第3話 最推しとの出会い
犬ぞりがようやく止まる頃には、既に日が暮れていた。ゆるりと正面を見やれば、そこには真っ白いドーム状の宮殿のような建物が聳え立っていた。
「……"ホーム"」
「知ってるんだね。そう、ここは俺たち魔族のホーム……いや、本当のホームはディグニスか。まあでも、自分の家だと思って寛いで」
グレイが重そうな扉を開くと、中からは温かい空気が溢れ出してきた。
「……綺麗」
ここが室内で、扉一枚向こうには雪原が広がっているとは思えないような、暖かで美しい庭園。ゲーム内でも確かグレイが「シュカリオンにも、ディグニスの気候に近い庭園を作ったんだ」とは言っていた。言っていたが、スチルや背景などでそれを確認することはできず、知っているホームの背景といえば建物の外観と、ルルベル、グレイ、それからもう一人いるゾーイという魔族のそれぞれの部屋だけだった。
だから、こんなにも綺麗な庭園があるなんて知らなかった。
「良いでしょ。みんなで少しずつ作ったんだよ」
最初に作ったプランターはここで、これは一番初めに咲いた品種の花。この動物のオブジェはあの子が作ったもので、こっちの小人の飾りはあっちの子が作ってくれたんだ。
指を刺しながら早口気味にそう話すグレイには毒気も何も感じられず、ただ普通の、本当に普通の青年のように見えた。
でもこの人、グレイルートでホームの解体を求められたら応じちゃうんだよな。……こんなに思い入れがありそうなのに。
「……大事にしてくださいね」
「うん?」
「ここのこと」
「あはは、もちろんだよ。俺たちの家なんだから」
眉を下げて笑っているが、果たしてそれが本心なのかは分からない。グレイとはそういう男だった。
「それじゃあ。俺は仕事があるから会議室に行くよ。あとこれ、ここの地図ね。君は魔力使ってお腹も空いただろうし、食堂にでも行ってきたら?」
手を振りながら扉の先へ消えていくグレイを見送ると、私はグレイが指していた壁の地図をじっと見つめた。食堂はこの庭園のすぐ隣。それから……確かルルベルの部屋は五階。庭園の壁に沿うように階段と細い通路があるから、あそこを登っていくのだろう。……疲れそうだな。いや、今は魔法が使えるからひとっとびで行けるのか。でも魔法使うとお腹空くんだっけ。
お腹……確かに空いてるな。
魔族は普通のご飯ではお腹が膨れない。しかし生きるためには魔力を補給する必要がある。それで、その魔力の補給源は──。
「──やっぱりこれかぁ……」
冷蔵庫の中には二種類の瓶。一つは血液の入った瓶で、もう一つは……なんだろう、海苔の佃煮? うわ、よく見ると動いてる。これ、死んだ魔族から抜き取った魔力の塊か。
……これを飲むのか。
仕方がない。魔力を得るには生き物の血を吸うか、他の魔族を食べるか、魔力を宿した希少な果実などを食べる他ないのだから。
「い、いただきます……!」
しばらくの間、私はテーブルに並べた二つの瓶と睨めっこをしていたが、深呼吸を一つ落とすと、腹を決めて手を合わせた。
まずは血液の瓶をよく振って、開ける。せめてサイダーとかで割りたかったけど、仕方ない。目を瞑って頭の中で暗示を唱える。
これは鉄分多めの飲むヨーグルト……これは鉄分多めの飲むヨーグルト……!
