第13話 ドキドキディグニス生活
ヴルフの店で働くなんて、ゲームでは一切存在しなかった展開だ。
今までもグレイやルルベルがディグニスで買い物をしたり、ナシュカ様が怪我をしたりと、ゲームに無い展開はいくつもあった。
しかし、ここまで大きな相違点は初めてだ。これならもしかすると……本当に戦争も無く、ナシュカ様も幸せになれる未来がやってくるかもしれない。
でも、ゲームでは必ず攻略対象の内の誰かと付き合っていたナシュカ様は、この世界では誰とそういう関係になるんだろう。
……この世界はゲームじゃないんだ。誰かと付き合わないとハッピーエンドとは言えない、なんてことを今更言うつもりはない。それでも、ゲームで幸せそうなナシュカ様を見ているだけに、グレイ以外の攻略対象の誰かと付き合ってほしいとは思ってしまう。
……これも私の身勝手だよなぁ。
店へと向かう馬車の中、私は小さくため息を吐く。隣に座るグレイはそれにめざとく気が付くと、「酔っちゃったかな?」と言いながら私の指に触れた。
『どうかした?』
『……大したことじゃないんですけど、このまま誰のルートにも行かない場合、ナシュカ様は誰と結婚なさるのかな、と……』
パーティは既に四回行われている。ゲームであればそろそろ特定のキャラクターのルートに入っている頃だ。けれどもナシュカ様は(少なくとも私が知る限りでは)今のところ誰にも好意を寄せていない。
そもそも展開が大きく変わっているから、ルートも何もないのだが。
『グレイさんは……今でもナシュカ様と結婚したいって思っているんですか?』
『思ってるよ。でも、鈴さんは俺とはくっついて欲しくないんでしょう?』
『……だって打算しかない政略結婚じゃないですか。そりゃ、反対しますよ』
『でもそれって、愛のある政略結婚なら良いってことでしょ?』
愛のある政略結婚……?
こと紳士的な振る舞いに関しては完璧なグレイだが、愛についてはまだまだ勉強中の身だ。そんな彼が急に、まともに人を愛せるものなのだろうか。
『うーん……でもグレイさん、まだちゃんと愛を理解できてないですよね?』
『そんなことないよ。君たちを見て俺も学習したからね。相手の言葉に影響されたり、相手のことを考えてプレゼントを用意したり、自分の身を顧みずに相手に尽くしたり、役に立たなくても側に置いたりすること。だろう?』
……この人、本当に私とナシュカ様を教材にしたんだな。私だって愛に詳しいなんてことはないけれど、それでもグレイのこれは……具体的すぎる。
愛ってきっと、もっと抽象的で、曖昧で、人によって違うものなのだと思うけど、グレイは教科書通りの愛しか理解できていないようだ。だから私がナシュカ様にしたことや、ナシュカ様が私にしたこと以外の愛についてはさっぱりという様子であった。
『……グレイさんの愛は、ちょっと具体的すぎます』
『あれっ、ダメ?』
『……具体的に何かをしたり、言ったりするのも確かに愛かもしれませんけど、愛ってもっとこう……心の部分というか……』
『心の部分、ね……』
『プレゼント一つとってもただあげれば良いってものでもなくて、相手が何を欲しがっているかとか、何が似合うかとか……そういう相手のことを考える時間が、愛だったりするんだと思いますよ』
柄にも無く、愛について真面目に語ってしまった。人に説教できる立場なんかじゃないのに。
前の世界での私は、誰ともそういう関係にならなかった。いや、なれなかったのかもしれない。いずれにせよ、私は誰かに愛を注いだことは無かったし、注がれたことも、無かった。だから本来グレイにこんなことを言える立場ではないのだ。
しかしグレイはそんな私の話を頷きながらしっかりと聞き、『なるほどねぇ』と落ち着いた声を私の内側に響かせる。穏やかな顔で薄く笑みを浮かべる彼は、私を一瞥すると小さく口角を上げた。
『ふふ。まさか、ルルベルに心について語られる日が来るなんて思わなかったなぁ』
『……中身が、違う人ですからね』
『…………そうだね』
躊躇うようなその奇妙な間に、つい、視線を上げる。隣に座るグレイの顔を盗み見れば、彼は憂いとも困惑ともつかないような表情で、目を伏せていた。
『……あの、グレイさん。グレイさんはルルベルの中身が変わったことを、どう思って……』
言い切る前に、私の言葉は途切れた。
馬車が止まったのだ。反動で姿勢を崩した私は、グレイから手を離してしまっていた。
「到着しましたよ」
先頭に座って馬を操っていたヴルフが、馬車の扉を開ける。
ざあ、と木々を揺らす風が車内に入り込むと、グレイの表情はいつもの貼り付けたような笑みに戻っていた。
「ありがとう、グッドマンさん。あれ? 馬の数増えた?」
「うちに黒馬は居ません。……せっかちなお客様がいるみたいですね」
グレイについで馬車を降りると、そこには確かに見事な毛並みの黒馬がおとなしく佇んでいた。
よく手入れされたこの馬は、きっと平民の家のそれではない。
「誰の馬でしょう……?」
「入れば分かりますよ。鍵は空いているので、先に入っちゃってください」
ヴルフはそう言いながら、馬たちを店の裏にある馬屋へ連れて行く。ヴルフの姿が見えなくなった頃、私たちはこれから仮暮らしが始まる店の扉へと手をかけた。
