告する。……ルルベル殿もきてくれるか?」
「はい。あっ、お城に戻るのでしたら魔法を使いますわ。馬で行くよりずっと早いですし……」
「……すまないな。頼む」
私はナシュカ様の手を握ると、フリーゼ城にいる自分達をイメージし呪文を唱えた。
*
「──そういうわけで、被害はあったが原因となった魔族は既に討伐した。現場には遺体が三つある。身元の確認を急いでくれ」
城に戻るや否や、ナシュカ様はギルベルト団長に状況の説明をすると騎士団員を何人か派遣するよう指示を出した。ギルベルト団長はナシュカ様の背後に私を見つけると眉を寄せたが、それだけで何も言うことは無かった。
普段は魔族討伐の要請が来ると「迷惑な連中だ」と一蹴する彼だが、流石に数ヶ月友好関係を築いた魔族を前にしては言わないらしい。
「我々は馬で向かいます。お二人は如何なさいますか?」
「……私も馬で行く。ルルベル殿は後ろに」
「えっ、でも魔法でさっきの場所に戻った方が早いですわ」
「二人だけ先に行ったところで出来ることはない。それに、魔力は温存してほしい」
分かるな? と諭すようにナシュカ様は私の髪を撫でるので、私も頷く他なかった。
ナシュカ様にしがみつきながら馬の背に揺られていると、彼女は私にしか聞こえないくらいの声で呟いた。
「付き合わせてしまってすまないな。……あの場に居合わせてしまった以上、ルルベル殿を一人で帰すと後から疑われかねないんだ」
「疑うって、何を……?」
「…………本当はルルベル殿が殺したんじゃないか、と。もっとも、今も多少疑われている可能性はあるが」
そうか。そうなってしまうんだ。
殺人現場に魔族がいたら、たとえ正気の状態であっても疑われてしまうんだ。……でも、魔族が飢えから人間を食べることがあるのは事実だ。
「……仕方ないですわ」
「仕方なくない。……さっきも言ったが、簡単に受け入れるな。確かに今回の事件は魔族が犯人だった。でもあなたは無実だ。何も罪など犯していない」
「……ありがとうございます」
そこからは無言だった。
ナシュカ様は完全に仕事モードに切り替わり、隣のギルベルト団長や後ろに続く団員達を率いて先頭をひた走った。
ようやく先ほどの家に辿り着く頃には、既に日付けが変わろうとしていた。
先ほどまで部屋の中に立ち込めていた黒い霧は、すっかり霧散して影も見当たらない。残っているのは、三人の遺体と乾いた血痕だけだった。
遺体の搬送と身元の確認が急がれる中、私も取り調べを受けることになった。
相手はギルベルト団長。公式設定で身長百九十センチの巨体に目の前に立たれると、百六十センチにすら及ばないルルベルの背丈では威圧感を感じた。
「どうして居合わせた?」
「私とナシュカ様が散歩をしていたら、急に腕を掴まれて……。その後魔力のジャムを飲ませたら意識が戻ったので、本人から話を聞いたところここに住んでいたと──」
「容姿は覚えているか?」
「黒髪に赤い目で、身長は百七十くらい──」
覚えていることを一通り聞かれた後、特に発言におかしな点は無かったとして私は解放された。
ギルベルト団長に背中を向ける直前、「くれぐれもナシュカ様のお心を裏切らないように」と釘を刺されたが、そんなこと、言われるまでもなかった。
もし私が人間を傷付けるようなことがあれば、ナシュカ様は仕事として私を殺さなければならない。きっと、あの切なそうな顔で。
絶対に、そんな顔はさせない。
何をされても、何を言われても、人間を攻撃したりしない。
そう心に誓って、私はその場を後にした。
店から程近い路地まで来たところで、私は不自然に動く灯りを見つけた。よくよく見れば、そこにはランタンを持ったヴルフがいた。彼も私に気がつくと、オレンジの灯りを揺らめかせながらこちらに歩み寄った。
