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第18話 怖い男


「グレイ! 今治療しますわ!」


 玄関でしゃがみ込んだグレイに駆け寄り、魔法の呪文を唱えかける。しかし、それを止めたのは、他でもないグレイだった。


「ストップ。大丈夫だよ、痛覚は遮断してあるから」


 グレイはまるで怪我など負っていないかのようにいつも通りの笑みを浮かべ、自分の口で"コール"と囁いた。

 身体の欠けは閉じていき、グレイの肌から溢れ出ていた黒い霧が止む。しかし細い亀裂や小さな切り傷はそのままだ。


「ぐ、グレイ……やっぱり私が……」

「いいんだよ。これで」

「いいわけ無いよね? 何このボロボロの身体。こんなのも直せないくらい弱ってるってこと?」

「いいや?」


 鋭いつり目をうっすらと開け、グレイは微笑んだ。そうして視線だけをちらりと窓の外に向けると、よろよろと立ち上がって店の奥へと歩いていった。


「玄関に溜まってちゃ、お客さんに迷惑だからね。奥の部屋で話そうか」


 カウンターや壁に手をついてどうにか奥へと向かうグレイを見かねて、ヴルフが肩を貸す。

 客室に辿り着くとヴルフはグレイをソファに寝かせようとしたが、グレイはそれを拒否した。それどころか、グレイは支えを失ったはずなのに何故だか先程よりもずっとしっかりとした足取りで歩き出し、窓際に辿り着くと部屋のカーテンを閉めた。


「ふぅ……」


 グレイはゆっくりと振り返る。

 そうして、固まっている私たちの元へ戻ってきてソファに腰を落とすと、いつもの明るい声でこう言った。


「これは、ただのパフォーマンスだよ」


 何の含みも裏もないような晴れやかな笑顔で、グレイは続ける。


「人間が俺たちを襲ったのは事実だ。でも、俺はやり返さなかった。魔力が溢れるほどボロボロにされてもね。チャッピーを抱きしめて、か弱い被害者に徹したのさ」

「なんでやり返さないのさ……」

「そんなことしたら一発で追放されるから……っていうものあるけど、彼らに罪悪感を植え付けて世論を形成しようと思ってね。彼らは気が済むまで俺を(なぶ)ったけど、俺がその後、笑顔で彼の足の怪我を治してあげたら困惑していたよ」


 あはは、と楽しそうに笑うグレイだが、この場で笑っているのは彼一人だ。私も含め、他の誰もがどこか青ざめたような顔で彼の言葉を聞いている。

 パフォーマンスだ、とグレイは言ったが、私にはそれがよく分からなかった。彼が、ただ傷付けられただけな気がしてならなかったからだ。


「こんな傷、本当は全部直せるけどさ。直さないままの方が相手は罪悪感を感じてくれるでしょ? 敵意のない、善良で有益な存在を傷付けてしまった、ってね。だからあえて、暫くはボロボロの姿で過ごそうかなと……」

「それで、グレイは良いんですの?」

「……何が?」

「……つらく、ないんですの?」


 絞り出した言葉は、笑顔にかき消された。

 グレイは私の言葉に否定も肯定もせず、ただ「それで共存できるなら安いよ」と言って笑うだけだった。


 ──怖くなった。この男が。


 ゲーム版でも共存に拘っていたが、その理由までは詳しく語られることは無かった。ただ、争うより共存した方が合理的だから。そう言うだけだった。

 でも、こんな手段を取ってまで共存に拘る理由が、ただの合理性のためだなんて思えない。何か他に、私の知らない理由があるのではないだろうか。


「……どうして、そうまでして人間との共存に拘るんですの?」

「そうだよ。滅ぼしちゃった方が、ずっと早いよ。グレイだって別に、人間が特別好きって訳でもないくせに……!」

「ちょっとちょっと? 人間もこの場にいるんですよ? まあ滅びろとは自分も思いますが」

「ええ? もしかして俺少数派?」


 困ったなぁ、と眉を下げるグレイは全くもっていつも通りだ。

 自分が怪我を負わされたことも、周りが心配していることも、何も気にしていない。彼にとって重要なのは、自身の目標が達成できるかの一点のみだった。


「……魔族だけの世界は確かに理想的だ。迫害もなく、誰もがディグニスで自由に暮らしていける……俺も、そう思っていたよ。でもね、魔族だけになったら今度は魔族同士で争いが起こるんだ」

