第24.5話 公爵令嬢の好きな人
初めはただ、魔族相手だからできる限り丁寧に接していた。今後のための、ただの外交の一環。それだけだった。
相手は魔族で、私はフリーゼ家の後継。友人になどなれるはずもないと思っていた。
しかしルルベル殿は、人間に対する怒りも憎しみも何も持たずに私に接してくれた。他の魔族も皆親切だったが、一切含みのない話し方をするのは彼女だけだった。
どこか照れたように笑い、大声で私を褒めたかと思えば急に小声になる。社交辞令にしては感情が入りすぎていて、なんだか変わった女性だというのが彼女の第一印象だった。
しかし変わり者同士、私たちは案外気が合った。私は徐々に彼女を好ましく思うようになり、彼女について思案する時間が増えていった。
パーティ以外の場でも会えないだろうか。プレゼントを渡したらどんな顔をするだろうか。昔こっそり飼っていた白猫のように、いつか誰かに殺されてしまわないだろうか。私が魔族を殺しているところを見たら、失望しないだろうか。
良いことから悪いことまで、随分考えたように思う。
考え事が増えたこともあって、私は仕事に支障が出始めた。その支障の第一歩が、あの腹の怪我だった。
それを、ルルベル殿は少ない魔力を振り絞って治療してくれた。彼女の腕は見事なもので、多少のくすぐったさのみを残して治療は終わった。肋骨が折れたのは今回に限ったことではないが、こんなにも早く回復したのはこれが初めてだった。
嬉しかった。自分のためにここまでしてくれる人がいることが。しかし同時に恐ろしくなった。彼女が、私の役に立とうとしすぎるから。いつか、物語のロージーのように魔力を使い切って死んでしまうんじゃないかと。
そしてその予感は、当たっていた。
ルルベル殿は、人のために魔法を使いすぎる。共に過ごすほど、彼女が魔法を使う姿をよく見かけるようになった。部屋を冷やす魔法から、傷を癒す魔法まで。
それに魔族についてよくよく調べれば、人の傷を治す魔法は魔力消費の多い高等魔法だというじゃないか。
だというのに、彼女は何の躊躇いもなく治療魔法を使う。魔力の実やジャムがあるとはいえ、身体の負担はかなり大きいはずだ。……ディグニスに移住して間もない頃は、怪我だって多かった。町民にやられたのだろうとは、すぐに検討がついた。
それでも彼女は健気にも魔族と人間の共存を望んだ。何故彼女がそこまで共存に拘るのかは分からなかった。魔族側がどれだけの力を保持しているのかは分からないが、二百年前はたった三人の魔族に街を潰されたと聞く。ルルベル殿たちのようなパーティ参加者は弱い魔族かもしれないが、シュカリオンにはきっと強い者もいるのだろう。
彼らがその気になれば、人間などいつでも滅ぼせてしまうはずだ。人間に恨みだってあるはずだ。それなのに、彼女は頑なに共存に拘り。平和な世界を望んだ。
それなのに私は未だ、現れる魔族を無心で切り伏せることしかできない。ルルベル殿が見たら何て言うだろう。
罪悪感ばかりが募る中、彼女は私の心を見透かしたかのようにこう言った。
「いつかあなたが、魔族を手にかけなくても良い世界に……しますわ。あなたが自分の心に嘘をつかなくて良い世界を、作りたいんですの」
嬉しかったよ、ルルベル殿。本当にそんな未来が来たら、胸を張ってあなたの横に立てるのかもしれない。
だがそれは幻想だ。幻想のために彼女が怪我をする必要も、命を落とす必要も、無い。
ルルベル殿の死と引き換えに得られるような平和など、いらない。彼女が生きて側にいてくれる方がずっと良い。
それでも彼女はこの甘い夢を幻想で終わらせる気など無いようだった。菫色の瞳は爛々と輝き、未来を見つめている。死をも恐れずに。
そんな彼女を見ていると、本当に実現できるのではないかなんて気にもなってくる。
だがおそらく、彼女の言う平和な世界に、彼女自身は含まれていない。彼女は平和のためなら喜んでその身を投げ出しそうなところがある。それが何より恐ろしかった。ずっと、そればかりが怖かった。私は、とっくに彼女を愛していたから。
「側にいてくれ」
「もしヴルフのやつと旅をすることになったら、ルルベル殿も一緒に来てくれ」
「ルルベル殿は平和になったら何がしたい?」
