第14話 私の推しはただ普通の可愛い人
ヴルフの店は一階奥が客間、二階の二部屋が居住スペースとなっている。
客間をヴルフが使い、二階西部屋を男二人と小さな魔族二匹、そして東部屋を女二人でそれぞれ使うことになったのだが……。
ど、どうしよう……。
しん、と静まり返った部屋で、私は本を読むふりをしながら頭をフル回転させていた。だってナシュカ様と二人きりになるなんて思ってもみなかった。
適当にお喋りでもしたらいいんじゃないか。いや、共通の話題が見つからない。それに私は雑談ってなんだか苦手だ。
さっき棚にチェス盤があったから、それで遊べばいいんじゃないか。いや、私はボードゲームはオセロしかできない。
それならもうこのまま寝ちゃえばいいんじゃないか。いやいや、残念ながら緊張でとてもじゃないが眠れそうにない。
どうしたら……どうしたらいい……?
推しと同じ部屋で一晩過ごす、なんて夢みたいなシチュエーションなのに。私のコミュニケーションスキルが無いばっかりに何もできない……。
ああ、せめてチャッピーかワタをこの部屋に連れてくればよかった。ナシュカ様は確か動物が好きなはずだから、彼らがいれば何か会話のきっかけにでもなったかもしれないのに。
「…………殿。ルルベル殿」
「えっ、あっ、はい!」
目の前でナシュカ様の大きな手がひらひらと揺れる。いけない。思考に没頭しすぎていて、全然外の情報が入っていなかった。
勢いよく頭を上げると、湯上がりでいつもよりずっと薄着の……というより、白のゆったりとしたワンピース一枚しか着ていないナシュカ様の胸元が目に入った。
──まさか下着を、お付けになられていない?!
「ヒャ…………」
「大丈夫か? ページが先ほどから全く進んでいないが」
「あ……はい……大丈夫、ですわ」
目のやり場に困り、つい目を泳がせる。
普段は服に隠れて見えないが、彼女の身体は筋肉がしっかり付いているのにどこかしなやかで、まるで美術品だ。しかし、ただの美術品であれば直視できる。できないのは、好きな人の身体だから、だろうか。それとも、単に物ではなく人相手だから?
「……ルルベル殿。何故目を合わせてくれないんだ?」
「いや、その……」
「何か気に障るようなことをしたか?」
ああ、悲しそうな顔をしていらっしゃる……! 私が勝手に緊張してるだけなのに……!
「ち、違うんですの。その…………こ、こんなことを言うのは失礼かもしれないんですけど……その、下着を、付けていらっしゃらないので……」
「? ルルベル殿も付けていないだろう?」
そう言うが早いか、ナシュカ様は指先で私の胸あたりを軽くつついた。
ほぼまな板と言っていいルルベルのほんの僅かな膨らみが、ナシュカ様の指先の形にくぼむ。
「ッ……! い、いや、私は……私はまな板だからいいんですの……! でもナシュカ様は、その、大きくいらっしゃいますから……」
「はははっ、女同士なんだ。そう気にすることでもないだろう」
「……じゃあ、もしグレイやゾーイと同室だったら、お付けになっていましたか?」
「うん? うーむ……」
顎に手を当てて視線を彷徨わせたナシュカ様は、しかしほんの数秒で視線を戻すと「いや、付けないだろうな」ときっぱりと言い切った。
「付けてください!!」
「寝苦しい」
「寝苦しくてもです! 危ないですよ! 特にグレイは!」
「な、何故……?」
ナシュカ様からの問いかけに、私はぐ、と押し黙る。
グレイだったら、こんな姿のナシュカ様と同室になったら適当に言いくるめてそういう関係になりそうだから、とは流石に言えない。いや、グレイもそんなことはしないかもしれないが、彼の性格を考えると絶対に無いとも言い切れない。
「ぐ、グレイはほら、大人の男性じゃないですか……」
「なるほど……。なあ、前から思っていたんだが、ルルベル殿はやっぱりグレイ殿のことが……」
「それは違いますわ!」
