第11話 理想と現実
頬の赤みがようやく引いた頃、私はホールに戻った。賑やかな人混みの中をすり抜け、テーブルの上の菓子に手を伸ばす。
柔らかいマフィンにしっとりとしたバタークッキー、濃厚なマカロン。フリーゼ家の菓子はどれも絶品で、お腹こそ膨れないもののいくらでも食べたいほどだった。
「ケーキは……品切れかな」
「あれ、ルルベル様? こんばんは」
空っぽの大皿を眺めていた視線を隣に移すと、そこには服の上からでも分かる豊満な胸筋があった。更に上を見上げると、ツンツンと跳ねた赤毛が目に入る。
「……ヘルマンド卿。こんばんは。室内で会うのは初めてですわね」
「はい。雨なので、流石に…………ルルベル様は、今日は姿を見なかったので、いらっしゃっていないのかと思いました」
「あ、ああ……さっきまでナシュカ様のお見舞いに行っていましたの」
ナシュカ様の幼馴染みであるダニエルは、既にナシュカ様の状態を聞き及んでいたらしい。見舞いにはもう五回行き、「来すぎだ。仕事をしろ」と言われて追い返されたのだと苦笑いで話してくれた。
「……早く元気な姿が見たいですわ」
「俺もです。ナシュカ様がいないと、パーティでも中々居場所がなくて……」
「そんな……ヘルマンド卿は、あまり他の方とは話されないの?」
「俺は……少し、こういう場は苦手で。まあ、次男ですし、あまり社交場で目立つこともなかったからですかね」
ダニエルには上に姉と兄がいる。一番年上の姉は既に別の貴族のもとに嫁いでいて、真ん中の兄も結婚して家督を継ぐ準備ができている。そのためか、末っ子のダニエルはあまり期待されていないといった状態らしい。
まあ、期待されていないというか……それ以前にダニエルの立ち位置は中々面倒なのだ。
ダニエルは、正室ではなく側室の子どもだ。それ自体にはさほど問題はないのだが、正室が政略結婚で側室が恋愛婚のヘルマンド家において、母親似のダニエルの存在は正妻やその子どもにとってあまり好まれるものではなかった。彼は家で一番愛されて、一番嫌われていた。同じ家で正反対の感情を与えられ続けたダニエルは、最終的に一人でいることを好むようになった。
曰く、好意にしろ蔑みにしろ、人の感情を受け取ることに疲れたらしい。
そんな中、裏表が無くダニエルの辿々しい言葉をきちんと待ってくれるナシュカ様が現れた。ナシュカ様は時間をかけてダニエルと親交を築き、今では姉弟のような関係にまでなっている。姉弟関係以上には……中々至らないが。
ゲームのダニエルルートでも彼の家庭環境については紆余曲折ある。中でも、「俺は妾の子ですから」と自虐するダニエルをビンタするナシュカ様のシーンは、私のお気に入りでもあった。ハッピーエンドでのみ恋人関係にまで発展するが、婚約したところで物語が終わるため、その後結婚に至ったのかは分からない。
だが、エンディングの晴れやかなダニエルの表情を見るに、問題も解消されてきっとこれから上手くいくのだろうという気持ちにさせてくれる。
……でも、ダニエルの家庭問題が解決するのってダニエルルートだけなんだよな。
私とグレイが目指しているのは、政略結婚を伴わずに人間と魔族が共存できる未開拓のルートだ。つまり、ゲーム通りのダニエルルートには、ならない。
他のキャラクターに関しても同じだ。彼らはヴルフを除いてそれぞれ問題を抱えていて、そしてそれぞれのルートでしかそれらは解消されない。ナシュカ様が居なくてもそれなりに楽しくやっていけそうなヴルフはともかく、他四人(グレイに至ってはハッピーエンドすら存在しないが)にはナシュカ様が必要なのだ。
ナシュカ様が五人、いやせめて四人いたらな……。
人間と魔族の共存はナシュカ様の望むところでもあり、私も、戦争が回避できるならその方が良いと、今は強く思う。
けれど、個人の問題が解決されないのは、それは良いのだろうか。どうにか全員でハッピーエンド、なんて、それができたら一番だけど……。それらは私一人でどうにかできるような問題じゃ、ない。
「……ルルベル様?」
「はっ、す、すみません。考え事を……」
「俺もよくやります。喋るより考え事をしている方が好きです」
「……お喋りは、苦手なんですの?」
「…………そう、ですね。少し疲れます」
