第10話 雨の日の治療室
三度目のパーティは雨だった。
まだ夕方だというのに、空は暗い。ナシュカ様の出迎えはなく、代わりに三人の使用人が私たちをホールへと案内してくれた。きっと雨で綺麗なドレスが濡れてしまわないように出迎えが無かったのだろう。そう思っていた私の考えは、会場にいたリンハルト王子の話によって打ち壊された。
「──け、怪我!? ナシュカ様が……!?」
「ええ……先日、その……魔族の討伐時に……」
リンハルト王子は奥歯に物が挟まったようにそう言った。魔族相手にこんなことを言うのは少し気まずかったのだろう。
「本人は大丈夫だと言っているが、無理はさせられないので今は部屋で休まれている。だから本日は欠席……っ、る、ルルベル!? どこに行くんだ?!」
「ナシュカ様の部屋ですわ!」
確かフリーゼ城の三階……! 階段を上がって左……!
ヒールにヒビが入りそうなくらい一気に駆け上がって、私は扉の前で息を整えた。
「なっ、ナシュカ様。怪我をしたとお聞きしましたわ。……入ってもよろしいでしょうか?」
「その声は……ルルベル殿……? ……ッ、げほ、……扉を開けてやってくれ」
室内にいた使用人たちが扉を開けるのと同時に、後ろから走ってきていたリンハルト王子とグレイが追いついた。
「勝手なことして……ちゃんと一声かけて欲しかったな」
「す、すみません……居ても立っても居られず……」
「すまないナシュカ。具合が悪いのに大人数で押しかけてしまって」
「……構わん。入れ」
ベッドに横たわるナシュカ様に、いつもの快活さは見当たらない。彼女は時折咳をすると、苦しそうに胸を押さえた。
「……ッ、情けないな。少し、遅れをとった」
「無理に喋らないでくださいまし。……"コール"」
グレイに魔法を教えてもらって、もう五週目になる。利便性の高い魔法から教わっていた私は、既に"透視"は完璧に使いこなせるようになっていた。
前の世界では骨折などの診断のためには機械を必要としたが、魔法があればそれも必要ない。
「……ルルベル殿、一体何を……?」
「身体の中を診ていますの。……肋骨が折れて肺に刺さっていますわ。ナシュカ様、どうか私に治療させていただけませんか?」
「それは……いや、ダメだ!」
突然大声を出したことで痛みが響いたらしい。ナシュカ様は呻き声を上げると、顔を顰めた。
「魔法は、っ使うな……! ルルベル殿が死んでしまう……!」
「いいえ! 使いますわ! あなたの誠意に報いたいんですの……!」
「だが……」
「……フリーゼ公爵令嬢、大丈夫です。ルルベルには先日買った魔力のジャムがありますから。ね、ルルベル」
グレイは懐からジャムの瓶を取り出すと、私に手渡した。その時に、一瞬グレイの指が私の手のひらに触れる。
『俺たちは魔力が弱い"設定"だから、高度な魔法を使う時はこれを出してカモフラージュしてね』
「……ありがとうございます、グレイ」
魔族について学び始めて、いくつか分かったことがある。
まず、臓器や器官を持たない魔族にとって、姿というのはただの外郭、見せかけであること。そして、臓器や器官が無い代わりに、身体の機能の全てを魔力で補っている。そのため全身が目であり、口であり、耳であり、心臓であるということ。
以前ブローチからグレイの声が聞こえたのも、ブローチが彼の魔力でできていたからだ。たとえ本体から分離していても、彼の意思一つでそれは耳にも口にもなる。
魔族同士なら、肌が、つまりは魔力が触れてさえいれば今のようにお互いの手のひらや指でも会話ができてしまう。
……人間の身体とは全く違う、不思議な存在。だからこそ、恐れられ、遠ざけられる。でも、そんな中でもナシュカ様は違う。私たちを恐れない。遠ざけることも、批難することもない。
誰よりも優しくて誠実で、魔族と人間の共存を願ってる。私も、そんな彼女の力になりたい。
「──いきますわ。"コール"」
まずは痛覚を一時的に奪って、透視を使いながら体内に魔力を流し込んで操る。