風呂上がりなのか、髪はいつもと違って額にかかっている。きっと帰りがあまりに遅かったから心配して探しに来てくれたのだろう。
「おかえりなさいルルベル様。……フリーゼ公爵令嬢はどうされました?」
彼は私の隣にナシュカ様がいないことに気付くと、いつもの笑顔の画面を剥がして不安そうに顔を歪めた。彼を安心させるためにもナシュカ様の無事と、何があったのかを話すと、彼は胸を撫で下ろした。
「……なるほど、"お仕事"でしたか。はぁ、あの子は一体いつまで……」
「魔族と人間の関係が改善しない限り、難しいですわね……」
「いや、あの子一人なら家を捨てさせるだけで済みます。それに……あの子にはもう家を捨てるだけの条件が揃っているでしょうから」
「え?」
ヴルフの言っている意味が分からず彼を見上げると、彼はランタンで塞がっていない右手で私を指差した。
「あなたですよ、ルルベル様。見ていて気付きました。あなた方……何かしらの一線を超えましたね?」
「ま、まだ超えてません!」
「まだ、と」
「はっ……」
墓穴を掘ったことに気付いて、私は口を塞いだ。しかしヴルフは怒るでもなくくつくつと愉快そうに笑い出すものだから、私は二の句を告げずにいた。
「あっはっは! あの妹が選んだ相手がまさか、女性で、しかも魔族だなんて! 我が妹ながら最高のセンスですよ!」
「ぐ、グッドマンさん……これは秘密にしているので……もう少し小声で……」
「おや、それは失礼」
ヴルフは私の手をぱっと離すと、そのままわざとらしくコホンと咳払いをした。
「ともかく、あの子は愚かしいまでに一途で、呆れるほど誠実です。そしてあなたは自分から想いを告げるタイプではない。……大方、話を切り出したのはあの子の方でしょう。そうなれば、あの子は絶対にあなたを裏切ることはしない。あなたが、裏切ったりしない限りは」
水色の隻眼が、釘を刺すようにすぅ、と細まる。本日二本目の釘だ。
「……裏切りませんわ。決して」
「それは何より。いやぁ、それにしても……家とは何の縁もゆかりもない相手を選んでくれて本当に良かった。妹を落としてくれたルルベル様には感謝してもしきれませんね」
「……グッドマンさんの計画のためにしたわけじゃありませんわ。私は……元々ナシュカ様が好きだったから……」
「ああ。でしょうね。それは知っていますよ」
何を今更、とでも言いたげにヴルフは私の背を叩いた。どうやら私の想いなどとっくに見透かされていたらしい。……知った上で、縁談を潰せなんて言ってたのか、この人。やっぱり何を考えるのか分からなくてちょっと怖いな。
「……恋人が魔族で女性。家に居たままでは絶対に公になんてできませんからね。誘惑の材料としては申し分ありませんし、公爵の醜聞も聞かせれば十分こちらに靡くでしょう」
「な、なんかやり方が悪どい気もしますわ……」
「悪どい? はっはっは。──どっちが」
ヴルフの目は異様に冷たかった。それは私に向けられたものではなく、フリーゼ城に向けられたものだったが、それでも身がすくんでしまうほどの鋭さだった。
「まぁ、この話は今度あの子が来た時にでもしましょうか。それより、帰ってきたら二人にお祝いとして渡そうとケーキを焼いたんですよ〜!」
「えっ……?」
「でもあの子は来れなそうですから、自分と分けて食べましょうか」
ヴルフに肩を組まれた私は逃げることもできず、そのまま客間に通されると意味深に「おめでとうございます♡」とだけ書かれたプレートの乗った小さなホールケーキを差し出された。
「まあまあ焼きたてですよ」
そう言って笑うヴルフに怯えながらも、私はケーキを切り分けた。正直今はお菓子の気分ではなかったが、断る元気も無かった。
しかしいくらフォークを口に運んでも、何故だか全然味がしなかった。味わう余裕すらも無かったのかもしれない。