「──思ったより遅かったな」
ちりん、とベルが鳴る。店の中で私たちを待っていたのは、なんとナシュカ様だった。
彼女はカウンターごしに笑顔を見せると、立ち上がって私たちを出迎えた。
「な、ナシュカ様!? どうしてここに?」
「シュタイン城ではどうせゆっくり話せんだろうから、ここに来た方が良いと思ってな。早馬を飛ばしてきた」
じゃあ外にいたあの黒馬はナシュカ様の馬か。黒馬で駆けるナシュカ様はきっとすごく美しいのだろうが、確か彼女はまだ骨を折って二、三週間ほどだ。よく馬になんて乗れたな。
「あの、お身体の方は大丈夫ですの?」
「ああ。ルルベル殿の治療のおかげで、もうすっかり。その節は本当に助かった。礼を言わせてくれ」
「い、いえそんな……! ナシュカ様の元気なお姿が見れて私も嬉しいですわ。一昨日のパーティでは姿を見なかったので、てっきりまだ伏せっていらっしゃるのかと……」
「一昨日はヴルフとシュタイン城に行っていてな……事務手続きやら何やらで」
体調はすこぶる良好だから安心してくれ。
そう言ったナシュカ様は、元気の良さを見せ付けるように肩をぐるぐると回した。その表情からも、嘘を言っている様子は見受けられない。
……本来の手術では完治までにもう一、二週ほど要するが、この世界の人間が丈夫なのかそれとも自己治癒能力の活性化魔法が思ったより効果的だったのか、ナシュカ様は夏空のような晴れやかな笑みを浮かべていた。
人間や生き物への回復魔法はかなり高度な魔法だ。それができる者は少なく、ほとんどの魔族は比較的簡単な攻撃魔法や浮遊魔法を使う。人間が魔族を恐れる大きな理由の一つがそれだが、こんな風に回復魔法や何か他の優しい魔法を使える魔族が増えていけば、人間たちが持つ魔族への恐怖も薄くなっていくのかな。
「あ、あの……グッドマンさんやナシュカ様は、すごく魔族に優しくしてくれますけど、その、怖かったりとか、しないんですの?」
「……そうだな。魔族への恐怖がないわけではない。敵対すれば、あなた方ほど恐ろしいものはないだろう。だが、敵意を持っていない者にまでそう思うのはいささか礼を欠いているとは思わないか?」
「そうですよぉ。それに魔族は確かに強大ですが、陰湿さは人間の方が遥かに上ですからねぇ。そういう意味では、自分は人間の方が恐ろしいですよ」
ナシュカ様の言葉に、玄関から入ってきたヴルフが続く。
「大体、人間だって剣や銃を持てば強くて恐ろしいですし、人が人を殺めることだってありますから」
「ヴルフ……」
「さあさあ辛気臭い話はこれで終了! ここからは楽しい話をしましょう! ね、フリーゼ公爵令嬢。あなた様も、もちろん暗い話をするためにここに来たわけではないのでしょう?」
ヴルフがそう言うと、ナシュカ様は思い出したかのようにはっと顔を上げた。そして元々彼女が座っていたカウンターの辺りに立ち戻ると、手に大きな麻の袋を持って再度私たちの元へと戻ってきた。
「……これを。その、治療していただいた礼と、もしかしたら今後も必要になるかもしれないと思って、な」
重そうな袋の口を広げ、中身を私たちに見せつける。そこには黒々とした小さめの洋梨のような形をした木の実が、ずっしりと入っていた。
これは、魔力の実だ。
ディグニスに生えるそれは、魔族の力を助長してしまわないようにと、百年ほど前にそのほとんどが伐採されている。しかしこれは愚策であった。前の世界で例えると、クマの多い山からクマの餌を実らせる木々を伐採したようなものだ。当然餌を求めてクマ、もとい魔族は人里に降りるようになり……被害はより拡大した。
しかしそんな実をこんなに集めるなんて……一体どうやって……。
「すごい量ですね。どこにこんな量の実が?」
「ここの森のかなり奥深くにな……本当は違法なんだが、ヴルフが魔力の木を育てているんだ」
「それで実った木の実をフリーゼ公爵令嬢にお売りした、というワケです。いやぁ良い商売。コツコツ育てたかいがあったというものです」
魔力の木を育てるのって違法なんだ………。需要はいくらでもあるのに。
というか何故ヴルフはそんなものを育てていたのだろう。商人としての先見の明、というやつだろうか。
「でも、よろしいんですの? こんなにたくさん……」
「良いんだ。これからディグニスに住む上で魔法を使う機会はきっと増えるだろうから、ぜひ使ってくれ。それで……その、厚かましいかもしれないが、困っている人がいたら、魔法で助力などしていただけると助かる」
「もちろんですわ。人間たちと上手くやっていけるよう、私たちも努力いたします」
「……うむ。だが自分の身体第一で頼むぞ、ルルベル殿」
ナシュカ様は少し屈んで私と視線を合わせると、困ったように眉尻を下げて笑った。
「あなたは少し無茶をするからな」
「ナシュカ様ほどじゃありませんわ……!」
「はははっ、ギルベルトと同じことを言われるとはな。だが、安心してくれ。ルルベル殿から治療してもらってからすごく調子が良いんだ。身体の中を魔力が巡る感覚は少しくすぐったいが、悪くはないものだな」
「エッ!?」
く、くすぐったいんだ……!?