骨の位置を正しく戻し、破片が残らないように全て魔力で集めて、パズルのようにくっつける。骨が戻れば、次は破れた肺の修復と、血管の縫合。神経は……無事そうだ。
尋常でない集中力を必要とする複合魔法は、思った以上に魔力の消費が激しい。でも、できる。集中は得意だ。人の身体を縫うのだって、何度もやった。大嫌いだった仕事も、そこに至る苦労も、今はどうだっていい。この人を助けられるなら、何だっていい。
ナシュカ様を救えるなら、今までの私の苦痛ばかりの人生にだって、意味があったと思える。
「……終わりました。ナシュカ様。最後に痛覚を戻すから、少し痛みますわ」
「あ、ああ……大丈夫だ。やってくれ」
奪っていた感覚を、ゆっくりと元に戻す。するとナシュカ様の額には汗が浮き、呻き声を押し留めようと食いしばった歯が音を立てた。
「ナシュカ様っ……! ぐ、グレイ……、私の手技は……ッ」
「大丈夫、俺よりずっと上手だったよ」
同じく透視を使って様子を見ていたグレイは、「治るよ」と落ち着いた声で宥めるように言うと、一歩前に出た。
「フリーゼ公爵令嬢、医者から痛み止めの薬は貰っていますか?」
「……ッ、ああ。サイドボードにある……」
「治療自体は終わりましたから、ここからは魔法じゃなくて薬で痛みを和らげるといいですよ」
「わかった……。ありがとう、ルルベル殿、グレイ殿。次に会うときには、元気な姿を見せよう」
「……待っていますわ。ああ、でもまだ無理はなさらないでくださいっ! 骨は今魔法でくっつけてるだけで、自己治癒力を上げているとはいえちゃんと治癒するにはたぶん三週間くらいかかるので……っ」
分かった分かった。そう言ったナシュカ様の表情は、脂汗は浮いてるものの初めよりも落ち着いて見えた。
……よかった。私ナシュカ様を、助けられたんだ。両親に言われて無理矢理やらされた仕事だったけど、今まで一度だって、この仕事をしていて良かったと思ったことなんて無かったけれど、それでも。今だけは、自分が医者であったことに感謝した。
「……やはりすごいな。魔法の力というものは」
一部始終を側で見ていたリンハルト殿下が、ぽつりと呟く。
透視ができない彼は何が起こったのか完全には理解できていないはずだが、それでも少し顔色が良くなったナシュカ様を見てほ、と胸を撫で下ろしているようだった。
「腹を切らずに体内を治療したのか? ……医者いらずだ」
「いいえ、リンハルト殿下。魔族の治療と違って、人間の治療にはある程度の専門的な知識が必要になります。それこそ医者と同程度には。魔法を扱うにも、結局勉強や鍛錬が必要なんですよ」
グレイは眉を下げ、困ったように笑う。魔法は大体のことはできるが、そのためには相応の努力が必要になる。それは人間も魔族も変わらないのだと、彼は説明した。
リンハルト王子はグレイの話をこくこくと相槌を打ちながら真剣な面持ちで聞くと、やがて何か決心したように顔を上げた。
「……ルルベル。ナシュカのためにその力を奮ってくれたこと、誠に感謝いたします。……あなた方のように、魔族であっても優しい方々もいるのだと、父上や、もっと色々な人に知ってもらえるよう、私も少し上層部に掛け合ってみようと思う」
「掛け合ってみるって……何をですの……?」
「実は、以前から少し考えていたんだ。ディグニスに、魔族が住める場所を作りたいと」
それは、願ってもないことだ。
予想外のことに私もグレイもぱちくりと大きく目を見開いて、お互いに向き合った。グレイの目はいつものように冷めてはおらず、どこか期待に満ちたようにキラキラと輝いている。声を聞かなくても分かる。共存への一歩が進みかけていることに、本心から喜んでいるのだろう。
「大変恐縮です。殿下にも立場があり、難しい話になるかと思いますが、良い方向に話が進むことを願っております」
「そうだな……ああ、だが、すまない。シュカリオンにいる魔族全員というのは、きっとまだ難しい。この交流会のように、人数を制限することになるかもしれないが……」
「……それでも、十分大きな一歩になりますわ。ありがとうございます、リンハルト殿下。殿下からのお力添えが得られること、本当に感謝いたしますわ」