だから私は、どうにかして彼女に死なない理由を与えようとした。未来の話を、多く口にするようになった。私にできるのはこれだけだったから。
私は常に彼女と共にあるわけじゃない。彼女が魔法を使いすぎないように見守ることはできない。だからせめて、平和な未来の中にいるルルベル殿の姿を、彼女自身にイメージしてもらいたかった。共存をゴール地点にしないように。
──それなのに。
「何をしている!」
町民の間をかき分けて騒ぎの中心へと向かえば、そこには見知った白銀の髪。白いワンピースは風に揺れ、振り向いた瞳は大きな菫色。
紛れもない、ルルベル殿が立っていた。
なんとなく嫌な予感はしていた。ここに向かう途中で「魔族の女が飛び出していった」という話を聞いたからだ。まさかとは思った。だってこんな西の街に、彼女が来る用事などないのだから。
それでも不安だった。私は馬を飛ばし、群衆の前で降りるとそのまま走り出した。
そして、予感は的中した。
幸い彼女に怪我は無……いや、ある。
私はずかずかと彼女に歩み寄ると、おかしな形状になっている右手を掴み上げた。
「何だこの手は……!」
「す、すみません……お見苦しいところを。すぐに治しますわ」
「そうじゃない! 見苦しくなんてない……痛くないのか……?」
「平気ですわ」
"コール"とルルベル殿が囁くと、彼女の右手はあっという間に元の形に戻った。
「ほら。もう大丈夫ですわっ」
「大丈夫なものか」
無理矢理に笑顔を作っているのが、私にも分かる。
彼女の傷は、右手だけではない。「殺せ」と囃し立てる人々の声だって、十分な暴力だ。こんなもの、同胞を手にかけろと言っているのと同じだ。
今だって、背後から聞こえてくるのは「とにかく早くその魔族をどうにかしてほしい」という声ばかりだ。理解はできる。理性を失った魔族は恐ろしい。だが、同じ魔族である彼女に何故そんなことが言える?
「やっぱり魔族じゃダメだ! こいつはきっとその熊をどこかで溶かしてまた野に放つ気だ!」
「魔族なんて信用できるか!」
「フリーゼ公爵令嬢様!お願いします!」
「魔族同士じゃやっぱり殺せないんだ!」
「フリーゼ公爵令嬢様!」
私は腹が立って、歯を食いしばった。
ここまで腹が立つことなど、今までは無かった。でも、ルルベル殿が。こんなにも健気で人間を慮る心を持ったルルベル殿が侮辱されるのは、許せなかった。
静粛に!
そう言おうと振り返ったその時、目の前にもう一人、突如として銀髪が現れた。
その銀髪は男だった。背は高く、柔らかな長髪を一つに纏め、服は白い詰襟のシャツに、細身のスラックス。足元は茶色い革靴。
空のジャム瓶のようなものをいくつも持ったその男は──グレイ殿だった。
「お待たせ」
彼はそう言って笑うと、何のてらいもなく凍った熊の鼻先を魔法で切断した。
辺りがどよめくのを「しぃ」と口元に手をやって鎮めると、彼は切断された熊の傷口に瓶の口をくっ付けた。霧状に溢れ出した血を、溜めているようだ。
「皆様、誤解させてしまったようで申し訳ありません。魔族は魔族を殺せますよ」
彼の言葉には迫力があった。有無を言わさない威厳と、そうなのだろうと思わせる気迫が。
「ですが、これは我々にとって貴重な魔力の供給源です。彼女は、それが分かっていたから殺すのを躊躇ったんですよ。何しろ、まさか普段から空の瓶なんて持ち歩いてはいませんからね。そこで俺が家から持ってきてあげた、というわけです」
「えっ」
「ね?」
グレイ殿は呆けているルルベル殿に何か訴えるようにウインクをすると、無害そうな笑みを浮かべて群衆に向き直った。
「魔力の供給源は限られています。共食いか、生き物の血か、魔力の実です。理性を失った魔族が街に出没することが増えてきたのも、森にあった魔力の木が伐採されたからです」
「お、俺たちのせいだって言うのか……?!」
「いいえ。これは国の責任です。魔力の木を植えることは、法律で禁止されていますからね」
一呼吸置くと、グレイ殿は勿体ぶるようにして再開した。この場は完全に、彼に支配されていた。
「皆様──良ければ魔力の木を植えてはくれませんか? そうすれば、魔族はそれを食べます。家畜も、人も襲わない。二百年前は確かに、理性があるにも関わらず街を襲った魔族がいました。でもあれは理性があるが故です。大切な人を傷付けられた時に復讐心が湧くのは、何も人間に限った話ではありませんから」