言い切る前だったが、割り込むようにしてその言葉を否定する。
ナシュカ様はどういう訳か、私がグレイのことを好きだと誤解している節がある。以前一度否定したが、まさか未だに誤解されたままだったとは。この機にしっかり否定しておかなければ。
「だって私、他に好きな方がいるんですもの」
そう。艶やかな金髪に空色のつり目、口元のホクロがセクシーな、世界で一番強くてかっこいい人が。
「ほう……好きな相手が……あっ! る、ルルベル殿、もしかして……これは恋バナというやつか?」
「恋……ばな……?」
ナシュカ様の口から彼女にはおよそ似合わない言葉が出てきて、一瞬脳が理解を止める。しかし次の瞬間には通常通り動き始めた脳内で、私はとある一つのことを思い出した。
そういえばナシュカ様には、対等に話せる女性の友人があまりいないのだと。
公爵令嬢という立場はもちろん、他の令嬢に比べて逞しいその身体も、令嬢らしからぬ振る舞いも、貴族の令嬢たちからは遠ざけられる要因であった。私は貴族令嬢についてあまり詳しくはないが、パーティでナシュカ様が女性から話しかけられているところはほとんど見たことがない。
ナシュカ様の人となりや令嬢たちの態度を踏まえると、嫌われているわけではないだろうが、なんとなく異質な存在として遠巻きにされている様子はある。
反対に、平民や使用人とは男女問わず親しげに話すが、こっちはこっちで身分差がある。一見親しそうに見えても、相手はどうしても気を遣ってしまうのが現実だ。
つまるところ、ナシュカ様はその性格と身分、性別がこの世界の常識と絶妙に噛み合わず、対等で気安い友人作りに苦心しているのだ。
そういう意味で、令嬢でもなく平民でもない魔族の女というのは、案外彼女にとって話しやすい存在だったのかもしれない。
「もしかしてナシュカ様、恋バナがしたいんですの?」
「いや、その……実はしたことがなくてな。社交界でよくご令嬢達が楽しそうに話しているから、前々から興味深いと思っていたんだ」
「……その中には混ざらないんですの?」
「ああ……どうも話に入りにくくて」
ナシュカ様は強く、大胆で風変わりな方だが、どうやら周囲の視線を全く気にしないわけではないらしい。
ゲームをプレイしていた時は、メンタルが強いから周囲の視線を気にせずいられるのだとばかり思っていたが、実際は違った。実際の彼女は案外聡く、周囲の目を多少気にしている。だから自分を少し避けているグループにはあまり近付かないし、そうじゃない人には積極的に話しかける。
……こういうところは、普通の人っぽい。そういえば、前にダニエルもナシュカ様は社交界が好きではないって言ってたっけ。
ゲームではありとあらゆる問題や苦難を乗り越える超人のナシュカ様だけど、当然ながら彼女は別に神様ではないのだ。人並みに傷付くし、怪我もするし、人に話しかけるのを躊躇することもある。
ゲームの中の完璧な超人じゃない。
普通の、人だ。
ならば、今私がやることは一つだろう。
「……しましょうか! 恋バナ!」
「良いのか? あ、待て。これは寝巻きでしても良いものなのか?」
「良いのですわ! 私がいたところではむしろ寝巻きでお菓子を食べながらするものだったんですから!」
まあ、私も恋バナなど人生で一度もしてこなかったからこれは偏見だが。
しかしどうせお互い初めての恋バナだ。この場の誰もルールを知らないのだから、なんだってアリだろう。
「そんな風習が……シュカリオンは面白いな」
「飲み物はココアにマシュマロを浮かべるらしいですわよ」
「よし。下に降りてそれっぽいものをいくつかヴルフから貰ってこよう」
目を輝かせて立ち上がったナシュカ様は、颯爽と廊下へと飛び出していった。たん、たんと軽い足取りが階段を降りる音がかすかに聞こえて来る。テンポ良く駆け降りていくその音は、かつて木からバルコニーに飛び上がったあの脚から出ているとは思えないくらい華奢な足音だった。