「そう……」
「あっ、気を悪くされたのなら、すみません。……ルルベル様とのお話が疲れるというわけではないのです」
ただ、習慣というか。
抑揚の薄い低い声で、彼はそう言った。一回目のパーティで話した時より声に抑揚がないのは、ナシュカ様がいないからというのもあるのかもしれない。
「……今日は、外にも隠れられないので。少し困っています」
「確かにそうですわね。バルコニーも今日は使えませんし……」
「もう壁のシミにでもなるしかないですね」
日常ではあまり聞かないが、確かパーティにおいて人の輪から外れて一人でいることを壁のシミと言うらしい。
「……私も隣でシミになりましょうか?」
「いえ、流石に女性にそんなことをさせるわけには……」
「でも一人でいるより話しかけられる頻度は減りますわ。私も必要時以外はできるだけ黙ってお菓子を食べてますから」
「じゃあ……」
私とダニエルは行儀が悪くない程度に皿に菓子や肉を盛り付けると、そそくさと壁側に行き、黙ってそれを口に運んだ。
時折これが美味しい、あれが美味しいと口にするが、会話らしい会話は無い。私たちはただボウリングのピンみたいに並んで突っ立って、舌鼓を打つだけだった。
壁の二つのシミの間にはしばらく静寂が続いたが、先に沈黙を破ったのはダニエルだった。
「…………退屈じゃないですか?」
「いえ……お料理がたくさんあるので。ヘルマンド卿は退屈ですか?」
「いや……黙ってる方が好きなので」
「よかったですわ。なら、このままで」
「──あの。なんでそこまでしてくれるんですか?」
視線をダニエルの方へと上げれば、珍しく困惑したような表情が目に入った。困っているわけではなさそうだが、心底不思議そうな顔をしている。そこに魔族に対する警戒などは、特に見られない。
「……ナシュカ様なら、そうするかと思って。い、いやっ、きっとナシュカ様ならもっと気の利いたことをするかもしれませんわね。城内に詳しいでしょうし、ちゃんと人の少ない所に連れて行ってくれたりとか……それか、もっと、何か楽しいことを提案してくれるのだと思いますわ」
「いや…………きっと同じことをしましたよ。ナシュカ様は、静かな時は静かな方ですから」
深緑の眼差しがふ、と和らぐ。この場にいないナシュカ様を思い出しての笑みだろう。それはひどく柔らかくて、どこか繊細だった。
「ナシュカ様は非凡な方です。でも、人の子です。案外、普通のことをなさることの方が多いんですよ」
「そ、そうなんですの……?」
「嫌いな物が食卓に出るとこっそり俺の皿に移したり」
「可愛いですわね……」
「城は城門から入れと言ったり」
「それはそうだと思いますわ」
それからも、ぽつりぽつりとダニエルの話すナシュカ様の話は、本当に普通の話だった。訓練後に時々泣いていた、とか、赤子をあやすのが下手で俺にパスした、とか、社交場が本当は得意ではない、とか。
ゲームでは聞けなかった話も多く、ナシュカ様により詳しくなった気がするが、それ以上にダニエルのことが分かった。
ダニエルはナシュカ様に憧れてはいるものの、変に美化していないのだ。理想化もしていない。ただこう在りたいと思う目標として掲げているだけ。ナシュカ様を、きちんと一人の人間として見ている。
ゲームのダニエルと、少し、違う。
ゲームでは、ダニエルはナシュカ様に対してもっと崇拝のような気持ちを持っていたはずだ。でも、実際の彼の話からはそれは感じられない。感じられるのは、崇拝などではなくもっと近しい……親愛や敬愛だけだった。
実際に話してみてダニエルの解像度が上がったのか、それともゲーム版では多少キャラ付けが顕著にされていたのか。どちらかは分からない。それでも、今私の目の前にいるダニエルは、ナシュカ様のことを等身大の一人の人間として見ているようだった。
私は、どうだろう。ナシュカ様のことはもちろん大好きだけれど、こんな風に、一人の等身大の人間として見れているだろうか。
優しくて、強くて、かっこよくて、誠実で。それは実際、そうだと思っているけれど、そうじゃない側面を見た時に、私はちゃんと受け入れられるのだろうか。
……無意識に"理想のナシュカ様像"を作り上げていた可能性に辿り着き、私は俯いた。