ざわつく群衆を前に、グレイ殿はまるで見せつけるように、きらきらと輝く透き通るような美しい杭を召喚し、それを熊に突き刺した。その杭がきらきらと霧散すると同時に黒い霧が噴き出すが、グレイ殿は器用にも魔法で瓶を操ると、その中にとくとくと酒でも注ぐように霧を溜めていった。
「……我々も飢えは恐ろしいです。しかし魔力の実が足りない以上、こうして悲しい共食いをするか、罪に問われるのを覚悟で人や動物を襲う他ありません」
悲しげに眉を下げたグレイ殿は、胸に手を当ててお辞儀をすると最後に恭しくこう言った。
「どうか、我々魔族にも心があることを知っていてくださいませんか?」
群衆はしん、と静まり返った。そしてしばらくするとまたざわつき始める。しかし最初のような野次を飛ばすような者は、もういなかった。
グレイ殿の空気に飲まれたのか、ほとんどの者が自分を顧みるような言葉や魔族への同情を口にし始めたのだ。
「すごいな、グレイ殿は……」
「演説には慣れていてね。それよりルルベル、大丈夫?」
「…………なんで殺しちゃったんですか?」
「……ごめんね。こうするしかなかったんだよ」
そう言ってグレイ殿はルルベル殿の右手をとると、その白い手を慈しむように握り込んだ。
「グレイ殿がここに来るのは、予定通りだったのか?」
「いいや。ルルベル一人での対処が難しいと判断したから来たってだけですよ」
「そうか」
私はルルベル殿の肩を掴んで自分の方へ向けると、その小さく白い頬に──ビンタした。
「…………えっ?!」
一瞬遅れて自分が叩かれたことを認識したらしいルルベル殿は、何が起こったのか分からないという顔で私を見上げた。
「ルルベル殿」
「は、はい……」
「グレイ殿が来なかったどうする気だったんだ?」
「…………それは」
「それに、私が来るのがあと少し遅かったら、あなたは人間たちから攻撃されていた」
「えっと……」
「死ぬところだったんだ、あなたは。……もう二度と、自分の命を軽んじるような行動はするな」
ルルベル殿は目を逸らした。逸らした先ではグレイ殿が何やら意味深な笑みを浮かべている。もしかするとグレイ殿から既に似たようなことを言われていたのかもしれない。
「で、でもっ。大丈夫ですわナシュカ様。ほら、魔族って結構丈夫なんですのよ」
「ほう、丈夫?」
「い、いたたたたたっ、ほっぺをつねらないでくだひゃい!」
「こんなに柔らかいくせに何が丈夫だ」
「フリーゼ公爵令嬢、もっと言ってやってください。この子いつもこうなんです」
「ぐ、グレイだって人のこと言えなっ、いたたた!」
手を離してやると、ルルベル殿は頬が伸びてしまっていないか確かめるように顔をさすった。そうして、頬が伸びていないことに安堵すると、彼女は睨むように上を向いた。
「命を軽んじるなって……でも、いつもナシュカ様がやっていることですわ。私も、今のあなたと同じくらい、いつも心配しているんですのよ」
そう言われて、腑に落ちた。彼女がいつも、やけに私の身や心を案じるようなことを言う理由が。
胸の内に温かいものを感じていると、彼女も隙をついて私の頬に向かって手を伸ばした。細い指先は私の頬をつまみ、軽く真横に引く。
「……固いですわ」
「表情筋が発達しているんだろう」
「で、でも引っ張られたら痛いですわよね?」
「少しな」
「ほら! もう、ナシュカ様だって痛覚があるんですから」
無茶はダメですよ!
怒っているんだか笑っているんだか分からないような表情でそう言われ、私は何故だか泣きたくなるほど嬉しくなってしまった。
今までにだって身を案じられたことはあった。しかしそれは後継がいなくなると困るだとか、魔族を討伐する人がいなくなると困るだとか。そういった私の役割を重視した理由だった。
だが、ルルベル殿はそうじゃない。彼女の言葉には、私そのものに対する想いしかなかった。
「な、ナシュカ様……? すみません、もしかして結構痛かったんですの……?」
「え?」
「涙が出ていますわ」
言われて初めて、私は自分が涙を流していたことを知った。良い大人が、こんな人前で涙を流すなんて。
恥ずかしくなった私は指先で涙を拭き取ると、目を伏せた。
「……これは汗だ」