やっぱり可愛らしい人だな。
ベッドに腰掛けパタパタと脚を揺らしながら、目を瞑って鼻歌を歌う。
ナシュカ様、嬉しそうだったな。日々仕事や苦悩に追われる彼女が少しでも楽しんでくれるなら、もう恋バナでも何でも付き合おう。
今まで、人から指示されて何かすることはあったが、誰かのために自分から何かしようとすることはほとんどなかった。
それなのに。ナシュカ様に出会ってからというもの、彼女の幸せのために魔法を練習したり、制止も聞かずに回復魔法を使ったり、こうやって楽しい思い出作りをしようとしたり。少しずつではあるけれど、誰かのために何かをするのが、楽しくなってきている。
いや、きっと。誰かのためじゃなくて、ナシュカ様のために何かをするのが、楽しいんだ。私がしたことで喜んでくれたら嬉しいし、苦痛が取り除かれれば安心する。
誰か幸せが自分の幸せに繋がっているようなこの感覚を、きっと幸福と呼ぶのだろう。そんな自論を思い付くほどに、私は満たされていた。
前にダニエルと話した時、ナシュカ様の"普通の部分"を自覚したら、私は受け入れられないんじゃないかなんて思ったけれど……全くそんなことはなかった。
むしろ、私の中でナシュカ様が人間に近付くほど、彼女は魅力的になっていった。羨望や憧れは消えることこそないものの、徐々に同じ質量の親近感が芽生え始めている。
偶像として推していたはずの存在が、手の届く近しいものになったからかもしれない。……って、ウソ。あれ? 待って。
鼻歌は止まり、先ほどまでの陽気で浮かれた気持ちが一気に地面まで引きずり下ろされる。
今の私の"好き"って、推しに対する好きじゃなくないか?
…………ああ。ああ、どうしよう。自覚、してしまった。
気付かなければ、これからもただの一人の推しとして接していただろうに。一度自覚してしまうともうダメだ。この感情に気付く前の自分には、もう戻れない。
「──ルルベル殿。両手が塞がっているから扉を開けてもらっていいか?」
扉越しに聴き慣れた声が聞こえる。今一番会いたくて、一番会わせる顔がない人の声だ。
しかし無視なんてできるはずもない。私は立ち上がり、努めて平常心を保ちながら扉を開けた。扉の向こうには両手にカップを持ち、両腕にお菓子用のお盆を乗せたナシュカ様が立っていた。
とても公爵家の令嬢の姿とは思えないが、ナシュカ様らしさは少しも削がれてはいない。むしろ可愛さが増しているようにさえ見える。腕に乗ったお盆を預かれば、「助かる」と言って彼女はへにゃりと眉を下げた。
「あはは。こんなにたくさんあるなら私も一緒に行けばよかったですわね」
「いや、こちらこそすまないなこんな格好を見せて」
「気にしないでくださいまし。寛いでくれているみたいで、今すごく嬉しいんですの」
──すぐにでも伝えたい。気付いたばかりの自分の新鮮な想いを。
……でも。ダメだ。
このナシュカ様は、今私の目の前にいるナシュカ・ドゥ・フリーゼは、普通の人だ。ただ普通の可愛い人で、だからこそ私もここまで強く惹かれたのだ。
そして普通の人だからこそ、同性の、しかも魔族から真剣な愛の告白なんて受けたら……きっと困惑してしまう。
前の世界では女同士の恋愛漫画なんかも流行っていたけれど、実際にあんな風に結ばれることはきっとほとんどない。あれは漫画やゲームだからあんなに上手くいっているんだ。
私の今いるここは、もはやゲームではない。ナシュカ様だって、キャラクターじゃなくて意志を持った一人の人間だ。非現実的なことはたくさんあるけど、それでもここは確かに現実の延長線なのだ。
だから……私がナシュカ様に向けるこの感情も、きっと実ることはない。
……うん。黙っておこう。それに今の関係だって決して悪いものじゃない。
友人として好ましく思ってくれているのなら、それだけで十分だ。
「……それじゃあ、楽しい恋バナをしましょうか。ナシュカ様」