他人の魔力で治療をされたことがない私には、その感覚はよく分からない。初めて回復魔法を使った時、グレイは「少し痛い」と言っていた。単に私の魔法の腕が上がったから痛くなくなったのか、それとも、何か他の要因でそうなっているのかは分からない。
でも、「魔法がくすぐったい」と言われると、なんだか少し照れ臭くなってしまう。これがグレイに言われたのであればそこまで意識もしなかっただろうが、なんといってもナシュカ様だ。女性だし、何より最推しだ。そんな彼女が「くすぐったい」。
「か……可愛いですわ……ッ」
「な、何がそんなに琴線に触れたのか分からないが……そう、か?」
「そうですわ……!」
「そうなのか……」
納得したのかしていないのかよく分からないような返事をすると、ナシュカ様は「あー」だの「うー」だの言いながら頬をかき、また困ったように笑った。
困り顔ですら可愛い……。なんならこの困り顔が一番可愛い。いつもかっこいいだけに、可愛さとのギャップが大変なことになっている。
こんなに愛らしいのに、未だに社交界で誰からも積極的に縁談を持ちかけられないなんて、一体この世界はどうなっているんだ。尊過ぎて自分なんかとは釣り合わないとか、そういうことなのだろうか。高嶺の花過ぎるのか。そうじゃないと納得がいかない。
こんなにかっこよくて可愛くて素敵な人に愛されたら、そりゃあ心に問題を抱えた攻略対象たちだって救われるよな。それで救われないグレイがおかしいだけで。
久しぶりのナシュカ様の尊さを噛み締め、落ち着かない心臓を落ち着かせる。いや、魔族の身体に心臓なんてものは無いから、落ち着いていないのはたぶん頭だが。
「ナシュカ様……」
「なんだ?」
「お身体にお気を付けて……どうか健やかにお過ごしください……」
「今度は乳母みたいになったな……」
ナシュカ様の乳母か……。名前も顔も知らないけど、良いなぁ。赤ちゃんナシュカ様からお子様ナシュカ様、思春期ナシュカ様まで全部見てるんだもんなぁ。
今度ナシュカ様が「何か礼をしたいんだが……」なんて言い出したら、昔のアルバムでも見せてもらおうか。いや、流石にそれはちょっと気持ち悪いかな……。というかこの世界って写真とかあるのだろうか。
そうやって推しとの適切な距離の縮め方に頭を悩ませていた私だったが、ナシュカ様が何気なく発した言葉で、更に頭を悩ませることになった。
「……ああそうだ、ヴルフ。日が暮れてきたから今日はここに泊まっていくが、問題無いな?」
「エッ……?」
思わず、素っ頓狂な声が漏れる。しかし今は声が漏れたかどうかなど気にする余裕も無かった。
泊まっていく? 泊まっていくって、ヴルフのこの店に? 私たちと一緒に? それはつまりお泊まり会ってこと?
「じゃあルルベルと同じ部屋がいいかな。女の子同士だし」
「エッ!?」
推しと、一晩同じ部屋に?
あまりに畏れ多いが、ナシュカ様が「一晩よろしくな」と手を差し出すものだから、私もその手を取る他なかった。
「おっ……! お願い、します……っ!!」
「え、なに? 試合?」
耳の奥でグレイの声が聞こえたが、パニックのせいで何を言っているのか理解できないまま、気付けば私はナシュカ様と同じ部屋にいた。