「何その言い方。まるで見てきたみたい」

「あはは、俺は長生きだからね」


 そういえば、グレイが何歳なのかは私も知らない。ゲームでも「?歳」と表記されている。魔族は全員年齢不詳だが、それでも物語の中でおおよその年齢は分かる。ゾーイは百歳以上二百歳以下で、ルルベルは三十前後くらいだ。

 でも、グレイの年齢だけは一切分からない。二百年前の魔族による人間への虐殺を体験している、という話があったから、最低でも二百歳は超えているとは思うがそれ以上は分からない。


「……昔は魔族の中にも派閥があってね。俺は、自分の派閥以外の魔族を全員滅ぼした。そしたら今度は俺の派閥内でも更に細分化していって、そこでまた争いが起こって……結局嫌になって全員殺したんだ。同じだと思っていたものが同じでなくなっていくのって、悲しいじゃないか」


 これは、いつの話だろう。人間が生まれるより遥か昔の話なのか、それとも虐殺事件が起こる前あたりの話なのだろうか。

 しかし誰も口を挟めないまま、グレイの話は続いていく。


「だからさ。色んな種がいて、違う生き物だらけで、そんな中で全員折り合いを付けて生きていけたら、争い事も無くなるのかなって」

「……グレイは、人間と暮らしたことはあるんですの?」

「ずっと昔にね。もうよく覚えていないけど、悪くない生活だった気がしているよ」


 グレイの目は、どこか遠くを見つめている。その暗い青の瞳の向こうで、遥か過去の風景を見ていたのかもしれない。

 ちりん。と玄関から音が鳴ると、その視線は幻想の風景からゆっくりと部屋の入り口へと向かっていった。


「誰か来たみたいだ。俺が出ようか」

「グレイ様は休んでいてください。自分が行きます」


 立ちあがろうとするグレイを制止して、ヴルフが足早に部屋を出ていく。はいはーい! と元気の良い声が響くと、後の声は聞こえなくなった。


「……魔族同士で争いが起こったのって、いつ?」


 静まり返った池に小石を投げ入れたような小さな声で、ゾーイは呟いた。しかしグレイから返ってくるのは適当な返事だけだった。


「……いつだったかなぁ」

「覚えてないの?」

「俺ももう歳だからさ」


 魔族で言うところの「もう歳」が何歳以上を指すのかは分からない。本当に歳なのか、それも嘘なのか分からないが、一つ分かることは、グレイはこのことについてこれ以上言及する気が無いということだった。

 その後また部屋に静寂が訪れたが、それは長くは続かなかった。ヴルフが戻ってきたのだ。


「ただいま戻りましたよ。はいどうぞ、グレイ様」

「わ、リンゴ? どうしたの?」

「"詫び"だそうです」


 どうやら先ほどの訪問は、グレイに怪我を負わせた人間たちだったらしい。申し訳ないことをした、と謝罪に来たのだとヴルフは話した。

 真っ赤なリンゴの入ったカゴを受け取ったグレイは、怪我をさせられた恨みなんて毛ほどもないかのような顔で微笑んでいる。何でそんな顔ができるのか、私には理解できなかった。


「へぇ……思ったより早かったな。でもそれならやっぱり俺が出ればよかったね」

「会わせる顔がないと仰っていましたよ」

「そう。でも良かった。この調子で上手いこと彼らをコントロールできれば、数ヶ月後くらいには暴力を振るわれなくなるかな」

「グレイ……っ!!」


 大声に驚いたらしいグレイは、きょとんと目を見開いて私を見た。驚いた拍子に手元からリンゴが一つ落ちたことにも気付かず、彼はただ私をじっと見ていた。


「もっと……! もっと自分を大事にしてください!!」


 見開かれた青い目が、ゆっくりと穏やかな弧に変わっていく。怒られているのに、彼の表情はどこか喜んでいるようにも見えた。


「……まさか、君がそんなことを言うなんて」

「誰だって言いたくなりますわ! だから……たとえ合理的なんだとしても、やめてください。そういうグレイが傷付くようなことは……」

「……うん、ありがとう。ねえ、ルルベル──」


 ソファの横に立ったままの私の手をとって、グレイは口を動かした。


「俺さ、そういうこと言ってもらったこと無いから、今すごく嬉しいよ」

「え……?」


 耳を疑った。

 いや、グレイは何もおかしなことは言っていない。"口では"言っていない。


 しかし私は確かに聞いた。肌を、魔力を伝って送られた彼の言葉を。


『──やっぱり、君に"心を与えた"のは正解だったよ』


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