しかし予想していたような鉄臭さは全くなく、フレッシュな香りが口の中を満たすと、私は勢いよく喉を上下させた。
あっという間に空になった瓶を静かに置き、口を抑える。
「うっ……ま……! 嘘でしょ? これ本当に血……?」
不思議な味で、他の食べ物に味を例えることはできないが、恐ろしく美味しい。魔族特有の味覚なのか、それともこの世界の生き物の血が特別美味しいのか、それは分からないが食事が苦痛でないことは救いだった。
飲み干した勢いのまま、魔力の入った瓶にも手にかける。しかし魔力は蓋を開けると霧状になって瓶の口から出て行こうとするものだから、私は慌てて瓶に口を付けた。魔力は舌先に触れると溶けて液体化し、喉の奥へと滑っていく。
こちらも血液と同じで、なんだか不思議な味わいだった。
食事を終えると、私は部屋へと向かった。長い階段を一段一段登り、高所恐怖症には耐えられないであろう高さの吹き抜けの通路へと辿り着くと、ちょうど部屋を出てきた少年と蜂合った。この通路には人一人分程度の幅しかないため、私の進路は完全に塞がれてしまった。
「……あ」
「ああ、やっと帰ってきたんだ。資材集めご苦労さま。随分遠くまで行っていたんだね?」
真っ直ぐな銀髪を左側だけ少し伸ばした頭に、冷めた灰色のジト目の少年。ゾーイだ。
白のシャツに黒いベストを重ね、黒のスラックスを履いた大人っぽい服装に身を包んでおり、その雰囲気もどこか少年然とはしていない。彼は見た目こそ少年だが、実際は百年以上生きているのだ。プライドが高くて、少し面倒くさい人。彼もルルベルと同じで、ルートの無い完全な敵キャラクターだ。だからゲーム内でも掘り下げが少なくて、彼のことはそこまで詳しく知らない。
「資材……」
ゾーイに言われて、思い返す。資材なんて、集めていただろうかと。犬ぞりに乗っていたのは私とグレイだけで、そこには薪も無ければ他の何も荷物は乗っていなかった。そもそも、あんな雪原のど真ん中で一体何の資材が取れるというのだ。
いやでも、資材集めじゃないならそれこそ、私とグレイは何故あんなところにいたのだろう。
「ちょっとルルベル。なんかいつもに増してぼーっとしてない?」
「……いつも通りですわ?」
指摘されて、慌てて表情を取り繕った。
人好きのする穏やかな微笑みをたたえて、起伏の少ない鈴のような声で返事をする。
危ない危ない。中身が別人になっているなんて、グレイにはバレてしまったけど、これ以上他の人には知られない方が良いだろう。そのせいでゲームの進行に影響が出たら困る。
「そういえばゾーイ、パーティの練習はちゃんとしていらっしゃる?」
ルルベルの口調は案外すんなりトレースできた。聞き慣れているからだけではなく、やはりこれはルルベルの身体で、ルルベルの口だからだろう。
できるだけ私のことに言及されないよう、こちらからそう問いかければ、ゾーイはあからさまに嫌そうな顔を浮かべてため息を吐いた。
「……はぁ。しているよ。人間に媚を売るなんて本当は嫌だけどね」
ゾーイはグレイとは反対で、人間との共存を全く望んでいない。人間なんて滅ぼした方が早いと思っていて、会議でも過激で嫌味な発言が多い。それでもグレイの言うことを聞いているのは、グレイの方が圧倒的に強いからだった。
本来であれば、人間の社交場なんかには絶対に行きたくないと言い張るだろう。
「まあでも……人間たちが僕らの演技に騙されるところは見てみたいな。きっと気分が良いよ」
「……そう」
「……感情が無い君には分からないかもね」
さっさと部屋行けば?