私とグレイが頭を下げると、ナシュカ様もベッドから軽く起き上がって声を振り絞った。
「……殿下。私も同じ気持ちです。こんな状態ですまないが、何かあれば私にも相談してください。力になります」
「ありがとうナシュカ。そうだな、これは王族の一任で決められることではない。日頃魔族への対応をしているフリーゼ家や他貴族も交えて相談することになると思う。その時は……」
「分かっています。もちろん私は殿下を支持いたしますよ」
ナシュカ様はにかりと快活な笑みを浮かべる。まだ痛みも引いていないだろうに、気丈な人だ。
彼女はさっそく今後についての具体的な計画についてリンハルト王子と話したがったが、王子の方から「体に障るから」と寝かしつけられていた。では方針だけでもと食い下がるナシュカ様に、リンハルト王子は「今は休んでくれ」の一点張りで、結局先に折れたのはナシュカ様の方だった。
「……はぁ、分かった。では私は休ませてもらうとしよう。だがせっかくパーティに来てくださったのだ。残りの時間、是非楽しんでいってくれ」
「ええ。フリーゼ公爵令嬢もお大事に」
「お大事になさってくださいまし、ナシュカ様」
「それでは、失礼する」
揃って部屋を出ようとする私たちに、ナシュカ様は一言「ルルベル殿」と私の名前を呼ぶと、小さく手を招いた。
「行っておいで」
「はい……っ」
私を部屋に置いて、グレイとリンハルト王子は部屋から離れていく。部屋に残ったのは数人の使用人とナシュカ様、それから私だけ。
「な、何でしょう……?」
「……その、身体は大丈夫か?」
「今重症なのは私でなくナシュカ様の方ですわ……」
「だが、魔力を結構使ってしまったろう?」
魔力を消費したのは、事実だ。しかしルルベルは元々の最大魔力量が多い。だから多少消耗が激しくとも、この程度なら余裕で耐えられる。きっと同じオペをあと十回連続で行っても、集中が底をつくことはあれど魔力が底をつくことはないだろう。
「……大丈夫、ですわ。そのためのこのジャムですもの」
「そうか……。まあ、元気ならいいんだ」
「あ、あの……っ、私、ナシュカ様のお役に立てましたか?」
そう尋ねると、ナシュカ様は優美な切れ長の瞳を見開いて、そしてどこか悲しそうに眉を寄せた。
「……立った。立ったとも」
「よかっ」
「でもな、ルルベル殿。役に立たなくたっていいんだ。……私は、ルルベル殿が役に立つから親切にしているわけじゃない。ルルベル殿は、道具じゃないのだから。人の役に立たなければならないなんてことは、ないんだ」
ゆっくりと、私に言い聞かせるようにナシュカ様は言葉を紡いだ。
その言葉は、親の言いなりだった私の人生と、意志や感情を持たずただ指示に従うだけだったルルベルの両方を、救ってくれた気がした。
「……ありがとうございます。ナシュカ様。それでも、やっぱり。あなたの役に立てたのなら嬉しいと思ってしまう自分がいるのですわ」
「そうか……。だがルルベル殿、これだけは覚えておいてくれ。私は、ルルベル殿が私に報いてくれなくとも、あなたを好ましく思うよ」
一瞬、言われた言葉の意味が分からず思考が止まった。いや、きっと意味が分からなかったのではない。嬉しすぎて感情がキャパオーバーしたのだ。
瞬きすらせず口を開けて固まった私を見て、ナシュカ様は「あー……」とどこか照れたような声を溢すと、布団の海へと沈んでいった。
「…………すまない。柄にもないな。ルルベル殿も疲れたろう。パーティに戻ってみんなと食事でも……」
「エッ! アッ、はい……っ、その、えっ? あ、食事……っ! はい! いただきましゅわ!」
フリーズしていた頭が正気に戻り、情報が一気に頭を駆け巡る。混乱したままよく分からない返事を返して、私は逃げるように部屋を出た。
部屋を出てから「失礼な退出の仕方だったのではないか……?」と我に返ったが、今更ナシュカ様の部屋に戻れるほどの面の皮も無い。
結局私はおそらく真っ赤になっているだろう顔を隠し、階段で一人うずくまることしかできなかった。