そう言ってゾーイは半歩下がり、ドアを軽く閉める。前を通り過ぎると、背後で扉の開閉音と、階段を降りていく音が響いた。……ゾーイにはたぶん、ルルベルではないと気付かれていない、はず。
「はぁ……」
ルルベルの部屋に入ると私は疲労感からそのままベッドに倒れ込んだ。意外と大きなベッドだ。いや、ルルベルが結構小さいのかな。手をかざしてみると、記憶にある私の手よりもずっと小さく、細い手が目に入った。
「可愛い手……」
ルルベルは、実際可愛らしい。口角は常に小さく上がっていて、話す時や食べる時の口の開きは小さい。氷の女と呼ばれる割に、彼女の表情は穏やかだ。まあ、その上がった口角が下にも上にも横にも全然動かないから、氷の女なんて呼ばれているんだけど。
つまるところ、ルルベルには感情という感情がほとんど見当たらなかった。
ルルベルに感情が無いのは、彼女が自然発生した魔族ではないからだろう。
魔族は本来、花や物などに魔力が篭って自然発生する存在だ。しかし、ルルベルは違っていた。
彼女は、莫大過ぎる魔力を持って生まれたグレイが、魔力の分散のために意図的に"花"に魔力を込めて作ったイレギュラーな存在だった。作中で明言こそされていないものの、ルルベルに感情が無い原因はこれだろうとファンの間では考察されている。
そうして生まれたルルベルは、グレイから人間に好意的に見られるための教育と戦闘訓練を受けて、今に至る。
ルルベルは自分のことを語らない。だから彼女が人間やグレイをどう思っていたのかは分からないし、グレイがルルベルをどう思っていたのかも分からない。
「……それにしたって、長年一緒にいたルルベルが急に別人になって、グレイは悲しかったりしないのかな」
いくらなんでも順応が早すぎる。近しい存在の中に全然知らない人が入っているっていうのに。
……でも、ホームと呼んでいるこの場所ですら手放せてしまえる人だから、もしかするとルルベルの中身が変わったところでそれも割り切れてしまうのかもしれない。
それはなんだか少し、悲しい気がした。
*
朝目を覚ましても私はルルベルのままだった。次の日も、その次の日も、そのまた次の日も、鏡に映るのはルルベルの顔。喉から出る声もルルベルの声。一日のほとんどを魔法の練習とルルベルの演技に注いだからか、むしろ初日よりもずっとルルベルに近くなっている気さえする。
それでも中身はどうしようもなく私のまま。
事実上、ルルベルの身体を乗っ取ってしまっている状態だが、当のルルベルの意識は一体どこに行っているのだろうか。
「……いや、こんなこと考えてる場合じゃない。今日はパーティ当日なんだから」
ぱちんと手のひらで頬を挟んで、自分を鼓舞する。ここまでやれることは全てやった。あとはこれから繰り返されるパーティで、ゲームと同じ行動をするだけ。ゲームの内容は頭に叩き込まれている。
うん、大丈夫。完璧にルルベルの役をまっとうしてみせる……!
そして、ナシュカ様の幸せなエンディング……はこの目で見れないけど、ハッピーエンドに導けるように全力を奮おう。
──そう、思っていたのに。
「ナシュカ・ドゥ・フリーゼだ。女性の参加者はそう多くないからな。仲良くしてくれると助かる」
「ぁっ、あの、ぁ……は、はい……ぁっ、ルル、ルルベル、ですゎ……」
──いざ最推しを前にしたら、私の一週間の努力など砂のように崩れ去った。
今私に手を差し伸べてくれているのは、緩くカールのかかった長い金髪で空色の瞳を左側だけ少し隠した女性。口元のセクシーなホクロに、スラリとした長身……。私の最推しその人だった。
あ、握手……しちゃっていいのかな?! 手汗とかかいてるかも……というか近くで見ると……ヤバい! 持っていかれる! 魂か何かを!
「ッら゛!!」
「ど、どうした。急に自分の頬を叩いたりして……」
「き、気持ちを……落ち着けようと……」
「緊張しているんだな。だがそんな真似はよしてくれ。綺麗な顔に傷が付く」
「ヒッ……」
て、ててて、手を、手を握られた! 助けて! このままだとおかしくなっちゃう!
「申し訳ありません。魔族にとってパーティは初なもので。ルルベルも、これでも頑張って挨拶の練習をしてきたんですよ」
状況を把握したらしいグレイは私の背後からするりと現れると、私の両肩を掴んでそう話した。その後彼は私の前に一歩踏み出して私とナシュカ様を離すと、手を胸に置いて丁寧にお辞儀をした。
「フリーゼ公爵令嬢、此度は我々のために城をお貸しいただき誠にありがとうございます。魔族と人間、共に良い関係を築けるよう、お互い尽力しましょう」
「そう畏まらないでくれ。貴殿は今回の主催なのだから。こちらこそ、このような得難い機会をいただけたことに深く感謝する」
ゲームと全く同じ台詞。それでも横並びでなく向かい合って話しているだけで、かなり新鮮なように感じられた。
推しと推しが……並んでる。
ただ会話して握手しているだけなのに、こうして近くで見るとまるで宗教画みたいだ。
ぼんやりと二人の姿を目で追っていると、それに気付いたのかグレイはちょうど良いところで会話を切り、私の方へと振り返った。
「ルルベル。少し、外の空気でも吸いに行こうか」